大正政變

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大正政變(大正政変,たいしょうせいへん)指1913年第三次桂內閣倒閣事件;導因於前一年末的憲政擁護運動(第一次)。廣義來說,指從第二次西園寺內閣倒閣,經過第三次桂內閣到第一次山本內閣的時代為止的事件。[1]

狹義的大正政變[编辑]

概略[编辑]

明治末期以來,藩閥有勢力的代表,親陸軍的桂太郎(出身長州藩),和立憲政友會的西園寺公望(出身公家),因「情投意合」[2]而持續著交互擔負政權的慣例(史稱桂園時代)。

明治天皇崩御(死去)之後的1912年12月,第二次西園寺內閣因日俄戰爭後財政困難[3]而採取財政緊縮政策。又陸海軍因為帝國國防方針,陸軍當面要求增加2個師團,海軍則要求戰艦1艘、巡洋艦3艘[4]。於1912年(大正元年)11月30日的內閣會議中,陸軍大臣上原勇作要求增加師團。會議結果不同意增加師團。上原勇作因而使用幃幄上奏權,直接單獨向之後即位的大正天皇提出辭呈。於1900年(明治33年)山縣有朋為了讓軍部大臣現役武官制成立,沒有派遣後任陸軍大臣,而逼迫西園寺內閣總辭。

雖然元老會議指名桂太郎為後繼首相,但桂半年前就身兼內大臣與恃從長,因為這點而被許多人責備是亂了「宮中、府中之別」的原則[5]。再者,相當關心財政的財界中,批判軍閥橫暴的聲音高漲,加上陸軍(山縣閥)對於非立憲的倒閣以及藩閥政治家的再次出馬等的憤怒聲越來越廣泛,因而開始了憲政擁護運動(第一次護憲運動)。12月13日,東京的報社記者和律師組織憲政振作會,決議反對增設兩個師團,翌日14日交詢社[6]的有志之士成為發起人,展開時局懇談會,會名為「憲政擁護會」。19日在歌舞伎座舉辦的憲政擁護第一回大會中,政友會、國民黨代議士以及報社記者之外,連企業家與學生也來參加,大約聚集了聽眾3000人,決議「打破閥族、擁護憲政」。12月21日,西園寺內閣正式總辭職,第三次桂太郎內閣開始執政。27日,在野黨的國會議員、報社記者,以及學者等等聚集並決定將護憲運動擴及地方。

翌年1月,呼喊著「擁護憲政」的大會在各地展開,因為日俄戰爭之後的重稅而受苦的工商業者和都市民眾等參加者眾。21日,桂內閣將原本預定要開會的議會停開15日,如此的處置反而使得運動更加熱烈,24日在東京開始憲政擁護第二回大會,由此可見運動擴及全國並成為了一大國民運動。面對如此的大動作,大正天皇以明治天皇諒闇中(服喪期間)為由,告誡希望停止政爭,桂內閣接受此詔書,卻亂發此消息,封鎖了對政府的批判(優詔政策)[7]

此期間,立憲政友會立憲國民黨合作成立,特別是以立憲政友會黨員尾崎行雄和立憲國民黨黨首犬養毅為中心而活躍。2月5日重開的議會中,政友會和國民黨等在野黨在議會中對內閣提出不信任決議案,馬上議會又停開。這個時期,這句話:「「彼らは常に口を開けば、直ちに忠愛を唱へ、恰も忠君愛国の一手専売の如く唱へておりますが—(中略)—玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか」(那些人常常一開口就高唱忠愛,恰如壟斷「忠君愛國」的買賣,(中略),靠著天皇的胸牆,以詔書代替子彈將政敵撂倒)此尾崎行雄對彈劾桂首相的演說很有名。

2月9日的憲政擁護第三大會,有兩萬人聚會,翌日10日,數萬民眾包圍議會激勵在野黨,在民眾示威的狀況中,桂氏迎來帝國會議的開會[8]。桂氏雖然解散了議會,但因眾議院議長,大岡育造的忠告:「解散會議會招致內亂」[9],而決定內閣總辭職,並指示閣員書寫辭呈,並再次命令議會停開。對於議會停開而群起激憤的民眾,襲擊了警察署、派出所,以及御用報社的國民新聞社等等。同樣的騷亂持續在大阪神戶廣島京都等各市延燒。

2月20日,桂內閣從發足,僅僅53日就總辭職,被稱為「50日內閣」。後繼首相由海軍大將、薩摩藩的山本權兵衛就任。

桂園時代結束[编辑]

脚注[编辑]

  1. ^ 大久保(1964)
  2. ^ 1911年(明治44年)1月26日の桂・西園寺会談の結果、1月29日に発表した合意のこと。第2次桂内閣が立憲政友会の支援を必要としていることから、桂は次期首班に政友会をおし、自分はふたたび政権につかないという確約を政友会の原敬とのあいだにむすんだ。これにより、政府と政友会の提携が成立した。
  3. ^ 日露戦争の戦費は日清戦争の8倍、開戦前年の国家財政の約7倍に達した。その8割は公債であり、戦後、償還の負担等が財政を圧迫した。
  4. ^ 『詳説日本史改訂版』、山川出版社、2002年、p294
  5. ^ 1885年(明治18年)に創設された内閣制度では、宮内省を内閣の外に設け、宮中と府中(行政府)との別を明らかにし、さらに天皇を補佐する内大臣をおいていた。
  6. ^ 1880年(明治13年)に福澤諭吉が提唱して結成された日本最初の実業家社交クラブ。
  7. ^ イギリスのジョージ5世が即位したころ(1910年)、即位直後を理由に自由党保守党との政争の中止を命じて、これを実現させたことにならうもので、イギリスから帰国した直後の加藤高明が提案した。
  8. ^ このとき川上親晴警視総監は、騎馬憲兵25騎を民衆の中に投じた。
  9. ^ 大岡は桂に対し「議長としてでなく長州人として申し上げる」と述べたと伝わる。