銚子市

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ちょうしし ウィキデータを編集
銚子市
銚子市旗 銚子市章
1934年(昭和9年)1月15日告示
日本の旗 日本
地方 関東地方
都道府県 千葉県
市町村コード 12202-5
法人番号 6000020122025 ウィキデータを編集
面積 84.12km2
総人口 53,871[編集]
推計人口、2024年3月1日)
人口密度 640人/km2
隣接自治体 旭市香取郡東庄町
茨城県神栖市
市の木 サザンカ
市の花 オオマツヨイグサ
市の魚 イワシ
銚子市役所
市長 越川信一
所在地 288-8601
千葉県銚子市若宮町1-1
北緯35度44分05秒 東経140度49分36秒 / 北緯35.73464度 東経140.82678度 / 35.73464; 140.82678座標: 北緯35度44分05秒 東経140度49分36秒 / 北緯35.73464度 東経140.82678度 / 35.73464; 140.82678
地図
市庁舎位置
外部リンク 公式ウェブサイト

銚子市位置図

― 政令指定都市 / ― 市 / ― 町 / ― 村

ウィキプロジェクト

銚子市(ちょうしし)は、千葉県北東部の関東最東端に位置し、日本列島で最も早く初日の出が昇る[注 1]。日本屈指の水揚量を誇る銚子漁港を擁する国内最大規模の水産都市[1][2]江戸時代元和年間より続く醤油の銘醸地でもあり[3]ヤマサ醤油ヒゲタ醤油を中心に醤油産業の一大集積地を形成している。1933年昭和8年)に市制施行した東総地域の中核都市である[4]

概要[編集]

犬吠埼からの日の出

太平洋に突き出した半島状の地形をなし、三方を海に囲まれており、日本列島で最も早く初日の出が昇る街である[注 2]関東地方の最東端であり、江戸時代には「ほととぎす銚子は国のとっぱずれ」の句が詠まれた[5]。北側には日本最大の流域面積を持つ大河利根川が流れ、銚子から太平洋に注いでいる[6]。沖合は南からの黒潮と北からの親潮が交わる好漁場であり[7]、世界三大漁場の一つに数えられている[8]。太平洋に臨む巨大な外港を備える銚子漁港特定第3種漁港)は、全国各地から多数の漁船が入港して活況を呈し、水産物流通基地として揺るぎない地位を確立しており[9]、日本屈指の水揚量を誇っている[1]。広大な後背地には、卸売市場、水産会社、水産加工場、水産缶詰工場、冷凍冷蔵施設、製氷貯氷施設、関連運送業者・鉄工所・造船所、水産物・加工品販売施設等が集積し、国内最大規模の冷凍・冷蔵能力を有しており[2]、全国の消費地と直結可能な地理的優位性もあって[9]、名実共に日本随一の水産都市として発展している。銚子沖で手釣りによって漁獲される「銚子つりきんめ」は、千葉ブランド水産物第1号に認定された高級魚である[10]。魚市場周辺の商店街には、鮮魚店や老舗寿司店が点在している[11]。江戸時代元和年間に創始され、関東風濃口醤油が発祥した醤油の銘醸地でもあり[3]、街の中心部には、全国トップクラスの大手醤油メーカーであるヤマサ醤油(業界2位[12])、ヒゲタ醤油(業界4位[12])の主力工場が立地操業し、製造品出荷額800億円を超える醤油産業の一大集積地を形成している[13]。各社では、蓄積されたバイオテクノロジー技術を応用し、核酸関連物質を利用した医薬品化成品等の研究開発を進めている[14]明治時代から東総地域の中核都市として発展を続けており[4]公共交通ネットワークの拠点である銚子駅を中心として、国・県の出先機関金融機関の本店・支店、商業・業務施設等の高次都市機能が集積し、千葉県東部で最大規模の人口集中地区を形成している[15]。市の財政力指数は0.61(令和3年度)であり、県東部地域において最も高い財政力を有している[16]

銚子半島に人が暮らし始めたのは約1万5千年から2万3千年前の旧石器時代であり、海上台地の密林を背景に三方を太平洋に臨むこの地では、数千年の間狩猟と漁労を中心とした生活が営まれ[17]、市内の粟島台遺跡や余山貝塚からは多くの縄文土器骨角器が出土している[18]歴史時代に入ってから、半島に続く広大な下総丘陵一帯は下海上国造の所領として繁栄し、その区域は香取郡南半から匝瑳郡の大部に及んでいた。後に郡郷時代となっても、海上郡は15郡の大郡であった[17]。下って平安時代末期、武士が勃興する頃になると、中央貴族桓武平氏の末孫で房総の大族となった千葉氏の支流、東氏・海上氏が銚子地方を領有するようになり[17]、船木郷には海上氏の居城として中島城が築城された[18]。海岸の犬岩や千騎ヶ岩には、源義経(九郎判官義経)にまつわる伝説が残されている[18]

江戸時代、東廻り海運と利根川水運の中継港となったことで、海運関連業を中心に、上方から紀州移民によって伝えられた鰯漁や醤油醸造、各種商工業が盛んとなり、東国屈指の河港都市として繁栄した[19]坂東三十三観音札所である飯沼観音を中心として、花街や興行街も発達した[17]。利根川河口の航海の難所を望む川口明神は、銚子港の守り神として漁民の信仰を集め、付近の丘には漁船遭難の犠牲者を供養した千人塚が築かれた[20]。幕末、豊漁を祝って川口明神に奉納された「銚子大漁節」は、銚子を代表する民謡として広く喧伝されている[21]明治維新後は、文明開化が急速に進展する中で、犬吠埼灯台銚子測候所銚子無線電信局が相次いで開設した[17]。利根川には蒸気船が就航し、次いで総武本線銚子遊覧鉄道成田線の各鉄道が開通した[17]。都市の発展に伴って多くの企業・銀行が設立され、図書館映画館カフェー等の文化娯楽施設も充実した[19]大正時代末期からは銚子築港工事が開始され、銚子港は天然の泊地から東洋一の近代漁港へと大きく転換することとなった[19]。築港促進運動の中、各町村の協力一致による大銚子市建設の機運が高まり、1933年昭和8年)2月11日銚子町本銚子町西銚子町豊浦村の3町1村が合併して市制を施行し、千葉市に次ぐ千葉県第2の市として銚子市が発足した[18]1937年(昭和12年)には、高神村海上村の合併が実現した[19]

太平洋戦争末期、B29の大規模空襲により、市街地は壊滅的な被害を受けた[19]。戦後は戦災復興都市計画事業に基づく土地区画整理と道路・公園等の整備が実施され、近代都市としての都市基盤施設の整備が進められた[19]。さらに船木村椎柴村豊里村豊岡村の編入により、市域・人口規模は大幅に拡大した[19]高度経済成長期には、銚子大橋の開通、銚子漁港の総合漁業基地化、外川漁港の改修、名洗港臨海工業用地の造成、食品加工産業の発展、海岸地域の観光開発、豊里ニュータウンの建設等が進んだ[19]平成に入ってからは「総合保養地域整備法」に基づく「房総リゾート地域整備構想」の重点整備地区に指定され、観光拠点施設や広域幹線道路の整備が推進された[19]。銚子駅から飯沼観音に至る主要商店街の景観整備も順次実施された[19]。名洗港(地方港湾)は国の「海洋性レクリエーション拠点港湾」の指定を受け、千葉県内最大の収容能力[22]を有する「銚子マリーナ」を中心とした滞在型マリンリゾートとして開発され、あわせて隣接地に海浜緑地公園や海水浴場が整備された[19]。西部地区には風力発電施設が多数建設され、関東最大規模のウィンドファームを形成している[23]。近年は、子育て支援サービスの充実に加え、多極ネットワーク型コンパクトシティの構築等による持続可能な都市づくりが推進されている[24][25]

銚子半島の海岸一帯は水郷筑波国定公園の中心的地域であり、太平洋に臨んで白亜の灯台が屹立する犬吠埼英国ドーバー海峡ホワイト・クリフ)になぞらえて「東洋のドーバー」と称される[26]断崖絶壁が続く屏風ヶ浦日本の渚百選に選定された白砂青松の君ヶ浜、地球の丸く見える丘展望館が建つ北総最高峰の愛宕山等、風光明媚な景勝地を有する千葉県随一の観光都市である。歴史文化遺産が多数存在する古都でもあり[23]、外川の歴史的町並みや伝統工芸品、漁業にまつわる祭祀や信仰は日本遺産に登録されている[27]。犬吠埼には化石海水源泉が湧出し[28]、海岸沿いに温泉宿が建ち並んで犬吠埼温泉郷を形成している。毎年8月には、銚子の夏の風物詩である「銚子みなとまつり」が開催され、利根川河畔に約5000発の花火が打ち上げられる花火大会[29]、約1000人の担ぎ手による銚子銀座通りの神輿渡御、伝統芸能「はね太鼓」の演舞が行われて銚子の街は祭り一色となる。年間を通じて約250万人の観光客で賑わい、東京・銚子間には特急列車しおさい」が運行されている[21]。港町の佇まいや海岸風景は多くの映画ドラマのロケ地となっており、「銚子フィルムコミッション」による積極的な支援活動が行われている[30]。市では、豊富な地域資源や立地条件を活用したシティプロモーションの展開により、移住・定住や長期滞在・交流型ワーケーションを促進している[31]

現役の西洋型第1等灯台の中では日本最古の灯台である犬吠埼灯台は、1866年慶応2年)に江戸幕府が英仏蘭米4国と締結した江戸条約に基づき、横浜北米間航路の重要な灯台として、その設置が明治政府と米国公使の間で商議されたのが最初であった[17]1872年(明治5年)、工部省招聘の英国人技師ブラントンの設計施行のもとに起工され、1874年(明治7年)に完成・初点灯し、文明開化の先駆けとなった[19]。造営にあたっては国産煉瓦約19万枚が使用され、耐震性を高めるため世界的に珍しい二重壁構造が採用された[32]。レンズはフランス製のフレネル式第1等8面閃光レンズであった[19]1910年(明治43年)に建設された霧信号所は、鉄造ヴォールト屋根の霧笛舎としては当時最大規模を誇り[32]、20馬力の吸入瓦斯発動機を原動力としてサイレンを吹鳴した[17]。歴史的価値の高さから国の重要文化財近代化産業遺産に指定され[32]世界灯台100選日本の灯台50選にも選定されている[19]。参観者数は国内の灯台の中で最多である[33]

銚子半島は奇岩怪石・断崖絶壁・白砂青松・怒涛等、変化に富んだ海岸美を有し、江戸時代の文化文政期には江戸在住の文人墨客が相次いで銚子の磯巡りに訪れ、和歌・俳諧・漢詩等に雅趣を述べている[17]。明治時代に鉄道が開通して以降は避暑客や海水浴客が増加し、東京近郊の別荘地として発展を遂げた[21]1905年(明治38年)、宮内省により犬吠埼に伏見宮貞愛親王御用邸「瑞鶴荘」が造営され、親王は毎年避暑・避寒にこの地を訪れた[34]。また、著名な知識人や国内外の文学者も避暑に訪れ、海辺の旅館や貸別荘に滞在して執筆活動を行った[35]竹久夢二の代表詩「宵待草」は、明治末期、海鹿島海岸で出逢った女性・長谷川カタへの悲恋を詠ったものである[36]財団法人公正会(濱口梧洞設立)の活動拠点となった公正会館は、公正図書館や公正学院を備え、銚子を中心とした文化の殿堂として発展した。公正会が主催した講演会や音楽会には各界の文化人が招かれ、銚子の文化的風土が形成されている[19]。文豪・国木田独歩の出生地であり[37]、海鹿島海岸の松林には「独歩吟」の一節である「なつかしき わが故郷は 何処ぞや 彼処にわれは 山林の児なりき」を刻んだ碑が建てられている[38]

銚子は古くから野球が盛んであり、関根知雄田中達彦木樽正明杉山茂町田公雄渡辺進根本隆篠塚和典八木政義石毛博史窪田淳澤井良輔榊原翼等、数多くのプロ野球選手を輩出している。1900年(明治33年)創立の千葉県立銚子商業高等学校は春8回、夏12回という千葉県最多の甲子園出場記録を保持する高校野球の名門校であり[39]1965年(昭和40年)と1995年(平成7年)に準優勝、1974年(昭和49年)に全国優勝を果たしている[40]。「黒潮打線」の異名を持ち、相馬御風作詞の校歌は広く全国に知られる[35]

銚子は千葉県唯一のジオパーク認定地であり、日本列島の地質構造を大きく二分する東北日本西南日本の境界断層付近に位置している[21]。銚子半島は愛宕山を中心として局所的に隆起しており、東関東で唯一、古生界基盤岩が露出している[21]。愛宕山・犬岩・千騎ヶ岩を構成する愛宕山層群は、中生代ジュラ紀に形成された砂岩泥岩からなる付加体で、千葉県最古の地質時代の岩石である[21]。愛宕山層群の上部には白亜系の銚子層群があり、アンモナイトトリゴニア等の恐竜時代化石を多産する[21]。犬吠埼周辺は漣痕化石等の浅海特有の堆積構造や生痕化石が観察できる場所として貴重であり[19]、国の天然記念物に指定されている[41]。さらに、愛宕山層群と銚子層群を覆う中新統が川口・黒生・長崎に分布しており、日本列島が形成された時代の古銅輝石安山岩からなる溶岩流を含む千人塚層と海成シルト岩からなる夫婦ヶ鼻層に二分される[21]。長崎の礫岩層からは、鮫の歯、鯨の骨、象の臼歯等の多様な化石が発見されている[21]。銚子半島南側の海岸線に広がる屏風ヶ浦の海食崖は、下総台地の地下構造が観察可能で、下位から犬吠層群、香取層、関東ローム層に区分される[21]。屏風ヶ浦は江戸時代から景勝地として親しまれ、地質学上、また観賞上の価値が高く、国の名勝及び天然記念物に指定されている[42]

銚子の年間平均気温は15度、最高気温と最低気温の差は6度前後であり、夏涼しく冬暖かい快適な気候である[43]。多くの自然が残る緑豊かな土地であり、人手の加わっていない極相林や多種多様な海岸植物が見られる[21]。君ヶ浜国有林は「銚子ジオパークの森」として、林野庁と銚子ジオパーク推進協議会の共同による保全・活用の取り組みが進められている[44]。近海には20種を超える野生のイルカクジラが生息しているほか、利根川河口付近は世界有数のカモメ探鳥地となっている[21]ミネラルを豊富に含んだ土壌と温暖な気候を生かした農業も盛んであり、主にキャベツダイコン等の露地野菜が栽培され、首都圏における生鮮野菜の供給基地となっている[45]。銚子の春キャベツは「灯台キャベツ」と名付けられたブランド野菜であり、生産量は全国1位である[45]。また、銚子メロンは糖度の高いことで知られ[4]、品質等が市場や消費者から高く評価されて、第16回日本農業賞を受賞している[19]

2020年(令和2年)7月、「海洋再生可能エネルギー発電設備の整備に係る海域の利用の促進に関する法律」(再エネ海域利用法)に基づき、銚子沖が洋上風力発電事業を推進するための促進区域に指定され、2021年(令和3年)12月には促進区域における洋上風力発電事業者として三菱商事等の共同事業体「千葉銚子オフショアウィンド」が選定された[46]。促進区域内には13メガワットの大型風車31基が建設され、2028年(令和10年)9月に運転を開始する計画であり[24]、漁場実態調査や名洗港の建設補助・維持管理拠点港湾としての整備が進められている[47][48]。市は2021年(令和3年)2月、2050年(令和32年)までに温室効果ガスの排出量を実質ゼロにすることを目指す「ゼロカーボンシティ」を表明し、官民協働で再生可能エネルギーの導入を促進している[49]。市では、「銚子市ゼロカーボンビジョン」に基づき、地域新電力「銚子電力株式会社」と連携した再生可能エネルギーの地産地消システム(マイクログリッド)の構築、ICTを活用した漁場の可視化や藻場の育成による海洋環境の保全、AI(人工知能)やロボットを活用したスマート農業の推進、災害時の移動電源としても活用されるEVPHEVFCVの市内導入、都市緑化やブルーカーボン生態系による二酸化炭素吸収源対策等を進め[49]、豊かな自然環境と共生したエネルギー産業の先端都市の実現を目指している[50]

地理[編集]

利根川河口と銚子市街地

本市は千葉県北東端、関東平野の最東端に位置する。市域は東西に約16.2キロメートル、南北に約12.8キロメートルへと広がり、面積は84.20平方キロメートルである。市域の北部は利根川を経て茨城県と相対し、東と南側は太平洋、南西側は九十九里平野に続いている。東京から約100キロメートル、千葉市からは約70キロメートルの距離である。地形は、平坦な台地とそれを刻む谷津、利根川沿岸の段丘化した低地からなっており、太平洋に突き出した半島部分は、千葉県内で最も古い中生代ジュラ紀から白亜紀の地層が露出している。太平洋に面した海岸は海食崖と砂浜が繰り返され、屏風ヶ浦等の海岸美がみられる。東端の海食崖上には犬吠埼灯台が設置されている。気候は海洋性気候であるため多雨で、夏涼しく冬暖かい[4]

海洋性の温暖で湿潤な気候、下総台地と利根川低地、更に海食と堆積による複維な海岸地形をもち、太平洋の沖合に好漁場が存在することが、本市の産業を特徴づけてきた。たとえば太平洋に面して温暖な台地上には野菜の特産地が形成された。また、海岸観光は本市の観光の中心となっている。土地利用を見ると、海岸の防風林や台地縁の斜面林等の山林を除けば、市域の約7割が農地及び宅地となっている。産業は、農業漁業醤油製造・水産加工を主とする製造業商業サービス業がそれぞれバランスよく成立している[4]。銚子は近世に東北地方江戸を結ぶ東廻り海運と利根川水運の中継港となり、紀州から移住した漁民や醸造業者によって都市が形成された。1933年昭和8年)には、銚子町本銚子町西銚子町豊浦村の3町1村が合併して市制を施行した。千葉市に次いで千葉県内で2番目の市制施行であった。更に1937年(昭和12年)に高神村海上村の2村が合併し、1954年(昭和29年)から1956年(昭和31年)にかけて船木村椎柴村豊里村豊岡村の4村を編入した。漁港・商工業地として千葉県下有数の都市となった本市は、千葉県東部全域から茨城県南部に及ぶ広大な地域を勢力圏内に含め、東総地域の中核都市としての強い独立性をもって発展してきた。古くから本市と茨城県鹿島郡波崎町を結ぶ利根川渡船が運航され、1962年(昭和37年)には銚子大橋が開通した[4]

銚子半島は、拳のような形で北側の鹿島灘と南側の九十九里浜とを分けるように太平洋に突き出している。鹿島灘の海岸と九十九里浜のいずれも緩やかな曲線を描く砂浜が、銚子半島では屈曲のある海岸線に変わり、短い砂浜と、切り立った海食崖の組み合わせがこの半島を特徴づけている。地形地質的には、海岸部が複雑で、その後方の利根川と九十九里浜とに挟まれた内陸地は、標高40から50メートルの関東ローム層を載せた平坦な第四紀層の台地とそれを刻む谷津、利根川に沿う低地とで成り立っている。市内で最高地点である愛宕山(73.6メートル)の丘陵及び海岸の所々にある岬と島には、千葉県内でも最古の中生代のジュラ紀から白亜紀の地層が露出している。これらの地層は硬く海食が進まず、複維な海岸線による海岸美が生み出された。銚子半島が中ほどでくびれた形になっているのは、突端部が全体として浸食されにくかったからである。住宅地のほとんどは利根川沿いの低地に連なり、また、本市の海岸観光は、複雑な海岸線と地形をその資源としている[4]

地勢[編集]

本市の地勢の特性は、丘陵性台地の発達と、これに伴う小規模の坂と谷との錯綜である。西方より延び来たった下総台地は、名洗・新生を結ぶ半島くびれ部の低地帯に終末を告げるが、先端部には最高73.5メートル(愛宕山)の34.5メートル(笠上町西端)内外の丘陵が連亘して、一帯の高台を形づくっている。この台地の飯沼に接する辺は、和田山・浅間山・前鬼山等の高地となり、清水坂・浅間坂等の傾斜を見せている[17]

一方利根川に沿う低地帯は、安是ノ海時代の名残りを思わせるような砂地で、松本・本城から松岸・余山にかけてのあたりには砂丘が残存する。これに対し、南方に急崖をなして迫る海上台地は50メートル内外の高原をなしているため、至るところに急坂が見られる。そしてこれらの台地の諸処に、浸食によってできた細い谷が帯のように深く入り込んでおり、いずれも耕作水田が営まれている。水田に恵まれない当地方にあっては、これらの谷が利根川沿いの地帯に次ぐ重要な米作地であり、最大限に利用せざるを得なかったのである[17]

南北狭小な地形のため、利根川以外にはこれといった河川は見られず、僅かに各々の谷から流入する細流があるだけである。その小川も太平洋側に流れるものは少なく、ほとんど利根川に注いでいる。半島で太平洋に入るものは、屏風ヶ浦の通蓮洞に注ぐ磯見川と、名洗から海に流れ出る小畑川の2川だけである。利根川に流入する河川は、東より滑川、清水川、八幡川、高田川、忍川等であるが、流路最長の高田川でも僅か7〜8キロメートルの長さである[17]

地形[編集]

屏風ヶ浦

本市の地形は台地と低地に分類され、更に台地は東側の半島部と西側の本土部に分けられる。半島部の西の端は名洗の谷と呼ばれ[43]、幅が狭く、くびれて低い谷部に連なり、谷は更に延びて本土部とのつねぎとなっている。本土部の三角形の北辺の利根川に沿ったJR総武本線までの幅約1.5キロメートルにわたる沖積地一帯は標高10メートル以下の平坦な低地帯で、ここに市街地が形成され市の中枢地帯となっている[43]

半島部は西から東に向かって突き出した拳のような形をなし、東西3.5キロメートル、南北6キロメートルの低い平坦な台地状をなしている。平坦上には残丘状の愛宕山が中央南寄りにあり、海抜73.6メートルの高さをもつ。飯沼観音を経て黒生に至る道路に沿った35.7メートルの高地が愛宕山に次いで高いところである。これは大きく見れば台地平坦面の一部であるが、愛宕山と共に銚子半島を東と西に分ける脊梁のようなものである。これより東は太平洋に向かってゆるく傾斜し、西は名洗の谷を隔て、本土の方の台地へ面している。太平洋に向かう部分は、元来25メートルから30メートルの高さであった平坦な台地が浸蝕されて、ゆるい谷が出来たものと考えられる。半島の西半、即ち榊町の平坦台地は関東地方一帯によく発達している段丘地形と全く同じ性質のもので、海抜25メートルから30メートルある。この台地は海の浸蝕作用によって出来た平坦面上に、成田層(砂礫層)及び関東ローム層(火山灰)が堆積したもので、広く千葉・東京・茨城方面に広がる武蔵野段丘の一部である。高神原町及び名洗町の北には、この段丘を浸蝕してできた新しい谷があり、泥炭を含む沖積層を堆積し、水田として耕作されている。谷に面し、少し低くなった段丘の端には、旧石器時代の人類遺跡がある。武蔵野段丘の生成は成田層を被うローム層によって示されるように洪積世後期であり、新しい谷が出来たのは沖積世である[17]。半島部の犬若から名洗を経て本土部に続く海岸線は高さ40メートルから58メートルの屏風ヶ浦の絶壁で、太平洋の波浪の海蝕作用により海岸線が大きく後退したものである[43]

名洗より西方は、本土部の関東平野の東端にあたり、九十九里浜と利根川に挟まれて三角に広がっている。利根川南岸に沿う幅1.5キロメートルの間は、幅10メートル以下の沖積平野であるが、それ以外に大部分は武蔵野段丘に相当する極めて平坦な台地である。この台地は半島西半の台地と全く同時代に、同じ成因によって出来たものであるにもかかわらず、その平均の高度が半島部よりも高い。かつ太平洋側の急激な海蝕作用のために、屏風ヶ浦が陸地に向かって後退するため、利根川と屏風ヶ浦との間の分水嶺は著しく南に偏っている。したがって、台地上の最高点は屏風ヶ浦の崖に接する[17]

半島東海岸の夫婦ヶ鼻から長崎に至る海岸は安山岩や白亜紀の砂岩古生代粘板岩等に保護されているため、第三紀の軟らかい地層の南海岸のように海蝕が著しくはないが、やはり険しい崖が発達している。武蔵野段丘形成後の河蝕は、利根川に向かうものと太平洋に向かうものの2系統に分かれる。谷壁は急傾斜の段丘崖を形成し、川と川の間には広い平坦面が残されており、武蔵野段丘を浸蝕しはじめた幼年期の地形を示している。この浸蝕作用が始まって間もなく陸地が沈降したために谷の下流の部分が沈水し、沖積層が堆積して、谷ごとに低い細長い平野が出来ている。愛宕山山麓の小畑池は、谷の下流が君ヶ浜の砂丘の発達によってせきとめられて出来たもので、昔は小畑・小畑池・君ヶ浜という方向に流れていたものである[17]

銚子半島沖では、海底の傾斜は60分の1内外であるが、陸岸から約4キロメートル離れた深さ20〜50メートルの部分に、直径2〜5センチメートルで丸く滑らかに水磨された礫が存在する。これよりも岸に近寄った部分には細砂ばかりの地帯が幅3キロメートルも続いているが、沖合遙かにはこのような礫や細かい砂がある。すなわちこれらの礫や粗砂は、波浪や海流等で現在の海岸から運搬されてきたものではなく、過去の産物が沈水したものである[17]

地質[編集]

犬吠埼 砂岩泥岩互層

銚子は地質研究の宝庫と呼ばれる[51]ほど、各時代の地層が市内随所に見られる。愛宕山を中心に局所的に隆起しており、東関東で唯一、古生界の基盤岩が露出している。また日本の地質体を大きく二分する「東北日本」「西南日本」の境界付近に位置し、この境界の東端はまだ確定していないため銚子の地層がその解明を担うものとして学術的に注目されている[21]。太平洋に突き出た半島状の独特の地形、そして犬吠埼や屏風ヶ浦等の地質資産を核として大地の成り立ちが比較的容易に、そして安全に学べる場所であることから、2012年(平成24年)に日本ジオパークに認定され、市域全体を活動のエリアとして「銚子ジオパーク」活動を推進している[21]

本市は地質学的にみても、東の半島部と西の本土部に分けられる。すなわち半島部には、古生代二畳紀層・中生代白亜紀及び頑火輝石安山岩を基底とする新生代第三紀層並びに第四紀層が存在するが、本土に属する部分には、新生代の地層以外には古い地層の露出が知られていない。愛宕山を中心として残っている古生層は、白亜紀の地層を堆積する時にその物質を供給し、更に新生代の地層が堆積を始めた時には、この古生層が白亜紀層と共に島のような形をしてそびえていた。本土方面の第三紀層は、この昔の島の西側に堆積し、非常にゆるやかな傾斜をもって西方に傾き、漸次上位に地層を重ねている[17]

愛宕山や犬岩、千騎ヶ岩は愛宕山層群と呼ばれ、約2億年前に形成された付加体である。愛宕山(標高73.6メートル)は北総台地最高峰となっており、硬く侵食されにくいため海に突出するような高台が形成されている。東海岸に露出する白亜系の銚子層群は礫岩砂岩泥岩からなる約1億年前の地層であり、アンモナイト等の化石を多産している。犬吠埼付近は浅い海の堆積構造や生痕化石がよく観察できるため「犬吠埼の白亜紀浅海堆積物」として国の天然記念物に指定されている。この銚子層群の砂岩は「銚子石」と呼ばれ、古くから建材等に利用されてきた。銚子の中新統は火山礫凝灰岩からなる安山岩の溶岩流を含む千人塚層と海成シルト岩からなる夫婦ケ鼻層に二分され、いずれも日本海が形成された時代の地層である。千人塚層の安山岩は利根川河口の川口、黒生、長崎に露出しており、銚子漁港整備に伴い取り除かれた安山岩はその一部が古銅輝石安山岩公園に保存展示されている。また、かつて夫婦ヶ鼻層は本市北東端の夫婦ヶ鼻から海岸沿いに黒生付近まで連続して露出していたが、銚子漁港建設工事により銚子ポートタワー下にわずか6メートル程度が露出するのみとなっている[21]

下総台地の平坦面はかつての海岸近くの海底面で、隆起と汎世界的な海水準変動の結果、基本的に4段面の後期更新統の海成段丘が分布する形となった。この台地には谷がいくつも刻まれており平坦面は農業や畜産業に利用されている。本市の南の海岸線は、犬若から緩やかに湾曲し、屏風ヶ浦と呼ばれる海食崖が広がっている。この崖は下総台地の東端にあたり、常に波浪によって侵食が続いている。屏風ヶ浦では下総台地の地下断面が観察でき、地層は下位から犬吠層群、香取層、関東ローム層の3つに区分することができる。屏風ヶ浦は江戸時代後期以降、景勝地として著名となり、国指定名勝および天然記念物として指定されている[21]

土地利用[編集]

銚子大橋前交差点

本市の主要な市街地は2020年令和2年)国勢調査による人口集中地区がほぼこれにあたり、利根川沿いに銚子駅・飯沼観音・銚子漁港を中心として形成された地区で、面積9.6平方キロメートル、人口31947人(総人口の約50パーセント)、人口密度1平方キロメートル当たり3338.2人となっている[52]。市南部の外川漁港を中心とした地区にも人口が集中している。この2地区を連絡する主要道路・鉄道の沿線には、市街地の周辺部及び高神地区等の集落があり、国道356号沿いとその南側の台地の一部には、海上・船木・椎柴・豊里の各地区の集落が形成されている。また国道126号沿いには市街地の周辺部を経て豊里地区の集落がある。

商業地は市街地内に住居地と混在しているほか、郊外の国道126号沿いに大型商業施設(イオンモール銚子)が立地している。工業地は醤油製造等の工場が内陸部に、造船・機械製造修理・缶詰製造・水産加工等の工場が利根川沿岸及び銚子漁港周辺に立地しているほか、名洗港臨海工業地域、銚子漁港域内の水産物産地流通加工センター及び小浜工業団地等がある。高度経済成長期以降、市街地、特に利根川沿岸の中心市街地が世帯の細分化、産業活動の進展、地価の高騰等を背景に、主に国道126号、国道356号、県道銚子公園線県道外川港線及び銚子電気鉄道線沿線等に沿って拡大している。農業地は、利根川沿岸の平地水田地帯と東部及び南西部の丘陵性台地畑地帯からなり、その面積は2540ヘクタールで、市域面積の約30パーセントを占めている。このうち農振法に基づく農業振興地域は6868ヘクタール、農用地区域は2109ヘクタールである[52]

本市では、2019年(令和元年)策定の「銚子市総合計画基本構想」に土地・周辺海域利用方針が示されており、その基本方針は「まちの賑わいを育み、人や自然にやさしいコンパクトな都市構造への展開と地域の特性を生かした土地利用の推進」とされている[53]。各種の個別法等による規制としては、「自然公園法」に基づいて、川口町から犬吠埼を経て、屏風ヶ浦に至る太平洋沿岸部の陸域・海域一帯と四日市場町から上流の利根川沿いの陸域・水域一帯が水郷筑波国定公園の第二種特別地域第三種特別地域として指定されている。また、「千葉県立自然公園条例」に基づく屏風ヶ浦一帯と七ツ池を含む内陸丘陵部は県立九十九里自然公園普通地域に、猿田神社周辺の森は千葉県郷土環境保存地域に指定されている。愛宕山頂附近は「銚子市地球の丸く見える丘景観条例」に基づく景観形成地区である。いずれの区域についても法・条例に基づき、すぐれた自然環境の保全・活用を図るために各種開発行為が制限されている[19]

気候[編集]

日本列島近海の海流
1.黒潮 2.黒潮続流 3.黒潮再循環流 4.対馬暖流 5.津軽暖流 6.宗谷暖流 7.親潮 8.リマン寒流

本市は太平洋に突出し三方を海と河に囲まれ、また、沖合が黒潮と親潮が交わる寒暖流の交錯地点であることにより、日夜の気温差は僅少であり、年間平均気温は15度、最高気温と最低気温の差は6度前後と夏涼しく冬暖かい住みよい気候である[43]。湿度は夏に高く冬は低いが、年平均75パーセント前後と内陸方面に比べて相当高い。いわゆる海洋性気候の土地であり、降雪も降霜も少なく、極めて僅かの量である。年間降水量は1700ミリメートル以上あり、冬は晴天が続く。年間の晴曇は相半ばし、降雨日数は平均約127日であり、千葉県内でも雨が多く、雨と黒潮の影響により濃霧の発生する日が多い地域である。この気候が良質の醤油を生んだ素因であり、また、寒暖流の交錯地点である沖合は全国屈指の好漁場となっている。年間を通して比較的風が強く、無風の日は僅かであり、一日の中でも風向の変転が急激である。例えば、春季の風は北東から南東で、午前中は北東から吹き、午後は南東に転じ、夜間は北東に帰る。夏季は南東から南で、午前中は南東より吹き、午後はやや東に偏り、夜間は南東に転ずる。秋季は北東が多く、午前中は北東より吹き午後は東に偏り、夜間は北東となる。冬季は北西から北で、午前中は北と西の間より吹き、午後より日没までは北から北北東に転じ、夜は北西より吹く、といった具合である[43]

外洋に面しているため、東京湾内に比べて干満の差ははるかに小さくなっている。普通は潮の満ち引きは1日2回起こる。銚子では朔と望、すなわち新月と満月の時はそうであるが、上下弦すなわち月が半分に見える時は、1日1回の満ち引きとなる。これを日潮不等と呼ぶ。そして朔望の時が干満の差が大きく、このうち特に干満差の大きいのが大潮である。また二回潮でも、5月から9月までは昼間の方が夜間より干満差が大きく、反対に10月から4月までは夜間の方が大である。大潮は旧5月または6月15日頃、昼間の干満差が最大に達する時で、銚子では旧暦6月15日に盛大な大潮祭りが行われる[17]

銚子市川口町(銚子地方気象台、標高20m)の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C°F 23.6
(74.5)
24.0
(75.2)
23.3
(73.9)
25.9
(78.6)
29.5
(85.1)
32.0
(89.6)
34.8
(94.6)
35.3
(95.5)
33.7
(92.7)
30.6
(87.1)
25.4
(77.7)
23.4
(74.1)
35.3
(95.5)
平均最高気温 °C°F 10.1
(50.2)
10.3
(50.5)
12.8
(55)
17.0
(62.6)
20.5
(68.9)
23.0
(73.4)
26.6
(79.9)
28.6
(83.5)
25.9
(78.6)
21.5
(70.7)
17.3
(63.1)
12.7
(54.9)
18.9
(66)
日平均気温 °C°F 6.6
(43.9)
6.9
(44.4)
9.7
(49.5)
13.8
(56.8)
17.4
(63.3)
20.2
(68.4)
23.5
(74.3)
25.5
(77.9)
23.4
(74.1)
19.2
(66.6)
14.4
(57.9)
9.3
(48.7)
15.8
(60.4)
平均最低気温 °C°F 2.9
(37.2)
3.3
(37.9)
6.4
(43.5)
10.7
(51.3)
14.8
(58.6)
17.9
(64.2)
21.2
(70.2)
23.3
(73.9)
21.3
(70.3)
16.8
(62.2)
11.1
(52)
5.7
(42.3)
13.0
(55.4)
最低気温記録 °C°F −6.2
(20.8)
−7.3
(18.9)
−4.3
(24.3)
−0.2
(31.6)
4.3
(39.7)
10.2
(50.4)
13.0
(55.4)
15.9
(60.6)
11.2
(52.2)
4.5
(40.1)
−1.3
(29.7)
−4.6
(23.7)
−7.3
(18.9)
降水量 mm (inch) 105.5
(4.154)
90.5
(3.563)
149.1
(5.87)
127.3
(5.012)
135.8
(5.346)
166.2
(6.543)
128.3
(5.051)
94.9
(3.736)
216.3
(8.516)
272.5
(10.728)
133.2
(5.244)
92.9
(3.657)
1,712.4
(67.417)
降雪量 cm (inch) 0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
平均降水日数 (≥0.5 mm) 8.2 9.1 13.0 12.3 11.3 12.3 10.4 7.4 11.8 13.3 10.6 8.7 128.4
平均降雪日数 4.5 6.0 1.7 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.9 13.1
湿度 62 64 68 74 82 88 90 87 84 77 72 66 76
平均月間日照時間 179.8 159.0 168.9 183.0 188.9 142.3 174.0 221.3 159.0 137.9 140.1 163.7 2,017.8
出典:気象庁 (平均値:1991年-2020年、極値:1887年-現在)[54][55]

植生[編集]

犬吠埼崖地植生群落

本市は海岸一帯を中心に水郷筑波国定公園や千葉県立九十九里自然公園風致地区に指定され、各種法令により開発行為が制限されている。このため比較的多くの自然が残り、貴重な植生や環境に適した変化を遂げた植物を見ることができる。銚子の森は照葉樹林で一年中緑豊かな土地であり、人の手が加わっていない環境の中形成された極相状態にある森林の中で最も広く見られるのは、スダジイタブノキが茂った照葉樹林で、古い寺社の社叢林や丘陵の傾斜地で見ることができる[21]

社叢林のうち「渡海神社の極相林」と「猿田神社の森」が千葉県指定の天然記念物である。南向きの乾きやすい斜面や急な尾根の潮風の影響がやや強い場所はスダジイの林で、林の中にサカキヤブニッケイなど常緑の低木があり、地表にはヤブコウジベニシダ等の草本類が生えている。やや北向きの斜面や深い谷、沢沿いの湿った環境にはタブノキが多く、林の下はアオキが、地表はイノデが主体である。遠望すると青みがかったタブノキの密な樹冠が特徴的である。海岸線の植生も特徴的で、「外洋性海岸砂丘地」の君ヶ浜一帯は、コウボウムギネコノシタハマゴウオオマツヨイグサ等を見ることができる。「犬吠埼崖地植生群落」や「犬若海岸崖地植生群落」では、海岸崖地の厳しい環境下で生育するイソギク、タイトゴメ、ハチジョウススキ、ヒゲスゲ等の植物群落がある。このような「崖地植生」は屏風ヶ浦に面する海食崖付近でも確認できる[21]

利根川の河川敷にはヨシ原が広がり、マコモガマ類、オギ、イソギクカサズゲ等が観察できる。ヨシ原に混じって見られたタチヤナギ群集は、河川改修が進む過程で断片的なものとなっている。利根川沿岸の浜堤上に形成された東光寺には千葉県の県木であるイヌマキがまとまって生育しており、銚子市指定天然記念物である。この地域では、利根川方向から吹く「筑波おろし」の北風を防ぐためにイヌマキを屋敷林として利用する家が数多く見られる[21]

生態系[編集]

銚子海洋研究所

本市には約150種の鳥類が生息している。利根川河口から長崎鼻までの沿岸部は千葉県内有数の渡り鳥の渡来地で、2012年(平成24年)度から千葉県の「銚子鳥獣保護区」に指定されている。利根川河口では冬になると多くの種類のカモメウミネコウミウ、海洋性のカモ等が飛来する。最も多いのはウミネコやセグロカモメで、外洋性のミツユビカモメも時折見ることができ、本市は日本だけでなく国際的にも有数のカモメのバードウォッチングに適したエリアとなっている[21]。黒生海岸や屏風ヶ浦等では、イソヒヨドリハクセキレイ等が周年生息していることが確認され、屏風ヶ浦の上をハヤブサチョウゲンボウ等の猛禽類が飛行している姿が確認されている[21]

冬や春になると、黒潮の流れにのって様々な海洋生物が沿岸を回遊し、1年を通じて20種類以上の野生の鯨類[注 3]キタオットセイ海鳥等が現れる。中にはアカウミガメの様な絶滅危惧種も含まれている[56]。これらの生物を観察するための観光船による屏風ヶ浦等のクルージングも兼ねたホエールウォッチング業が行われている[57]2020年(令和2年)には絶滅危惧種のセミクジラの親子が目撃されており[58]、これは日本列島の沿岸では36年ぶりで3件目の確認例であり、観光ツアーが親子に遭遇した世界初の事例であった[注 4][59][60]。また、絶滅危惧種であるナガスクジラ回遊も確認されており[61]コククジラ[注 5][62]シロナガスクジラ[注 6][63]の様な非常に貴重な種類が出現する可能性もある[56]

陸棲の哺乳類では、千葉県レッドデータブックに掲載されているアカキツネ(重要保護生物)やニホンアナグマ(要保護生物)、カヤネズミニホンジネズミ(一般保護生物)等の貴重な野生哺乳類が生息していることが確認されている[21]

また、後述の通り明治期まではニホンアシカが沿岸に生息しており、犬吠埼[64]や海鹿島[65][17]等の地名の由来にもなったとする説も存在する[注 7][66]

人口[編集]

市人口は1950年代まで増加し、以後は横這いから漸減方向に進んでいる。これは、病気による死亡等の自然減少に加えて、社会増加分を超えて就業や進学等のために転出した社会減少が多かったことによる[19]。世帯数は、共働き世帯の増加、女性の社会進出、核家族の増加等により増加し、近年は2万5000世帯を超えている[52]。通勤通学による流入人口をみると、2020年(令和2年)において本市に流入するのは、茨城県神栖市2516人、旭市2410人、東庄町542人、香取市536人、匝瑳市286人の順で多く、利根川流域、九十九里方面の市町との関連が強い[52]。本市は「銚子市しごと・ひと・まち創生総合戦略」に基づき、生産基盤の整備、人材育成、創業支援、洋上風力発電施設の誘致、シティプロモーションの推進、移住・定住の促進、子育てサービスの充実、地域包含ケアシステムの構築、長期滞在・交流型ワーケーション推進等の施策を進めており、取組にあたっては銚子市総合戦略検証委員会を設置して効果検証を行っている[68]

  • 年齢区分別人口(令和2年国勢調査
    • 総数(年齢不詳を含む) 58431人
    • 世帯数 25544世帯
    • 年少人口(0〜14歳) 4470人(7.7%)
    • 生産年齢人口(15〜64歳) 31241人(53.5%)
    • 老年人口(65歳以上) 22053人(37.7%)
    • 不詳 667人(1.1%)
  • 15歳以上就業人口(平成27年国勢調査)
銚子市と全国の年齢別人口分布(2005年) 銚子市の年齢・男女別人口分布(2005年)
紫色 ― 銚子市
緑色 ― 日本全国
青色 ― 男性
赤色 ― 女性

銚子市(に相当する地域)の人口の推移
総務省統計局 国勢調査より


隣接自治体[編集]

歴史[編集]

地名の由来[編集]

盃と銚子

銚子の地名の起源は、利根川の形状が酒器銚子に似ているところから生じたものである、というのが定説になっている。徳利を銚子と呼ぶようになったのは近世末期あるいは近代に入ってからのことで、銚子と徳利は元は別のものであった。銚子という器と名称は、10世紀に成立した「和名類聚抄」に既に見られるが、それによると日本名では「さしなべ」といった。「さしなべ」とは注ぎ口の付いた鍋のことで、上には握り用の鐶が付いていた。大きさは普通の鍋より小さく、ものを温めるために使われた。中世になると現代でも神前結婚式で使われている酒器を、銚子と称するようになった。これは両口のものと片口のものがある。そして近世になると提子のことも銚子と呼ぶようになった。このように銚子の形は古代、中世、近世と時代が下るに従って変わってきたが、その共通点は、酒をその中に入れる口と、そこから注ぐ口が別になっていることである。銚子の本体は表面積の広い容器で、蓋の有無にかかわらず、酒を入れるときは直接本体に注ぎ入れる。そして杯に酒を注ぐときは、本体に付いている小さな注ぎ口から注ぐ。これが銚子の形の特徴である。なお徳利と同じ形状の酒器を古代に求めれば瓶子があり、瓶子は神事に用いられている。利根川は内部の川幅が非常に広いにもかかわらず、河口付近が極端に狭くなっている。そこでその狭い河口から河水が外洋に流れ出ている状態が、酒器の銚子の口から酒が注がれる状態に似ているということで、銚子の地名が起こった[19]

銚子地方の上古の地名は不明であるが、銚子地方を含むより広い地域名としては、神話時代紀元前のこととして、既に「総ノ国」の名が起こっている。2世紀頃になるとこの総ノ国は10国に分けられ、銚子地方はその一つである「下菟上国」に属することになった。更に6世紀になると、総ノ国は「上総国」と「下総国」に分けられた。また下菟上国は「下海上国」と書かれるようになった。7世紀大化改新によって国郡里の制度が定められると、下海上国は廃されて「海上郡」となった。この時の里名はわからないが、8世紀に里は郷に改められた。そして10世紀に成立した「和名類聚抄」では、銚子地方は「三前郷」となっている。和語の「みさき」は陸地が海中に突き出したところを意味する。三前郷の範囲は、おおよそ戦前の本市の範囲以内である。古代末期から中世初頭に、銚子地方は荘園になり、三前郷は「三崎庄」と呼ばれるようになった。中世の中期以降になると、時として「海上庄」と呼ばれることもあった。また中世になると、庄より小さい地域の地名も史料の上に現れた。飯沼・荒野・本庄(本城)・垣根・野尻・笹本等である。表記は仮名書きであったり、漢字仮名交りであったりして一定していないが、いずれも近世の村名に一致する。近世になると、銚子地方の村の名は全て明確になる。戦前の市域の範囲では、高神・飯沼・新生・荒野・小川戸・辺田・三崎・松本・本城・長塚・松岸・垣根・芝崎・四日市場・余山・三宅・赤塚の諸村である。それにもかかわらず、近世には銚子という地名が存在しており、少なくとも関東においては、これらの村名よりもはるかに世に知られていた[19]

「正保日本図」は、別名「正保古国絵図」ともいわれる。この地図は徳川幕府1644年正保元年)12月諸大名に令して領内の図を献上させ、それを編成したもので、西欧の測量術により一定の縮尺に基づいて作られた、極めて優秀な地図である。その中に銚子の名を見ることができる。すなわち常陸の府中付近の霞ヶ浦湖面に「銚子口廿里」とあり、また土浦付近にも「是ヨリ銚子口一里廿四丁」と記されている。このほか、房州小湊付近には「常州銚子湊十八里」とある。以上のことから、1644年(正保元年)当時、既に「銚子口」「銚子湊」の名が起こっていたことがわかる。この時期の「銚子湊」という名称はまだ利根川の内水面の呼称にとどまっていて、その後におけるように、沿岸の陸域をも包含した地名にはなっていなかった。同様に「銚子口」も利根川の河口の名称にすぎなかった。慶長年代には、銚子が既に海運上の要地として注目されていた。そしてこれより早い時期から、海運用船舶は太平洋沿岸を航行しており、銚子湊に入港していた。常陸・下総両国の岸が迫ってくる河口を通過して中に入ると、豁然と広い水域が展開する光景は、これらの船舶の乗組員や海運業者に強く「銚子口」の実感を与えた。正保・寛文期の銚子は、東廻り海運の確立と並行して、紀州漁民によって開拓されつつあった漁業が発展し始め、農村から港湾都市・産業都市へと大きく飛躍しようとしていた。そこで「銚子口」に始まった「銚子」という名称も、単に「銚子口」「銚子湊」等水域の名称にとどまらず、やがて沿岸の陸地名として定着した。水上を生活の場とする船舶乗組員にとっては、銚子湊の沿岸地域が幾つもの村に分かれ、それぞれ固有の村名をもっていたとしても、これを一括して捉えた方が、簡単で都合の良い場合が多かった。その場合、銚子湊の沿岸だから銚子となるのは当然であった。江戸との交通が頻繁になるにつれて、この呼称が江戸を中心に各地に伝播し、やがて海運に関係のない者も、この地方を下総の銚子として認識するようになった[19]

銚子とは銚子湊の沿岸地域としての港湾機能を有する地域の名であり、さらにこのことを中心として発展した産業都市的機能を有する地域の名である。したがって、銚子の明確な境界はなく、飯沼・新生・荒野・今宮の4村を中心とし、適宜に周辺の村々をも含めて、銚子と称していた。この汎称は、近代に入って1889年明治22年)4月1日に「市制町村制」が施行された時、初めて行政区画名になった。すなわち飯沼村が単独で町制を施行した本銚子町と、新生・荒野・今宮の3村が合併した銚子町である。それから2年後には、松本・本城・長塚3村合併の伊豆原村が西銚子町となった。そして1933年昭和8年)、これら3銚子町と豊浦村(辺田・三崎・小川戸3村合併)が合併して「銚子市」が発足し、銚子の名は発生以来およそ3世紀を経て、近代の単一都市名に到達した[19]

原始[編集]

旧石器時代[編集]

銚子半島に人が住むようになったのは旧石器時代であり、初めて人類がこの半島に住みつき、自然採集経済の生活を営むようになった。海上台地の密林を背に、三方を太平洋に臨む銚子は、狩猟に漁労に定めて彼らの豊かな生活を保障していた。早期縄文式土器の破片が屏風ヶ浦断崖地帯に往々発見され、また旧豊岡村小浜にその包含地が見られる。銚子に最も早く人間の生活した舞台は、波浪によって失われた台地上に及んでいた[17]

縄文・弥生時代[編集]

縄文時代の銚子半島

縄文時代前期遺跡は愛宕山・西小川町荒野台に、また前期より中期にまたがる遺跡として南小川町粟島台遺跡があり、後期より晩期に続くものとして余山貝塚が挙げられる。台地より低地帯へと下降する縄文人の通則は、銚子においても当てはまっている。前記の遺跡中、粟島台遺跡と余山貝塚は、銚子の先史時代遺跡として重要なばかりでなく、日本考古学上からも特筆される著名な遺跡である[17]

粟島台遺跡は南小川町・県立銚子高等学校の南方、海抜15メートルの台地で、前期から中期にかけての諸遺物を包含する遺跡である。1933年(昭和8年)3月、下総地方の遺物採取をして歩いた好古家吉田文俊が乱掘して、石器土器多数を得たのが最初である。その場所は北側の徳兵衛所有地であったが、当時の遺物は全く所在不明で、僅かに一部が市内に残存している。この地にまず住みついた前期縄文人は、台地の高所に住居を営んだが、当時はその近くまで海水が侵入して、貝類の棲息に適していた。そして当時はまだ台地の西南方には集落の存在が認められなかった。しかしそれから若干の年代を経た前期末から中期初頭にかけては漸次西南方へと居を遷していき、その一部は台地下方の低地に集落を営んだものもあった。本地方にあっては、対岸鹿島郡の砂丘陵地帯にも後期遺跡の分布を見る。古典にいう安是ノ海は浅瀬ノ海の意で、砂洲の発達と利根沿岸の沖積地化は、彼らの生活適地をもたらしていた。したがって集落は相当に発達し、作られた土器や石製品にも豊かな生活が反映されている。粟島台遺跡から採取された石器のうち、硬玉製飾石と琥珀製飾石は異色あるものである。琥珀はこの地に近い外川の石切場からも発掘され、また海岸においても往々採取されており、粟島台は石器時代における琥珀の原産地の一つであった。この地方の縄文人はこれを活用して各種の資源を他からも獲取しており、黒曜石や硬玉が琥珀との交易品であった。イルカクジラの乾肉も、近隣の集落や遠い山手の人々との物々交換材料となった。このように、粟島人は満ち足りた生活を繰り返しながら、数百年を経過していった[17]

みみずく土偶(余山貝塚出土)

余山貝塚は高田川に面し国道と成田線鉄路に挟まれた一帯の貝塚で、日本考古学上、大森貝塚東京都品川区大田区)と並んで最も古くから知られ発掘された遺跡である。1897年(明治30年)頃に江見水蔭大野雲外(延太郎)・和田千吉・松村瞭等の来訪発掘が相次ぎ、特に江見水蔭は前後5回にわたって発掘、多くの遺物を採取して帰ったが、その時の模様を「地中の秘密」に著している。また大野雲外も1907年(明治40年)頃2回ほど発掘し、その著「土中の文化」の中に記録している。この風潮は地元にも及び、旧成田町大野市平(旅館主)・吉野長太郎(銚子商業学校教諭)等のマニアを生んだ。両名が余山から発掘採取した遺物は相当量に及ぶも、散逸して明らかでない。吉野は「コロポッグル喰ひ遺したり四千年」の一句を余山原頭コンクリート製の標柱に止めてこの世を去っている。上述の2遺跡は、銚子の縄文時代の二大集落の廃墟であり、一面にまた中期から後期・晩期にかけて大集落が発達し、それ以前には散在生活していたことを示している[17]

次いで西日本より波及してきた農耕文化に同化融合され、弥生式土器時代に入った。銚子には未だこの顕著な遺跡は発見されていないが、その石器と土器片は台地並びに周辺各所から採集されている。これは沃壌の農耕適地に乏しい半島の丘陵地帯のためで、銚子地方の弥生式文化は、絢爛たる花を咲かせることなく、ほどなく次の時代に移っていった[17]

古代[編集]

古墳時代[編集]

和名類聚抄


-下総国
-東海道

古墳時代には、いわゆる東国開拓と称されて記紀に載る外来東漸の大氏族が各々進出して逐次勢力を拡大するにつれ、土着の小氏族・住民はその傘下に統合されていった。下総は早くから東国に進出していた武蔵国造を中心とする出雲族の勢力下にあり、常総境辺には香取鹿島両神宮を中心に天神系の中臣が控え、これに安房より北上した忌部氏が繁栄していた。常陸の東南隅のこの地帯は、行政区割が茨城県となっても実質は千葉県銚子に依存してきたが、これが原始時代にあっては下総との相関は更に密なるものがあった。縄文時代の遺跡の分布は利根川西岸及び屏風ヶ浦沿岸から、粟島台遺跡に近い東端部にも及んでいるが、古墳の存在は東端部にほとんどなく、松岸付近以西と旧豊岡村に多く存在する。また集落遺跡として相当に面積の広いところは、三崎町付近と松岸駅付近、旧鹿島郡矢田部若松両村に認められる。「和名類聚抄」に見える三前郷・三宅郷・船木郷は、いずれもそれらの古代集落を基として起こったもので、後の銚子港は三前郷の津として発達し、銚子の起源となっている。各所に散在する土師器散列地は集落すなわち庶民の生活遺跡を示しており、安是ノ海(後の利根川)沿岸の低地帯が庶民生活の舞台であり、鹿島台地と海上丘陵の高燥地は首長の占拠するところであった[17]

古語拾遺」によれば、1世紀余には総ノ国開発は相当に進み、 135年成務天皇5年)には印波武社上菟上・下菟上・菊間・馬来田・須恵・伊甚長狭安房の10国に分けられ、各国造が置かれた。海上郡はこのうち下菟上国にあたり、印波・下菟上両国が後の下総である。下菟上は後に下海上と書かれ、東は安是ノ海を隔てた常陸国鹿島郡南部(茨城県)、北は香取郡の大部、西は匝瑳郡全部、それに海上郡を加えたもので、ほとんど東下総の大半であった。南の方、太平洋に面しては房総第2の大湖「椿海」(江戸期末に干拓されるまでは印旛沼に次ぐ海瀉湖)と湿潤地帯があったが、屏風ヶ浦海上にはまだ浸蝕海没しない陸地が存在していた。銚子の地はこれら海没した集落に北接する農漁村として、下海上国の東隅に偏在していた[17]

飛鳥・奈良・平安時代[編集]

大化改新に際し、中央集権を確固たるものにするために諸国には国司、諸郡には郡司が任命された。海上国造が廃されて海上郡司が置かれたのもこの時であった。海上郡家は海上台地に設けられ、葛飾郡の下総国府に属した。郡郷の秩序が備わって地方制度が確立してから、奈良時代の東下総は海上郡15郷、匝瑳郡18郷、香取郡6郷となった。上代の海上郡は旧大倉村あたりから銚子半島へかけて15郷を統轄した上郡であったが、銚子半島の古郷は、大体、石田・石井・橘川・横根・三前・三宅・船木の7郷があてられる[17]

銚子半島は上海上国造の都邑をへだてること東方10里、その中枢から離れていたが、豊かな水産物を供給する重要な経済地帯としてその統治下にあった。西方は椿海(当時は既に淡水であった)に面する農業集落、石井・須賀・横根の各郷が連なり、東方は安是ノ海(後の利根川であるが、当時は全く海水であった)に沿う漁業を主とする集落が多く、その間に皇室直轄の三宅や特殊職業に従う船木部の郷が交じっていた。したがってこれらと交渉がある中央政府(大和)や地方官衙の役人の来訪もあり、文化の波及も全くの僻地農漁村とは違っていた[17]

  • 三前郷 - 本市東半部が該当する。市内に三崎町があり、旧豊浦村大字三崎の後身で、その遺名である。半島の地形によって上代より名付けられたものであり、中世に三崎庄55郷を包括していた。安是ノ海に面した半農半漁の集落に端を発し、後には三崎ノ津としての機能も加わって発展した[17]
  • 三宅郷 - 本市三宅町(旧海上村大字三宅)が遺称で、屯倉より起こった地名である。王朝時代に海上国造が大和朝廷に帰属した際、すぐにここに皇室御料の収納倉庫が置かれた。以後、鎌倉時代に至ってもここは中央貴族の所領であった[17]
  • 船木郷 - 船木町(船木村大字船木台)・小船木町(椎柴村大字小船木)が遺称で、両村一帯がその故地であった。相接する旧豊岡村大字塙に船木権現と呼ぶ古社があり、そのあたりまで域内であった。内海、外洋に面し、造船の用材を扱う船木部の旧地で、他の諸国にも多い地名である。光仁天皇紀に、776年宝亀7年)、安房・上総・下総・常陸4か国に命じ、軍船50隻を造らせて陸奥に送るとあり、この時この船木部は大いに活躍した[17]

万葉集」には、常陸の国司高橋虫麻呂が中央から派遣されてきた検税使大伴卿を送って、常陸鹿島郡刈野橋に別れる時詠んだ歌がある。その歌に三宅滷とあるのは、当時この沿岸は海に面して干潟が諸所にあり、その一つの三宅郷につづく干潟を指称したものである。これが常陸への渡津となっており、更には常陸から遠く蝦夷地陸奥への要津ともなっていた。そのため造船も行われ、船木部の集落が栄えていた。三前・三宅・船木の3郷が市域に該当し、奈良朝の残存戸籍に基づいて銚子付近3郷の人口を算定すると、3900人と推定される。松岸町に土師器を伴う貝塚が多く、また各所に遺物が発見されているが、これらの庶民の生活した集落の面影を止めるものである。また旧船木村内に散在する小古墳や横穴は、船木部の首長との関連を示している[17]

平安朝に入った頃の銚子には、まだ仏寺らしいものはなく、ようやく中世以降から現れ、当初は天台宗系寺院であった。常世田の常燈寺新義真言宗であるが、当初は天台系であり、東下総最古の藤原時代作になる木造阿弥陀如来坐像を伝えている。常世田は常陸から安是ノ海を渡って三宅・三前各郷を通り、横根郷から匝瑳へ行く枢要な往還の中間に位置し、相当繁昌していた微証をのこしている。市内切っての古刹円福寺や野尻の東光寺等も、その頃前後してできた天台系の仏寺であり、平安朝から鎌倉へかけては念仏道場として殷盛を極めた。両寺が新義真言宗となっているのは、中世の真言宗振興活動による改宗の結果である[17]

中世[編集]

鎌倉・室町時代[編集]

千葉常胤

1185年文治元年)、源頼朝は各地に守護地頭を設置し、以後の各時代の封建制度の基礎をなした。この時代に、下総国守護として銚子地方に君臨した武士は、千葉常胤であった。常胤は鎌倉幕府にひときわ忠勤した重臣であり、頼朝の信任が厚かった。彼は6人の子を下総各地に分封したが、その子孫は後世までながく房総の名族となっている。それは全く頼朝との緊密な主従関係の賜物である。本地方は東ノ庄に属する海上ノ庄(旧三崎庄)に該当するが、6男胤頼がこの庄を拠点として東氏を称し、その孫胤方が海上ノ庄を与えられて海上郡船木郷中島城を居城に海上氏を名乗り、それぞれ権威を振っている。いずれも鎌倉幕府にひときわ忠勤した重臣で、「吾妻鏡」に散見するところによって、いかに頼朝の信任が厚かったかを知ることができる[17]

海上氏の信仰であるが、彼らはこの地を領すると、まず海上八幡を崇敬し、社殿を営み神田を寄せて海上50余郷の総鎮守とした。鎌倉時代の武家信奉の神社は、特に関東にあって八幡宮が多い。これは頼朝が石清水八幡宮を勧請して、鎌倉鎮守鶴岡ヶ八幡とした関係から、麾下の武将が競って領内の八幡宮を盛んにし、あるいは勧請したためである。千葉氏は祖宗以来妙見信仰を奉じ、その一族は必ず城内邸地にその祠を置く慣習となっていたが、海上氏もその例に洩れない。本城町の海上氏館址には妙見宮が遺存して、字名も妙見の称となっている。妙見を氏神として、別に八幡宮を領内鎮守としたのは、鎌倉との関係によるものである。千葉氏は早くから時宗の熱心な帰依者であったが、後には一族に禅宗を信じる者も多くなったのも、鎌倉の影響によるものである。海上氏についても、その微証が認められる。岡野台等覚寺付近から発掘された金銅経筒は、海上胤方が悲母禅尼のため埋納したもので、彼の母も禅宗の帰依者であった事実を示している。胤方が禅宗を信奉していたかどうかは不明であるが、平安期に盛行し鎌倉時代に全く衰微した埋経思想が下総の一隅に遺っていたことがわかる[17]

社会不安に帰趨を失った農、庶民の心を捉え、その精神生活の拠りどころとなったのは、折しも勃興した新仏教の浄土思想であった。阿弥陀観音勢至の来迎三尊をはじめ、薬師地蔵等の現世利益の思想は村から村へ広まり、これらを安置する仏堂も各所に設けられ、人々はこれを中心としてを結ぶようになった。この講は村落結合の地域団体として、その後の村生活の改革向上に寄与するところが大であった。銚子に伝わる各種講のうち、念仏講等はこの時の名残りである。浄土教は鎌倉時代に入って法然一派の弥陀浄土極楽思想によってますます隆盛となり、下総各所に遺る在銘無銘の当該時代三尊は20数躯に達している。銚子にあっても野尻の東光寺が著しい例で、室町時代末期に真言宗に改宗するまでは、阿弥陀信仰の念仏道場としてこの地方の中心をなしていた。東光寺の支配下にあった真言宗円福寺も、同じく念仏道場として栄えていた。東光寺では、真言宗になってから江戸期にいたるもなお盛んに弥陀念仏が行われていた。当代の仏像として現存するものには、長塚の円勝寺に木造薬師如来像があり、鎌倉期の製作として優秀である。その頃の衆庶の信仰礼拝する薬師堂にあったものが、後世に遺留されて円勝寺に伝わったと見られる[17]

こうした信仰の所産として鎌倉中期から供養塔婆の造立が盛んとなり、武蔵の青石塔婆と並んで下総地方に銚子産硬砂岩の板碑が盛行したが、これは武士や土豪等の上層階級に止まった。次の室町時代末頃からは庶民の共同造立が現れてくる。この下総式板碑は鎌倉時代中頃から香取郡を中心に、北限は利根川沿いに印旛郡下に及び、また西は匝瑳郡にわたって分布している。海上・香取・印旛・東葛飾の各郡では、この石材を使った組立式石棺あるいは石槨が盛んに発掘されている。下総の古墳や板碑に使われている黒色の砂岩は、中生代白亜紀の生成で、黒生の銚子寄りの産である。かつての黒生瓦の原料砂土は、この岩石の風化土壌であった。石に恵まれない東下総一帯において、岩石に富む銚子半島は重要視され、早くからこの方面で採石されたものが舟や筏によって水辺沿いの東下総地帯に供給されていた。下総式板碑はこれら古墳の材石と全く同じもので、これを利用した可能性も高い。同じ砂岩でも赤褐色の軟砂岩(これも白亜紀砂岩でこの方は化石を伴う)は、後も盛んに発掘されていた。この石は、室町末期から江戸時代にかけて、五輪塔宝篋印塔に盛んに使われている。海上・香取・匝瑳の郡下各寺院に、その遺品は夥しくあって、当時の銚子にはこの石工に携わるものが相当あり、一つの大きな産業となっていた。かつては犬吠埼灯台の付近一帯からもこの石が切り出されていたが、昭和初め以降は風致保全のために禁止となり、諸所に採掘跡をのこすだけとなっている[17]

この時代の民衆信仰と銚子について特筆されることは、坂東三十三観音霊場が新設され、第27番札所に銚子の飯沼観音が指定されたことであった。その理由は、鎌倉幕府に重きをなした東氏・海上氏の支持するところであるのみならず、その推挙があったためである。飯沼観音に巡礼者や納経者が諸国から集まるようになると、門前町は次第に活況を呈し、まず発達したのは旅宿と遊女屋であった。そしてこれまで他からの影響感化をほとんど受けることがなかった水辺の村が、外来者による影響を受け、その生活の上にも変化を来たしていった。第26番の常陸国筑波清滝寺から十数里の行程であり、陸路によるも水路によるここに一泊を余儀なくされた。またここから第28番の滑川観音へも十数里と恰好の仲継宿であり、これが銚子市街の起源となった[17]

銚子の地形から、交通運輸の路線は水上と陸路の両者にあった。鹿島郡軽野あたりは下海上国に属し、この地への安是ノ海を渡る交通路が早くから開けていた。この交通路は野尻の渡津から古道が一つは西へ香取神宮から香取郡家の方面へ、他の一つは海上郡家(香取郡東庄町今郡)より海上国造の地(同郡旧古城村から大寺あたり)へ、更にもう一つは猿田から常世田を通って横根(旧飯岡町)を経て匝瑳郡家(旧八日市場市生尾から中村方面)へと通じていた。また一方、常陸国府石岡市)や板来(潮来)方面への水上交通も相当盛んであった。降って鎌倉時代に入ると、関東地方には鎌倉幕府直参や恩顧の武将豪族が割拠しており、いわゆるいざ鎌倉の時に馳せ参ずる鎌倉街道が放射状に各地に達していた。頼朝の忠臣千葉常胤の6男胤頼に始まる東氏と、その分流海上氏は永くこの地方を領有して鎌倉幕府譜代に功臣であり、鎌倉指しての往来も繁かった。当時この地方の鎌倉街道は、匝瑳・山武市原の3郡下を抜けて君津郡木更津市に至り、そこの渡海面と遺名ある津から金沢に渡って鎌倉に入っていた。市原から君津郡下にかけては、鎌倉みちと呼ぶ古道が断続しつつも何本か遺っており、八日市場・成東・東金・士気等の古い宿場を通って、それらの古道と連絡していた。垣根に長者伝説があり、四日市場の遺名があるのは、古い交通路に由縁している。次にこの時代に坂東三十三観音霊場が撰定され、銚子の飯沼観音が第27番札所に加えられたことは、当地方の交通史上に特筆される。これによって信仰庶民すなわち順礼者の往来が盛んになり、26番札所常陸筑波山大御堂から当地へ、当地から28番札所滑川観音への交通路が栄えた。この経路は多く水上を利用したが、物資の交流もまた遠隔地とはほとんど水路によっていた。当時輸送するものは、漁獲物と犬吠埼特産の銚子石が主たるものであり、他から仰ぐものは、衣食住の足らざるものという程度であった。水上交通機関としては古く独木舟が使われたが、歴史時代に入ってからは木造船技術の進歩に伴って、それぞれの用途による様々な船が造られるようになった。銚子石のような重量物は、小形のものは車や馬背によって運搬されたが、大形の場合は筏を組んでこれに載せて運んでいた。古墳石室の巨石や大型下総式板碑の分布が、利根川や印旛沼沿いの地帯に限られているのは、こうした物理的必然からの事情を反映するものである[17]

安是ノ海と呼ばれた入海時代の漁業が盛んであったことは、香取神宮に伝えられる古記が示している。漁獲物は、少なからざる部分が香取神宮関係の需要を充たしていた。まず特筆されるのは、神宮祭事と漁獲物の関係である。1207年建永2年)の神宮御下文によると、年中行事は90余度と見えており、これに附属の小祠や末社の祭祀を加算した場合、年間百数十度に及び、これらの祭典に要した供進した海の幸は莫大であった。10月30日の大饗祭に備える苴敷鮫・鮭ノ鳥羽盛・鯖ノすいり・筋子・肴大根等に見るも、往古の需要を偲ぶに足るが、またこれらが内海から銚子にかけての漁業を維持していた。香取神宮の大禰宜家は、その漁業権を掌握して子孫相伝の財産としていた。「香取文書」の1368年応安元年)の海夫註文に、飯沼くわうやの津(飯沼知行)・かきねの津(海上知行)がみえ、沿岸随所には漁夫居住の津があり、註文の対象となっていた。海夫は海人とも書き漁夫を指す。海夫の註文というのは、漁業の運上を香取神宮に祭典に料に納めさせたことである。当初は神宮の経費に充当するための運上であったが、次第にこれが大禰宜家の私有財産として世襲されるようになった。銚子の場合、飯沼荒野の漁業権は飯沼氏、垣根の漁業権は海上氏が知行していたが、その他の水上は香取神宮の大禰宜の領有であった。しかし、武士の勢力が増大するにしたがってこれはその手中に侵略収奪されるようになり、「金沢文庫古文書」は、これが武士の知行となったことを示している。それによれば、利根川沿岸を入海浦と呼び、その漁業権が千葉支族である東盛義の私有財産となっている。また1400年応永7年)の「香取文書」は、海上筑後入道が神宮漁業権横領を企つと、時の政府に訴えている。海上筑後入道とは、当時の本地方豪族で兼ねて円福寺別当職か、あるいは大檀那であるが、これは香取神宮と円福寺の間の勢力争いでもあった。この頃の円福寺は、海上氏最大の氏寺として半島最大の大地主であった。銚子の漁業は内海の豊富な漁獲に始まり、その拠点は飯沼・荒野と垣根より利根上流に至る沿岸にあった。怒濤さかまく外海に出漁して近海漁業の開拓に第一歩を記したのは、江戸時代初期の紀州漁民の東漸であった[17]

藤原定家

「和名類聚抄」の海上郡三前郷は、鎌倉時代に三崎荘という荘園となり、片岡常春荘官となって支配していた。これは殿下御領とあって、実際は関白近衛基通になっていたが、1186年(文治2年)3月12日年貢を納めないで催促されている。事由が争乱による農地疲弊のための不作か、荘官の横領によるかは明らかでない。片岡常春が支配したのは、このうち船木・横根であったが、三崎庄全体としては他に本城・松本・今宮・荒野・新生・飯沼・高神・小川戸・辺田から猿田、飯岡の一部にわたる一帯が包括されていた。そして頭書の2ヶ所も、後に片岡常春の手を離れて、全域が千葉常胤の領有に帰してからは、西方に東ノ庄(初めは橘庄といった)、半島部に三崎庄(後に海上庄とも呼ばれ両者は混称されている)と自ら2庄に分かれて対立し、一族が分領してこの地方に栄えたものである。すなわち東ノ庄の東氏、海上庄の海上氏、いずれも千葉常胤の裔である。「千葉系図」(鏑木本)に「文治元年頼朝卿下総国海上郡三崎庄五十五郷を常胤に賜う、是を以て胤頼に授く」とある。胤頼は常胤の第6子で、東氏・海上氏の祖である。ところが「明月記1199年正治元年)7月の条には、「下総国三崎庄を賜う。政所御下文種々の恩を蒙る。是奉公之本意也」と見えて、近衛基通の所領を納めて藤原定家に賜ったように記されている。邨岡良弼の「下総荘園考」は、これを「定家は将軍実朝卿の和歌の師なれば特に此事ありしか。胤朝も定家に学びて子孫世々歌学に深く、其後常縁に至りて所謂る古今伝授を奏上せしなど、必ず縁由ある事と知らる。」と考証している。次いで同書に「また建長二年の関白道家荘園処分記に、新御領下総国三崎庄地頭請所と見ゆ。この頃は再び関白家に属せしなり。香取神宮寛元元年の御造営記に、宣旨に依り作料を支配せる国中の庄々、並に済否の事。(中略)三崎庄八十斛、同加納横根八十斛、同加納須加三郷七十斛、先例を勤仕せず云々対捍とあるは、権門の私威を仮りて御造営の作料を出さざりし者と見ゆ」とあって、その変遷ははげしかった。「千学集」には、「海上庄は三郷なり、舟木郷千貫、本庄郷千貫、横根郷千貫、以上三千郷の所を海上庄といふ。本庄三郎常高、海上太郎常幹の弟なり。本庄郷に住する故、本庄殿と申也、此時海上三郷第一の人といはれし」とある。本庄郷は庄の中心地(本郷)で早くより開け、土地も広く人口も多かった。海上氏はこの本庄郷を基盤として栄え、室町時代にその一族支流が付近一帯の各地を分領して繁栄した。鎌倉時代から室町へかけての古文書を多く所蔵することにおいて円福寺は房総有数であるが、それはほとんど海上氏との特殊の連関を物語っている。寺領は本庄・辺田・高上等、同族の所領にわたり、半島沃地の相当広い面積を領有した大地主として、本庄氏が最も権威があった[17]

当地方はいち早く王政の地方制度衰微を見、武家の支配するところとなり、荘園の発達は著しかった。またこれを地方文化中心の移動という点から考えると、奈良朝まで上海上国造の居地として栄えた旧古城豊和両村の文化は、次いで旧橘村今郡の地域に移り、後に香取神宮を中心とする地帯に転じている。鎌倉時代に武家文化の余波は、海上庄を中心として銚子にも及んだが、東下総の中枢をなすまでには至らなかった。ただ飯沼観音の門前町と、本城の海上氏居館を中心とする武家屋敷・商家が、街衢らしい景観を呈していた。銚子が地方文化史上、特異な発展の緒に就いたのは江戸時代以降のことである。このように見れば、東下総の文化の中心は東漸を続けて、ようやく銚子地方に至ったといえる[17]

群雄割拠して天下の乱れた戦国時代は、房総にあっても各処で武将が鎬をけずって戦乱に明け暮れていた。その兵乱は、豊臣秀吉の全国統一前をもって最高潮に達し、海上・香取の地方にあっても遠く上総夷隅郡正木氏に侵略蹂躙されている。「海上郡誌」に「永禄九年里見義弘の家臣正木時忠下総を侵す。海上城(海上郡椎柴村)見広城(同郡鶴巻村)伊達城(同郡豊岡村)中島城(同郡船木村)共に陥落す。猿田神社亦兵火み係る」とあるのは、猿田神社社伝にも見える。正木時忠の下総侵略の具体的事実を示す史料として、「香取文書纂」巻五に収録されている香取神宮大禰宜置文が挙げられ、猿田神社の社殿が海上城攻略の折に焼かれたことが見える[17]

近世[編集]

安土桃山時代[編集]

海上氏は応仁の乱の頃まで有力な武将であったが、これより20〜30年経過する頃から次第に凋落していき、「千葉伝考記」や「鎌倉大草子」は飯沼落城のことを記している。すなわち1479年文明11年)正月、千葉孝胤太田道灌の戦に千葉側の諸城が相次いで落ちたが、その中に臼井・庁南と並んで「下総国飯沼も落城して海上備中守も亦降参したり」と「千葉伝考記」に見える。松戸市小金城は千葉氏の分流高城氏の拠ったところであるが、その旧記として伝わる「高城家由来記」には海上氏の名が散見し、室町末期の同地方争乱に参加していることが知られる。特に小田原城総攻撃には、北条方に馳せ参じて敗滅の運命を負ったが、これは宗家の千葉氏が籠城軍であった関係からも宿命的なものであった。千葉氏の滅亡については、諸書の伝えるところに異同があり、ただ小田原北条氏に加担していたことを主因とする点は一致している。鎌倉以来、下総各地に繁栄した千葉氏の宗家も、またその支流末葉も、多くはこの戦をもって没落した。永い間、銚子半島に権威を振った海上氏も、こうして終焉を告げた。その居城は船木村大字中島にあったが、城跡の畑に要害の小字名が伝えられている。「海上郡誌」に、中島城址として「天正十八年九月海上蔵人胤保の時、中島城落ち僅かに名残を止むるのみ。現今猶大手・馬場先・本丸跡及塹壕等粗々其形蹟を遺せども、皆耕地となれり」と記されている。落城の9月9日を領民は深く悲しみ、以来その日の節句を廃すと伝え、この地方の遺習となっている[17]

江戸時代[編集]

徳川家康

1590年天正18年)に入ると、秀吉は諸将に命じて小田原北条氏征伐の準備を進め、3月1日みずから兵を率いて京都を発した。この時、房総の諸城は相当の大軍をもって攻撃され、海上氏の拠った海上郡佐貫城も落城し、房総全土は完全に平定された。6月28日、秀吉は武蔵江戸を家康の城地と定め、北条氏の故地関東8国を与えた。家康は譜代の家臣に数万の兵を付して、この年8月1日江戸城に入った。海上氏の旧領地にあたる銚子半島は、飯沼を中心に付近2千石の地が松平外記伊昌の支配するところとなり、近隣は諸藩領地や旗下知行地の細かく錯綜する地となった。江戸時代初頭にかけ、銚子地方を領地した松平外記の初代、伊昌は徳川家康の関東領有とともに飯沼2千石を封ぜられたが、当初は香取市貝塚の浄土宗来迎寺を居館とし、後に飯沼陣屋に移ったと伝えられている。落城したばかりの飯沼城(館)は破壊毀損が激しく使用に耐えず、これが構築されるまでの滞在であった。松平外記は、初代伊昌より忠実・忠宜(伊燿)・忠益・忠明に至る5世、108年間にわたって当地方を領地した。松平外記家は代々信仰心に厚く、領内であった銚子を中心に寄進の名をとどめる遺物が多くのこされている。常世田薬師の棟札をはじめ、竜蔵権現(後の銚港神社)石鳥居や円福寺梵鐘等に寄進の名が見えるばかりでなく、円福寺所蔵の宝物中にも法華経8巻・金剛経・小経、以上各1巻と琥珀製珠数1連を収めた古雅な箱があり、そこにも忠実の孫が母(忠実の娘)の遺愛品を施入するということが記されている[17]

銚子が高崎藩領となったのは1717年享保2年)9月11日からで、以後明治に至るまで10世の間、150余年の長きに及んでいる。東北廻船の要地として軍事上、また経済上に等閑を許すことのできない銚子は、江戸の発展に伴って益々重要度を増したため、長く親藩の手に委ねられた。銚子領は飯沼・新生・本城・高神・荒野・小川戸・長塚・三崎・岡野台・垣根・四日市場・野尻・今宮・小舟木・後草・蛇園・見広の17か村であるが、高は5010石、僅かに5千石を出ていた。藩は飯沼に陣屋を置き、郡奉行1人と代官2人を主役として駐在させ、これらが治世に当たった。幕末の飯沼陣屋詰役人は、奉行永井市左衛門・代官片柳善之助・目付八木条平であった。これらの役人が、肝煎名主(1郷1名で郷中名主に触頭)や問屋年寄等を支配統轄した[17]

1591年(天正19年)、豊臣秀吉によって採られた六十六か国人掃国勢調査)を契機として、近世村落が発足した。本市に入っているこの時の村の多くは利根川沿いと丘陵地帯に分布して突端部に少ない。これらの村は明治の町村制実施以後、多くは大字となって残り、市内でも町名として遺存している。飯沼・高神・小川戸・辺田・三崎と半島突端部が他を圧して石高が多く、利根川沿いの長塚・柴崎等がこれに続いていた。これは人も多く、新田開発がよく行われていたためであるが、また水田が可能な低地に比較的恵まれていたことにもよる。新市域の各地が、野尻・高田・柴崎の各村を除いて微々たるものであることは、海上台地の丘陵性により、山林と畑地のみで米作適地に乏しかったためである。水に恵まれず旱害に悩まされた銚子の村々は、江戸時代に入ってから灌漑用水を設営したが、そのうち代表的なものは、長塚村の七ツ池である。七ツ池には一つ一つ名称があって、塚子森ノ溜池(岩ゼキの直下にあったが田地となっている)・岩ゼキ・ヒルモゼキ・中ゼキ・上ゼキ・江戸ゼキ・新池とそれぞれ呼ばれていた[17]

近世利根川水系の水運

幕府は開府早々に利根川の治水事業に着手した。慶長年間、関八州郡代であった伊奈備前守は命を受けて鋭意これに当たり、上流川俣付近の河道の変改と渡瀬川との連絡を成就し、次いで1621年元和7年)その子忠治がこれを継承し、赤堀川の新水路(旧栗橋町より東流して下総国境に至る利根本流)を開墾して1635年寛永12年)竣工した。ここにはじめて利根・渡良瀬の両川は東流して常陸川に入り、銚子に流れてくることとなった。利根川の治水は、江戸を水禍から救うと同時に、沿岸一帯に沃壤の水田を開拓したが、更に大きなことは、流路が太平洋に直結したため関東の人文地理を大きく変貌させたことであった。江戸と常陸・下総から東北地方との舟運が開け、物資の交流や人々の交通に著しい利便を与えるようになったためである。利根川沿いの下総だけでも、いたるところに河港都市が発達した。印旛の木材を積み出す木下河岸の発展、香取の物資を運び出す神崎滑河・佐原・笹川小見川各地の殷賑等が挙げられ、銚子もまたその便益を蒙ること最大なものであった[17]

葛飾北斎『常州牛堀』

諸藩による東北地方から江戸へ物資を輸送する海運は、慶長・元和期に始まり、その先駆は仙台藩相馬南部藩がこれに次ぐ。当時の航路は江戸まで直航するのではなく、海路は常陸の那珂湊までであった。那珂湊からは湖沼に入り、湖沼から北浦の北岸まで陸送、北浦から再び水路をとって利根川をさかのぼり、江戸に達した。俗に「外海廻り」と称される江戸直航は、まだ開拓期の域を出ていなかった。これが東廻り海運の第一段階である。したがって時折外海廻りを試みる船舶があり、銚子湊に入ることがあっても、その目的は避難・風待ち程度であった。入港停泊中沿岸の陸地に求めるものも、食糧・薪水の補給程度であった。第二段階は海路を銚子まで延ばし、銚子から利根川をさかのぼって江戸に達するのが、主たるルートになった時期である。荷物は川船に積み替えたが、第一段階と比較して積み替え回数が少なく、陸送部分もないため、はるかに能率的になった。このルートを俗に「内川廻り」と称した。なお、第一段階の湖沼・河川利用も内川廻りの一つである。銚子湊から川船に積み替えて江戸に陸送するためには、江戸までの輸送を引き受ける川船業者が必要となる。そしてそのような積み替え輸送を行うには、積み荷を一時陸揚げして保管する倉庫や荷役労働力が必要となる。さらに陸揚げ荷物の一部を放出する必要が生じた場合、それを取り扱う商人も必要である。したがって沿岸はこのような要求にこたえる地域でなければならず、銚子湊は単なる避難や待機のための掛り水域から、沿岸一体となって海運業務に機能するための、本格的な港へと前進しなければならない情勢下に置かれるようになった。銚子には次第に穀宿・廻船問屋・仲買・船宿・引船・川船等、各種の営業が成立するようになり、また荷役である諸藩自体も、蔵屋敷の設置等を行った。そして第三段階は外海廻りすなわち江戸直航である。外海廻りが東廻り海運の主たるルートとなっても、銚子から先の航路の安全性が確立されたわけではないため、内川廻りは衰微することなく併存していた。銚子湊が外海と内川の中継地として本格的に利用され、発展してくるのはこの後のことである。そして明治維新によって幕藩体制が崩壊するまで内川廻りの東廻り海運は銚子の基幹産業となっていた[19]

こうして仙台はじめ東北各地の米殻の江戸廻送の多くが江戸経由となり、また外洋廻りも必ず銚子に寄港したので、その賑わいと繁昌は一段と増すこととなった。承応年中には、仙台藩では荒野村に陣屋を置いて藩吏を駐在させている。相馬藩がここに廻米するようになったのは1631年(寛永8年)が始めである。幕末には、ここに仙台藩2棟・米沢藩1棟・磐城3棟・笠間藩1棟の米蔵が立ち並ぶという盛況であった。利根川の各地には高瀬船が置かれ、往来の船が絶え間なく行き交うようになった。飯沼に49艘、高田に38艘、野尻に41艘の高瀬船がひしめくという賑やかさで、問屋は飯沼は10余軒に及んだ。高瀬船は500から600俵積の小型から900俵の大型まであり、12反帆をあげて舟子4人から6人で帆走した。当時は江戸通いのこれらの船を指して「利根の直船」と呼んだ[17]

江戸日本橋

その頃銚子で漁獲した鮮魚は、常陸土浦・潮来・牛越から佐原、小見川、更に遡って利根中流の布佐布川・木下方面まで運んで売り、一部は木下から陸行して船橋まで急送した。その運搬方法は速力のはやい猪牙舟で夜通し運び、これを生漕と呼んだ。また鮮魚輸送用の「なま船」や「いけ船」があった。なま船は勢のよい船頭3人で力漕し、銚子を夕方出て明け方の布佐か布川の魚市に間に合わせるという速達船である。いけ船は生簀仕立で、主として夏季生魚を関宿経由の上、日本橋魚河岸へ運んだ。また陸上を持って行くものは、小荷駄馬かあるいは人足が徹夜で急行し、これを生駄賃または生担ぎと称した。この販路はあまり遠方へは達せず、八日市場・太田・成田(後の旭市)等までであった。銚子にはこうした船の他に、各醤油造家の持船もあり、年貢米を賃運送する百俵積の「ぼうちょう」船等もあって、非常に繁昌した。水運が開けたことで、諸物資の集散、水産物の中でも特に銚子に集まる干鰯等、江戸深川の問屋や関東各地への輸送に便利となった。川沿いに仙台米の御用蔵が建ち、廻船問屋もできて、仙台河岸の称が生まれたのもこのためである。一方、江戸深川には銚子専用の船着場ができて、銚子河岸の名をのこしている。市内浄国寺の檀家が旧深川区内に多いのは、この由縁があって銚子から移住した子孫が多いからである。1775年安永4年)の円福寺旧記に「道中取次、古座弥三郎・利根川問屋、野崎小平次」の名が見え、檀家有力者となっていることからも、この頃には利根川水運による大きな商業資本家が成長していたことがわかる。特に野崎小平次は後の和田町あたりに居住し、その富力は相当大きなものであった。また最も活況を呈したのは、大消費地の江戸と直結することができた造醤油屋仲間であった。関東各地への製品の輸送、生産原料の移入等、いずれもこの水運によって能率をあげ、利得するところは甚大であった[17]

利根川の高瀬船

当時の輸送船は高瀬船で、普通1200樽を積載して利根川を遡行、関宿から江戸川を下り、所要数3日をもって江戸深川に入った。急を要する場合は、途中の布佐あるいは木下に陸揚げして馬によって江戸へ運んだ。木下からの陸路は陸前浜街道我孫子松戸)によらず白井・船橋・行徳の最短コースをとるのが普通であった。したがってこの道は物資ばかりでなく、東下総及び常陸水郷各地と江戸を結ぶ枢要な交通路となっていた。木下宿は船宿として繁栄し、銚子屋の看板をあげた大きな旅館があって、銚子との密接な関係を偲ばせている。香取・鹿島から銚子へ来遊した幾多の文人墨客は、多くはここに宿泊するか、またここから乗船した。一方、利根水路の変更がもたらした自然の大変化に、銚子川口の浅くなったことが挙げられる。この大河の運ぶ莫大な土砂が、河底を浅くし洲をつくり、ひいては流路を変更したりなどして、河船交通を変貌させた。このことから、江戸の初期には、かなり上流まで大きな船が遡行していたことがわかる[17]

平手造酒

利根川水運の発達は必然的に、沿岸諸所の地方物資の集散する町村を河港都市へと育てていった。佐原・小見川・笹川はその最たるもので、これに漁港であり商工業も盛んな銚子や水産物の集散に栄える飯岡等が加わり、東下総に連鎖のごとく河港都市が発達を遂げた。これらの諸都市はおのずから地方経済の一単位をなすに至り、諸国からの商人や出稼人の往来が激しい中で、いつしか任侠無頼の徒、いわゆる博徒渡世の温床を醸成していった。佐原喜三郎笹川繁蔵・銚子五郎蔵・飯岡助五郎・勢力富五郎等、いずれもそれぞれの地を縄張りとして名を売った博徒の親分である。特に銚子は、絶えず飯沼観音の縁日があり、人の出入りが最も激しく、したがって金も動いたことで、博徒の恰好の稼ぎ場所であった。円福寺本堂には、青銅製の一斗入り大茶釜と竈があり、飯岡助五郎と銚子五郎蔵が献納の銘が鋳出されている[17]

利根川河口の北岸は鹿島灘砂浜の先端が一大長堤をなしており、南側は一の島・ニノ島を主として一帯に岩礁が隠見しているのに加え、太平洋の怒濤がさかまいて利根の流水と激することから、澪筋も変動が激しく、難破転覆の惨事が絶えなかった。「銚子川口てんでんしのぎ」の俚言はこれから起こったもので、他地方から来た不馴れな船舶は、専ら水先案内人を雇って出入の安全を期した。また、仙台藩では自藩回船の安全のため、千人塚南東の丘陵に汐時袋を設けたことがある。これより先、1698年元禄11年)には江戸日本橋馬喰町の石塚伝四郎が、銚子新生と荒野の村境から半島を横断して高神村名洗に至る堀割工事を出願している。利根川内と太平洋を結ぶ運河開墾であるが、その目的は、北東の強風を受け河口出入が危険なため、別に静穏な港口をつくって船舶の安全を図るためであった。後に着手の運びとなったが、成功を見ることなく中止されている。滑川はその時の開墾工事の痕跡である。運河が不可能とわかってからは、内港施設として和田川及び唐子川が重視され、これが永く河港としての役割を果たしている。両者共に新川と呼ばれ、主として河船の避難と荷役を目的としていた。創設は前者が寛文・延宝頃、後者が江戸末期に近い頃である。常時外洋往来のいわゆる五百石船が碇泊したのは、殆ど河口を遡る本城・松本が多く、両地はこれらの来泊船や地元の漁船で賑わった。松本の後方にそびえる海上台地の小高い地点を加曽山と呼ぶが、その頃は老木もあって船の好目標となっていた。彼らはこれを崇敬し、同町の熊野神社境内には、「加曽山」松本浦船手と刻した大きな石祠がその名残りとして存在している。一方、沿岸漁業の小漁船は飯貝根・和田川等、その他の沿岸に発着していた[17]

昇亭北寿『下総銚子浦鰹釣舟之図』

阿波の沖をかすめて北上する黒潮は、紀州熊野灘より伊豆半島の先端を流れて房総に至る。その時速は1浬、黒潮に乗る民族移動は遼遠の太初にさかのぼる。以来、千有余年の間、数次にわたる大小の移動があって、最後に江戸時代の紀州人東国進出に及ぶ。特に銚子には集団したが、これより以前に伊豆半島へ、また房総半島へと移り来ていた。しかし至便佳良の地は既に先来の紀州人が占拠しており、残されたのは怒涛岩礁に砕け散る銚子半島だけであった。こうして後続部隊はここに居を据え、ここを活動の舞台とした。銚子は紀州人に残された最後の入植地であった。銚子に入植した紀州人は、この地の漁業と醤油醸造と商業に貢献したが、これは後に至っても銚子発展の基盤をなしている。紀州人が最初銚子半島に来たのは、文禄慶長の頃であった。目的は大抵漁業のためで、他の商売のためのものは稀である。降って元和・寛永の頃から集団的にやって来て、釣漁(カツオその他)をしたり、任せ網と称する方法で漁労をした。この頃は専ら漁獲物があればすぐ帰ったが、あるいは止まって漁を更に続け、干鰯を造ったりした。大体において春来て秋帰るという方法を繰り返していたが、郷里と銚子との往復が次第に頻繁になるに従って、銚子の地に移住する者も増えてきた。1650年慶安3年)には、摂州西ノ宮の漁夫惣左衛門が船子67人を率いて来た事があり、1652年承応元年)には飯貝根に多数の商店ができた。翌年には紀州の青野五右衛門が、漁夫多数を引き連れて来てカツオ漁等の漁をした。寛文、延宝の頃には、既にカツオ船が50艘を数えた。この頃の漁の方法は任せ網を用いたが、次第に八手網を用いるようになっていった[17]

歌川広重『下総銚子の濱外浦』

当初は外浦長崎・外川・犬若に盛んであった漁業は、後には川口の飯貝根・飯沼に移っていったが、この外浦各地の発展は、外川開発者である崎山次郎右衛門の力によるものである。紀州日高郡由良の出身で、後に有田郡広村に住み、寛永・正保の頃浦づたいに漁業をしつつ房総半島に来て、1656年明暦2年)飯沼村に移り住んだ。後に今宮村に移り、任せ網の漁法を始め、1658年万治元年)に高神村外川浦を開き、1661年(寛文元年)この地へ移住した。彼が第一に力を注いだのが築港事業であり、僅か6年間に外川築港を完成させている。次いで外川市街の区割を決定し、西方寺を建立し、自己の邸宅を構え、大井戸を掘削し、干鰯場を開き、漁港としての設備を全て具備するに至り、名実共に関東一の外川港を実現した。その間僅か20年である。彼は郷国から多くの漁夫を呼び寄せ、漁業と海運を営んで巨富を積んだ。このため当時の外川浦は千戸以上に達し、その築港と市街整備は「外川千軒大繁盛」の口碑をのこしている。彼が開基となって建立した西方寺は廃絶し、その本尊阿弥陀如来像と崎山夫妻木像、彼の事績を記した「外川由来記」1巻は、共に末寺であった宝満寺に移されていたが、太平洋戦争の空襲によって炎上亡失している。崎山が銚子で成功活躍したことは郷里紀州に喧伝されて異常な刺激を与え、紀州人の銚子出稼熱をあおった。漁夫や商人は陸続として来銚し、後に醤油醸造を興して財を成す者も多く、富裕商人の大部分は彼らが占めることとなった。銚子の商店街には、湯浅屋・広屋・紀ノ国屋あるいは印南商店・美呂津薬局等、紀州地名ゆかりの名が多い。いずれも父祖出身地を示すもので、銚子という都市の性格を大きく反映している。紀州人の分布は、旧時代の西銚子町・銚子町・本銚子町から高神村外川にかけて密で、豊浦村・海上村等の西部農村地帯に疎である。漁業に商工に、この水辺地帯は紀州人の屈強の入植地であった[17]

江戸深川万年橋

銚子の漁業は、江戸時代に入ってから紀州漁民の開発によって勃興したが、江戸時代を通じて銚子の漁業を支えたのはイワシ漁業であった。初期のイワシ漁業に用いられた網は任せ網であったが、その後間もなく八手網に替わった。イワシは肥料にするのが主目的であって、食用は微々たるものでしかなかった。肥料としては、そのまま乾燥させた干鰯、煮て圧搾した〆粕に作られた。〆粕製造過程では灯火用の魚油がとれた。干鰯は近世農業の最高の肥料であり、全国先進地帯の需要が増大して、当時の成長産業となっていた[19]。深川の高橋河岸に銚子場と俗称するところがあって、そこに大きな干鰯問屋岩出屋があったことから、江戸へ莫大な量が移出されていたと見られる。イワシを乾燥するには広い面積の土地を必要とするが、この干鰯場は主として飯貝根から黒生等の海岸地帯が使用され、後に至っても同地域は、イワシの煮干や魚粕等の乾燥加工が盛んである。銚子の豪商宮本屋太左衛門・行方屋庄次郎・柳屋仁平次・田中玄蕃の連名の「魚粕並干鰯直段付」と題した文書が残されているが、連名の4人はいずれもその頃の銚子経済界を支配した豪商で、宮本屋・行方屋は干鰯その他海産物の大問屋、柳・田中は後の造醤油の大店である。これは醤油醸造の巨商となる以前、当時最も有望株であった干鰯事業に投資していたことがわかる。田中玄蕃はこのため、1695年(元禄8年)9月より伊勢地浦に船着場の普請工事を始め、同海岸の開発をとげ干鰯場を設けている。玄蕃はヒゲタ醤油によって産をなしたというよりも、干鰯産業による金融資本の蓄積の方が大であり、醤油による家業の盛運は江戸中期の文化・文政以後に属する。黒生浦は元禄の頃、北川治郎右衛門によって開発されているが、これも目的は干鰯事業にあった。上記の海岸一帯は当時干鰯景気に繁昌し、紀州人の相次ぐ来銚はこの干鰯ラッシュに浮かされたものでもあった[17]

イワシは回遊性の魚であるから、その漁況には何年かの間隔で豊凶の繰り返しがある。江戸時代の銚子のイワシ漁業も、漁況の豊凶による盛衰を繰り返していた。最も衰えたのは明和から安永の間で、それまで銚子最大のイワシ漁業基地として、「外川千軒」の繁栄を謳歌していた外川浦では、50張余もあった八手網が僅か3張を残すだけとなり、ほとんどの網方や商人が転退してしまった。崎山次郎右衛門の2代目が、郷里に引き揚げざるを得なくなったのもこのときのことである。しかしこの不漁も寛政年間には漸次回復に向かい、文化年間には飯沼村の八手網は約70張を数えるようになり、外川浦もまた復興してきた。そして弘化安政の頃に江戸時代最後の豊漁期を迎え、1864年元治元年)には大漁節が生まれるような豊漁をみることとなった。江戸時代の銚子では、イワシのほかにもカツオ漁業やクジラ漁業、あるいは小漁に属する漁船には縄船や猪牙舟の名がみられ、タイヒラメホウボウ等が漁獲されていた。これらは釣漁であるが、そのほか雑網漁業も行われていた。このほかに利根川における内水面漁業も行われていた。その主なものはサケ漁とスズキ漁であったが、シラウオハゼウナギ漁等も行われていた[19]

銚子組造醤油仲間

海運・漁業と並ぶもう一つの大きな産業は醤油醸造である。銚子醤油の歴史は、伝説によれば1616年(元和2年)の江戸時代初頭にさかのぼる。この地の里正であった田中玄蕃が、摂津国西ノ宮出身の江戸豪商真宜九郎右衛門の教示により、溜醤油の醸造をはじめたのが起こりである。真宜は造酒と海産物問屋をもって巨富を積んでおり、干鰯その他の海産物取引の関係上、しばしば銚子に来て、当初は干鰯等で田中玄蕃と接触交渉を持つようになった。こうして玄蕃の創始したのが、ヒゲタ醤油である。これより30年程遅れて1645年(正保2年)、紀州広村の濱口家が荒野村に来て、同じく醤油醸造を始めたと伝えられている。すなわちヤマサ醤油がこれである[17]。濱口は当初、高神村の外川で雑貨商を営んでいたが、荒野村に移り、白幡明神の東隣に借地して店を構えた。荒野村での開業当初は味噌・醤油・大豆小麦や、上方からの下り物を、江戸から仕入れて銚子周辺に販売していた。なお荒野村濱口家の周囲には同じ紀伊国出身の醤油醸造業者や廻船業者が軒を並べていた[4]。「濱口梧陵伝」を見ると、1700年(元禄13年)に濱口知直が銚子店の開祖となって初代儀兵衛を名乗るとあり、本格的な事業はこの時に始まる。広村は本邦醤油史上に最も早く見える湯浅醤油の地に隣接するところで、その技はすぐれたものがあった。次いで銚子に来た岩崎重次郎も、ヤマジュウ醤油をもって知られた。両者ともに広屋を屋号とし、玄蕃と並んで銚子組造醤油仲間に重きをなした。1754年(宝暦4年)には銚子醤油組合ができ、広屋儀兵衛、広屋重兵衛、田中玄蕃、田中吉之丞、広屋庄右衛門、飯田久四郎、塚原吉兵衛、広屋理兵衛、宮原屋太郎富岡屋清兵衛、滑川彦右衛門の11人の組合員と、6733石の醸造高を有した。これが20数年後の1780年(安永9年)には、業者18軒、醸造高8949石に上昇、発展の緒についた。本国の紀州で衰微した湯浅醤油の正統が銚子に繁栄結集した光景は、他に類例を見ない。関東各地の醤油醸造は、銚子と相前後してその緒についたものである[17]。銚子は醤油醸造に適した自然条件を備えており、(1)夏期の高い湿度が香気の発散を防いで芳香を保つ、(2)夏涼しく冬暖かい温和な気候が麹菌の活動を平準にして有害な雑菌の繁殖を防ぎ、諸味の成熟を早める、(3)水質が石灰水を含む硬質である、(4)空気が清澄でオゾンをふくみ、雑菌を減じて醤油菌の活動を助ける、といった利点があった。また、利根川河口に位置する銚子は、原料調達にも向いていた。流域の常陸・下総地方は大豆や小麦の有力な産地であり、その輸送が水運によって容易であった。また、製品を江戸に運ぶにも、鉄道輸送が本格化するまでは利根川の舟運が利用された。幕末の1884年(元治元年)には、銚子のヤマサ・ヒゲタ・ヤマジュウ・ジガミサが幕府から「最上醤油」の称号を得た。これは、百数十年に及ぶ経営や技術の蓄積の成果であり、この最上醤油が江戸・東京市場で有利な位置をしめることになった[4]

ヒゲタ醤油商標

江戸時代末期の銚子経済界を代表した田中玄蕃は、ヒゲタ醤油の醸造元として早くから巨富を積み、その存在は諸国にまで広く知れ渡っていた。歴代の領主もこれを重視し、特に幕末高崎藩では経済上の支援を少なからず仰ぎ、御用達頭取である彼に、苗字帯刀はもとより御祐筆次席格・非常鑓御免の特別待遇を与えている。庄屋・名主あるいは郷士といえども稀であり、封建時代の地方町人としては最高の身分地位が保証されていた。当時の銚子庶民の間には、「銚子でサマの付くのは観音様に玄蕃様」と口ずさまれたほどである。初代は1556年弘治2年)、また2代は1561年永禄4年)の没であり、その頃から基礎が出来上がった富農である。ちょうどその前後は、海上氏の庇護によって半島最大の大地主となっていた円福寺の力が、少しずつ崩壊していく時代であった。それが少なからずこの新興富農に移動し、次いで干鰯産業や江戸の興隆に順応した企業の醤油醸造により、揺るぎない商業資本を蓄積していった。中興は4世(寛文5年没)か5世(享保12年没)あたりである。一介の地方豪農が醤油企業を創業して、遂に江戸時代関東醤油の覇者となったことは、房総産業史上特筆すべきことである。1717年(享保2年)には今宮村に醸造所を増設するほど発展しているが、次いで分家田中吉之丞に、醸造石高の中から316石を割いて分与し、更に今宮醸造所と醸造高1316石を、別家の常右衛門に分けている。吉之丞家は明治になる前に廃業したが、一時は本家と並んで栄えていた。9世と10世は同家の最盛時代の当主であった。9世玄蕃は名を通喬といい、成田村(後の旭市)の旧家西村家から入って養嗣子となった人で、田中家を隆盛に導いた功労者である。10世玄蕃は通喬の長子で、幕末多難の折、よく家業を経営して盛運の維持に努めた。百略と号し、江戸文雅の士とも交遊が多かった。同家に伝わる旧記中、「先代集」(5代繁貞首記の写がある)と「後代記」及び「玄蕃日記」95冊は、銚子郷土史料としてばかりでなく、日本の近世商業史研究の上からも貴重な資料である。特に「玄蕃日記」は、10世貞矩と11世憲章がその家を治めた61年間にわたり、父子継承して続けられてきた日記で、気象にはじまり家事のメモから社会の事象まで、1日欠かさず書きとめられている。実に1812年(文化9年)から1872年(明治5年)に及んでいる膨大な記録で、地方庶民史料としては全国的にも珍稀なものである。明治・大正年代にかけての当主、12世玄蕃(幼名直太郎・のち直衛・また謙蔵と称す)もよく家業を守り、特に醤油の歴史に興味をもち、「醤油沿革史」や「醤院座神・高倍神考」等の好書を金兆子の名のもとに編纂発行している[17]

正保・寛文期に始まった港湾都市・産業都市への歩みは、元禄期に醤油醸造の産業化という新しい要素を加えて、享保に至るまでには、既に発展の一段階を達成していた。およそ半世紀を要したということにはなるが、「先代集」は、松平外記伊昌が入部した天正・文禄期の飯沼村の百姓数を27軒とし、それが1720年(享保5年)には「飯沼村家数千四百九拾弐軒、人数合六千八百九人」になったことを記している。そして「近代当地の繁昌なり」と言い切っている。このころ、城下でもない地方の村で、7000人近い人口を有するところは、関東では他になかった。しかも飯沼村は銚子の一部分でしかなかった。そして銚子の発展はこの時期だけにとどまらない。海運・漁業・醤油に関連して、その他の商工業も盛んになり、都市化が進展して、文化・文政期に最盛期に達する。この時期、飯沼・新生・荒野・今宮の4村だけで、人口は1万3千余を数え、連続した市街地を形成して、殷賑を極めるようになる。1841年天保12年)、銚子に遊んだ漢学者安川柳渓は、今宮付近から飯沼観音に至る道筋を「市中の賑ひ、あきびとの見世棚、すき間もなくうちつづき、十まちばかりも来つらんが」と描写し、「市中」という表現をしている。戦前の旧市域でみれば優に2万人を超える人々が生活していた。したがって前述の業種だけでなく、そのほかにもこれらの人々の衣食住や健康・娯楽あるいは教養・文化を支える様々な業種があった。飯沼村には、1752年(宝暦2年)の時点で既に13人の医師がいた。当時飯沼村の人口は7409人であったから、医師1人当たりの人口は570人である。1956年(昭和31年)の全国統計では人口834人に対して医師1人の割合であるから、このことと比べると、江戸時代の銚子の産業構造は、かなり高度化したものであったことがわかる[19]

銚子花街の濫觴は、飯沼観音を中心として発生した札所順礼相手の宿屋や茶店にある。銚子が港として繁栄の緒についたのは室町末期のことで、それまでは他国と頻繁な交流は無かった。ただ鎌倉時代から坂東札所の一つとなった飯沼観音に参詣する信仰順礼者のみが、わずかに接する他国人であった。この順礼者のために発生した門前町の茶店・旅籠屋等に、いつとなく出来あがった私娼窟が、田中特飲街(赤線区域)の前身で、いわゆる茶店女や飯盛女に端を発するものである。次いで室町末期、西国の漁夫の出稼ぎにより漁港としての姿相を呈するようになり、江戸期に入って干鰯場の黄金時代に、笠上に遊女屋が発生した。次いで和田堀に諸国漁船の碇泊が繁くなった元禄年中、和田町に船乗り相手の売女屋が出来た。諸国いずれの港にも遊女や売女にあるもので、その始めは衣類洗濯をなす女からであった。旧記によると、正徳の初め笠上付近の塩場に遊女屋があったが、これは江戸中期に至って本城町に移っている。外川繁昌と干鰯景気の所産である。利根川の水運が開け、東北米の廻送や銚子の水産物・醤油等によって江戸と緊密に結びつくようになると、本城・松岸が発展繁昌し、両地に今までなかった立派な妓楼が建つようになった。その地は本城の字下町と呼ばれる地で、5軒の遊女屋に25軒の引手茶屋が軒を並べていた。その遊興制度が引手茶屋を伴っているのは、江戸の影響感化による。この制は松岸遊廓も同様であった。本城遊廓の衰運の最大要因は、1840年(天保11年)・1849年(嘉永2年)・1861年文久元年)と3たび火災に罹ったことである。このため幕末の慶応年間に至るもなおかつてのように復興せず、維新後1872年(明治5年)9月の法律改正による貸座敷営業となり、1879年(明治10年)廃業の諭旨を受けるに及んでいよいよ振るわなくなった。結局転業の困難から3年また5年と延期を重ね、1912年大正元年)12月、全廃となった。本城と並び栄えた松岸遊廓は、その開創が本城よりやや古い。この方は明治・大正に及んでも、なお全国に知られて昭和まで存続したが、太平洋戦争の勃発と同時に廃業し、開新楼・大坂屋等の高楼は軍工場の工員寮に徴用された。1889年(明治22年)6月、千葉県知事宛に提出した松岸遊廓の営業規約には、貸座敷5軒・引手茶屋15軒の名が見える。この頃から大正年代へかけての松岸遊廓は、大利根の流れに映える不夜城の灯火と野趣に満ちた大漁節をもって、その名は広く全国に喧伝されていた[17]

怒濤さかまき暗礁乱立する銚子近海は、一朝暴風雨となれば航行の船舶は頗る危険にさらされ、難破するものが絶えなかった。難破船の中には少なからず外国船も入っており、その遺物が市内に存在している。異国船婦人像は、江戸時代中期あたりに、沖合はるか人知れず難破沈没した外国船から脱落し、海岸に漂着して拾い上げられたものである。円福寺本坊の前庭一隅に「竜王殿」と呼ぶ小堂に安置されている大きな外国婦人の立像がそれである。この像はかつて観音堂裏の花街、田中町一帯に住む娘子の信仰を一手にあつめていた。異国船の銚子漂着で最も古い記録は、円福寺所在の田中玄蕃第9世「皓岳清器居士」墓銘に見える1798年(寛政10年)琉球商船の難破である。彼は高崎藩の命によってこの難船を処置し、藩侯から御褒めの言葉を賜っている。同墓銘には、つづいて1807年(文化4年)清国商船が漂着し、乗組員88人が滞銚したことを記録している。この時は彼の嗣子第10世玄蕃の貞矩がこれを処置し、同様に藩侯の嘉賞を受けている。この時銚子陣屋では彼ら一同を手厚く扱い、後に長崎へ送り届けている。また滞銚中、2名の乗組員が病没したが、これも懇ろに威徳寺に葬って墓石を建立した[17]

江戸との商取引関係が深く、しかも富裕な商人が多かった銚子と佐原には、江戸座俳諧との密接なつながりが出来上がっていった。「新撰俳諧年表」に基づいて両地の俳人を拾い出すと、寛政頃から文化・文政前後にかけて多くの俳人が挙げられ、東下総において最も盛んなところであった。銚子の俳人であった存亜は無物庵と号し、常陸から両総にかけて多くの門弟があり、その流は明治まで続いた。桂丸(銚子の豪商行方屋、大里庄治郎家第6代で名は富文)も銚子俳諧の興隆に功績があった指導者である。1808年(文化5年)5月、一茶来銚の手引や世話をしたのも彼で、特に佐原の恒丸と共に、東下総の俳諧に貢献するところが少なくなかった。銚子の豊かな商家の主人や妻女達の間には蕉風の俳諧が普及し、大きな文芸グループを形成していた。田中と野崎の両豪商が俳諧に親しみ、江戸の豪商の俳人仲間との交流があったことは、円福寺境内のほととぎすの句碑からもわかる。それには、「ほととぎす銚子は国のとっぱずれ」とあって、俳趣味の江戸豪商夫妻が、この地に遊んで詠んだ句であることを示している。この句は、銚子を代表するものとして人口に膾炙している。銚子の俳人は蕉門の流れを汲む鳥酔の門下ないしその系統が多かった。その直流の松露庵社中は盛大であり、後には松露庵6・7世は銚子の俳人の占めるところとなった。柳居・鳥酔の衣鉢をつぐ松露庵の末流は銚子の俳人達に継承されて多くの門弟を育成し、俳諧社中が出来上がっており、江戸末期に及んでもなお銚子の俳諧は衰微していなかった。市内各寺院の墓地には、庶民の墓石に辞世の句、歌を刻したものが少なからずある。これは銚子が他の地方町村とは異なり、江戸期の文化水準が高かったことを示しているが、それは商業をもって江戸と密接な関係があったからである。俳諧に比べて和歌は広く庶民には親しまれなかったが、市内の寺院に散在する墓石に刻された辞世の和歌や歌碑がいくつかあって、銚子の庶民がこの方面にも心をよせ、そうした文芸を楽しむ余裕をもっていたことを示している。銚子はまた狂歌の盛んな土地でもあった。江戸の狂歌趣味が早くから移入され、特に1830年(文政13年)十返舎一九の来訪があってから、さらに流行した。廻船問屋の十五屋が肝入りで狂歌会を催し、その伝統は明治・大正にまで及んでいる。明治に入ってからは情歌の称が起こって神社奉納の歌会がしばしば催されている。文化・文政の頃からは、江戸在住の文人墨客が銚子へ相次いで来遊し、和歌に俳諧に漢詩にそれぞれ雅趣を述べている。これらの作品はいずれもこの地の壮大な海洋と波濤の美を讃美したもので、多くの雅人を遊山の旅に送り出す、この時代の泰平を反映するものである。これが銚子の文化に寄与し、この地の文運を高めた効果は大きかった[17]

江戸時代の寺子屋

銚子地方の幕末の寺子屋は、「海上郡誌」によると相当な数があり、多くの寺子屋師匠が列挙されている。石毛胖庵・喜助・岩三郎は、父子2代にわたって寺子屋教育に専心した一家で、特に岩三郎は海上村垣根に阿弥陀院に1874年(明治7年)4月長者学舎を開設し、同年12月垣根学舎と改称し、地方子弟120名を集めて教育に従事した。同学舎は1876年(明治9年)3月に垣根学校と改名し、名実ともに私立小学校の先駆をなしている。これは胖庵の開いた寺子屋を継承して、その子が明治維新後の学制に則る学校に改めたものであるが、これより先、幕末から明治へかけ私塾として広く知られたものに、守学塾(銚子町新生)と懐徳塾(海上村柴崎)が挙げられる。守学塾は1846年(弘化3年)に宮内嘉長が開創したもので、経義詩文を講じ、斉家治国の人道を説いて人材を養成することを主眼とした。懐徳塾は1857年(安政4年)正月、海上八幡宮の祠官松本胤雄が創設した私塾で、尊王愛国・敬神崇祖・修身斉家等を綱領とし、専ら幕末から明治へかけての時流に投じるような人物を養成することに努めた。また一方には、高崎藩士が銚子に来て歓徴舎を開いた。銚子における洋学塾として最も早いもので、銚子に洋学思想が早くから流れこんだことがわかる。市内の諸寺院には「筆子中」あるいは「筆弟中」と刻した墓、また神社境内に建てられた頒徳碑等が遺存している。また銚子では幕末の頃、世情険悪を反映して、剣道柔道が盛んであった。銚子の信太鉄之丞は剣客として聞こえ、外川の石黒某は石黒流柔道をもって門人多数を養成していた[17]

幕府軍艦隊(左端が美加保丸)

千葉県の生んだ世界的測量学者、佐原の伊能忠敬は幕府の測量方として、1801年(寛政13年)7月18日、房州から九十九里沿岸を測量しながら銚子に入った。田中玄蕃の分家、吉之丞のもとに宿泊して日夜測量に従事し、犬若で待望の富士山実測を果たした。忠敬の測量が終わり、はじめて本邦の科学的地図が出来上がって半世紀、幕末の異国船がしきりに来訪し、国防の急務がしきりに叫ばれるようになった。間もなく内外の風雲いよいよ急を告げる情勢に、1861年(文久元年)、高崎藩は幕府の命をうけて、その領地である銚子海岸の武備を固めることとなり、領民に協力を求めた。田中玄蕃・濱口儀兵衛・岩崎重次郎は代官所から防備についての労役等を命じられている。一方、藩は寺田五右衛門宗有に命じて、川口その他の沿岸に砲台12座を設け、砲術訓練を行い一朝有事の際の備えを固めた。1862年(文久2年)10月2日には対岸の常陸原に異国船の乗り上げがあり、翌年4月22日には外川浦に見慣れぬ外国船現るとの情報が、銚子の人々を驚かしている。陣屋からは即刻兵がくり出されて、川口・荒野・今宮下がかためられた。翌々年の暮にも、常陸原に異国船の難破事件が突発している。この時も陣屋では直ちに警備のため、川口・今宮の両所へ兵を出している。1861年(文久元年)正月には、水戸の浪士が天狗党を組織し下総・常陸に横行、財物を掠奪した。これを筑波山事件、また天狗騒動と俗称するが、このため数年間銚子地方の蒙った実害は、金殻を強請された富裕豪農はじめ、物価高騰のため一般庶民が難渋する等、甚大なるものがあった。1868年(慶応4年)8月には、北海に逃亡を企てた幕府軍艦数隻のうち、美加保丸が飄風のために銚子黒生海岸に難破、その乗員中13名の死者を出し、他は逃亡という事件が起こった。銚子陣屋では多数の脱艦兵逃亡によって周章狼狽し、窮状を鎮将府に訴えている。美加保丸難破から間もなく、9月6日には播州御用船竜野丸が、少し離れた北方の二間の沖に坐礁破船した。この船に乗り込んでいた国木田専八が、文豪国木田独歩の父となる人であった。この年10月、水戸藩脱走の暴徒が来銚し、富商を脅迫しての金品奪取、また宝満寺娘を人質に拉致しての身代金強奪等の狼藉を働き、銚子は物情騒然たる有様となった(銚子事変)。この一隊は間もなく捕縛されて東京に送られ、銚子を混乱におとし入れた幕末最後の騒擾となった[17]

濱口梧陵

第7代濱口儀兵衛(濱口梧陵)は、幕末から明治へかけての社会変動期にあって、稀有の人格を完成した紳商であった。1820年(文政3年)6月15日、分家濱口七右衛門の長子として紀州に生まれ、1831年(天保2年)9月、12歳で本家の養嗣子となり、幼名七太を儀太と改めた。そして初めて江戸日本橋小網町の濱口家(吉右衛門)を経て銚子店に移り、家業を見習うこととなった。これより20歳で結婚するまで、数年間銚子に滞在し読書・修養に努め、特に剣道を今宮村目出度町の寛竹に学んだ。後年佐久間象山・三宅艮斎・勝海舟陸奥宗光福沢諭吉等の、当時最もすぐれた学者や経世家と親交を結んだが、その基礎はこの時代に築かれたものである。1854年(安政元年)11月4日広村大津波に際して彼がとった沈着適切の処置が多くの人命を救い、またその後の防波堤築造のため後顧の憂いを絶った事績は、小泉八雲がその著の中で「生ける神」として紹介し世界に知られ、また戦前の国定教科書に採録された。梧陵の銚子における特筆すべき事績は、コレラ防疫に対する処置である。1858年(安政5年)、コレラが流行し、江戸を中心として猖獗を極めていた時、江戸にいた梧陵は銚子荒野村の洋方医関寛斎を当時の大家である林洞海・三宅艮斎の両氏に紹介し、予防及び治療法の研究に関して便宜を図った。寛斎は臨床的にコレラ患者の治療法を学び、また実地について各方面より予防法を研究し、予防薬及び治療に関する薬品・書籍等を購入して銚子に帰った。銚子は既にコレラ流行地となっていたが、寛斎は江戸で学んだ治療及び予防法を応用し、全力を挙げてこの撲滅に従事した。このため、銚子地方はコレラ大流行を見ることはなかった。明治新政府になってからは駅逓頭に任じられ、のち和歌山県大参事・同県会議長等を務めて地方行政に尽くした。1884年(明治17年)5月、欧米視察のため渡米したが、翌年4月21日ニューヨークの客舎に病没した。銚子には1897年(明治30年)1月、勝安房題額・重野安繹撰の紀徳碑が営まれた[17]

近代[編集]

明治・大正時代[編集]

川瀬巴水『犬吠の朝』

新政府は、1868年(慶応4年)閏4月21日新官制を公布し、地方を府藩県に分け、府県に知事を置き、藩は旧による旨を告示した。この時藩以外の旧幕府領地は8府21県に分かれ、海上郡は房総知県事柴山典の管掌するところとなった。1869年(明治2年)2月9日、上総に宮谷県が設置されると、本地方はその管轄下に入り、柴山典は引きつづき任じられた。ところが同年6月17日列藩の請をゆるし、藩主をもって知藩事として藩制を改革し、府県の例にならい政務を行わせることとなった。このため高崎藩主大河内輝声は、同19日小御所において、弁事五辻禅正大弼から辞令が渡され、高崎知藩事となった。銚子は高崎藩である関係によって同知藩事の管するところとなり、旧飯沼陣屋がその支庁と改められ、吏員(旧藩臣であるがこれを官員サマと呼んだ)が赴任してきた。しかしながらこの制も僅かに2年足らずで改変され、1871年(明治4年)には列藩(263藩)を廃して県とする、いわゆる廃藩置県の詔が発せられた。この郡県制によって、本地方には新たに新治県を設置することとなり、海上・匝瑳・香取3郡は茨城県下の鹿島・信太行方河内筑波新治の6郡と共に、その管下に入ることとなった。以後、各地の県廃合がしきりに行われ、1873年(明治6年)6月15日には印旛木更津両県が廃されて千葉県が置かれ、1875年(明治8年)5月7日新治県も廃止、その区域は茨城・千葉両県に分合された。こうして海上郡は香取・匝瑳の2郡と共に千葉県管下に入り、ここに初めて現行の県制となった。1878年(明治11年)7月22日府県会規則が定められると同時に、郡区町村編制法が制定され、郡長・区長・書記を置いて地方政治に当たらせることとなった。続いて同年11月11日よりこれが実施され海上郡は匝瑳郡と連合し、各町村もいくつか連合して戸長役場を置き所管事務を掌理することとなった。こうして初めて、海上匝瑳郡役所が銚子荒野村に置かれた。この時、これらの各村に町村会議または区会議の開設が許されたが、のち1888年(明治21年)4月1日市町村制発布となり、1889年(明治22年)4月1日に施行された。郡下各町村は新制度に基づいて町村長および町村会議員を選定し、村治の事を司ることとなった。当時の銚子の町村編成は次のように定められた(○は役場所在地)[17]

本銚子町(○飯沼)、銚子町(○荒野・新生・今宮)、伊豆原村(○本城・長塚・松本)、豊浦村(○辺田・小川戸・三崎)、高神村(○高神)、海上村(○垣根・四日市場・赤塚・余山・三宅・松岸・高野・柴崎)、船木村(○高田・芦崎・岡野台・船木台・三門・中島・正明寺・九ヶ村新田・白石鶏沢新田)、椎柴村(○小船木・野尻・塚本・忍・猿田)、香取郡豊浦村(○諸持・下桜井・富川・下森戸・宮原・東笹本)

このうち伊豆原村は1884年(明治17年)7月本城・長塚の両村が連合して出来た戸長役場に、1889年(明治22年)8月松本村を加えて誕生したもので、村名の由来はこの地につづく海上台地の高所一帯を伊豆原と総称したことに因んだ。これが2年後の1891年(明治24年)9月には、西銚子町と改称している。銚子の中心はこの時から市制施行に至るまで、3町1村(施行後順次6村が併合された)で発展してきた。豊浦村は旧幕時代に小川戸村が海高(後の漁業税)を有した縁由により豊浦港といったという伝説に基づき、海上村は海上郷旧社である海上八幡宮に因み、船木村は和名抄の船木郷に依り、椎柴村は村の台地高原を古来椎柴野と呼ぶところから採る等、それぞれ郷土の伝統を重んじて付けられている[17]。銚子町・本銚子町・西銚子町をあわせた戸数、人口はともに県庁所在地千葉町を大幅に上回り、銚子は明治後期に至るまで千葉県内最大の都市であった。また、1890年(明治23年)の千葉県会が可決した県税予算のうち商工業活動を対象に賦課する県税の営業税・雑種税や漁業税等を見ると、本銚子・銚子町は合わせて3568円の負担額となり、千葉町より600円近くも多く負担している。千葉町は政治行政の中心都市であったが、人口・商工業の集積度では銚子に及ばなかった[4]。東京となってからは日本の発展とともに周辺に大都市が発生したが、江戸の頃には銚子が最大の衛星都市であり、その名残りは明治期まで続いていた。1896年(明治29年)5月、府県制及び郡制が施行され、これの実施を1896年(明治29年)9月よりと決定した。このため海上・匝瑳の両郡は分離することとなり、海上郡役所は銚子町に、匝瑳郡役所は福岡町(後の八日市場市)に分置され、各々郡会議員選出のもとに郡自治の運営はその緒についた。以後、海上郡役所の管下にあること25年に及んだが、1922年(大正11年)4月12日郡制廃止法が公布され、翌年4月1日これが実施となった。そして事務整理を完了した1926年(昭和元年)7月1日、海上郡役所は廃止され、ここに長い郡治の歴史に終止符を打った[17]

藤島武二『犬吠岬の灯台』
リチャード・ヘンリー・ブラントン

明治に入って、銚子にも相次いで文明開化の新施設が見られるようになり、犬吠埼灯台の建設、蒸気船の出現、測候所の創立、電信線の架設をはじめ、鉄道が開通し無線電信塔が聳立する等、その変貌は目まぐるしいものがあった。銚子で新文明のトップを切ったものは、犬吠埼灯台である。これより太平洋通いの船舶は、行くも来るもこれを目標とし、また沿岸航行の船舶もこれによって安全を得ることとなった。この種施設としては本邦最古の一つで、以後、銚子はこれによって象徴されるようになり、宣伝印刷物や商品の図案には必ず灯台が添えられている。1866年(慶応2年)9月英国公使サル・ハーリー・パークスが旧幕老中松平周防守等に建言しこの年5月に英仏蘭米4国と締結交換したいわゆる江戸条約(其第11条、日本政府ハ外国貿易ノ安全ノ為メ燈明台、浮木、瀬印木ヲ備フベシ)に基づいて、犬吠埼へ西洋型第1等灯台を建設することが明治政府と米国公使との間に商議されたのが起因となった。灯台をここ犬吠埼の断崖に定めたのは、1872年(明治4年)3月工部省招聘の技師英国人リチャード・ヘンリー・ブラントン等一行が、灯明台視察船テーポール号に搭乗して上陸査定した結果である。灯台の起工は1872年(明治5年)9月28日、竣工は1874年(明治7年)11月15日、造営に当たったのは、ブラントンに工事係中沢孝政・道家紋太郎等と器械取付方の英国人ジェームズ・オーストレル・大工棟梁松本久左衛門(銚子の人)等であった。造営材料は、香取郡産の木材・茨城県筑波郡北条町小田山産出の花崗岩・高神村産銚子石・香取郡高岡村製造の煉瓦を使用し、セメント・硝子板・金属器具・灯明器械類は外国産であった。材料中、最も多量を要するのは煉瓦であり、これを国産品に求めるか外国産のものにするかは、工事費に至大の関係があった。中沢技師は本邦産を用いることとしたが、ブラントンは英国製でなければ適せぬと主張して譲らなかった。中沢技師は海上郡余山にその製造を試みたが品質粗悪で到底用いようがなかった。中沢技師は本邦産が必ずしも適せぬ理由がないと、自説を翻さず種々腐心した。たまたま香取郡高岡村大字高岡に良土があることが発見されたので、土地の旧藩士等に製造法を伝授して焼かせたところ、これが外国産に比較試験して決して遜色のない逸品であることが確かめられた。こうして同技師の主張が貫徹して全部本邦産を使用したために、公費を節減できたことは甚だ大なるものがあった[17]。初期には逓信省、運輸省等に所属していたが、1948年(昭和23年)海上保安庁に伴って移管され、1953年(昭和28年)に犬吠埼航路標識事務所が発足した[19]

銚子は海上交通の要衝にあったことから、銚子汽船株式会社取締役と海上郡長ほか有志が、気象災害防止のため、1886年(明治19年)9月1日、荒野村銚子港字下富田屋町に私立測候所を開設した。この私立測候所が1888年(明治21年)4月、千葉県銚子二等測候所となり、1912年(明治45年)1月に千葉県銚子一等測候所に昇格し、1938年(昭和13年)10月には国営に移管して中央気象台銚子測候所となり、以後、文部省運輸通信省運輸省と移管された。1957年(昭和32年)9月1日には銚子地方気象台となり、国土交通省(旧運輸省)の外局である気象庁の地方支部局として、千葉県の気象業務を行うことを任務としている[19]

銚子地方では、1872年(明治5年)5月、野尻郵便局が開設されている。次いで同年7月、海上郡荒野村に銚子荒野郵便局が設置され、1886年(明治19年)4月三等局となり、1888年(明治21年)12月銚子郵便局と改称した。銚子で電信業務が開始されたのは1885年(明治18年)のことで、同年9月15日に荒野村に銚子電信分局が開局した。工部省はこの年12月に廃止され、電信の主管庁は逓信省となった。この分局は、当時の新生村・荒野村戸長石上忠平を総代とする有志による献納置局であった。献納置局とは、当時は政府予算だけでは電信分局の設置要望に応じられなかったので、地方の経済的負担により敷地・建物を献納して設置した局のことである。同局は1889年(明治22年)9月に銚子郵便局と合併して銚子郵便電信局と改称、1903年(明治36年)4月に再び銚子郵便局となったが、電信業務は行われていた[19]1901年(明治34年)度の電信発信・着信は千葉局を抜いて県下最高を維持していた[17]。銚子での電話開通は、1907年(明治40年)4月3日であった。銚子郵便局内に電話機を設置して、公衆に利用させる電話通話事務を開始した。通話区域は東京・千葉・横浜であった。銚子に電話が開通したのは、当時銚子郵便局長であった松本徳太郎を始めとして、元海上匝瑳郡長の杉本駿、ヒゲタ醤油の田中玄蕃その他山口文右衛門、石上新藤、高橋順五郎というような銚子の有力者たちが奔走した結果であった。これらの先駆者たちは、さらに銚子においても電話交換を実現すべく運動を続け、その結果早くも1908年(明治41年)4月1日から、銚子郵便局において千葉県最初の電話交換業務が開始されることとなった。市外通話で千葉に遅れた銚子は、電話交換では千葉に先んじて県下のトップを切ることとなった。千葉の交換開始は1910年(明治43年)3月21日である[19]

日本郵船「丹後丸」

1908年(明治41年)5月16日逓信省が我が国最初の無線電信局として銚子無線電信局を開設した。その位置は、飯沼村時代の字平磯台通称夫婦ヶ鼻であった。ここに日本最初の電信局が置かれたのは、航行中の船舶との無線電信電報業務を行う海岸局の設置位置として銚子が適していたためである。明治・大正から昭和前期にかけて、銚子無線電信局は犬吠埼灯台とともに市民の誇りとなっていた。銚子無線電信局による最初の無線通信は、1908年(明治41年)5月27日横浜港を出港して、シアトルに向けて野島崎沖を航行中の「丹後丸」が受信し、「二時横浜港帆、今銚子より西南六六海里にあり初めて無線通信を開く感度良し」の電報を送った。これが海岸局と船舶局との間における日本最初の無線通信の電報である。初期の無線は、通信距離の拡大と通信内容の充実が進められ、電波帯も中波から短波へと広げられていった。銚子無線電信局跡には、皇紀2600年に当たる1940年(昭和15年)に逓信省が建立した「無線電信創業之地」の記念碑がある。1929年(昭和4年)3月、銚子無線電信局を送信所と受信所に分離して、高神村後新田(後の小畑新町)に受信所を新設するとともに、旧局舎は分室として本銚子送信所と称した。この本銚子送信所は1934年(昭和9年)に川口送信所と改称の後、1939年(昭和14年)8月に椎柴村大字野尻滝ノ台(後の野尻町)に移転、銚子無線電信局椎柴送信所となった。1949年(昭和24年)には逓信省、逓信通信省、逓信院、逓信省と変遷してきた主管官庁が電気通信省となって、銚子無線電報局と改称された。さらに1952年(昭和27年)8月、日本電信電話公社が発足して、公共企業体としての組織となった。戦後は送受信所の設備の改善・拡充が推進され、また運用部門の組織の強化も図られた。開局当時の使用電波は中波1波であったが、短波19波を合わせて20波となり、全世界の海上の航行する船舶と交信した。その結果海岸局としては日本一を誇り、また世界一といわれたイギリスの海岸局とも比肩するに至り、銚子無線電報局の代表的なコールサインであるJCSは、世界のJCSとして知れ渡った。また、日本が初めて南極観測を開始し、オングル島昭和基地に第1次の越冬隊員を派遣した1957年(昭和32年)から、日本では唯一の南極との通信基地として様々な重要な通信を行い、南極観測事業に大いに貢献した[19]

蒸気船「通運丸」

明治維新によって幕藩体制が崩壊すると、従来の藩を中心にした物資の流通に大きな変化が起こって東北地方と江戸を結ぶ海運は急速に衰退した[19]。また、銚子川口の水深は満潮時11尺、干潮時は8.9尺に過ぎないため、河港に出入する船舶はおのずから制限を受け、江戸時代から150石積以下に止まっていた。従って明治以降、大船巨舶の発達するにつれ、奥羽地方の諸物資や廻米等は外洋を通過して寄港することなく、銚子港の商港としての役割は大きく後退した。しかし、利根川の水運だけは昭和まで残っており、新文明の花形である蒸気船の登場は、旧来の高瀬船による利根川水運に一大革新をもたらした。1874年(明治7年)、利根川沿岸の輸送交通を掌握して利益を収得する目的をもって、汽船利根川丸が回航されたのを皮切りに、年を追って個人企業の就航汽船数は増加していった。そして同業者間に激しい競争が起こり、互いに賃金を値下げして共倒れの窮境にまで陥る有様であった。そこで1881年(明治14年)12月、これを憂えた町の有志間に銚子汽船株式会社を設立して一本化することが企画され、翌年度1月に開業した。この事業に最も賛意を表したのは明治の先覚者である濱口儀兵衛(梧陵)で、自ら資金数千円を拠出して会社の設立を助けた。こうしてはじめて東京と利根・江戸両川の沿岸並びに北浦・霞ヶ浦の各地を結ぶ交通運輸の便が開かれるようになった。これは従来の小規模な、しかも長時日を要する交通情勢を一変させ、銚子をはじめ沿岸各地の発展に資するところも少なくなかった。総株数800株、上層株主のほとんどが銚子居住者によって占められているが、以下1株の小株主に至るまで、その大部分が銚子の人達であって、銚子人出資の、銚子のための企業体といえ、当時の銚子にあってはこれが最大の企業体であった。銚子から東京まで18時間、午後4時に興野河岸から乗った船が、翌日の午前9時に東京日本橋の蠣殻町に着くというものであった[17]。銚子町の小学校では毎年行っていた鹿島・香取巡りの修学旅行に、この蒸気船を使っていた[19]日本鉄道(後の常磐線)が開通してからは、取手で下船して汽車によって東京に出るものが多くなった。成田線が銚子に延び(佐松線開通)、自動車が発達すると間もなく衰滅し、失業した汽船の機関士が各醤油会社の蒸気機関係に吸収されたりなどしている。大正の終わりから昭和にかけてのことであった[17]

1935年(昭和10年)頃の新生駅

明治維新と共に、鎖国の堰を切って流れ込んだ泰西文明の波は、日本の交通機関を根底から変えた。岡蒸気と呼ばれた汽車が登場したためである。1872年(明治5年)の新橋横浜間の開通を皮切りとし、新時代の先端をゆく最も有望な民間事業として、全国各地に鉄道会社が設立されていった[17]総武本線1894年(明治27年)7月20日総武鉄道株式会社市川佐倉間で営業を開始したのに始まり、その後1897年(明治30年)6月1日本所(後の錦糸町駅)・銚子間、1904年(明治37年)4月5日両国・銚子間が開通した。次いで1907年(明治40年)9月1日鉄道国有法」によって国に買収され、以後国有鉄道となった[19]。本銚子・西銚子・銚子の3町有力者は、総武鉄道株式会社の設立と開通のため、終始その努力と熱意を惜しまなかった。濱口梧陵のような先覚者の支援や田中玄蕃はじめ有力者の出資が、この事業を力づけたことは甚大であった。田中玄蕃はこれの大株主であり、1893年(明治26年)7月常議員となっており、この鉄道のために大いに尽くした。また1898年(明治31年)5月銚港神社の社前に、町民各層が拠出して石灯籠一対を作り、記念のため献納している。開通当初の銚子・本所間の所要時間は、約5時間を費やした。国有鉄道となってからは、列車の改善と共に短縮され、1915年(大正4年)の時刻表によると4時間半前後となっている。朝5時20分の一番列車に乗ると、両国橋駅に10時5分着となり、夕方両国橋発6時の終列列車に乗れば、夜10時40分銚子駅に着くから、楽に日帰りが出来るようになった[17]新生駅では、1900年(明治33年)の開業以来、銚子の貨物駅として鮮魚を始め最も多くの貨物を取り扱った[19]

銚子遊覧鉄道の敷設工事
蒸気機関車の乗り入れ

銚子から犬吠埼・外川方面に至る鉄道敷設は、総武鉄道株式会社によって1901年(明治34年)4月免許が得られ、一部工事に着手されながら途中放棄となった。ようやく明治の末頃から避暑客・遊覧者の増加を見るようになって、土地の有力者間に私設鉄道敷設の議がおこり、1912年(大正元年)12月7日銚子遊覧鉄道株式会社が設立された。これは官線銚子駅を起点として、犬吠に至る3里半の軽便鉄道で、途中、仲ノ町観音本銚子海鹿島の4か所に駅を設置することも併せて認可を得た。工事は翌年6月15日より着手され、その年の12月28日に開通した。ところが1914年(大正3年)6月、第一次世界大戦が勃発すると、鉄材の大暴騰を来たし特にレールの価格は高騰したため、会社は経営の利益より売却の有利を逃さないこととし、これを筑波鉄道に売却し解散した。その後1923年(大正12年)、再び有志らが鉄道敷設の認可を得て、銚子鉄道株式会社を設立し同年7月開通した。路線も新たに犬吠から外川まで延長、敷設された。その後、観光客の来遊も多くまた沿線の住宅増加等によって事業は好調に向かい、駅も1925年(大正14年)7月1日笠上黒生(本銚子・海鹿島間)を置き、更に1931年(昭和6年)6月11日君ヶ浜(海鹿島・犬吠駅間)を新設した。戦後は銚子電気鉄道株式会社と改称した[17]

本銚子 - 海鹿島間を行く蒸気1号

成田線は1897年(明治30年)1月、成田鉄道株式会社が佐倉・成田間で営業を開始したのに始まり、翌年には2月3日成田・佐原間が開通し、佐倉・佐原間の鉄道となった。その後1920年(大正9年)に「鉄道国有法」に基づいて国に買収され、9月1日から国有鉄道となった。国有鉄道になってからは、地元住民の要望にしたがって佐原・松岸間に延長工事が実施され、1933年(昭和8年)3月11日に開通した。これによって銚子から佐原・成田回りで両国へ行くことも可能となった[19]。後に近接町村併合によって、沿線の椎柴(旧海上郡椎柴村)・豊里(旧香取郡豊里村)の2駅が、市域に包摂されている[17]。両国・銚子間は総武本線よりも成田線の方が遠回りで、時間も約30分多くかかり、運賃も高くなった。したがって銚子市民にとっての成田線の利用範囲はおおむね成田までであり、両国行きは専ら総武本線を利用した。しかし銚子を含む利根川沿線の町村がようやく鉄道によって結ばれることになり、交通や物資輸送面で多くの利益がもたらされた。なお銚子では、戦前一般的に成田線のことを佐松線と呼んでいたが、正式の線路名称は当初から成田線であった[19]。これら各鉄道の開通は、銚子の千葉県東部の重要産業都市、また漁港としての機能を発揮させ、市勢の発展と文化の向上に大きな役割を果たしている。こうして江戸以来明治に至る長い間、利根川による水運に依存していた銚子は、陸運の発達に恵まれた近代都市へと移行した[17]。また、1926年(大正15年)10月、一等飛行士猿田秀文が、三軒町に大利根飛行場という民間の水上飛行場を設営し、銚子・佐原間定期旅客輸送搭乗料1人片道10円、犬吠半島上空の「海の遊覧飛行」同5円、佐原・潮来上空における「水郷遊覧飛行」同5円を開始したことは、時代の最先端を行くものとして地方人を驚かせた[19]

波崎町は東下村と言った江戸時代の昔から、経済的・文化的に銚子に依存してきた。対岸の地一帯は行政上は茨城県鹿島郡に所属しているものの、渡船を動脈として実質上は銚子の一部か、延長となっているに過ぎず、これが銚子と波崎を結ぶ唯一の重要な交通機関となり、鹿島郡南部の人達が東京に行くのも、これで銚子駅へ出て汽車に乗るのが順路という実状であった。物を売るにも、買うのも、また子女の教育も高等学校からは皆この渡船で銚子へ来ていた。対岸の茨城県鹿島郡との川幅で最も広いところは1700〜1800メートルあって、江戸期より銚子各所に至る渡船連絡が運営されてきた。大正の頃は、市域に当たるところに11ヶ所の渡船場があって、人と貨物の運搬に当たっていた。各渡船は特定の個人がそれぞれ運営していたが、銚子に鉄道が開通し交通が駅に集中するようになり、おのずと興野渡船場が繁盛した。このため1919年(大正8年)、銚子汽船株式会社はこの事業の有利に着眼し、発動機船で波崎側の船着場のいくつかに順次立ち寄る巡航方式で渡船を開始した。後に渡船を指して巡航船と言ったのは、この時の名残りである[17]。しかし、1920年(大正9年)に波崎渡船組合が結成され、1922年(大正11年)には波崎町の伊藤汽船部が夜間渡船を始めて業者間で激しい競争が続いたが、最終的には終戦後の1953年(昭和28年)、波崎町が渡船の管理運営に当たることで決着した。また、その前年の1952年(昭和27年)10月15日に茨城県営の自動車専用渡船が開設され、その運行管理は波崎町に委託された[19]。この現象は、銚子が明治以後急速に発展し、地方都市としての体制が整うに従って波崎町の銚子依存度も向上し、渡船利用率がこれに伴い激増したためである。銚子へ映画を観覧に来ている波崎町民のために、毎日その映画館終業後の午後11時頃、銚子渡船場発の最終便が運航されていたのも、両地の相関がもたらしたこの地ならではの景観であった[17]

大正期の銚子港

近代に入ってからも、漁業は依然として銚子の主要産業であった。むしろ漁業への依存度は江戸時代以上に高まり、産業都市銚子における漁業の比重は増大した。それは明治維新によって東廻り海運が急速に衰微し、銚子港の商港としての役割が大きく後退したためである。そのため明治時代に入ってからの銚子は、しばらく往年の活気を失ったが、やがて漁業が文明開化の進展とともに近代漁業へと発展し、銚子港は全面的にその根拠地として、新しい息吹を上げることとなった。漁業発展の要因は漁船の動力化であった。銚子で漁船が最初に動力化したのは1907年(明治40年)以後のことで、この頃建造された銚子の動力船は5艘である。エンジンは電気着火式石油発動機を用いたが、間もなく焼玉エンジンが現れた。動力船は一般に機械船あるいは発動機船と呼ばれ、大正期に入ると急増して、1915年(大正4年)末には早くも71艘に達している。動力化は漁船の大型化を招き、従来の手漕ぎの漁船は大きくても3トン前後であったが、動力船は15トン前後から20トン前後の大きさを持つようになった。また漁具・漁法の変革を促し、さらには航続能力の飛躍的な向上によって行動半径が拡大し、漁場も沿岸から近海・遠洋へと延びて行った。そして他港の漁船が回航してきて、ある期間ここを基地として操業するようになった。いわゆる廻船である。廻船は水揚げを増加させるだけでなく、資材・食糧等の仕込み、乗組員の休養・娯楽等による消費も伴うので、漁港にとっては経済を支える有力な柱として重視された[19]

主力漁業として期待されていたのはイワシ漁業であった。イワシ網は明治前半までは依然として八手網が使われていた。しかし後半になってからあぐり網が入ってきて、江戸時代からの長い歴史をもつ八手網は姿を消していった。1864年(元治元年)に大漁節を生んだ幕末のイワシの豊漁期は、1877年(明治10年)頃に終わって不漁期に入ったが、他方ではその他の漁業自体が質的に向上してきたこともあって、その他の漁業の漁獲高が総漁獲高の中でより大きな比重を占めるようになった。その他の漁業の進展を支える基盤となったのは、鉄道の発達による鮮魚消費市場の拡大、特に東京出荷の日常化の実現であった。この時代のその他の漁業中、最も主要な位置を占めていたのは、マグロ・カツオ漁業である。漁法は一本釣り、はえ縄、ながし網等であった。かつてイワシの銚子とされていた銚子は、大正時代にはマグロの港とさえいわれるほどになっていた。しかし昭和に入ると、漁場が遠くなったことで、銚子のカツオ・マグロ漁業は漸次衰微を余儀なくされた。カツオ・マグロ漁業とは反対に、小物類を対象とする漁業として、大正期から盛んになってきたのは機船底びき網漁業である。機船底びき網漁業に次ぐ小物類の漁業は、タイ・アラ縄漁業であった。1897年(明治30年)頃からは、刺網によるサンマ漁業が盛んになった。これらのほか、小縄と称するはえ縄によって、ヒラメ、ホウボウ、タイ、スズキ、カレイ等が漁獲されており、雑漁業と総称される各種の漁業が行われていた。また利根川では、ハゼ、ウナギボラシジミ等を対象とする漁業が行われていた。なお1907年(明治40年)前後の時代には、主として外来の捕鯨会社によって、銚子を基地とする近海の捕鯨漁業が盛んに行われ、かなりの成果を上げていた。イワシ漁業は、大正から昭和前期にかけての時期に不漁期から豊漁期に転じ、水揚げ高は毎年右肩上がりに増え、1936年(昭和11年)に15万5000トンという史上最高記録を示すこととなった。イワシは搾粕に加工され、同時に魚油も生産されたため、地域経済に対する波及効果が大きく、イワシ漁さえあれば銚子は不景気知らずといわれた。この年を中心にして前後数年間は豊漁が続き、銚子の町は活気に溢れた。1932年(昭和7年)には、あぐり漁労長ら80余人が大新旅館で盛大な大漁祝賀会を開いた[19]

日本資本主義興隆期の大波は、銚子の商業資本家や富豪地主の企業熱をあおり、明治中期以降、幾多に会社創立あるいは工場経営となって現れた。しかもその殆どは、1894年(明治27年)、1895年(明治28年)の日清戦争以後に属している。この戦争の勝利が、我が国の経済界を刺激して飛躍的大発展を遂げさせたのであり、次いでおこった日露戦争の勝利によっていよいよ国際資本主義社会に伍していく基盤は強固となった。その一端はこの銚子にも、両戦役後の会社企業の勃興となって、活発な経済活動を展開している。銚子にいち早く出来た会社は、1881年(明治14年)2月発足の銚子汽船株式会社である。次いで設置されたのが金融機関で、東京の川崎銀行が1893年(明治26年)に銚子支店を設けたのを皮切りに、1899年(明治32年)5月には地元銀行として銚子銀行が創立されている。続いて川崎貯蓄銀行が同年12月に銚子支店を置くと、1901年(明治34年)4月には地元有志による武蔵貯蓄銀行の開業を見、1908年(明治41年)11月に豊国銀行銚子支店が開設となった。また地元の中小商工業者を対象とする金融機関として、銚子信用組合が1910年(明治43年)7月に創立されている。1907年(明治40年)には、大小数多の醤油業者の使う搾袋の製作を主とする利根織物株式会社が興野町砂良神に工場を建設している。また1912年(明治45年)1月、小倉久兵衛創業の麻真田製紐工場も盛大で、市内有数の事業成績であった。漁場が沿岸から近海へ、さらに遠洋へと伸長するにつれて、漁網や鋼の需要が激増したため、これの生産にあたる工場も続々と設立されるようになった。中でも銚子製網所(鎌倉国松)が最大であった。電灯と瓦斯の企業は、前者が1910年(明治43年)2月、後者が1913年(大正2年)7月に会社が設立された。他に特異なものとしては、銚子町の豊田菓子工場が挙げられる。創業を古く1785年(天明5年)に発する菓子老舗で、水戸屋の屋号は銚子はもとより、広く下総一帯に響きわたっていた。昭和のはじめ頃までは「トンボ止まれ、水戸屋の饅頭買ってやっからトンボ止まれ」と蜻蛉釣りの児童にまで唄われていた。水戸屋は江戸の頃から明治・大正へと、幾多の菓子をもって銚子の人々に膾炙し、親しまれていた[17]

日本の各種産業は、維新後急速に近代化していったが、銚子の醤油産業もその例外ではなかった。多くの醸造業者は、まだ小規模の家内工業の段階に止まっていたが、ヤマサ・ヤマジュウ・ヒゲタ等の江戸期以来の大工場は、着々と機械化装備を整えて資本主義興隆期の波に乗った[17]。明治中期からは鉄道が開通して、輸送条件が更に好転した。利根川舟運の発達、総武線の全通、東京市場の拡大や第一次世界大戦期の好況等に促されて、経営は急速に拡大を遂げた[4]。この時代の醤油醸造業者は、銚子・本銚子の両町に10家内外を数えた。旧銚子組造醤油仲間が解体して、1888年(明治21年)9月、新たに銚子醤油醸造業組合が設立許可されているが、それによると本市域に該当する地域に11家の存在を見る。同組合の包括地区は、銚子を中心に下総の東南部から対岸の常陸周辺にわたる、かなり広大なものであって、しかも逐次区域は拡大した。さらに1901年(明治34年)5月17日附の同組合地区変更書を見ると、「海上郡本銚子町・銚子町・船木村・椎柴村・豊岡村・飯岡町・三川村浦賀村・旭町。匝瑳郡福岡町・椿海村豊畑村東陽村。香取郡笹川村・滑川町。茨城県鹿島郡若松村。同稲敷郡鳩崎村」の6町11ヶ村が挙げられている。醸造石高の大部は銚子の生産に係り、年を追って増大した。1904年(明治37年)即ち日露戦争の年から僅少ながら外国への輸出が見えており、躍進日本の片鱗は、銚子の醤油にも現れていた。組合頭取は田中玄蕃(ヒゲタ)・濱口儀兵衛(ヤマサ)・岩崎重次郎(ヤマ十)の輪番であり、3家の東下総醤油界における覇者としての地位は依然として変わっていない。1902年(明治35年)5月に、同組合が農商務省商品陳列館へ提出した届書によると、3家の造高は2万余石となって、全高の2分の1に達している。企業の単一化、大資本への集中は、この頃から進行しつつあった[17]

1919年(大正8年)のヤマサ醤油広告
濱口梧洞

江戸から明治・大正・昭和と2世紀あまりの間に、興亡盛衰の波に姿を没した銚子醤油の銘柄は多くの数にのぼるが、遂に大をなしたのはヤマサとヒゲタの2つである。実に両醤油は名実ともに銚子を代表するもので、野田のキッコーマンと並んで本邦三大醤油、世に三印の俗称をもって呼ばれた。ヤマサ醤油は1906年(明治39年)12月に濱口合名株式会社に組織変更し、ヒゲタ醤油の会社化と並んで日本屈指の醤油会社となった。その後、1914年(大正3年)8月に合名会社を解き濱口儀兵衛商店に復帰したが、1928年(昭和3年)11月ヤマサ醤油株式会社と組織を改めた。その間ジガミサ、ヤマジュウその他の同業銘柄を合併吸収し、また、第2・第3工場を新設・拡張する等、特に昭和以降は躍進の一途をたどった[17]。第10代濱口儀兵衛(濱口梧洞)は、1901年(明治34年)に組合立の醤油研究所を開設し、醤油に関する理化学的な研究に着手した。これは銚子醤油組合試験所と呼ばれ、ヒゲタ・ヤマジュウらの醸造家とも相談して設立され、内務省衛生試験場長薬学博士田原良純を顧問として発足した[4]。また、1924年(大正13年)には巨万の私財を投じて財団法人公正会を設立し、銚子における社会教育機関としての公民館並びに図書館の最初となった。ヒゲタ醤油は1914年(大正3年)9月、第13代田中玄蕃(直太郎・金兆子と号す)が濱口吉兵衛・深井吉兵衛の同業と合同して銚子醤油合資会社に改めて会社化の一歩を印した。次いで1918年(大正7年)9月株式会社に改組したが、1937年(昭和12年)5月に野田の茂木家資本が入るとともにその傍系会社となり、田中家の手を離れた[17]

銚子における缶詰製造の歴史は古く、その始期は日本の缶詰の濫觴期に属する。1879年(明治12年)、勧農省局長松方正義がフランスから巻締機1台を購入し、同局の事務官成島鎌吉、西久保弘道が水産講習所の生徒を伴って来銚し、イワシ油漬約20箱を製造のうえ、これをウラジオストクに輸出した。これが銚子における缶詰の製造・輸出の最初である[19]。明治から大正時代にかけては、わずかに1904年(明治37年)10月創業の常陸谷缶詰工場、1907年(明治40年)3月創業の斎藤缶詰工場が、併せて4万2000個の魚類缶詰を製造していた程度であった。しかし1929年(昭和4年)から1931年(昭和6年)にかけ、明石缶詰工場に水産講習所教授の木村金太郎が来銚、トマトサージンを試造し、その事業化を図ったことがこの地の缶詰製造業に新生面を開くこととなった[17]。また、1934年(昭和9年)、1935年(昭和10年)の稀に見るイワシの豊漁は、企業家を刺激して缶詰事業に着目するものが続出し、従来よりさらに大規模の漸新工場が相次いで設置され、一躍18工場となり、一大缶詰工業地として急激な発展を遂げた[19]

戦前から戦後の一時期まで、千葉県は全国有数の甘薯生産県であった。また海上郡も県下有数の甘薯産地であった。これらの甘薯の大部分は澱粉の原料とされた。銚子地方においても澱粉工業は、漁業に関連する水産加工業と同様に、農業関連産業として重要な役割を果たしていた。銚子地方における澱粉製造の歴史は古く、天保年間にさかのぼるが明確な時期は不明で、記録によれば1889年(明治22年)小畑町の農家石橋重兵衛が千葉郡蘇我町より講師を招聘して澱粉製造の技術を習得したのに始まる。当時僅かに人力手摺機によって製造する方法であったが、日露戦争後澱粉分離機が考案され、日本工業の発展に伴い蒸気機関、石油発動機の登場を見るようになり、さらに1932年(昭和7年)、1933年(昭和8年)頃より電動機に変わり澱粉製造機の改善と、原料甘薯の品種改良と共に一大飛躍を遂げた[19]

銚子で製品が製造されるようになったのは明治後期からで、大正から昭和にかけて主要な地場産業の一つに成長した。最盛期は大正期の関東大震災後であったが、昭和初期にもなお盛んに製造されていた。主たるものは履物の籐表であり、業者は百数十件あった。籐表を編む作業は多く内職に出された。内職に従事したのは漁民家庭の主婦が多く、不漁時の生計の支えとしたが、一般家庭の主婦たちも少なくなかった。籐製品の産地は全国で銚子・波崎ともう1か所しかなく、銚子独特の産業であった[19]

大正期の長崎海岸

製鋼網は1884年(明治17年)鎌倉長松が漁業の副業として事業化し、第一次世界大戦時に銚子製網株式会社を設立した。最盛期の大正年代には大小の製網業者が輩出した。明治中期頃からは機械船と称される大型漁船(20トンから100トン内外)の建造が盛んとなり、各地に造船業がおこったが、銚子では1911年(明治44年)に植松町の金田進治郎が大型漁船の建造に着手して、木造船産業の先駆をなしている。鉄工業は明治以降の漁船の機械化、即ち発動機船の普及にうながされて近代化し、漁船用発動機の製作を主とした。これの供給は北海道から東海地方にも及び、併せて近隣及び市内の澱粉・醤油関係の機会と農耕用機械の需要にも応じた。銚子縮は漁村波崎の家内手工業に端を発し、江戸時代から明治年中にかけて、その名は諸国に聞こえ、生地の堅牢さと染色の優雅さは好評を博して、広く一般に愛用された。明治に入って新しい紡績機を装備して時勢に順応したが、大正を経て昭和に入る頃には衰微した。黒生海岸一帯にかけては、十数件の瓦窯工場があった。もと越前福井県)から移住した柳屋という家があって、これが最古の瓦屋即ち草分けであり、その創始の年代は江戸末期に近い頃である。黒生に瓦が発達したのは、この地の粘土が良質で瓦に最適であったことに由来し、かつて銚子瓦が三州瓦三河国産出)に比肩するとうたわれたのもこのためである。古くから墓石や供養塔に盛んに用いられた銚子石は、明治以降ほとんど建築用と砥石(荒砥)にあてられるようになった。産地は長崎海岸近くである[17]。1936年(昭和11年)12月1日には「商工会議所法」に基づき、千葉県で最初の商工会議所として銚子商工会議所が設立認可された[19]

明治末頃の銚子

銚子の町の明るさは、町の中心に控えて一種の風格を与えている観音さまが醸し出す空気によるものであろう。其の後、年を経て「南総里見八犬伝」の犬飼現八や犬塚信乃が古河の芳龍閣の甍の上で切り結んで大利根に逆落しに落ちてゆく場面なぞを読むと、何うも滝沢馬琴は銚子の観音堂を舞台に想像して書いたように思われるし、玉川勝太郎の浪花節「天保水滸伝」の飯岡助五郎と笹川繁蔵の喧嘩出入の場面なぞに思い及ぶと、青い洋々とした大利根や川岸に屹立する観音堂や殷賑な町を背景に、美女や侠客が派手な生活を展開するには、まことに銚子はふさわしい処のような気がするのである。

「銚子の思い出」鱸平助

銚子は江戸時代の中期に既に芝居の劇場ができており、地方の町の割には娯楽施設が発達していた。芝居の劇場は銚子駅前の開新座のほかに、陣屋町に歌舞伎座、新生に銚楽座があった。いずれも明治時代に建てられたものである。木造2階建てで、見物席は平土間のほかに桟席が1・2階にあり、舞台は回り舞台花道を備えていた。寄席も袋町(本通二丁目)に岩井亭、外川町に外盛館、田中町に弘遊館があった。映画館は飯沼観音境内の銚盛館と馬場町の銚子座で、共に前身は芝居小屋であった。銚盛館は戦後もしばらくは営業していたが、映画がテレビに押されるようになってから閉鎖された。銚子座は銚子日活と名を改めて営業を続けていた。1932年(昭和7年)になると清水町に愛宕キネマができ、1936年(昭和11年)には飯沼町に演芸館ができた。銚子には浪花節ファンも多かった。浪花節の公演は芝居の劇場や寄席で行われ、日本の一流の浪曲家がしばしば来銚した。映画館や劇場が本銚子町に多かったのは、飯沼観音を中心にして盛り場が発達したからである。芝居や映画以外にも、撞球場麻雀屋のような遊び場もあった。撞球場は明治時代からあり、いわゆる名士の間で楽しまれていた。そのほか、射的場コリントゲーム場等の遊戯場もあった。松岸・本城・田中の3か所には、江戸時代から花街が発達して昭和に及んでいた。銚子では公娼を相手とするところを女郎屋と称し、私娼を相手とするところを茶屋と称したが、松岸にあったのは全て女郎屋であり、本城は女郎屋と茶屋であった。田中は全て茶屋であった。松岸・本城は衰微期に入り始めていたが、松岸の第一、第二開新楼は三層の建物が豪壮で有名であった。特に第二開新桜は利根川べりにあり、川の水を引いて周囲に堀を巡らせ、門の前に朱塗りの太鼓橋が架かっていて、講談天保水滸伝をしのばせるものがあった。松岸・本城に比べると田中は繁栄期にあり、茶屋の数は90余軒、およそ400〜500人の私娼がいた[19]。田中は飯沼観音裏手から和田町にかけての一帯の俗称であり、古くから観音札所を中心に発生した私娼窟である[17]。銚子は高級料亭から小料理屋蕎麦屋食堂に至るまで飲む場所もまた不自由はなかった。折からカフェー全盛の時代であったので、カフェーも各所に現れていた。旧正月と八日まち(灌仏会)には、飯沼観音境内に曲馬団等の見世物小屋が掛かり、露店香具師が出、近郷近在からの人出で幾日も賑わった。銚子で特に名物になっていたのは、飯沼観音の後、いわゆる堂の下にある佐野屋の今川焼であった。昭和初期、近郷近在から銚子に来る農家の人々や回船の漁師たちは、飯沼観音に詣でた後、この今川焼を食べるのが楽しみの一つで、店頭や店内は常に客でごった返していた。銚子の人々も遠くから買いに行った。味をつけないうどん粉だけの皮と、黒砂糖小豆、そして5センチの厚さのある素朴な味わいが、庶民の人気を呼んでいた[19]

濱口吉兵衛

この頃、銚子ではその将来を左右する一大公共事業が、歩一歩と進められていた。それは銚子漁港修築工事いわゆる銚子築港である。この事業を軸に銚子は実質的に前近代から近代へと、大きく転換しようとしていた。江戸時代の銚子湊は、主として商港として興り、商港として発展したもので、漁業根拠地たることは二次的なものでしかなかったが、近代に入ると主客転倒し、やがて純然たる漁港に転身した。しかし、大正期に入ってもその形態はほとんど天然のままで、わずかに沿岸の砂浜のところどころに防波用の合掌枠や桟橋が設けられていた程度であった。利根河口が船舶にとって難所であることは昔からのことであるが、それは漁船が近代化しても解消することはなかった。この点は銚子港の宿命的な欠陥であり、この問題を解決しない限り、銚子の漁業そして銚子漁港の、大きな発展を期待することは困難であった。また港といっても接岸できる岸壁はなく、漁船は岸を離れた深みに停泊し、陸とは伝馬船で連絡する状態であった。その陸上にも漁港施設はあまりなかった。銚子港の修築問題は、大正期に入ると漁業関係者の一致した認識となり、やがて具体的な実現運動に発展し始めた。その結果政府も銚子港の重要性を認め、我が国の水産業の発展という大局的な見地から、一大整備を行うことになり、1920年(大正9年)度予算に調査費を計上した。この予算は、総選挙後の7月に召集された第43回特別議会で成立した。この総選挙には銚子醤油株式会社社長の濱口吉兵衛が立候補して当選した。代議士の立場から築港の促進を図るためで、そのため在任中、政党を動かして議会や政府に働きかけるのに多大の私財を費した。農商務省は、1920年(大正9年)、1921年(大正10年)度に調査を行い、1922年(大正11年)に修築計画書の作成を完了した。この計画書による銚子漁港の規模は外港・中港・内港を有する壮大なものであった[19]。外港は夫婦ヶ鼻東方に突き出す北防波堤と黒生北方に建設する南防波堤で囲み、これと河口側の内港は運河を掘って結ぶというものであった[17]。したがって工事費もまた1000万円という膨大なもので、それを1923年(大正12年)から10か年継続で行う事業計画が立てられた。政府は総工事費の半額は国庫で負担し、残る半額は将来銚子漁港を利用する関係にある府県で分担させようとしたが、各府県の財政事情により実現には至らず、千葉県単独で実施することになった。県会議員であった銚子町の小野田周斎(医師)は議長歴もあり、築港問題については濱口吉兵衛の片腕となって東奔西走していたが、その労が実ったものである[19]

今井健彦

しかし内務省は、利根川最下流の沿岸を埋め立てたり、河中に堤防等を構築することは、利根川の流れにとって障害となり、治水上重大な影響を及ぼすとして、農商務省の設計による築港工事を認めようとせず、起債と工事施行の認可は容易に下りようとしなかった。両省間の見解の食い違いは、事が科学的・技術的な問題であるだけに、容易に解決を見ることができず、事業の開始は遅れる一方であった。地元の銚子にとっては、その将来に関わる重大な問題であるだけに、衆議院議員を通じて、内務省や農商務省に働きかけた。そのため濱口吉兵衛は1924年(大正13年)5月の総選挙に再出馬して当選したが、濱口のみならず香取郡から再選された今井健彦をも動かした。今井は両省間を駆け回って調整に務め、彼自身漁港や治水に見識を持っていたので、大いに奏功した。このため戦後名誉市民に推挙されている。ようやく工事認可を見ることができたのは、1925年(大正14年)8月のことであった。ただし全面的に認可されたのではなく、第2漁船渠に関してだけであった。起工式は1925年(大正14年)11月21日に、飯沼魚市場において挙行された。銚子築港実現への過程において、県は合計10か所の魚市場を買収し、かつ整理統合して飯沼・内浜・東浜・新生の4市場とした。そして前年11月に設立された千葉県水産株式会社に、市場業務を経営させることにした。工事には、当時としては新鋭のドイツ製の浚渫船や杭打ち船が配置された。第2漁船渠は新生・飯沼町地先の水域で、陸地に懐深く食い込んだ部分であったが、そのさざ波が寄せる天然の岸辺は年と共に姿を消し、やがて広大な埋立地に生まれ変わっていった。しかし、第2漁船渠工事の着実な進展にもかかわらず、他の工事は依然として認可されず、県は大幅な計画変更を決意した。新計画は総工事費を568万円に縮小し、外港・中港・航路の建設を取り止め、その代わりに龍ノ口(千人塚下)と一の島間に防波堤を構築し、内港に新たに第3漁船渠を設けるというものであった。この計画変更と工事施行は、1932年(昭和7年)6月に認可され、漁業関係者の長年の宿願が果たされた。そしてこの年から、工事は第1漁船渠区域・外港部へと延びていった。なお、この年には既に埋め立てされていた第2漁船渠後背地に東洋一[19]の新魚市場が完成した。この魚市場は戦後の1965年(昭和40年)まで、銚子漁港の中心施設として大きな役割を果たした。1934年(昭和9年)度からは、全長5500mに及ぶ臨港道路の建設が始まった。銚子漁港修築工事により、本城町地先から川口に至る下流約5000メートルの利根川沿岸は、近代的漁港として新しい姿に生まれ変わった[19]。濱口吉兵衛は銚子漁港修築の功労者として、1935年(昭和10年)10月、市の有力者間にその寿像建設の議がおこり、1937年(昭和12年)に完成した[17]

昭和前期[編集]

初代銚子市長 川村芳次

銚子の市制施行については、1923年(大正12年)頃から度々有識者間において話題となっていた。それは、社会的に一つの圏を形成してきた銚子3町3村が、行政的にも合併して名実共に銚子という一つのより強力な団体を形成することであった。その場合地方制度上市制が施行されることになり、行政水準の向上と地域の発展の可能性を期待することができた。銚子漁港修築工事は本銚子町、銚子町、西銚子町の3町区域に及び、これの起工を目前に控え市制施行の議が台頭したが、時期尚早であるとする論者が多数を占め、実現しなかった。銚子の市制施行がようやく現実の可能性を帯びてきたのは1932年(昭和7年)のことで、その動機は漁港修築工事の促進問題であった。その促進は大銚子市建設によって解決する他ないという議論が起こり、これが動機となって市制施行の好時期であることを一部が唱え始めた。このように世論が関心を持ち始めつつあった中で、町政関係者らは市制施行の意志を陳情の形で県当局に表示すると共に、必要な基礎的調査を要請した。1932年(昭和7年)に入ってから6月まで、銚子町長野口薫・本銚子町長内田為三郎らがしばしば出県して、当局と接触した。また西銚子町長仲内文造・豊浦村長山口幸太郎らも協力した。これに対して千葉県は極めて好意的な姿勢を示し、地方課長川村芳次をもって積極的な指導に当たらせることになった。8月20日、銚子町役場において、本銚子・銚子・西銚子・豊浦・高神3町2村の初の町村長会議が開かれ、県から川村地方課長外職員2人が出席して、市制施行実現に関する基本的事項を協議決定した。この決定に基づき、各町村から大銚子市建設委員と同代表委員が選定されて市制施行の準備体制が作られ、準備事務が進められた。この後9月27日、県は関係町村長を県庁に招集し、岡田文秀知事・川村地方課長らとの協議会を開き、同日付をもって知事の諮問を行った。諮問の内容は、各町村会に対して市制施行の可否を問うものであった。これに基づいて10月15日各町村は一斉に町村会を開いて答申案の審議を行い、銚子町・本銚子町・西銚子町・豊浦村の3町1村が市制施行を可とする答申案を議決した。そして内務大臣から正式な諮問が行われ、各町村会はいずれも異議なく議決答申した。この答申に基づき内務省は1月7日銚子市制施行を告示し、1933年(昭和8年)2月11日をもって銚子市の発足が決定した。千葉県で2番目、全国では116番目の市であった[19]

犬吠埼灯台
銚子市制祝賀の歌(藤田千葉縣内務部長作詞)

一、三つ銚子に 豊浦と 四つ揃ふて 大銚子 大和島根の 東海に その名も高き 大漁港 生まれ出でたり 紀元節

二、太平洋の 大しけも 大利根川の 荒波も 築港やがて 出来る時 大船小船の 數々は 河堤に抱かれ 夢まどか

三、春夏秋冬 變りなく エンサエンサの 漁獲船 ヤマサヒゲタの 工場は 日本一よと 氣を吐いて 賑ふ様の 勇ましさ

四、市の長には ピカ一を 市會議員に 一流を 五萬の市民 一となり 鹿島香取に 願かけて 市勢の發展 祈りませう

千葉県は臨時市長職務管掌として、当初より市制施行に力を尽くした地方課長川村芳次を任命し、3月3日最初の市会議員選挙を執行した。同時に臨時助役代理として野口薫・内田為三郎、臨時収入役代理として斎藤国衛が知事の任命を受けた。3月14日から3日間にわたって第1回市会が召集され、市会議長に大里庄治郎が選出され、市長に濱口吉兵衛が推薦された。しかし濱口の受諾を得なかったので、5月8日の市会は川村芳次を推挙した。これより先、川村は銚子市長職務管掌を解かれ、野口薫がこれに代わっていたが、5月14日改めて川村が初代市長に就任した。これに助役渡辺章六・収入役斎藤国衛をもって、新興銚子市の運営が開始された[17]。市制施行祝賀行事の中心行事である祝賀式は、6月3日飯沼町地先の第2漁船渠埋立地に新装された魚市場で挙行され、内務大臣代理以下市内外の関係者千余人の出席を見る盛典となった。その席上で川村市長は、本市の根本的性格を商工・水産・遊覧都市とし、この性格に立った近代的な都市づくりを施政の目標とすることを表明した。市の体制が漸次整うにつれて市政も軌道に乗り始めたが、将来の発展のための基盤として、市が鋭意努力を続けたのは、土木と教育面の建設的事業であった。土木特に道路整備に関する事業は、都市づくりの基本として、川村市長の就任以来常に市政の重点とされ、市内の道路は急速に整備されていった。1933年(昭和8年)5月には銚子観光協会が設立され、県立公園指定に関する陳情と銚子東京間列車時間短縮並びに増発に関する陳情を行った。県立公園指定が実現したのは2年後の1935年(昭和10年)5月であった。1934年(昭和9年)度には観光銚子の玄関の整備に着眼し、銚子駅の増改築と駅前広場の舗装を関係当局に陳情した。その結果、1936年(昭和11年)に銚子駅の全面的な改築が実現して、2階建のモダンな駅舎となった。本市が発足して4年後の1937年(昭和12年)2月11日、高神・海上両村の合併が実現し、近世以来銚子と汎称されてきた地域は、ここで全く一つの行政区画となった[19]

銚子にはかつて1900年(明治33年)4月開校の銚子中学校があった。しかし、県の緊縮財政方針のため、この中学校は開校後僅か数年にして、1906年(明治39年)3月に廃止された。だが地元銚子町外2町5村が学校組合(一部事務組合)を作って継承したので、名目が県立から組合立に変わっただけで、事実上は存続した。ところがその組合においても維持が困難となり、1911年(明治44年)4月に廃校が決定した。そしてこの直前の1909年(明治42年)4月に勧業振興のため実業教育の充実を意図した県は、銚子町に県下唯一の県立商業学校である銚子商業学校を新設した。このため、市制施行当時の公立男子中等学校は、銚子商業学校1校であった。そこで市制施行後、市会は県立中学校設置に関する意見書を県に提出し、早期実現を要請したが、県の財政事情から、可能性はほとんどなかった。一方、市民の要望はますます高まっていったため、1936年(昭和11年)度に市立中学校の新設が決定された。市立銚子中学校1937年(昭和12年)4月に開校し、仮校舎で授業を開始した。春日町の本校舎に移ったのは1938年(昭和13年)3月であった[19]

下志津陸軍飛行学校銚子分教場 女子挺身隊

銚子が市制を施行した時代は、日本が軍事体制の強化を推進しつつあった時代であった。1936年(昭和11年)、銚子に陸軍の飛行場が設置されることになった。飛行場設置の計画は、1935年(昭和10年)5月に、下志津陸軍飛行学校の幹事である後藤広三少将によって市当局にもたらされた。それによれば、同飛行学校の分教場を銚子に設置したいというものであった。銚子が選ばれたのは、訓練に適した地理にあったからである。以後陸軍と市との数次にわたる共同調査の結果、飛行場の位置は春日台の台地すなわち後の春日町から上野町にかけての約15万坪の畑地と決定された。飛行場建設工事は1936年(昭和11年)2月に開始され、年末の12月1日に開校した。常駐の隊員は50人〜60人程度で、常置の飛行機は20機前後であった。当初配置されていたのは八八式偵察機九一式戦闘機で、その後九四式偵察機が主力となり、これに九五式戦闘機が加わった。訓練科目は、偵察機の射撃訓練や戦闘機の戦闘訓練であった。1937年(昭和12年)になると日中戦争が勃発し、これに伴って軍の指導による民間防空監視隊がいち早く設置された。そして1940年(昭和15年)には海軍が防空監視部隊を銚子に常駐させるようになった。これは教育部隊ではなく、海軍の防空監視という戦時任務を担った部隊であった。この部隊は横須賀鎮守府犬吠望楼と称し、犬吠埼に駐屯した。太平洋戦争開戦後の本土防衛態勢は、1942年(昭和17年)4月18日に本土初空襲を受けてから真剣に考慮されるようになった。この空襲の後参謀本部は、当時最新の兵器であった「電波警戒機乙」と称するレーダー2個を、急遽銚子に配置した。愛宕山に陸軍のレーダー部隊が移駐してきて、地球展望台を中心にして付近にレーダーを設置し、終戦時まで対空監視の任に当たっていた。このレーダー部隊は、秘匿名を筑波隊と称し、本部は東京・赤坂の東部第1792部隊であった。兵舎は愛宕山に3棟設けられた。名洗町と高神町の中間と三宅町の2か所に筑波隊の分屯所があり、そこにもレーダーが置かれていた。さらに高神町と長崎町には、低空で侵入する敵機を捉えるため、聴音機器が2台配置されていた。筑波隊が愛宕山に基地を設けてから、これを擁護するため高神小学校に砲兵部隊が駐屯するようになった。この部隊は北村隊と称する砲兵中隊で、砲2門を有していたが、砲は10糎加農砲であった。北村隊は後に川口方面に移動した。筑波隊が愛宕山に移駐してきた1942年(昭和17年)4月に、海軍もまた愛宕山にレーダー基地を設置した。その中心部の跡は後に郵政省犬吠電波観測所になった。海軍のレーダー基地は横須賀鎮守府犬吠電波探信所と称した。レーダー部隊に続いて1943年(昭和18年)に、三崎町三丁目の旧字船ヶ作に千葉陸軍防空学校銚子分校が開校し、その後千葉陸軍高射学校銚子分校と改称した。高射砲訓練を行う、陸軍では唯一の学校であった。銚子分校が設けられたのは、海岸近くで実弾射撃の教育訓練を行うのに適していたからである。分校には高射砲6門が備えられ、1個大隊約320人の隊員が常駐していた。空襲時には対空戦闘を行う任務と戦力が与えられており、後の空襲時には何機かの敵艦載機を撃墜している。防空関係部隊の配置のほかに、陸軍では下志津陸軍飛行学校銚子分教場を舞台に、電波兵器の研究も行っていた[19]1944年(昭和19年)9月には、新生駅横から銚子港魚市場までの間、市街地を横断する臨港線が竣成した。東京都が鮮魚食糧難打開のため、その資材を提供して敷設したもので、戦後も漁獲物の輸送に非常な役割を果たした[17]

太平洋戦争末期の日本軍の配置と米軍の侵攻予定図

米軍の日本本土進攻を想定したいわゆる本土決戦の準備に、軍部が本格的に取り組み始めたのは、戦局の焦点が中部太平洋に移ってきた1944年(昭和19年)2月以降のことである。米軍上陸地として予想されるところは何か所かあったが、中でも最も重視されたのは関東沿岸と九州南部沿岸であった。関東沿岸は大別すると相模灘九十九里浜鹿島灘の3か所になり、この内九十九里浜が一番重視された。戦後明らかにされた米軍の作戦計画によると、1945年(昭和20年)11月にまず九州南部に上陸し、次いで1946年(昭和21年)3月に九十九里浜と相模湾に上陸する予定となっており、日本側の予測は的中していた。九十九里浜が重視されるとなると、その東端に近いところに位置する銚子も、決戦態勢の一翼を担わなければならなくなった。事実決戦準備の推進に伴って、海岸地帯を始め銚子近傍一帯に、陸軍の防御陣地や海軍の特攻基地が作られることになり、陸海軍部隊が派遣されてきた。そして末期には決戦部隊も移駐してきて、銚子は一段と緊迫した空気に包まれるようになった。最初に設置されたのは郷土防衛隊と通称される特殊な部隊であった。郷土防衛隊は正式には特設警備隊といい、1942年(昭和17年)制定の「陸軍防衛召集規則」によって召集された隊員によって編成された部隊であった。平常はごく少数の常置員がいるだけで、有事の際だけ隊員を召集して部隊を組織した。隊員は既教育の在郷軍人で、部隊が設置された地域の住民ばかりであった。銚子には1944年(昭和19年)2月に中隊が設置された。固有名は特設警備第26中隊といい、任務は銚子・飯岡地区の沿岸警備であった。中隊本部は後飯町の旧本銚子町役場跡に置かれ、隊長と下士官2が常置員になっていた。7月には高神分屯隊と飯岡分屯隊が設けられた。本格的な決戦準備段階に入ってから銚子に移駐してきた陸軍部隊は、沿岸築城の任務を帯びた近衛第3師団であった。銚子の陣地構築に関係したのは第3作業班と第5作業班で、砲台と歩兵の防御陣地を構築することになっていた。砲台は「銚子拠点強化」と「奇襲上陸防止」のための野砲の砲台と、「鹿島灘側射」と「艦船射撃」のための加農砲の砲台であった。築城が開始されると各地区で住民の労働力が動員されたが、銚子でも1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)にかけて、多くの学徒や一般市民が陣地構築作業に従事した。第5作業班が銚子で担当した陣地の位置は、植松町の通称不動山と台町の通称荒野台であった。陸軍の築城部隊と前後して、海軍もまた新たに銚子に配置されてきた。その一つは横浜ヨット株式会社銚子工場駐在の監督官と舟艇の回航要員であり、常時50〜60人の兵員の駐在がみられた。もう一つは救難艇の派遣である。干潟に駐屯していた香取海軍航空基地所属で、銚子漁港魚市場付近に繁留されていた。艇には対空射撃用の機銃が装備されており、また繁留池付近の陸上にも機銃が据えられており、空襲時にはいずれも対空射撃を行っている[19]

特攻艇「震洋」

そしてさらには、特攻基地の建設部隊が派遣されてきた。人員としては前者よりこの方がはるかに多数である。この特攻基地は特攻機の基地ではなく特攻艇の基地である。当時の香取郡豊里村には、既に1944年(昭和19年)4月頃から基地建設部隊が移駐してきて、作業を開始していた。基地建設の主たる作業は特攻艇を格納しておく洞窟を掘ることで、陸軍の築城作業とほとんど同じものであった。豊里に移駐してきた部隊は香取海軍航空隊所属の部隊で、佐藤部隊と称し、隊員は整備兵を主体とする約500人の部隊であった。佐藤部隊は豊里小学校や付近の民家に宿営して、県道銚子佐原線(後の国道356号)に沿う下総台地の縁辺に洞窟を掘り進めた。銚子に基地建設部隊が派遣されてきたのは豊里方面より遅く、1945年(昭和20年)3月下旬であった。この部隊もまた香取海軍航空隊所属の部隊で、豊里の佐藤部隊と同種の部隊であった。部隊名は松宗部隊、隊員は約200人である。松宗部隊は明神小学校に宿営して、弥生町から幸町に至る台地の縁辺に洞窟を掘り進めた。このほか、当時の飯沼小学校、後の後飯町公園内にも掘った。これは特攻艇格納のためのものではなく、特攻要員の居住する濠であった。明神小学校に宿営してこれらの作業をしていたのは松宗部隊の約半数で、残りの半数は外川分遣隊となり、犬吠の暁鶏館に宿営して外川方面で作業をしていた。外川方面の基地は外川四丁目の台地の地下に作られたが、ここは他と違って特攻艇格納庫のほかに火薬庫なども設けられ、かなり複雑な構造になっていた。これらの特攻基地に運ばれたのは、横浜ヨット銚子工場で製作されていた「震洋」であった。豊里や弥生町、幸町の基地では、これを洞窟から利根川に引き出し、河口から太平洋に出て敵艦船に突入する計画であった。外川の基地は目の前が海である[19]

本土決戦準備の最終段階で銚子に進駐してきたのは、米上陸軍を沿岸地帯で撃滅する任務を帯びた陸軍の決戦部隊であった。その兵力およそ5000、主力は歩兵1個連隊で、ほかに砲兵約1000である。この歩兵連隊は第152師団に属する歩兵第437連隊であった。第152師団には護沢という秘匿名が付けられ、歩兵第430連隊は護沢第22603部隊と称した。略して護沢03部隊ともいう。護沢部隊の担任地域は香取郡笹川町付近を要として、北は神栖村神之池南部、南は海上郡飯岡町と旭町の境付近まで広がる扇状の地域であり、銚子が最も重要な地点となった。護沢部隊司令部は海上郡椎柴村猿田に進出すると共に、護沢03部隊を銚子に進出させて銚子地区隊とした。師団司令部の猿田進出は8月早々で、猿田神社神官宅を宿舎とし、神社を中心にして付近に師団各部を配した。護沢03部隊が銚子に進出したのは7月7日であった。連隊本部の位置を県立銚子工業学校に定め、各隊は市内の中学校・小学校・寺院等に分駐した。銚子駐屯時の兵力は約4千であった。またこのほか野砲3個中隊12門、15糎加農砲1個中隊4門、計1000人の砲兵が配置され、隷・指揮下の歩兵・砲兵の総兵力は5000人であった。銚子進駐後の護沢03部隊が開始したのは、部隊の決戦用陣地の構築であった。主たる任務は銚子半島の防衛で、米軍が銚子にも上陸することになった場合、これらの陣地によって決戦を交えることになっていた。また九十九里浜や鹿島灘に上陸の場合は、側面からこれを砲撃することにもなっていた。さらに第52軍は護沢部隊(師団)に対して、米軍が銚子方面に進攻し、利根川を利用して内陸部に進入するおそれが出てきたら、直ちに短時間のうちに河口を閉塞する方法の研究を命じていた[19]

グラマンF6Fヘルキャット

マリアナ基地からのB29が初めて関東地区に飛来したのは、サイパン陥落4か月後の1944年(昭和19年)11月1日であった。以後関東地区や中部地区には、連日のように40機から100機のB29が来襲するようになった。B29が関東地区を空襲するようになってから、銚子上空はB29の関東地区侵入口あるいは退出路となった。2月になるとB29ばかりでなく、艦載機までが来襲するようになった。そのことは日本が、太平洋における制海・制空権をほとんど失っていたことを示すものであった。艦載機が関東地区に初めて来襲したのは1945年(昭和20年)2月16日であった。総数は約950機で、機種はグラマンF6FヴォートシコルスキーF4UカーチスSB2CグラマンTBF等であった。日本の海軍には、艦隊を出撃させてこの機動部隊を洋上で制圧するだけの戦力は残されていなかった。これらの艦載機は、午前7時過ぎから午後4時近くまで、7回にわたって来襲した。目標は主として陸海軍の飛行場であった。このうち第1波は鹿島灘・房総半島南端・三浦半島の三方から侵入し、午前8時5分頃まで約50分間にわたり、千葉・茨城両県下の飛行場を攻撃した。銚子にも陸軍の飛行場があったので、第1波の攻撃目標になった。市街地に対しても若干銃撃したが、ほとんど損害はなかった。そして17日にも総数約590機の艦載機が、午前6時42分から同12時40分まで約6時間、4回にわたって関東地区に波状攻撃をかけ、銚子も再び襲撃された。目標はやはり飛行場で、前日と同じように大きな損害はなかった。関東地区防衛の任にあたっていた作戦部隊は敵艦載機迎撃のために出撃し、日本本土の上空で空中戦を展開した。地上の高射部隊も戦った。2日間の総合戦果は撃墜約400機、撃破約百数十機と報告されたが、日本軍もまた100機前後を失った。関東地区に対する米艦載機の攻撃は、この後25日にもあった。時刻は午前7時半過ぎから同10時半頃までで、来襲機数は約600機とみられた。銚子はこの日も目標になった。この日、日本軍の飛行機は出撃せず、応戦したのは高射砲だけであった[19]

B29スーパーフォートレス

B29と艦載機を交えた本土空襲はいよいよ熾烈化してきたが、この頃米軍の戦略爆撃は大きく転換しようとしていた。これまでの爆撃は、軍需工場や軍施設等いわゆる特定の戦略目標を主とし、また爆撃方法も高々度からレーダーあるいは目視で、爆弾を投下することを基本としていた。このような爆撃を改め、木造家屋が密集し、かつまた軍需生産力の一端を構成している中小工場の密集する日本の都市そのものを焼夷弾によって徹底的に焼き尽くせば、国民も戦意を喪失し生産も低下し、はるかに大きな効果をあげることができるだろうと考えた。この新しい戦略爆撃は3月9日の夜初めて実行され、銚子は首都東京と共にその犠牲となった。この夜午後12時近い頃、B29の梯団は房総半島南端から続々と本土上空に侵入し、東京を目指して一路北上した。しかし折から関東地区には風速20メートルから30メートルの強い北風が吹いていたため、各地のレーダーは正常に作動せず、これを迅速的確に捉えることができなかった。そのため10日午前零時8分に突然東京の月島付近に第1弾が投下され、それから数分たった午前零時15分にようやく空襲警報が発令された。この一夜の空襲で、東京は従来の爆撃を何倍も上回る致命的な打撃を被った。銚子が空襲されたのは東京とほぼ同じ頃であった。銚子にとってはB29による初めての本格的な空襲であった。また2月の敵艦載機の空襲は陸軍の飛行場が主たる目標であったが、今度は市民の生活の場である銚子の都市地域そのものが目標にされた。この夜のB29は2000〜3000メートルもしくはそれ以下の高度で銚子に侵入し、照明弾を投下しながら栄町・陣屋町・新生・興野・本通り方面に大量の焼夷弾を投下した。この地域は市役所を中心とする市の最も中心部であった。この夜投下された焼夷弾は、100ポンド膠化ガソリン弾(M47)14発、500ポンド集束弾 (M69) 59発、500ポンド・マグネシウム爆弾(M76)105発であった。各所に火災が発生し、折からの強風に煽られて燃え広がり、やがて市中心部は火の海となった。B29が銚子を攻撃していた時間は、30分から1時間の間であった。火災は夜が明けるまで続いた。新生二丁目ではいったん消し止めた火が朝になってから再び燃え上がり、さらに陣屋町・南町・前宿町にまで延焼した。空襲に対する唯一の民間防衛組織は警防団であった。銚子市警防団は本部常備消防部ばかりでなく、各分団も出動し、手挽や腕用のポンプで消火に努めた。対岸の波崎町では、天を焦がすような火災に包まれた銚子の大事を見て、救援の手挽ポンプ車2台を揚操漁船に載せて派遣してきた。市中心部を攻撃したB29は、さらに西部農業地帯の四日市場・余山・高野・三宅の各町にも焼夷弾を投下した。また戦後市に編入された船木・椎柴・豊里・豊岡の各村をも襲った。この夜の損害は、焼失戸数1000余戸、死者47人、負傷者163人であった。市内の主な焼失建物は、銚子市役所・銚子勤労動員署・銚子保健所・財団法人済生会銚子診療所・銚子醤油株式会社銚子事務所・ヤマサ醤油株式会社第1工場・宝醤油株式会社・銚子信用組合・県立銚子高等女学校・白幡神社・宝満寺・大慈寺等であった。人的被害のほとんどは大火災によるものであるが、その中には防空壕の中で4、5人の家族や10余人もの家族・隣人らが全滅するという例もあった。また焼夷弾の直撃を受けた者も少なくなかった。駅前通りの商店街は何一つない焼け野原となり、駅頭から利根川まで見通す状態となった。罹災後の市役所は三軒町の県立銚子工業学校の校舎に移転、次いで4月1日に興野国民学校講堂に移転した。銚子にはその後しばらくB29は襲ってこなかったが、艦載機の空襲は頻繁になった。空襲警報は連日のように発令され、敵機は思いのままに上空を飛び回った。5月2日には、対岸の波崎町別所方面から水陸両用機が侵入し、本城町を中心に爆弾投下や機銃掃射を行った。出漁中の漁船も海上でしばしば襲われた[19]

艦載機が連日のように銚子に来襲していた最中の、6月10日7月6日に2度にわたって、千葉市がB29に空襲されて焦土と化した。千葉県下では銚子に次ぐ2番目の被災であった。そして7月19日の夜間、銚子は3月の規模をはるかに上回る2度目のB29の大空襲を受け、市街地の主要地域はほとんど壊滅した。B29侵入後わずか3分で電話は不通となり、送電は途絶え、そして30分後にはほとんど全市が猛火に包まれた。来襲機数は91機という多数であった。投下した焼夷弾・爆弾の数量は、M69焼夷弾2988発、破砕性爆弾156発、合計629トンである。M69焼夷弾は1発の親弾から48発の子弾 = ナパーム弾が出てくるため、ナパーム弾の総数は実に14万3424発になる。B29は最初に市街地の南端に当たる下総台地の縁辺に焼夷弾を投下し、次いで西側に、さらに東側に投下した。残る北側は利根川であるため、三方に焼夷弾を落とされた場合、四方を囲まれたのと同然であった。B29はそこへさらに焼夷弾を投下し、爆弾・機銃による攻撃を加えた。馬場町の映画館銚子座は鉄筋コンクリート造りの頑丈な建物であったので、付近の人々は誰もが安全と思ってそこへ避難した。しかし当時は狭い路地の奥にあったため、周囲の家屋が燃え上がると全く火に包まれ、逃げ出すこともできず全員が焼死した。愛宕町の通称サンメ(三昧)は、畑に囲まれた凹地の中の墓地であったので、付近の住民が多数逃げ込んだ。B29はそれを機銃掃射したので、多数の犠牲者が出た。警防団はこの夜も消防と救護に奮闘した。また銚子が大空襲を受けていることを知った八日市場町と東金町から、消防自動車各1台が救援に駆け付けた。しかしこの夜の被弾地域は広く、投下された焼夷弾の数も膨大であったので、到底これらの消防能力では及ばなかった。そのうえ3月にはなかった爆弾と機銃の攻撃があったので、消火作業は困難を極め、ほとんど燃えるに任せるしかなかった。警防団の中からも何人かの殉職者が出た。一夜明けて20日の朝が訪れると、全市を挙げての救護活動が行われた。負傷者の救護が急務となり、市内の全医師、全医療機関が動員された。この7月空襲の損害は、焼失戸数3950戸、死者278人、負傷者は808人であった。このうち死者の処置については、市の火葬場が焼失したため、3月の空襲で焼失した宝満寺境内に多数の遺体を収容し、合同の火葬に付した。焼失した公共建物その他主要建物は、銚子駅・銚子警察署・銚子測候所・八日市場区裁判所銚子出張所・銚子税務署・千葉県銚子土木出張所・千葉県銚子漁港修築事務所・市立銚子中学校・市立銚子高等女学校・市立銚子国民学校・市立春日国民学校・市立興野国民学校・市立若宮国民学校・市立飯沼国民学校・銚子商工会議所・銚港神社・峯神社・飯沼観音・浄国寺・銚子市警防団本部常備消防部詰所・市立伝染病院・市営火葬場等であった。焼失戸数は当時の市の全戸数の30パーセント強で、市街地の中枢部は全滅状態であった。そのため焼失地域の市民たちは、当時しばしば自分の家の焼け跡から「御前鬼山が見えるようになった」という言い方をした。御前鬼山は標高わずか26メートル余の小さな丘で、焼失前は市街地から御前鬼山が見えることは、建物に遮られてほとんどなかった[19]

玉音放送を告知する新聞記事

B29の2度の空襲で、銚子の街はほとんど廃墟と化した。しかし空襲は依然として止むことがなかった。F6FヘルキャットやP51ムスタングのような戦闘機が連日のように飛来し、横浜ヨットのような軍需工場や愛宕山の軍施設等を銃撃した。そのほか人家や通行人、陣地構築の作業現場、走行中の列車等も目標になった。戦闘機の来襲は、敵機動部隊が絶えず日本近海を遊弋していることを示している。そして8月1日の夜、内浜町を中心にして一部南町や前宿町方面にも及ぶ、B29の3度目の空襲に見舞われた。死者4人、負傷者37人、焼失戸数約350余戸であった。次いで8月5日夜に4度目のB29の空襲があった。負傷者12人、焼失戸数約28戸であった。米軍機の本土空襲は終戦の日の8月15日まで続き、銚子上空から敵機の爆音が消えた日はなかった。8月15日も早朝から艦載機が来襲し、新生駅が銃撃されたり、銚子鉄道の仲ノ町駅に爆弾が投下されたりした。また八幡町のヒゲタ醤油第2工場にも爆弾が2発落とされたが、不発であったので大きな損害はなかった。銚子上空から敵機の爆音が消え去ったのは、終戦を告げる玉音放送がラジオから流れ始めた正午頃であった[19]

太平洋戦争の戦域

1937年(昭和12年)に始まる日中戦争を含めた太平洋戦争は、銚子に有形無形の莫大な損害をもたらした。損害の最たるものは人的損害であり、人的損害の主たるものは、兵力として動員された軍人と、これに準ずる軍属の損害である。軍人・軍属の損害すなわち戦没者に関する資料として、市に保存されているのは「支那事変遺族台帳」全1冊と「遺族台帳」全6冊である。これらの台帳は旧市内に戦没者に関するもので、戦後合併した新市域の戦没者に関する資料としては「戦没者名簿」がある。以上の資料に基づいて本市の戦没者数を集計すると、旧市域1726人、新市域476人、計2202人である。戦没した地域は、北はアリューシャン列島満州から、南はセレベスニューギニアソロモンの諸島に至るまで、太平洋戦争の全地域にわたる。1955年(昭和30年)11月20日、前宿町公園に忠霊塔が完成した。戦没者ばかりでなく、戦災死者も合祀されている。12月17日に除幕式と合同慰霊祭が行われ、以後毎年秋に市主催の戦没者追悼式が行われている。なお終戦時まで御前鬼山にあった忠魂碑は撤去され、忠霊塔のそばに再建された。また、1984年(昭和59年)9月の市議会において市民1480人から提出された請願が採択されたことを受けて、同年9月14日に「非核・平和都市宣言」を行い、以後この宣言趣旨に則って、各種事業を展開している[19]

現代[編集]

昭和後期[編集]

昭和天皇の地方巡幸

1945年(昭和20年)10月になると、ヤマサ醤油株式会社事務所を接収して、米軍が駐屯するようになった。進駐期日は10月11日で、1946年(昭和21年)7月まで駐屯していた。この米軍の任務は、関東各地に残された旧日本軍の爆弾・砲弾を、銚子漁港から海洋に運び出して投棄処理することにあった。投棄作業は横浜海運株式会社が請け負ったが、戦時中の名残りである銚子市勤労報国隊も動員されている。関東各地の爆弾・砲弾は銚子駅から臨港線によって更に漁港に運ばれて、岸壁に集積された。これを徴用漁船に積載し、米軍の指示する海域に投棄した。投棄作業に従事した漁船は銚子・波崎・片貝方面の漁船であった。爆弾類の投棄処理が終わると、米軍は間もなく銚子を去り、以後米軍の駐留は見られなくなった。バラック建築は終戦直後から始まり、どこからでも御前鬼山が見えた焼け跡にも次第に家が立ち並び、1946年(昭和21年)中には町らしくなってきた。そして大通りに面した家々では商売らしいものも始めるようになった。この時代にはまたヤミ商売が盛んに行われた。業者らのこのような経済活動は、違法なヤミを伴うものであったにしても、一面から見れば旺盛な生活力の発揮であり、それが銚子の地域経済を活発にし、戦災復興の大きな原動力となった。銚子の水産物の主要消費市場は市外・県外であり、業者らの活動が多額の新円を市内に流入させることとなり、それが他の業種にも経済効果を波及した。1946年(昭和21年)6月6日7日には、地方巡幸を行っていた昭和天皇が銚子に行幸した。天皇は6日午後銚子駅に到着し、7日にかけて銚子商業学校、銚子造船所、魚市場、犬吠埼灯台、ヤマサ醤油株式会社を視察し、奉迎の人々に親しく声をかけて激励した。銚子市漁業会からは、タイやエビ等の鮮魚を献上した。夜間、天皇は新生駅まで入れたお召し列車の車中に宿泊した[19]

戦災によって国内の主要市街地の多くが焦土と化し、その復興が急務とされていた終戦直後、最大の課題は市街地の復興であった。国は、1945年(昭和20年)12月30日に、将来の地域発展に即応した都市計画を樹立して土地区画整理事業を急施することが基礎であるとの戦災地復興計画基本方針を示した。市は、この国の方針にそって都市計画事業を円滑に進めるため県に援助を要請した結果、千葉県が主体となって土地区画整理事業を施行し、市は街路事業と公園事業を分担することとなった[19]。都市計画の立案・設計に当たっては、帝都の外廓都市群の一として安定した工業基地の条件を備え、農産・水産加工、農・漁業関係機械工業、造船業等の基地であり、漁港、観光都市、臨海水辺都市の性格を持つ生産・消費兼備の強力都市であることに重点をおき、人口計画については将来10万を想定した[19][17]。1946年(昭和21年)度には街路事業と水道事業の工事が一部開始され、1947年(昭和22年)度には土地区画整理事業における建物移転工事とガス管移設工事が、さらに1948年(昭和23年)度には公園事業の工事が開始された。しかし、土地区画整理事業が土地・建物の権利者の利害に大きく関係するため、権利者との交渉に予想以上の時間を要し、当初計画は整理・圧縮された。その結果、区域面積の縮小、街路・公園事業の変更がなされたほか、第3工区(田中町方面)を戦災復興事業から除外して都市改造事業として別途に執行することになった。工事は変更された期限どおり1959年(昭和34年)度に終了した。戦災復興都市計画事業の施行によって、銚子市街の景観は一新した。広い幹線街路と幹線街路間を結ぶ区画街路によって街区は整然と区画され、戦前の市街との変化は著しいものがある。最も目立った変化は、従来市の中心部に位置してきた宝満寺が、その広大な墓地とともに台町に移転したことで、これによって市街地を東西に貫く大幹線街路が実現した。この後、日本経済高度成長時代を迎え、本市においても商店街を中心とする市街の近代化が著しく進展し得たのは、その基盤がこの事業によって作られていたためであった。戦災復興事業から除かれた第3工区(田中町方面)の土地区画整理は、戦災復興事業の工事終了に引き続いて、都市改造事業として別途に実施された。正式の事業名は銚子都市計画飯沼都市改造土地区画整理事業と名付けられた。事業の大要は、施行区域内の東西に走る2つの幹線道路、すなわち、既に都市計画街路として決定されていた松本町通町線(田中通り)と広小路黒生線(東町通り)を拡幅の上整備するとともに、この2つの幹線街路を結ぶ区画街路を整備して、整然とした街区を作ろうというものであった。土地区画整理に基づく建物の移転、道路・公園等の整備工事は、1959年(昭和34年)度から逐次開始され、10年の歳月を費やして1968年(昭和43年)度に終了した。飯沼都市改造区域は戦災復興事業の第1工区に続く区域であったので、これによって両区域はようやく一体化して整然としたものとなった[19]

国は、国と地方の行政事務の再配分と町村規模の合理化のため、1953年(昭和28年)9月に「町村合併促進法」を、1956年(昭和31年)6月に「新市町村建設促進法」を公布し、市町村合併を推進した。このような背景の中で、本市は1954年(昭和29年)4月1日に海上郡船木村・椎柴村、1955年(昭和30年)2月11日に香取郡豊里村、1956年(昭和31年)4月10日に海上郡豊岡村を編入合併した。この市村合併は、行政区域の規模の適正化により行政水準の維持を図ることを目的としたものであった。なお、豊岡村を除く3村の合併は円滑に進められたが、豊岡村の場合は村内が分裂・対立して極めて難航し、その最終的な決着までには足掛け4年を要した。これらの市村合併により、市の人口はそれまでの7万人台から一挙に9万人台に増加し、市制施行当時の約2倍となった[19]

第1次池田内閣
実質国内総生産の推移

戦後の日本経済は、1950年(昭和35年)勃発の朝鮮戦争による特需景気が復興本格化のきっかけとなり、1950年代後半からの神武景気1960年代後半のいざなぎ景気を経て、類稀な高度経済成長を遂げた。以後日本は世界の経済大国として歩み始め、僅々30余年の間に有史以来の豊かな時代に到達した。1955年(昭和30年)の「経済自立五か年計画」、1960年(昭和35年)の「国民所得倍増計画」、1962年(昭和37年)の「全国総合開発計画」等によって、日本各地で拠点開発方式の経済産業発展政策が強力に推し進められた。とりわけ、千葉県における東京湾沿岸地帯の工業化の進展は著しいものがあった。首都近郊50キロ圏への産業・人口・都市機能の集中、成田の新東京国際空港の建設、茨城県鹿島開発の進展等、本市を取り巻く環境が大きく変化する中で、市は1961年(昭和36年)に「市勢振興調査」を全国市長会に委託し、既存産業の一層の発展、大工業化・新産業創設の可能性、今後の地方都市のあり方等を重点に調査研究を進めた。この調査結果に基づき、嶋田隆市長は1966年(昭和41年)に、初の自主的・総合的な行政計画として「銚子市長期計画」を策定した。目標年次は1985年(昭和60年)、人口規模は15万人、健康な環境のもと充実した機能を持った理想的地方都市づくりを目指し、経済基盤の確立、生活基盤の充実、市民生活の向上を実現しようとするものであった。1966年(昭和41年)度以降、この長期計画に基づく5か年の「実施計画」によって、各種重要施策の推進が図られた。その後「地方自治法」の改正にあわせて、1973年(昭和48年)に「銚子市基本構想」を定めた。この初の「基本構想」は、市民福祉の増進を目的に、東総地域等における近代的な中核都市として「住みよい豊かな文化・産業都市」を将来像とし、基礎的条件の整備、生活環境の整備と社会福祉等の充実、教育文化水準の向上及び産業の振興を施策の大綱と定めたものであった。同時に、1973年(昭和48年)度から1977年(昭和52年)度までの5か年計画として「銚子市基本計画」を定め、その後、1978年(昭和53年)3月に「第二次基本計画」が策定された。いずれも、3か年の「実施計画」を毎年度見直し補正するローリング方式により、予算編成との整合を図って政策的事業の総合的・計画的推進を期した[19]

銚子・波崎間の交通は波崎町営の旅客用渡船と自動車渡船に依存しており、利根川架橋は明治以来銚子・波崎の住民にとっての念願であった。利根川架橋問題が台頭してきた1950年代後半は、有料道路方式による道路整備に関する法令が着々と整備されつつあった時代で、1956年(昭和31年)3月には「日本道路公団法」が公布され、道路整備事業の新しい主要な担い手として、日本道路公団が設立された。このような情勢に基づいて、市では波崎町に呼びかけ、千葉・茨城両県に働きかけて、利根川架橋の実現の可能性について協議検討を行った。そして前記4者による銚子波崎間利根川架橋建設期成同盟会を結成し、日本道路公団に実現方の陳情を行った。これを受けて、1957年(昭和32年)に入ってから、技術・経済両面からの詳細な調査が本格的に開始された。この調査がほぼ完了するまでには2年を要し、1959年(昭和34年)6月に至って、仮称銚子大橋の架設事業実施は決定的となった。また同年中に架橋地点や橋の規模等も確定した。起工式は1960年(昭和35年)4月4日、波崎町明神前で挙行された。本工事の橋の下部構造である橋脚工事には、潜函工法という当時としては新しい工法が使われ、24時間作業が続けられた。工事は予定通り1962年(昭和37年)12月に完成した。日本道路公団は公募された名称の中から「銚子大橋」を選んで、10月9日正式名称と決定した。開通式は1962年(昭和37年)12月10日に行われた。この日市内は祝賀一色となり、銚子大橋付近や主要な街頭は空前の人出で終日賑わった。開通後の銚子大橋の車両通行量は毎年増加の一途をたどり、建設前の基礎調査における予想を遥かに上回るものとなり、日本道路公団は1974年(昭和49年)に入って全ての経費償還を完了した。同年5月23日から銚子大橋の管理は千葉県に移され、同時に無料化された。開通以来11年半のことで、当初決定された30年の有料期間は約3分の1に短縮された[19]

市内には一般国道が3路線あるが、このうち最も主要な国道は千葉・銚子間を結ぶ国道126号である。これは終戦後はまだ県道であったが、本市と首都周辺を結ぶ唯一最大の道路であったので、市の産業経済に与える影響が大きく、1951年(昭和26年)頃から千葉県に陳情してまず舗装化を図った。次いで国道への昇格を実現した。当時国道は一級・二級に分けられており、国道126号は1953年(昭和28年)5月18日、政令第96号をもって二級国道に指定され同日施行された。後に一級・二級国道の区別は廃止され、一般国道となっている。自動車交通の時代に入って、貨物輸送を始めその他の交通における大動脈としての役割は極めて大きい。国道356号は県道銚子佐原線が、1974年(昭和49年)11月12日に政令第364号で一般国道に指定され、1975年(昭和50年)4月1日から施行されたもので、国道126号に次ぐ市の動脈である。国道124号は銚子大橋のたもとの交差点から銚子大橋上の県境に至るまでの区間が市の区域に属し、水戸市に至る国道で本市と茨城県を結ぶ最大の幹線道路になっている。1960年代初頭、市と市議会は、首都・県都方面に至る広域高速道路の建設促進に取り組み始めた。1960年(昭和35年)7月、銚子市長・市議会代表議員の連名をもって、千葉県知事に対して銚子船橋間の高速道路新設の陳情が行われた。1962年(昭和37年)2月には、銚子市長を会長として3市4町1村が「銚子船橋間高速道路建設期成同盟会」を設立し、以後、沿線市町村は連携して国・千葉県に要望を重ねた[19]

1974年(昭和49年)撮影の銚子漁港航空写真

1925年(大正14年)開始の千葉県営事業=銚子漁港修築工事は戦後の1946年(昭和21年)に一応終了した。この第1期工事によって、銚子港は初めて漁港としての近代的な施設と機能を備え、本市の漁業発展の大原動力となった。1946年(昭和21年)度からは、未完成であった一の島防波堤工事が県の公共事業として進められ、1953年(昭和28年)度に竣工した。1948年(昭和23年)11月からは、市や漁業関係者の要請により、導流堤工事が建設省の直轄工事として着手され、1960年(昭和35年)に竣工した。漁港修築が制度的に確立されたのは、1950年(昭和25年)に「漁港法」が制定されてからであり、銚子漁港はこの法律に基づいて、まず1951年(昭和26年)7月10日農林省告示第255号をもって第3種漁港に指定され、次いで1960年(昭和35年)3月21日に政令第37号をもって特定第3種漁港に指定された。このような制度下において、銚子市漁業協同組合や市は、第1期工事に次ぐ銚子漁港の画期的な修築事業である外港計画が実現するよう、水産庁や県に対して要請した。その結果1963年(昭和38年)3月に成立した第3次漁港整備計画において、全国38港の一つとして取り上げられることになった。外港計画の基本構想は、既設の一の島防波堤と夫婦ヶ鼻から、沖合いに向かって新たに防波堤を構築し、その内側の水域を外港とする、この外港から内港すなわち既設の第1漁船渠及び第2漁船渠に通ずる新しい航路を設ける、同時に内港も拡張整備する、というものであった。起工式は1963年(昭和38年)8月3日、東魚市場において挙行された。銚子漁港の抜本的改修ともいわれた戦後の大修築事業はこうして開始され、1964年(昭和39年)4月1日、千葉県は銚子漁港事務所を設置し、事業の執行に当たらせることにした。第3次漁港整備計画の工事は1968年(昭和43年)度で終了となり、未完成部分は1969年(昭和44年)成立の第4次漁港整備計画に繰り越して続行することになった。この計画の目的は、銚子漁港が大型船漁業の基地となれるように整備するとともに、これまで銚子漁港を発展させてきた沖合沿岸漁業の施設を整備拡充することであった。1971年(昭和46年)9月には、利根川を航行しない新航路が暫定的に完成開通し、以後河口付近における漁船の遭難は後を絶っている。この第4次計画の実施過程において、既定計画を大幅に拡大する構想が起こった。具体的には、夫婦ヶ鼻からさらに黒生漁港に至るまでの間をも外港にしようというものである。その大きさは一の島・夫婦ヶ鼻間の外港を遥かに凌駕し、実現すれば銚子の東海岸のほぼ3分の1が漁港化することになる。この計画は、1973年(昭和48年)3月成立の第5次漁港整備計画において採択された。工事はその後の第6次以降の漁港整備計画においても着々と推進され、東防波堤は黒生沖に向かって延び、また夫婦ヶ鼻南の沿岸部も順次埋め立てられた。水産物流通・加工の合理化については、1974年(昭和49年)度以降、銚子漁港整備の進展と連動しながら、水産物産地流通加工拠点づくりのための国庫補助事業として順次実施された。これにより、銚子漁港はもはや利根川の河口港ではなくなり、太平洋に臨む広大な外港とこれに続く内港とによって、近代的漁港として歴史的な変貌を遂げた[19]

外川漁港は、大正年代に入ってから漁船が動力化し大型化してきたため、近代漁業の基地としては機能し得なくなった。そこで地元の高神村では、県費の補助を受けて1922年(大正11年)から全面的な修築事業を開始した。1937年(昭和12年)に高神村が本市と合併したので、以後市が事業を継続し、1943年(昭和18年)に完成した。このようにして近代化した外川漁港も、戦後間もなく漁業の復興発達に伴って狭小になってきたので、市は1948年(昭和23年)9月から大々的な改修工事を開始した。この改修工事は1950年(昭和25年)3月に竣工したが、これ以後毎年のように維持工事・補強工事・災害復旧工事を繰り返さねばならなかった。そのため、1967年(昭和42年)10月21日に市・外川漁業協同組合を中心として、外川漁港整備促進期成同盟会が結成され、同年12月25日に千葉県知事に対し、県移管と第4次漁港整備計画による改修促進の陳情を行った。そして1969年(昭和44年)に至って、第4次漁港整備計画における採択と県移管が実現することとなった。修築計画の大要は、名勝千騎ヶ岩を含めて、外川西浜海岸全体を漁港化しようとするものである。外川漁港修築工事の起工式は、1969年(昭和44年)5月に現地で行われた。後背地の公共用地の埋立造成は1977年(昭和52年)度からの第6次漁港整備計画で着手され、その後、第8次、第9次の整備計画において実施された。この公共用地には、漁港機能施設としての水揚荷捌施設、製氷貯氷施設、漁村センター、漁船漁具保全施設等が整備されている。外川漁港修築の進展に伴って、1977年(昭和52年)10月24日に、銚子市外川漁業協同組合地方卸売市場の開設と卸売業務の知事許可を得て、1980年(昭和55年)4月に市場業務が開始されることとなった[19]

本市南岸の名洗・犬若海岸は、九十九里浜に連なる屏風ヶ浦が、その東端において小さく湾曲したところで、若干天然の港湾形態を備えていたが、ここに近代的な港湾を建設しようという構想は、1950年(昭和25年)1月16日に開かれた市議会議員協議会において、初めて寺井耕一・根本龍治議員らによって提唱された。両議員が打ち出した具体化の方法は、まず第一段階として避難港を建設し、次いでこれを遠洋漁業基地化し、さらに最終的には商港化するというものであった。両議員がこのような構想を提唱したのは、名洗港をもって市の新しい発展の基盤にしたいという考えからであった。両議員の提唱は協議会で全面的に賛同され、3月26日に公正市民館において、大銚子避難港建設期成同盟会が発足した。発足後の期成同盟会は、4月27日に国会と所管官庁である運輸省に最初の陳情を行った。そして5月12日に閣議は名洗港を避難港に指定することを決定し、1951年(昭和26年)1月19日に指定の政令が公布された。避難港指定が閣議決定された後は、運動は運輸省の直轄による施工と早期着工へと向かい、1952年(昭和27年)度に予算化された。起工式は1952年(昭和27年)6月27日に名洗町の海岸において挙行された。避難港指定の2年後の1953年(昭和28年)3月25日、名洗港は、千葉県が港湾管理者となる地方港湾として5月8日に漁港区域指定の千葉県告示がなされた。1965年(昭和40年)度に避難港工事は完了し、1966年(昭和41年)度からは千葉県が国の「港湾整備計画」による整備を開始した。3000トン級船舶・小型船舶が接岸できるように、護岸・岸壁の整備、泊地・航路の浚渫、防波堤の延長が計画され、1968年(昭和43年)度以降も引き続き「港湾整備計画」により整備が実施された。この間、1969年(昭和44年)6月13日に名洗港は地方港湾として供用開始された。名洗港の整備と並行して、市は港湾施設用地の確保と企業誘致による本市産業の高度化を目的とする市単独事業として工業用地の造成を行った。1965年(昭和40年)11月から名洗港港湾区域の公有水面埋立に着工し、第1工区は1967年(昭和42年)9月、第2工区は1970年(昭和45年)11月に竣工認可となった。工業用地への企業の進出については、造成目的に適合したものを受け入れることとし、第1工区は1985年(昭和60年)度中に分譲を完了した。第2工区については、名洗港整備計画との関連をみながら、港湾の発展に有効な土地利用を図るために、当面は分譲することなく市有地のまま保留された。1973年(昭和48年)に入ってからは、名洗港の重要港湾昇格の促進運動が開始された[19]

本市の農業の主たるものは畑作であり、その基幹作物は戦前から甘薯とであった。野菜の栽培は農家の自家用程度にしか行われていなかった。しかし、戦後の経営改善の中で、野菜が甘薯や麦を退けて畑作の主流を成すようになった。野菜はキャベツを中心として多種多様な品目にわたっている。このことが戦後の本市の農業の推移変遷における最大の特徴である。この転換を可能にしたのは時代の変化であった。それは日本の人口の大都市集中と、自動車による貨物運送の飛躍的な発達によって、生鮮野菜の流通圏がほとんど全国に拡大したことであった。銚子の畑作における基幹作物転換の先駆となり、やがてその王座を占めるようになったキャベツの栽培は、高神地区を中心とする東部地区から始まった。その後、各地区で栽培意欲が高まり、産地体制・販売体制の確立を図るため、1957年(昭和32年)に「灯台印」銚子市蔬菜出荷組合連合会を結成し、集団栽培の第一歩を踏み出した。1961年(昭和36年)には千葉県特産地の指定、翌年には国の園芸特産地の指定を受け、続いて1966年(昭和41年)に春キャベツが国の産地指定、さらに1978年(昭和53年)に冬キャベツの産地指定を受けて、全国を代表する春系品種のキャベツ産地を形成している。麦の転作としてのキャベツ栽培の成功は銚子の畑作の大きな転機となり、新しい作物の栽培が積極的に試みられるようになった。そして農業における銚子は、京浜地帯や京葉地帯等の首都東京を中心とする周辺都市への、生鮮野菜の供給基地として位置付けられるようになった。戦後の日本における農業の機械化は著しく、農作業・農業経営の省力化が進んだ結果、労働力の他産業への流出と兼業農家の増加が生じたが、本市においては、機械化による省力化によって、生産性の高い有利な商品作物に重点を置いた農業経営近代化へと向かった。まず、1950年代から、電動機発電機動力脱穀機動力もみすり機、防除機具等の導入が進められた。次いで、1960年代以後のモータリゼーションの進展にあわせて、農用トラックやオート三輪、後に小型四輪貨物自動車が急速に農作業に用いられるようになった。これとほぼ同時期に動力耕耘機が普及するようになった。動力田植機は1960年代後半に導入され、水田稲作における省力化の効果が極めて大であったため、その普及は急速であった。あわせてバインダー等も用いられるようになった[19]

戦後の本市の漁業において最も顕著な変化は、漁港の整備と漁船の機械化である。漁船の機械化において、代表的なものは電波機器の普及である。漁業無線と呼ばれる無線通信機と魚群探知機方向探知機及びレーダーは、大型船から小型船に至るまで、ほとんど全ての漁船が装備するようになった。電波機器以外でも漁船の機械化は進み、網やはえ縄を引き揚げるのも機械化されて省力化され、また潮流や水温等を測定するために各種の計器類が使われ、あるいは曳航中の底びき網の状態を知ることのできる機器も使われるようになった。漁具等の資材の変化も著しく、漁網は綿網から化学繊維の網に替わった。漁船の船体自体もまた変わった。構造においては、いわゆる和船型が姿を消して、船外機付船のようなごく小型のものを除けば、全て西洋型となった。材質については、FRPと略称される強化プラスチック船が造られるようになり、木船の新造はみられなくなった。また漁船の大型化も進んだ。水場高の面から見ると、地元船以外の漁船の水揚高が大きな比重を占めるようになり、銚子の漁業は回船を主体とする漁業へと変化した。資源の面からみると、サンマサバが、イワシとともに銚子の漁業の主たる魚種となった。銚子の漁業は戦前から大衆魚を中心とする漁業として著名であったが、当時の魚種はイワシだけであった。戦後はこれにサンマとサバが加わることによって、一層大衆魚中心の漁業としての性格が強まった。サンマは戦前においても漁獲されていたが、水揚高は少なく、銚子の主要漁業となるまでには至らなかった。これには漁法が刺し網であったことも関係した。それが戦後は火光利用の大型棒受網漁法に替わったため大量に漁獲されるようになり、また銚子沖が好漁場となって、銚子漁港に大量に水揚げされるようになった。銚子沖が漁場になりしかも魚群が濃いときには、銚子沖は多数のサンマ漁船の集魚灯の光で、連日不夜城のようになった。サバも同様で、戦前はあぐり網のイワシに混じって漁獲される程度であったが、戦後は1959年(昭和34年)末に銚子沖で新漁場が発見され、大型のサバが大量に漁獲されるようになった。このためサバ専門の漁業が興隆した。漁法は当初は一本釣りであったが、その後まき網に替わり、ますます大量に漁獲されるようになった。サンマもサバも年によって豊凶があったが、イワシと並んで銚子漁港に水揚げされる大衆魚の3本柱となった[19]

戦後の本市の水産加工業は、生産設備や経営の近代化等が進み、生産額も増大し市の主産業の座を保持し続けた。特に目立つ点は、戦前の銚子の水産加工品の王座を占めていた肥料のイワシ搾粕が、戦後ついに姿を消したことであり、これに代わって冷凍水産物が登場したことである。銚子の一般加工品は、戦前・戦後を通じて、多獲性大衆魚を原料としている点に特徴がある。戦後はサンマ漁業やサバ漁業が発展し、漁期にはイワシ同様、大量に水揚げされるようになった。そのため一般加工品の主原料はイワシからサンマ・サバへと移り、サバを原料とする製品が最も多く、サンマ・イワシがこれに次ぐようになった。またアジも加工原料となった。本市における冷蔵庫の普及・発達は1950年代に始まり、これに伴って原料の移入も始まったが、これらによって年間操業が実現したことは、水産加工業の歴史的な変革であった。冷蔵庫の普及・発達に伴って原料の供給が安定してくると、年間操業へと移行してきたので、労働力の雇用形態も臨時から常時雇用へと前進した。1970年代からは、機械の導入による省力化が図られるようになった。まずコンベアーが使用されるようになり、次いでフォークリフトが導入されるようになった。さらに自動選別機や自動計量機・自動割裁機等が使用されるようになった。冷蔵庫の設置は、水産加工業者の間に年を追って増加し、1980年(昭和55年)には冷蔵庫保有業者数は約150業者、冷蔵能力は約15万トンとなり、1956年(昭和31年)に比べて、冷蔵庫の数は約5倍、冷蔵能力は約22倍になった。このように一地域に冷蔵庫の集中しているところは他に例がなく、本市の冷凍業は、一地域の規模としては全国一に発展した。缶詰製造業においては、サンマ、サバの大量水揚げと冷凍冷蔵設備の整備によって、主に国内向けのサンマ、サバ缶詰製造が盛んになり、新規工場も加えて1956年(昭和31年)末には11社となった。その後はそれまでのサバの豊漁と国内他地からの移入増加、イワシ水揚量の増加によって、輸出向けのサバ缶詰と多種多様な国内向け缶詰の生産が進んだ[19]

戦後の醤油業界の状況を概観すると、生産高は1962年(昭和37年)頃までは全国的に伸びたが、その後の醤油市場は飽和状態になり、次に訪れたのは、業界内での淘汰と大手メーカーへの集中であった[19][4]。そしてこのような状況の中で、大手メーカーは、品質の向上、製品の多様化、容器の改善等、将来の展望に立った新しい積極的な経営に乗り出した。品質の向上は醸造技術によるが、これについてはヤマサもヒゲタも、戦前から独自の研究所を設けて研究を続けてきており、戦後は一段とその機能を充実して、製品の向上を図った。戦前銚子で醸造され出荷されていた醤油は、ほとんど1業者1種類であった。それが戦後は消費者の嗜好の多様化によって、各種の醤油が醸造され出荷されるようになった。その種類は大別すると普通醤油、濃厚醤油、薄口醤油、減塩醤油と特に味の加工をした醤油になる。製品の多様化は醤油以外のものにも及び、めん類のつゆやスープといった各種の調味料も製造するようになった[19]。ヤマサでは、1967年(昭和42年)に「めんつゆ」、1974年(昭和49年)に「そばつゆ」を発売している。これは当時の日本人の食の簡便化に対応したもので、ヒゲタでも同様に、うどん・そばのつゆに用いる「ヒゲタつゆ」を1963年(昭和38年)に発売した。同社は中華麺にも目を向け、同じ頃「冷し中華スープ」、ラーメン用つゆ「ラープ」を発売している[4]。醤油以外の調味料で戦後銚子で開発された画期的なものは、「フレーブ」という商品名で1961年(昭和36年)に発売されたヤマサの新しい化学調味料である[19]。化学調味料は、食品産業界では1957年(昭和32年)頃から開発されるようになったが、醤油メーカーでこの分野で先鞭をつけたのはヤマサであった[4]。「フレーブ」は鰹節うまみの正体といわれるイノシン酸を中心とした複合化学調味料である。ヤマサでは、イノシン酸とグルタミン酸を複合させると、調味料として大きな相乗効果を発することを新たに発見するとともに、その工業化に成功した。これによって日本の化学調味料界に一大革命がもたらされるとともに、国民の食生活にも大きな影響が及ぶことになった。醤油の容器は長い間杉樽とガラスビンであったが、戦後杉樽は缶に代わった。またビンの一部に合成樹脂製のものが使われるようになった。なお銚子醤油株式会社は、1976年(昭和51年)4月1日に、従来の社名をヒゲタ醤油株式会社に改めた[19]

戦後の本市の商業は、大局的にみれば日本経済の復興とともに復興し、1950年代半ばにはほぼ戦前の状態に戻った。小さなバラック建ての店舗から出発した主要商店街も、アーケード街路灯等によって整備された近代的な商店街に生まれ変わり、1956年(昭和31年)の戦災復興10周年を記念する全市的な復興祭には、華やかな装飾で行事に色を添えた[19]。漁期の最盛期には1日で3万人の人口が増加するといわれた銚子港に寄港する漁師が商店街の重要な顧客であり、漁業が市の小売業に大きな影響を与えていた[4]。1960年代になると、日本経済は政府の所得倍増政策に基づく高度成長時代に入り、技術革新大衆消費社会の形成が始まった。同時に本市の商店もようやく本格的な競争の時代を迎え、1960年(昭和35年)12月には、市外資本である株式会社十字屋が新生仲通りに進出した。商店の競争は個々の商店の間だけでなく、商店街同士の間でも行われ、店舗の改造、商店街の整備美化、景品に様々なアイデアを凝らした合同大売り出し等が行われた。この競争で断然他を圧したのは銚子銀座商店街であった。銚子銀座とは戦後地元の商店連盟が命名したものであるが、同所は飯沼観音正面の目抜き通りで、戦前から「観音前」の名で賑わってきたところである。戦後は戦災復興事業の一環として土地区画整理事業が行われて街路、街区が整然となるとともに、地元の商店連盟の活動によって商店街としての整備が他に先行し、市内では自他ともに許す第一の商店街となった。その結果1972年(昭和47年)には、在来の衣料品店が本市では初めての「百貨店法」に基づく百貨店にまで成長し、クリハシ百貨店として、銚子銀座商店街の核となった。1970年代に入ると、市内各地区には中小のスーパーマーケットが続々と誕生した。「ミヤスズ」は市内各所及び市外にも店舗を増設し、食料品を中心とするスーパーとしては最大手に成長した。1970年代後半になって、本市の商業環境に大きな動きが生じた。1976年(昭和51年)10月22日、株式会社十字屋が銚子駅前通りの宝醤油株式会社跡地を財団法人銚子市開発協会から取得し、地上5階地下1階の百貨店を開店した。次いで1979年(昭和54年)10月6日、十字屋に隣接する旧市庁舎跡地に、株式会社銚子ショッピングセンターが開店した。地上2階地下1階の百貨店であり、店名をシティオといった。その翌年、銚子市開発協会は、宝醤油跡地の残りと市水道部跡地とをあわせ19区画として、小売店出店希望者に分譲した。これによって、2つの大型店とその間の各種小売店・飲食店が新しい商業集積地区を形づくることとなり、中心繁華街の地位が遷移した。戦前は市内、近隣農村、波崎町を合わせた地域とみられていた本市の商圏は、1960年代から徐々に拡大し、1968年(昭和43年)の「千葉県商圏調査」結果では、市内及び旭市・海上町・飯岡町・干潟町・小見川町・野栄町・茨城県波崎町・神栖町までを含めた人口約22万人の地域となった。本市の商圏がこのように拡大した最大の原因は、モータリゼーション時代の到来による自家用自動車の普及である。また茨城県側については銚子大橋の実現がある。そして、本市は小売店の面からみても東総地域では最も発達した都市であったので、周辺の購買力を吸収し得る力があった。1970年代以降は、佐原市、茨城県側、さらに旭・八日市場方面を含め商圏の競争が生じるようになった[19]

本市は産業都市であると同時に観光都市でもあり、市制施行以来観光の振興のためには、市と関係者の一体となった各種の策が講じられてきた。戦後、1947年(昭和22年)に銚子観光協会は再発足し、1956年(昭和31年)3月28日社団法人銚子市観光協会が設立された。1957年(昭和32年)、「国立公園法」が廃止されて、新たに「自然公園法」が制定された。本市はこれに基づいて1959年(昭和34年)3月3日に、水郷国定公園に指定された。次いで1969年(昭和44年)3月1日には、公園名が水郷筑波国定公園と変わった。国定公園に指定された区域は、犬吠埼を中心とする海岸地帯である。また1964年(昭和39年)6月9日には、千葉県立銚子自然公園が廃止され、長塚町地先の七ツ池周辺が、県立九十九里自然公園の区域に編入された。戦前一般市民が利用していた海水浴場は、海鹿島、犬若、名洗であった。このうち犬若、名洗は戦後港湾工事や浸食防止のための護岸工事のため、海水浴はできなくなった。そこで市は1958年(昭和33年)に、酉明浦の長崎海岸を新しい海水浴場に造成した。戦後の海岸以外の観光資源は、銚子大橋、銚子漁港魚市場、醤油工場、愛宕山、七ツ池等である。愛宕山には戦時中対空監視に使われていた展望台があり、1955年(昭和30年)7月12日千葉鉄道管理局長によって地球展望台と命名された。展望台から見ると水平線や地平線が丸く見え、地球の丸いことが実感できるためである。七ツ池は戦後に桜を植樹して、花見の名所となるように開発したものである。季節からみた場合、本市は主として夏の観光地である。したがって観光行事も夏を中心にして企画され、催されてきた。その中でさらに中心になってきたのは大潮祭りである。銚子で大潮といえば、一般的には旧暦6月15日の大潮を指している。この日は川口神社の例祭日であり、神輿の渡御が行われる。大潮祭りは、戦後この大潮という民俗行事を中心にして、この日の前後に花火大会等の各種の観光行事を加えたものであった。1970年(昭和45年)には、毎年8月の第1土曜日と日曜日を期日とする観光行事「銚子みなとまつり」が始まった。行事の柱は「やっぺおどり」や花火大会及びみこしパレードである。みこしパレードには市内の神社の神輿や町内の子供神輿が20基以上参加し、銚子銀座通りをパレードする。やっぺおどりは銚子の祭囃子の一つである「早打ち囃子」に振りを付けたものである[19]

特急しおさい(183系)

観光には便利な交通が必要であるが、1950年代の交通対策は、国鉄の輸送力増強が主たる課題となっていた。その内容は列車の増発とスピードアップであり、これについては市が中心となって国鉄当局に運動を続けた。その結果、ローカル線としては比較的早い時期に、蒸気機関車から気動車化及び電化が実現し、これに伴って準急列車急行列車が運転されるようになった。列車本数も増え、元旦初日の出を迎えるための臨時列車や自然科学列車のような臨時列車がしばしば運転され、観光等の利便が増大した。そして1975年(昭和50年)3月10日から、東京・銚子間に特急列車しおさい」が運転されるようになった。車両はこだま型の車両を改良した183系と呼ばれる最新の車両であった。このほかバスについても戦後、1955年(昭和30年)4月から、成田バス株式会社(後の千葉交通株式会社)によって磯めぐり定期観光バスが運行されるようになった。観光道路についてはやはり1955年(昭和30年)3月に、それまで中断されていた県道銚子公園線の一部犬吠埼・長崎間が完成し、海岸一周が可能となった。また同年7月には愛宕山の観光道路市道愛宕山天王台線が開通した。さらに1972年(昭和47年)7月には、千葉県道路公社によって三崎町二丁目から屏風ヶ浦の台地を通って天王台に至る銚子有料道路愛宕山公園線が完成した。この間1962年(昭和37年)12月には銚子大橋が開通している。これらによって市内の観光道路網は整備され、自家用自動車時代の到来に対応できることとなった。観光施設の面で戦後いち早く問題になったのは、観光客の受け入れ施設すなわち旅館の不足と不備であった。こうした中で一つの契機をもたらしたのは市営国民宿舎の建設である。1962年(昭和37年)、1963年(昭和38年)度にわたる2か年継続事業として、4635万円の予算をもって行われ、1963年(昭和38年)7月24日に銚子市営国民宿舎犬吠ホテルの名で開館した。市は国民宿舎の建設を計画していた頃、一方では民間観光資本の誘致にも力を注いでいた。その結果関東の大手私鉄の一つである京成電鉄が犬吠埼に観光ホテルを建設することになり、国民宿舎と同じく1962年(昭和37年)に工事を開始し、1964年(昭和39年)に開館した。これらのことが契機となり、その後新しいホテルの建設や既存旅館の改築整備等が続き、本市の観光客受け入れ施設は万全の態勢となった[19]

1960年代から、本市においても借家から持ち家への移行、老朽住宅の全面的改築等の住宅事情から新しい宅地需要が生じ、郊外地へと宅地化が進行し、地価が騰貴した。このため市は、財団法人銚子市開発協会による宅地造成事業を促進した。また住宅団地のほかに、1970年(昭和45年)には千葉県開発公社との共同事業により、小浜工業団地(分譲面積16万7640平方メートル)の造成を行った。1979年(昭和54年)10月1日までに41社が進出している。この間、民間においては小規模なものも含めて各地で宅地造成が行われてきたが、1970年代から市の西部地域に豊里団地と呼ばれる大規模住宅団地の造成が行われた。これは、笹本町台地の主要地方道多古笹本線東側の山林部70ヘクタールを宅地造成して、2800世帯、1万2600人が入居するニュータウンを建設しようとする計画であった。事業主体は星和住宅株式会社で、目的は鹿島臨海工業地帯に進出する企業用の大型社宅団地の建設であった。1971年(昭和46年)1月に用地買収を開始、1974年(昭和49年)12月に造成工事着手、団地北側の第1工区は1980年(昭和55年)3月、南側の東部分の第2工区は同年11月、残る第3工区は1982年(昭和57年)10月にそれぞれ竣工し、従来から純農業地域であった豊里地区は大きく変親した。その後の経済情勢の変化によって、企業の社宅用団地という当初の計画は見直しされて、一般住宅向け分譲団地となった。なお、この住宅団地には1979年(昭和54年)8月10日に豊里台という町名がつけられた[19]

本市における戦前の社会教育は、民間の財団法人公正会が担ってきたが、戦後は市がその主導的な位置に立つようになった。この時代の社会教育活動は、銚子文化会を始めとする市民団体が、学問的・啓蒙的な歴史研究や自然科学研究に重点を置いた文化活動を自主的かつ積極的に展開していた。1948年(昭和23年)3月1日、財団法人公正会の活動拠点であった公正会館が市に寄附され、1949年(昭和24年)9月22日に銚子市公正市民館として開館し、1階にあった書庫・閲覧室の図書館部分は、銚子市公正図書館となった。この年、公正市民館ホールにおいて第1回銚子市文化祭が開催された。1946年(昭和21年)9月には前宿町陸上競技場が野球場として開場し、その後1950年(昭和25年)6月に本格的な銚子市営球場が完成した。次いで、1965年(昭和40年)8月には銚子市体育館が開館した。当時市民から要望されていた屋内運動場兼大集会場の実現によって、各種スポーツ教室が開講されるとともに、児童・生徒・学生を含めた市民の多様な体育活動や各種の大会・行事が盛んに行われるようになった。この体育館に隣接して、1971年(昭和46年)には銚子市青少年文化会館が開館した。「都市青年の家」「児童文化センター」及び「市民会館」の総合施設であり、劇場としての本格的な設備を持つ大ホールのほか、中・小ホール、科学展示室、郷土資料室、実験実習室、プラネタリウム等を備え、本市における社会学習や芸術文化の拠点となった。青少年文化会館が開設され、各種社会教育事業が行われるようになったことで、文化団体の活動は一段と活発になった。また一般市民は、歌舞伎文楽オペラ演劇オーケストラバレエ等の舞台芸術を鑑賞する機会を得ることとなった。市民個々の文化活動は学問芸術芸能その他多方面にわたるが、これらのうち比較的盛んとなったのは、美術音楽文学演劇舞踊等の芸術・芸能の分野である。このうち特に学校音楽の興隆は著しく、1960年代には器楽合奏部門が全国的な水準に達し、市立第五中学校の音楽クラブが器楽合奏の全国コンクール中学校の部で、県立銚子商業高等学校の音楽部が吹奏楽の全国大会高校の部で、それぞれ連続優勝を果たしている。このような学校音楽の進歩発展が基盤となって、社会人である一般市民の音楽活動もまた興隆し、社会人の音楽サークルの中からも、全国コンクールで優勝するものが出るようになった。なお公正図書館は、蔵書の増加により施設の狭隘化の解決が課題とされていたことから、市制施行50周年記念事業の一環として新築事業が企図され、1983年(昭和58年)5月1日に開館した[19]

戦前の本市において、野球部を有する中等学校は、県立銚子商業学校だけであった。1938年(昭和13年)夏の千葉県予選では初めて優勝したが、南関東大会で敗れ、甲子園出場は果たされなかった。銚商が初めて念願の甲子園に出場したのは、1953年(昭和28年)の春の選抜大会である。これ以後1977年(昭和52年)まで、春の大会には合計7回出場した。この間の最高成績は1972年(昭和47年)の第44回大会において、準決勝まで進出したことである。夏の選手権大会については、1958年(昭和33年)の第40回大会に初出場し、3回戦まで進出した。これ以後1976年(昭和51年)まで、合計9回千葉県代表として出場し、千葉県下の高校野球に銚商時代を現出した。1965年(昭和40年)の第47回大会においては、決勝戦まで進出して準優勝した。銚子が高等学校硬式野球及び卓球の競技会場に選ばれた1973年(昭和48年)の第28回国民体育大会(若潮国体)秋季大会においては、千葉県代表校として出場して優勝した。1974年(昭和49年)の夏の甲子園大会では、ついに全国制覇を成し遂げた。帰郷に際してはオープンカーでパレードを行ったが、沿道の至るところで歓迎され、市内に入ってからは道路を埋めた大群衆で車が走行できないほどであった。甲子園大会への期待は、このように戦後ほとんど銚子商業が担ってきたが、1970年代後半になると市立高等学校野球部の力量が向上し、市立銚子高等学校が1979年(昭和54年)に、市立銚子西高等学校が1981年(昭和56年)に、銚子商業に代わって甲子園出場の栄冠を勝ち取った。市内の高校が甲子園大会に出場すると、多数の市民が甲子園まで出かけ、華やかな大漁旗を振って応援した。また試合中銚子にいる市民はテレビで観戦するので、街の中は自動車も人通りもまばらになった[19]

1973年(昭和48年)秋の第1次オイルショックの発生によって、日本は1974年(昭和49年)には戦後初めて実質経済成長率マイナスを経験した。以来、我が国経済は高度成長を維持できず、1979年(昭和54年)の第2次オイルショックを経て、低成長・安定成長へと転換した。このような中で、1979年(昭和54年)度に実施された第2次「市勢振興調査」は、本市の地域特性、潜在的可能性を自らの意思と力で最大限に活用していく内発的地域振興を基本とする食品産業文化都市づくりを今後のまちづくりの基本方針とすべきであると提言した。そして、特に名洗港については、どのような地域振興を考え、そのための手段としてどう位置づけるか、という新しい構想が必要であろう、と提言した。この考え方は、一貫してその後の銚子市総合計画における名洗港開発をはじめとした地域振興の根底をなすものとなった。1985年(昭和60年)には、「銚子市基本構想」の目標年次の到来にあわせて、大内恭平市長によって新たな「銚子市新総合計画基本構想」が策定され、同年6月27日に市議会の議決を得た。「新総合計画基本構想」の目指すところは、地域特性を生かし、市民の創意と努力を結集して、東総地区の中核にふさわしい活力と魅力ある地方都市づくりであった。前の構想と比較して、既存の各種産業振興と新しい産業の導入、市民の価値観の変化や地域社会の高齢化への対応、広域における拠点機能発揮とネットワーク形成等に着目した都市づくりの方向性を示したものであった。この構想を受けて1986年(昭和61年)2月に5か年の「基本計画」を決定し、「実施計画」により事業推進に当たった[19]

平成から令和へ[編集]

1985年(昭和60年)4月1日から半年間、NHK朝の連続テレビ小説澪つくし」が放映された。大正末から昭和初期の時代の銚子を舞台にした醤油醸造家の娘と網元長男の波乱の愛情物語は、沢口靖子川野太郎の新人コンビの人気も高く、市民が熱中したのはもとより、銚子の名を改めて全国に知らしめることとなった。1980年代前半に180万人台であった本市の年間観光客入込数は232万人を超えた。市はこれを銚子観光振興の機会として、1985年(昭和60年)を銚子観光元年と銘打ち、観光宣伝はもとより、観光レクリエーション拠点の整備等を推進し、新たな都市づくりの主要なステップとする方針とし、「銚子市観光振興基本計画ー海・川・食との出会いー」を策定した。この計画において、愛宕山地球展望館の改築・整備、オーシャンランドの再生、小畑池の観光機能の強化、銚子漁港地区水産ポートセンターの整備、インフォメーションセンター・ゲームゾーン、観光案内標識の設置、PR・イベントの充実等が、当面の短期に実施する事業として掲げられた。また、中・長期における事業として海浜レクリエーション基地、マリンスポーツ基地、海岸遊歩道・サイクリング道路、澪つくし公園、フィッシャーマンズワーフの整備、銚子駅前の景観づくり等が挙げられた[19]

1982年(昭和57年)度から千葉県が港湾計画基本調査を進める過程で、市は1985年(昭和60年)12月に社団法人日本港湾協会へ「名洗港振興調査」を委託した。その結果は、1987年(昭和62年)5月に市に報告された。この調査では、マリンリゾート拠点、物流拠点、エネルギー拠点、研修研究拠点、先端技術産業拠点の5つの導入機能が検討された。その結論として、カーフェリー又はエネルギー港湾に関しては物流やエネルギー需要の伸びが低下している状態から実現の可能性は薄いが、海洋レクリエーション港湾としての実現の可能性は非常に高いとして、名洗港に規模・質において我が国第一級のマリーナを中心とするマリンリゾート拠点を整備すべきであるとの提言がなされた。その整備構想は、クルーザー等1000隻の収容能力をもつマリーナを新設し、既存埋立地にホテルレストラン等のリゾート施設を、マリーナ西側に海水浴場を、既存堤防基部に5000トン級船舶が接岸可能な水深7.5メートル岸壁を新設するというものであった。この構想の実現のために、1987年(昭和62年)8月、千葉県知事、銚子市長、銚子市内5漁業協同組合長が同意する覚書が締結され、10月には「名洗港マリンタウンプロジェクト調査」を委託して、その具体化が進められた。1988年(昭和63年)3月開催の市議会定例会での施政方針において、佐藤幹彦市長は名洗港のマリンリゾート拠点開発を目指すとの所信を明らかにした。1989年平成元年)4月には、「総合保養地域整備法」に基づく重点整備地区として「銚子マリン・リゾート」が指定され、名洗港マリンリゾート、水産ポートセンター、犬吠埼の旧瑞鶴荘が特定民間施設と定められた。同法は、ゆとりある国民生活の実現と地域振興を図るため、スポーツ・レクリエーション施設等民間施設に対する税制上の特例措置、資金支援措置、地方公共団体等の助成によって、民間活力を生かした第三次産業中心の地域振興、内需拡大等を目的とするものであった。この整備構想上の位置づけによって、名洗港マリンリゾート事業等の円滑な実現が期された。1990年(平成2年)3月には名洗港マリーナの全体構想を示す「名洗港港湾計画」がまとめられ、同年8月の千葉県地方港湾審議会で了承された。1991年(平成3年)2月には千葉県知事、銚子市長、銚子市内6漁業協同組合長・海匝漁業協同組合長の「漁業補償契約書」の調印、そして名洗港の「海洋性レクリエーション拠点港湾」指定に至った。このように名洗港整備のための前提条件が整った結果、名洗港マリーナの管理運営に当たる第三セクターの設立、マリーナ後背地開発の事業主体となる民間企業の選定、マリンリゾートづくりにふさわしい港湾環境の整備等が進められることとなった[19]

銚子ポートタワー

名洗港マリーナの整備とあわせて、市内の観光整備も推進された。1988年(昭和63年)には、愛宕山頂に「地球の丸く見える丘展望館」が開館した。市は、愛宕山周辺の良好な景観を市民の財産として守るため、「銚子市地球の丸く見える丘景観条例」を制定し、この条例に基づく景観形成地区及び景観形成に関する基準を定めた。展望館に隣接するオーシャンランド跡地は、地球の丸く見える丘ふれあい広場として一体的に整備された。次いで、1991年(平成3年)6月23日には「銚子ポートタワー」と「ウオッセ21」からなる「水産ポートセンター」がオープンした。ウオッセ21は、銚子市水産観光株式会社(市と地元業界で構成する第三セクター)の管理運営により、地元の専門業者による水産物、水産食品、地元産品の販売を行う施設である。地球の丸く見える丘展望館、銚子ポートタワーについては、市がその管理運営を銚子市観光協会に業務委託することになった。これに伴って同協会は、職員体制を整えて受託事業の執行に当たるとともに、これら施設でのイベント開催を含めて各種観光事業を積極的に実施していった。犬吠埼周辺から君ヶ浜にかけては、「君ヶ浜しおさい公園」として、1986年(昭和61年)度から市が千葉県の助成と国の指導を得て、民有地の土地取得と園地整備・駐車場設置を実施した。園地整備は1988年(昭和63年)度から1992年(平成4年)度までの5か年計画で実施され、有識者等の意見・要望を受けて、自然との調和と環境保護を基本とした公園づくり事業が進められた[19]1995年(平成7年)度には犬吠埼園地の施設が完成した[69]。銚子電気鉄道株式会社では、1989年(平成元年)に株式会社銚電恒産が筆頭株主となってから、観光資源でもある電車の環境整備として、犬吠駅、君ヶ浜駅、観音駅の各駅舎と銚子駅構内発着場をヨーロッパ風に改良整備するとともに、沿線にアジサイ等を植栽して車窓風景の美化を図った。また、犬吠駅2階のレストランを改装して、1999年(平成11年)10月に銚電恒産直営の後藤純男美術館をオープンした。1997年(平成9年)と2000年(平成12年)には、犬吠埼の2つの民間ホテルが続いて温泉掘削に成功し、銚子海岸観光のベストロケーションに天然温泉が実現した。最初は1997年(平成9年)4月8日、犬吠埼観光ホテルが地下1066メートルから温泉掘削に成功した。これに続いて、2000年(平成12年)3月10日、犬吠埼灯台西側の京成ホテルも地下1300メートルから温泉掘削に成功した。周辺のホテル・旅館もこの源泉から分湯を受け共同利用することとなり、両ホテルと合わせて5館が犬吠埼温泉郷を形成し、銚子観光のイメージアップと集客力強化に大きな役割を果たすこととなった。1995年(平成7年)7月1日には、銚子の沿岸から沖合でのイルカクジラ類の乗船ウォッチングが開始された[19]

架替事業を完了した銚子大橋

広域幹線道路については、主要地方道銚子海上線東総有料道路、国道356号バイパス、東総台地地区広域営農団地農道等の整備が進んだ。1986年(昭和61年)9月には、本市を含む東総地区3市5町首長会議において東総地域から東金・千葉方面へ至る有料道路の必要性が論議され、1988年(昭和63年)6月7日、「山武・東総地域幹線道路整備促進期成同盟会」(4市12町1村)が設立された。これ以後、国・県・公団・地元国会議員等に対する陳情要望が重ねられ、1994年(平成6年)12月に、首都圏中央連絡自動車道と銚子方面の連携を強化するための「銚子連絡道路」が地域高規格道路として「計画路線」に指定された。さらに、銚子大橋の慢性的な交通渋滞の解消が課題となる中で、1988年(昭和63年)11月、銚子市長と波崎町長は、新年度に期成同盟を結成して新大橋建設実現に連携して取り組むことで合意し、1989年(平成元年)10月11日、銚子市長を会長とし、副会長を波崎町長、監事を旭市長・神栖町長とする「銚子・波崎間利根川新橋建設促進期成同盟会」が設立された。この期成同盟会の設立後、千葉・茨城両県、両県選出国会議員、建設省大蔵省への陳情が重ねられ、1990年(平成2年)12月には千葉県の「新五か年計画」に新橋建設が位置づけされ、1994年(平成6年)2月に大蔵省原案内示により新規事業として採択、同年12月には銚子新大橋有料道路新設の建設大臣許可を受けた。1995年(平成7年)2月7日に起工式が挙行され、以後建設工事が進められた。同大橋の開通記念式典は、2000年(平成12年)3月18日、千葉・茨城両県主催で開催された。橋梁は「人と自然にふれあう躍動感のある橋」をテーマに、カモメの羽ばたきをイメージし、自然と調和する橋を目指し、デザインは地元市町からの有識者も参加した景観検討委員会を設けて決定された。新橋の名称は、公募により「利根かもめ大橋」と決定した。この間、市内主要道路の整備も進み、1989年(平成元年)度から1996年(平成8年)度末にかけて、銚子駅から飯沼観音までの道路が、銚子駅前通りシンボルロード・本通通りマイロード・銚子銀座通りココロードとして整備された。駅前・ポケット広場の整備、車歩道の新装整備、街路灯・信号街路灯の設置、植栽モニュメントの設置、電線類の地中化等により、リゾート都市銚子にふさわしい都市景観・商業空間が整えられた。道路整備とあわせて、商店街の活性化を図るための各種事業も進められた。銚子銀座商店街振興組合・すずらん商店街・観音商店会の共催による毎月18日の「ご縁日」では、坂東三十三観音札所の門前町の賑わいを復活させるため、1998年(平成10年)4月から、飯沼観音周辺でイベント、模擬店等を開催した。2000年(平成12年)1月1日には、長崎町の外周部をまわり犬吠埼方面と外川方面とを結ぶ全長883メートル長崎海岸周遊道路が開通した[19]。なお、銚子大橋は、交通量の増大、車両の大型化、塩害等による老朽化が著しいことから、2003年(平成15年)度から千葉・茨城両県による架替事業が進められ、2004年(平成16年)度に橋脚工事と迂回路桟橋工事が着手された。新銚子大橋は2013年(平成25年)3月7日に全線供用開始となり、同年度中に旧橋の撤去と周辺道路整備が行われて、事業を完成した[24]

名洗港マリーナの名称は「銚子マリーナ」と定められ、千葉県による公共事業(国庫補助を受ける港湾改修・局部改良事業)、千葉県の単独事業、銚子市単独の埋立土地造成事業を基礎に、第三セクターである株式会社銚子マリーナによる係留桟橋、船揚場、ボートヤード、クラブハウス、修理庫、上下架施設、駐車場等のマリーナ固有の施設整備事業が進められた。1999年(平成11年)4月、銚子マリーナは一部供用開始となった。同年7月18日には、銚子マリーナ完成記念式典が挙行された。名洗港の環境整備のため港湾環境整備事業として、マリーナ泊地の北側に多目的広場、親水護岸、休憩所を備える名洗港海浜公園が整備された。また、屏風ヶ浦における海岸環境整備事業もマリーナ整備にあわせて進められた。名洗港海岸においては、1991年(平成3年)度から、海岸背後の名洗集落のしぶき等被害改善のための海岸防災と屏風ヶ浦の景勝を活かしてマリーナと一体となった海洋性レクリエーション拠点づくりのための海岸環境整備が進められた。1999年(平成11年)7月には「ビーチ利用促進モデル事業」によって造成された人工海浜が海水浴場として一部供用開始された。銚子マリーナの管理運営は、1999年(平成11年)度から株式会社銚子マリーナが市から業務委託を受けて当たることとなった。銚子マリーナでは、オープン以来、マリンスポーツの拠点としてビルフィッシュトーナメント、全日本クラスのディンギーヨット大会が開催されている。また、銚子マリーナの利用促進を図るため、東京有明国際展示場東京ビッグサイト)で開催される東京国際ボートショーでブースを開設してPRに努めた。特に、2001年(平成13年)10月4日から14日まで開催された国際モス級ヨット世界選手権銚子大会には、エントリー45人のうち外国人18人が参加し、レースのみでなく各種のイベント等国際交流事業が実施された[19]。マリーナ後背地は、バブル経済崩壊後におけるリゾート事業に対する厳しい環境状況を受けて、開発計画の見直しが行われた[19]。2004年(平成16年)、市はこの土地に私立の理科系大学である千葉科学大学を誘致し、「文教のまちづくり支援事業」を実施して学生への支援を行った[24]。市内においては、学生の生活基盤となるアパートマンション及び商業施設等の建設が進んだ[70]

銚子市新総合計画は2000年(平成12年)を目標年次とするものであったことから、大川政武市長は、21世紀における銚子のまちづくりの指針となる新たな総合計画の策定を1999年(平成11年)末から進めた。我が国は成長から成熟の時代へと変革する時期にあって、少子・高齢化グローバル化情報化等の多くの課題を抱え、地方行政もまた地方分権の進展等様々な地域課題への対処が求められていた。その中で本市は、その特性と資源を生かして、すべての市民が生きがいと幸せを実感できるような、個性豊かで魅力ある都市づくりを目指し、市民生活の総合的環境を整えることを目標とする新たな総合計画の基本構想を「銚子ルネッサンス2025」と称し、将来像を「ひとがときめき 海がきらめき 未来輝く都市(まち)」と定めた。この新基本構想案は、2000年(平成12年)12月市議会定例会において、同月22日議決された。この新基本構想においては、少子・高齢化の本格的到来を踏まえ、目指す都市像を定住人口の大きさのみで示すのではなく、地域の振興発展に有益な「交流人口」という新しい人口指標を加えることとした。「交流人口」とは、観光や地域交流・イベント参加等の目的で本市を訪れ、様々な独自な活動や市民と共同の地域活動によって、活力や経済効果等を生む地域活性化の担い手となる人々である。あわせて、本市の地理的条件や自然環境を生かしてまちの魅力・活力を増し、交流人口を拡大させるためには、広域的な観光ルートの形成、観光・レクリエーション施設の整備促進、新しい観光資源の開発・発見・活用、観光・交流イベントの充実、観光サービス・宣伝の強化が課題であるとした、2001年(平成13年)度において15か年にわたる「銚子市新観光振興基本計画」が策定された[19]

君ヶ浜しおさい公園

本市では、1999年(平成11年)から3年間にわたって世紀越え事業を実施したところ、全国的にも大きな関心を呼び、45万人という多くの来遊者を迎えることとなった。この事業は、日本列島沿岸で初日の出が最も早く見られる地の利を活かし、広く情報発信して銚子をPRすること、民間企業・団体等が展開する各種イベントとの連携による市内外の幅広い交流を促進すること、銚子の自然環境・産業・文化・歴史的遺産等の財産を再評価して21世紀につなげること等を目的とするものであった。事業期間は、1999年(平成11年)から2001年(平成13年)までの3か年であった。具体的には、ミレニアムイベント、世紀越えイベントのほか、カウントダウンボードの設置、「銚子百選」の選定、「銚子の将来像」アイディア募集、「未来の銚子」こども絵画コンクール等が行われた[19][71]。特にミレニアムイベントや世紀越えイベントでは、市内団体の協力により、初日の出客に銚子の食材を使った大鍋が振舞われたほか、市民有志や市内小学校の協力により作られた数千本のペットボトルランタンで君ヶ浜に大きな文字を浮かび上がらせたり、観光客を含めた参加者2000人による懐中電灯を使った光のカウントダウンが行われたりする等、先例のない大きなイベントとなった。また、こうしたイベントだけではなく、民間企業からは「ミレニアム」「世紀越え」にちなんだ、蕎麦、酒、煎餅等の様々な商品が売り出され、テレビや雑誌等にも大きく取り上げられた。厳しい経済情勢の中で、こうした地域の民間企業の活性化につなげることも、この事業の一つの目的であった。当時本市では新たな総合計画の策定が進められていたが、その基本的な考え方は、市民と行政が一体となってまちづくりを行おうとする「協働のまちづくり」であった。この世紀越え事業は、市民が自由に参加できる市民企画委員会を設置し、様々なアイディアを出しながら進められたもので、協働のまちづくりの先駆的な事業となった。なお、この事業は、市民の計画参加、事業の連携実施、情報発信によるPR、多数の来訪者の受け入れ等、まちおこし・まちづくりの先駆的事業として、2000年(平成12年)3月に千葉県優良施策実施市町村表彰を受けた[19]

銚子ウィンドファーム

本市における風力発電施設の立地は、2001年(平成13年)から始まる。この年9月に、小浜町に最初の大型風車が建設された。設置した事業者は日本風力開発株式会社の地元子会社(事業会社)である屏風ヶ浦風力開発株式会社である[23]。風車径70.5メートル、中心の高さ65メートルの大型発電機であり、24時間体制で遠隔監視された[19]。定格出力は1500キロワットで、約900世帯分の消費電力を賄うことができ[19]、1000キロワット以下の風車も多かった当時にあってはかなり大型のものであった[23]。この風車は、日本風力開発にとって第1号の風車であった。海岸に突き出た半島でかつ平坦な地形という銚子の地理的特徴は風力発電に適した風況をもたらし、第1号風車は好調な発電成績を積み重ねた。この好成績により、銚子は風力発電の一大適地との認識を得て、他の事業者も含めた銚子での急速な風車立地のきっかけとなった。この後、銚子への風車立地を目指す事業者が相次いで立地に向けた交渉・調整を開始した。2003年(平成15年)10月に日本風力開発が1号機に隣接して2号機を運転開始させたほか、同時期に明電舎株式会社の子会社、株式会社エムウィンズが親田・常世田地区に2基を稼働させた。2005年(平成17年)には日本風力開発が1500キロワット9基を一括して立地・運転開始、さらに2006年(平成18年)には3つの事業者がそれぞれ1基の風車を立地させて参入、日本風力開発も更に6基を稼働させた。2007年(平成19年)に入ってからも株式会社荏原製作所グループ会社、銚子ウィンドファーム株式会社が7基を立地し、銚子は合計29基もの風車を擁する一大風力発電拠点となった。この規模は関東地方で随一のものである。これらは2006年(平成18年)に株式会社台町自然環境エネルギー研究所が台町に設置した1基を除くと、すべて西部の台地地帯に立地している[23]

イオンモール銚子

大型店の出店に当たっては、1974年(昭和49年)施行の「大規模小売店舗における小売業の事業活動の調整に関する法律」(大店法)に基づいて、周辺の中小小売店への影響を防ぐための規制を重視して、地域の商業活動調整協議会での地元との調整を義務づけていた。しかし、審議期間の長期化、地元商店街の既得権依存体質、加えて海外からの大型店の参入障壁等の批判や日米構造問題協議における縮小・撤廃要求を受けて、1992年(平成4年)に1000平方メートル未満の店舗出店は原則自由とされた後、「大店法」は廃法となり、2000年(平成12年)6月から「大規模小売店舗立地法」(大店立地法)が施行された。あわせて、出店規制ゾーンの設定という手法を取り入れるための「都市計画法」を含めて関係三法の改正もなされた。これにより、法制度の目的が中小小売店業の事業活動機会の適正確保から、大型店周辺の生活環境保持のための交通対策、騒音対策、廃棄物処理等への適正配慮へと変わった。以後、大規模小売店の立地については、都道府県が自治事務として法に基づく指針による審査に当たって、市町村の意見を求める手続きとなった。小売店を取り巻く環境は変化し、本市とその周辺地域においては、郊外型店舗等の機能集積が進んだ[19]2010年(平成22年)3月16日には、三崎町に「イオンモール銚子」が開店した。13万人、4万4000世帯を商圏とし、核店舗「イオン銚子店」、準核店舗「イオンシネマ銚子」、100の専門店で構成する地上2階建てのモール型ショッピングセンターである[72]。これに先立って、市は2月16日イオン株式会社と「地域振興に関する包括提携協定」を締結した[24]。また、銚子市行政サービスコーナー「しおさいプラザ」を設置し、中心市街地の新たな活性化を見据えた情報発信の場とするとともに[24]、国道126号から県道愛宕山公園線が分岐する交差点の周辺地区を広域交流拠点として位置づけ、広域的な商圏を対象とした商業施設や良質なアミューズメント施設等の集積を促進することとした[73]。中心市街地においては、2007(平成19年)3月28日、次代に拓くまちづくりを進め、賑わいのあるまちの再生を図ることを目標とした「都市再生整備計画(銚子市中心市街地地区)」が国の認可を受け、2007年(平成19年)度から2011年(平成23年)度の5か年で、河岸公園整備事業、清川町第二公園整備事業、まちなか歩き観光案内標識設置事業、市道改良事業、前宿町公園野球場改良事業等が実施された[74]

銚子市消防本部・消防署新庁舎

東日本大震災は我が国において戦後最大規模の自然災害となり、本市においても甚大な被害を与えた。2011年(平成23年)3月11日14時46分頃、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の地震が発生した(東北地方太平洋沖地震)。岩手県宮城県福島県・茨城県・千葉県の太平洋沿岸地域を中心に最大震度7を観測し、本市においては震度5強を観測した。気象庁はこの地震を受けて、3月11日14時49分に岩手県・宮城県・福島県に「大津波警報」を発表するとともに、本市を含む九十九里・外房地域では「津波警報」を発表した。その後、15時14分に九十九里・外房地域は「大津波警報」に切り替えられた。本市では、15時13分に第1波が到達し2.3メートルの津波を観測、17時22分には観測最大となる2.5メートルを観測した。本市では死者・行方不明者は発生しなかったが、重傷者2名、軽傷者17名が発生した。また、29世帯の家屋が全壊し、24世帯が大規模半壊、121世帯が半壊する等、大きな被害が発生した。公共施設や産業施設についても大きな被害が発生し、特に漁港や水産加工場施設、銚子マリーナ施設は、津波による浸水被害を受けた。公共施設や産業施設における被害総額は64億7152万円に及んだ。液状化による被害は、市内47箇所で確認された。ライフライン被害では、1万7000戸の停電と2万8000戸の断水が発生した。このうち三宅町と高野町においては、法面崩壊により配管が破損し、4日〜8日間と長期間にかけて断水が続いた。市では地震発生後、直ちに災害対策本部を設置し、「銚子市地域防災計画」に基づく職員配備体制により震災の応急対策活動を開始した。同時に、災害対策本部は市内全域に避難勧告を発令し、防災行政無線による放送を行った。市内26箇所に避難所が開設され、3月11日からの4日間で1万1001人の住民が避難所へ避難した。消防団や警察関係者も地域や避難所を巡回して広報活動や避難者誘導に当たった。震災2か月後の2011年(平成23年)5月31日、市は道路や公共施設の復旧事業を基礎に、被災者の生活再建支援、産業・経済の再生、安全・安心な暮らしの確保を政策の柱とする「平成23年度銚子市災害復旧・復興計画」を策定した[75]。主な施策は、一部損壊住宅の修繕に対する補助制度の創設、産業振興条例の検討、バイ銚子運動の展開、地域防災計画の見直し、防災行政無線・非常時の通信機器の整備、新消防庁舎の検討等であった。さらに、観光キャラバン「銚子の元気つたえ隊」による風評被害払拭活動のほか、銚子漁港第1卸売市場を高度衛生管理型施設に転換整備する事業が開始された。第1卸売市場は2015年(平成27年)4月6日に運用を開始した。公的施設のうち最も損傷の激しかった銚子マリーナも災害復旧工事が完了し、2013年(平成25年)4月1日に本格営業が再開された。2017年(平成29年)1月24日には唐子町の新消防庁舎が業務開始し、本市における新たな防災拠点施設となった[24]

犬吠埼灯台(重要文化財)

2011年(平成23年)2月14日、犬吠埼や屏風ヶ浦をはじめとした銚子の地質遺産を体験できる環境整備と、日本ジオパーク正会員への登録を目的とした地元住民の会「銚子ジオパーク推進市民の会」が発足し、教育活動や環境整備・保全活動が開始された。これを受けて、同年10月20日には、産学官一体となってジオパークの推進を図るため、市内24団体で構成する銚子ジオパーク推進協議会が発足した。2012年(平成24年)9月24日、「銚子ジオパーク」は日本ジオパークに認定され、11月2日から高知県室戸市で開催された日本ジオパーク全国大会において、正式な認定証が授与された。市は庁内にジオパーク推進室を設置し、銚子ジオパークビジターセンターやジオサイト周辺の観光施設において情報発信を行う等、ジオパークの知名度向上とジオツーリズムの普及を図った。また、台湾野柳ジオパークとの交流も進められた。次いで、2016年(平成28年)4月25日佐倉・成田・佐原・銚子を舞台としたストーリー「北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み」が文化庁から日本遺産に認定された。このうち銚子は港町と位置づけられ、外川の町並み、川口神社や大漁節、そして水産業や醤油醸造業等がストーリーを語る構成文化財として指定された。千葉県と4市は、共同で広域的な事業を展開するため「千葉県北総四都市江戸紀行活用協議会」を組織し、情報共有や共同事業の実施を行った。本市においては、2017年(平成29年)3月に「銚子市歴史文化基本構想」を策定し、同年9月には独自に「銚子市日本遺産活用実行委員会」を設立して、観光拠点づくり事業と地域文化遺産活性化事業を推進した。2018年(平成30年)5月には「銚子市歴史文化基本構想」に掲げた官民共同で文化財の保護と活用を図ることを目指して、市及び市民・文化財保護団体等で構成される「銚子資産活用協議会」が設立された。協議会では、登録文化財である旧西廣家住宅の一般公開のほか、情報発信事業として、ウェブサイト「銚子時間」の運営等を行っている。2020年令和2年)3月には、本市が目指す将来ビジョンや具体的な事業の実施計画を定めた「銚子市文化財保存活用地域計画」が県内で初めて文化庁の認定を受けた。2022年(令和4年)度からは、歴史文化や自然を活用した「学び」の拠点として「銚子市ジオパーク・芸術センター」が設置されるとともに、新たに「銚子資産を活かした『学び』創出事業」が推進されることとなった[24]

洋上ウインドファーム

欧州においては、1990年代から洋上風力発電の導入が進み、特に英国やデンマーク等の北海周辺諸国での導入が進められてきた。銚子沖は、年平均風速7.0メートル毎秒以上と風況に恵まれているほか、水深20〜30メートルの遠浅の海が続き、着床式洋上風力発電の導入に適した自然環境となっている[76]。2013年(平成25年)3月、銚子沖合において、東京電力独立行政法人新エネルギー・産業技術総合開発機構 (NEDO) との共同研究事業として、日本初の洋上風力発電施設による実証研究が開始された。この実証研究の目的は、日本近海の厳しい気象条件等に適した安全で信頼性のある高い風車の確立、基礎の設計・施工方法の確立、運転保守方法の確立、洋上風力発電設備が環境に与える影響の調査等であった。発電設備については、2016年(平成28年)度末に実証実験が終了した後、銚子市漁業協同組合との協議を経て運転を継続することとなり、2019年(平成31年)1月1日から東京電力リニューアブルパワー株式会社による商業運転が行われている[24]。市は庁内に洋上風力推進室を設置するとともに、2019年(平成31年)3月に策定した「銚子市総合計画基本構想」における重点プロジェクトとして「自然(再生可能)エネルギーの活用促進」を掲げた。2019年(平成31年)4月、一般海域での洋上風力発電事業の実施にあたって、海域の長期占用等を可能とする「海洋再生可能エネルギー発電設備の整備に係る海域の利用の促進に関する法律」(再エネ海域利用法)が施行された。同法は、漁業者等海域の先行利用者との調整を図った上で、洋上風力発電事業を推進するための促進区域を国が指定し、公募によって選定した発電事業者に対して最大30年間の海域の占用を認めるものである。同法に基づいて、2020年(令和2年)7月21日に銚子の南沖合の海域(3948.7ヘクタール)が促進区域に指定された。促進区域の指定は、長崎県五島市沖に次いで全国で2番目であった。同年9月16日、市と銚子市漁業協同組合、銚子商工会議所は、洋上風力発電設備の定期点検・部品交換・修繕等を担う「銚子協同事業オフショアウインドサービス株式会社」(C-COWS)を共同設立し、洋上風力発電による地域経済の活性化や雇用創出等の経済波及効果を長期間にわたって地域に還元するための体制構築を進めた[76]

クリーンモビリティ

2021年(令和3年)12月には、促進区域における洋上風力発電事業者として、三菱商事エナジーソリューションズ株式会社、三菱商事株式会社及び株式会社シーテックを構成員とするコンソーシアム「千葉銚子オフショアウィンド」が選定され、翌年11月1日に三菱商事株式会社銚子支店が開設された。漁場実態調査等を経て、2025年(令和7年)1月から送電線埋設・昇圧変電所建設等の陸上送変電設備工事が、2027年(令和9年)から洋上工事が開始され、2028年(令和10年)9月に13メガワットの大型風車31基が運転開始する計画であり、総発電出力は403メガワットが見込まれている[24]2023年(令和5年)6月13日、市と三菱商事株式会社は、地域創生に関する連携協定を締結した[76]。促進区域に隣接する名洗港について、港湾管理者である千葉県は、今後の千葉県沖の洋上風力発電の導入拡大を見据え、2022年(令和4年)3月に港湾計画の改訂を行った。2023年(令和5年)度から2027年(令和9年)度までの5年間で防波堤や航路の整備、岸壁の補修等を進め、港湾機能の強化を図るもので、洋上風力発電事業の建設補助・維持管理の拠点港湾としての活用に加え、風車景観とジオパークを調和したエコツーリズム拠点の形成等が示されている[24]。市では2021年(令和3年)2月16日2050年(令和32年)までに温室効果ガスの排出量を実質ゼロとする「ゼロカーボンシティ」を表明し、2023年(令和5年)3月には、取組の方針や地域の特性を活かした実効性の高い再生可能エネルギーの導入目標、カーボンニュートラルの構築につながる取組を盛り込んだ「銚子市ゼロカーボンビジョン」を策定した。市はこの計画に基づき、地域新電力「銚子電力株式会社」と連携した再生可能エネルギーの地産地消システム(マイクログリッド)の構築、ICTを活用した漁場の可視化や藻場の育成による海洋環境の保全、AI(人工知能)やロボットを活用したスマート農業の推進、災害時の移動電源としても活用されるEVPHEVFCVの市内導入、都市緑化やブルーカーボン生態系による二酸化炭素吸収源対策等を進め、豊かな自然環境と共生したエネルギー産業の先端都市の実現を目指している[49]

沿革[編集]

銚子大橋と銚子市街地
海上郡銚子町 C 銚子市
海上郡本銚子町
海上郡伊豆原村 B 海上郡西銚子町
海上郡豊浦村
海上郡高神村 D
海上郡海上村
海上郡船木村 E
海上郡椎芝村 A 海上郡椎柴村
香取郡豊里村 F
海上郡豊岡村 G
A 1891年(明治24年)1月26日
B 1891年(明治24年)8月14日
C 1933年(昭和8年)2月11日
D 1937年(昭和12年)2月11日
E 1954年(昭和29年)4月1日
F 1955年(昭和30年)2月11日
G 1956年(昭和31年)4月10日

市制施行前[編集]

  • 1868年(明治元年)
    • 5月 - 美加保丸難破し、死者13名を出す。
    • 10月 - 銚子事変おこる。
    • 維新政府により銚子の天領宮谷県管下に入る。
  • 1871年(明治4年)
  • 1872年(明治5年)
    • 5月 - 野尻郵便局を開設。
    • 7月 - 銚子荒野郵便局を開設し、樋口清七初代局長になる。
    • 7月 - 第16大区警察署出張所を荒野村宝満寺に置く(銚子警察署の始め)。
  • 1873年(明治6年)
    • 5月 - 小学校第1校創立。
    • 7月3日 - 第1大区第30番中学区官立小学校第4校円福寺を仮校舎として開校(明神・清水・飯沼校)
  • 1874年(明治7年)
  • 1875年(明治8年)5月7日 - 新治県を廃し、香取・匝瑳・海上の3郡を千葉県管轄に付す。
  • 1876年(明治9年)
    • 3月 - 垣根小学校、阿弥陀院を仮校舎として創立(海上小学校)。
    • 8月 - 松本校、光厳寺を仮校として創立(本城小学校)。
    • 12月 - 辺田校(春日小学校)創立。
    • 12月16日 - 高神小学校、賢徳寺を仮校舎として創立。
    • 12月 - 銚子北条間の道路県道となる。
  • 1877年(明治10年)2月 - 警察出張所荒野屯所を八日市場警察署銚子分署と改称。
  • 1878年(明治11年)7月 - 海上郡役所を荒野村明神町信太清左衛門方に設ける。
  • 1879年(明治12年)4月 - 銚子中山間の道路県道となる。
  • 1881年(明治14年)2月 - 銚子汽船株式会社創立。
  • 1882年(明治15年)3月 - 銚子汽船東京、銚子間の定期運行を開始。
  • 1885年(明治18年)
    • 2月 - 暁雞館創立。
    • 9月 - 銚子電信分室設置。
  • 1886年(明治19年)2月 - 私立銚子測候所荒野村の銚子汽船株式会社内に開設。
  • 1887年(明治20年)
  • 1888年(明治21年)
    • 11月 - 匝瑳郡八日市場区裁判所荒野出張所を銚子荒野村に置く。
    • 私立銚子測候所県立移管。
    • 漁業組合設立。
    • 本銚子町漁業組合組織される。
  • 1889年(明治22年)
    • 4月 - 荒野村を銚子町と改称。
    • 8月 - 長塚・本城・松本の3村を併合して1村となし伊豆原村と称す。
    • 9月21日 - 銚子郵便局開設。
    • 本銚子町石橋重兵衛澱粉業を営む。海上郡澱粉製造業の始め。
  • 1890年(明治23年)7月1日 - 第1回衆議院議員選挙に、銚子町より岩崎重次郎当選。
  • 1891年(明治24年)8月 - 伊豆原村を西銚子町と改称。
  • 1893年(明治26年)7月 - 川崎銀行銚子支店開業。
  • 1896年(明治29年)
    • 8月 - ヤマサ消防組創立(254人)。
    • 11月 - 銚子税務署を今宮に置き、海上匝瑳両郡の税務を取扱う。
    • 海上郡農会設立。
  • 1897年(明治30年)6月1日 - 総武鉄道銚子佐倉間)開通。
  • 1898年(明治31年)
    • 1月 - 銚子水難救済所設置。
    • 田中・濱口・岩崎の3家共同して薬学博士田原良純に設計を請い醤油研究所を銚子町に新設。
  • 1899年(明治32年)
    • 4月 - 株式会社銚子銀行設立。
    • 12月 - 川崎貯蓄銀行銚子支店開業。
  • 1900年(明治33年)
    • 3月28日 - 銚子・新生間貨物線開通。
    • 4月1日 - 銚子中学校、今宮小学校を仮校舎として開校。
  • 1901年(明治34年)
    • 4月19日 - 郡立銚子工業補習学校を銚子町に設置。
    • 籐表製造始まる(月産千足)。
  • 1902年(明治35年)
  • 1903年(明治36年)5月 - 紀州人移住碑妙福寺境内に建立。
  • 1907年(明治40年)
    • 1月 - 豊国銀行銚子支店、銚子町に開業。10月本銚子町に出張所開業。
    • 飯沼町宮内某機械で網糸製造を始める。
  • 1908年(明治41年)5月 - 銚子無線電信局開設。
  • 1909年(明治42年)3月15日 - 県立銚子商業学校開校。
  • 1910年(明治43年)
    • 2月 - 銚子電燈会社設立。
    • 7月1日 - 私立銚子幼稚園開園。
    • 夏 - 竹久夢二海鹿島に滞在、長谷川カタと出逢う。翌年『宵待草』の詩を作る。
  • 1911年(明治44年)
    • 2月 - 恩寵財団済生会設けられ、済生会病院設立。
    • 3月25日 - 郡立銚子技芸学校を廃止し、新たに郡立銚子実科高等女学校を設置。
    • 4月 - 銚子町消防組創立(220人)。
    • 5月 - 大正天皇東宮の時、銚子利根川河口に行啓。
    • 8月 - 県米殻検査所銚子支所設置。
  • 1912年(大正元年)夏 - 詩人高村光太郎犬吠に滞在し、長沼智恵子と出逢う。
  • 1913年(大正2年)
    • 7月 - 銚子瓦斯株式会社設立。
    • 8月 - 千葉県米殻検査所銚子支所を銚子町に設ける。
    • 12月28日 - 銚子遊覧鉄道開通。
  • 1914年(大正3年) 9月 - 銚子醤油合資会社創設。
  • 1915年(大正4年)
    • 8月 - 帝国実業貯蓄銀行支店開業。
    • 11月 - 勧業貯蓄銀行代理店開業。
  • 1916年(大正5年) 11月 - 近衛師団秋季演習あり、皇太子(昭和天皇)巡覧のため来銚。
  • 1917年(大正6年)8月2日 - 詩人三富朽葉今井白楊、君ヶ浜で遊泳中溺死。
  • 1918年(大正7年) 1月22日 - 文学博士吉田東伍、銚子吉野屋旅館にて急逝。
  • 1922年(大正11年)11月18日 - 銚子漁港修築案を千葉県会可決する。
  • 1923年(大正12年)
  • 1924年(大正13年)
    • 1月 - 千葉県水産株式会社、魚市場業務を統一、買収営業を開始。
    • 8月 - 財団法人公正会設立、図書館併設。
  • 1925年(大正14年)
  • 1926年(大正15年)
    • 3月 - ヤマサ醸造所夜学校、公正会館内に移転し、公正学院を改称。
    • 10月 - 大利根飛行場創設(私立)、銚子佐原間定期旅客運送開始。
  • 1927年(昭和2年)
    • 中秋 - 銚子鉄道株式会社、犬吠の暁雞館で観月会を催す。
    • 銚子合同運送株式会社設立。
  • 1930年(昭和5年)
    • 4月3日 - 私立銚子幼稚園、東岸寺に開園。
    • 9月6日 - 高神村騒擾事件起こる。
    • イワシ豊漁期に入り始める。
  • 1931年(昭和6年)6月21日 - 銚子鉄道君ヶ浜駅業務開始。
  • 1932年(昭和7年)
    • 8月30日 - 市制施行のため、初の3町3村長会議開催。
    • 9月8日 - 第1回大銚子市建設代表委員会開催、以後第4回まで開催。
    • 銚子漁港魚市場完成。

市制施行後[編集]

銚子市旗
  • 1933年(昭和8年)
    • 2月11日 - 市制施行(銚子町、本銚子町、西銚子町及び豊浦村の全域)。県地方課長川村芳次銚子市長職務管掌となる。
    • 3月11日 - 成田線(佐松線)全通。
    • 3月 - 好古家吉田文俊粟島台貝塚発見、石斧、石皿、独鈷石、土器等発掘。
    • 魚市場営業開始。
    • 3月14日 - 初の銚子市会開会。市会議長に大里庄次郎、副議長に今津徳兵衛。
    • 5月14日 - 初代銚子市長に川村芳次市長就任。
    • 5月25日 - 千葉県銚子土木事務所設置される。
    • 5月27日 - 銚子観光協会設立。
    • 6月3日 - 市制祝賀式挙行。
    • 9月16日 - 銚子市職業紹介所新設。
  • 1934年(昭和9年)
    • 9月1日 - 一ノ島灯台点灯。
    • 10月1日 - 銚子漁港新魚市場業務開始。
    • 11月 - 塵芥焼却場設置。
  • 1935年(昭和10年)
    • 8月 - 西小川町に市営火葬場(聖照殿)竣工。
    • 8月25日 - 銚子漁港河堤(第2漁船渠)施行認可。祝賀灯光行列市主催により行われる。
  • 1936年(昭和11年)
    • 1月27日 - 銚子市歌制定。
    • 4月1日 - 銚子市立銚子高等小学校設置。各尋常高等小学校は高等科を廃し尋常小学校となる。
    • 11月 - 銚子で初めての常備消防設置。
    • 12月1日 - 下志津陸軍飛行学校銚子分教場飛行場開校。
    • 12月1日 - 銚子商工会議所設立。事務所を銚子市役所内に置く。
    • 12月28日 - 初めて風致地区定められる。
    • 銚子駅舎新築。
    • イワシ豊漁、3000万貫突破。戦前の最高記録。
    • 県道銚子停車場線の改良工事竣工。
  • 1937年(昭和12年)
    • 2月11日 - 高神村海上村を合併。
    • 4月5日 - 銚子市立銚子中学校開校。
    • 8月16日 - 春日町に憲兵分遣隊置かれる。
    • 8月 - 銚子市民間防空監視隊設置。
    • 12月24日 - 創設水道工事起工式。
  • 1938年(昭和13年)
    • 前宿町に銚子市立病院(伝染病院)新設。
    • 犬吠地区県立公園に指定。
  • 1939年(昭和14年)
  • 1940年(昭和15年)
  • 1941年(昭和16年)
    • 1月24日 - 愛宕山に展望台落成。
    • 4月1日 - 「国民学校令」により、各尋常小学校を国民学校と改称。
    • 6月3日 - 宝醤油工業株式会社設立。
    • 12月9日 - 対米英開戦に伴い、川村市長全市に諭告を発す。
    • 内浜魚市場(イワシ市場)開設。
    • 妙見町に市営住宅2棟建設。
  • 1942年(昭和17年)
    • 4月 - 陸軍愛宕山に電波警戒機を配置(筑波隊)。
    • 4月 - 海軍、愛宕山にレーダー基地を設置(横須賀鎮守府犬吠電波短信所)。
    • 5月 - 企業合同により、有限会社銚子造船所設立。
  • 1943年(昭和18年)
    • 3月10日 - 千葉県立銚子水産学校、公正会館を仮校舎として設置(4月15日開校式)。
    • 4月1日 - 市内小学校の分離独立を実施。
  • 1944年(昭和19年)
    • 3月 - 前宿町総合運動場整地事業完了、陸上競技場、軟式野球場、野外相撲場完成。
    • 4月 - 香取海軍航空隊所属部隊、豊里地区に震洋特攻基地の建設作業を開始。
    • 9月 - 東京都へ鮮魚出荷のため、新生駅と魚市場間に鉄道線路敷設(臨港線と称す)。
    • 10月1日 - 千葉県銚子保健所開庁。
  • 1945年(昭和20年)
    • 2月16日 - 米軍艦載機、本市を初めて空襲。
    • 3月9日 - 3月10日 - 米軍機B29、本市中央部を空襲(3月大空襲)。
    • 3月 - 香取海軍航空隊所属部隊、幸町、外川町方面に震洋特攻基地建設工事を開始。
    • 5月14日 - 大里庄次郎市長就任。
    • 7月7日 - 本土決戦部隊として護沢03部隊(歩兵第437連隊八日市場町から銚子に進出。
    • 7月19日 - 7月20日 - B29、再度本市を大空襲。市街地の大半が被災(7月大空襲)。
    • 8月1日 - B29夜間東部地区を空襲。
    • 8月5日 - B29による夜間空襲。
    • 8月 - 護沢03部隊(第152師団司令部)佐原町から椎柴村猿田に進駐。
    • 8月15日 - 太平洋戦争終結。
    • 10月11日 - 米軍進駐部隊、銚子に駐屯。宿舎をヤマサ醤油本社屋に置く。
    • 10月 - 米軍監督のもと、旧日本軍の砲弾、爆弾の海洋投棄始まる。
    • 12月27日 - 妙福寺で戦災死者の合同慰霊祭を行う。
  • 1946年(昭和21年)
    • 1月 - 千葉県銚子復興事務所設置される。
    • 4月20日 - 銚子文化会結成。
    • 5月14日 - 銚子市長に加瀬道之助就任。
    • 6月6日 - 昭和天皇、銚子に行幸。
    • 10月 - 銚子市立病院完成。
  • 1947年(昭和22年)
    • 3月1日 - 常陽銀行銚子支店開設。
    • 4月1日 - 「学校教育法」の施行により各国民学校を小学校と改称。
    • 4月1日 - 「学校教育法」の施行により、新制中学校5校を設置(銚子市立第一中学校〜銚子市立第五中学校)。
    • 4月8日 - 「職業安定法」に基づき、銚子勤労署を廃し、銚子公共職業安定所を置く。
    • 4月8日 - 千葉県銚子労政事務所設置される。
    • 5月3日 - 千葉司法事務局銚子支局設置される。
    • 5月3日 - 銚子区検察庁開庁。
    • 5月27日 - 銚子簡易裁判所開庁。
    • 9月1日 - 労働基準監督署開庁。
    • 皇太子(明仁上皇)犬吠瑞鶴荘に宿泊。
    • 12月3日 - 銚子市警察署開庁式。
  • 1948年(昭和23年)
    • 1月5日 - 銚子駅舎新築。
    • 3月1日 - 財団法人公正会解散。図書館を市立公正図書館、その他を市立公正館とする。
    • 4月1日 - 新学制により、中女学校高等学校となる。
    • 6月13日 - 銚子文化協会生まれる。
    • 9月16日 - アイオン台風、最大風速南南東の風48.0メートル以上、死傷者23人、住家全壊147戸。
    • 9月29日 - 外川漁港改修工事着手。
    • 11月11日 - 銚子市文化祭始まる。
    • 12月 - 利根川河口導流堤工事着工。
  • 1949年(昭和24年)
    • 1月1日 - 銚子市消防本部及び消防署設置。
    • 1月15日 - 銚子市公報創刊。
    • 4月1日 - 市庁舎再建。
    • 9月22日 - 市立公正館を社会教育法に基づく公民館とし、銚子市公正市民館と改称。
  • 1950年(昭和25年)
    • 1月5日 - 銚子市立病院(伝染病患者収容施設)内に実費診療所を併設。
    • 1月15日 - 第1回成人式を開催。
    • 3月31日 - 県下中学校対抗銚子半島一周駅伝大会始まる。
    • 3月31日 - 外川漁港の改修工事竣工。
    • 4月1日 - 銚子市立第一保育所設置。
    • 4月1日 - 学校教育法に基づく幼稚園銚子市立興野幼稚園を設置。
    • 6月1日 - 銚子市公益質屋開設。
    • 6月17日 - 銚子市営球場開場式。
    • 7月28日 - 復興祭開催。
    • 8月 - 銚子市営プール竣工。
    • 12月23日 - 銚子市勤労会館開館。
  • 1951年(昭和26年)
    • 4月1日 - 銚子市立診療所設置。
    • 4月23日 - 銚子市長に島田隆就任。
    • 5月24日 - 銚子市母子寮設置。
    • 5月24日 - 銚子市養老院設置。
  • 1952年(昭和27年)
    • 6月27日 - 名洗避難港工事起工式。
    • 4月12日 - 県立公園七ツ池で桜まつりを開催。
    • 7月19日 - 君ヶ浜キャンプ場開設。
  • 1953年(昭和28年)
  • 1954年(昭和29年)
  • 1955年(昭和30年)
    • 2月11日 - 豊里村旭市大字イ椎柴野を編入。
    • 3月 - 県道銚子公園線の一部犬吠埼・長崎間が完成、海岸一周が可能となる。
    • 4月 - 磯めぐり定期観光バスの運行開始
    • 7月 - 愛宕山に観光道路市道愛宕山天王台線開通。
  • 1956年(昭和31年)
  • 1957年(昭和32年)
    • 4月1日 - 銚子市大字塙及び八木の一部区域を海上郡飯岡町に編入。
    • 9月 - 銚子測候所、銚子地方気象台に昇格。
  • 1958年(昭和33年)
    • 6月29日 - 日比友愛の碑除幕式。
    • 7月27日 - 酉明浦の長崎海岸に新海水浴場造成し竣工する。
  • 1959年(昭和34年)
    • 3月3日 - 銚子地域、水郷国定公園に指定。
    • 4月1日 - 精神薄弱児通園施設銚子市立わかば学園開設。
  • 1960年(昭和35年)
  • 1961年(昭和36年)
  • 1962年(昭和37年)
    • 1月9日 - 交通安全都市宣言。
    • 3月13日 - 銚子市民歌を作成、作曲者山田耕作による指導会を開催。
    • 3月 - 笠上団地宅地造成竣工。
    • 8月 - 銚子漁港東魚市場新設。
    • 12月11日 - 銚子大橋開通式。
  • 1963年(昭和38年)
    • 2月25日 - 精神衛生都市宣言。
    • 3月 - 国の第3次漁港整備計画成立、銚子漁港の抜本的整備決まる。
    • 4月 - 近代的な屎尿処理施設として銚子市衛生処理場を設置し、業務開始。
    • 7月25日 - 銚子市営国民宿舎犬吠ホテル開館。
    • 8月3日 - 銚子漁港修築工事(第3次漁港整備計画)起工式。
    • 本格的なスーパーマーケット「ミヤスズ」銚子銀座に開店。
  • 1964年(昭和39年)
    • 3月31日 - 水道第2次拡張事業工事完成。
    • 4月1日 - 千葉県銚子漁港事務所設置される。
    • 4月10日 - 集団操業指導船いぬぼう就航。
    • 6月1日 - 犬吠埼に京成ホテル開館。
  • 1965年(昭和40年)
    • 8月13日 - 銚子市体育館開館。
    • 8月22日 - 県立銚子商業高等学校野球部、夏の甲子園大会で準優勝。
    • 11月18日 - 銚子市臨海土地造成事業起工式。
    • 12月 - 銚子漁港魚市場の中央魚市場改築工事完成。
  • 1966年(昭和41年)
  • 1967年(昭和42年)7月1日 - 銚子市特別養護老人ホーム開設。
  • 1968年(昭和43年)6月26日 - 銚子市学校給食共同調理場、四日市場町に開設。
  • 1969年(昭和44年)
    • 1月10日 - 利根川の埋立工事竣工。
    • 3月1日 - 水郷国定公園に筑波山系が加わり公園名は水郷筑波国定公園と変わる。
    • 3月 - 飯沼都市改造区画整理事業の工事終了。
    • 5月 - 外川漁港修築工事起工式。
    • 7月22日 - 水道第3次拡張事業竣工式。
    • 10月1日 - 銚子市塵芥焼却場を新設完成する。
    • 11月 - 千葉県銚子児童相談所業務を開始。
  • 1970年(昭和45年)
    • 1月 - 小浜町に工業団地造成。
    • 4月1日 - 銚子市民憲章制定。
    • 6月 - 銚子市臨海工業用地造成事業完了。
    • 8月 - 夏の観光行事「みなとまつり」始まる。
    • 9月22日 - 公害追放都市宣言。
  • 1971年(昭和46年)
    • 4月1日 - 精神薄弱児授産施設、銚子市三崎園開設。
    • 9月28日 - 銚子市青少年文化会館開館。
    • 11月6日 - 利根川河口の新航路開通。以後河口における漁船の遭難絶える。
  • 1972年(昭和47年)
    • 8月15日 - 千葉県救護盲老人施設施設猿田荘開設。
    • 11月 - 下水道工事開始。
    • 本市初の百貨店として、クリハシ百貨店開店。
  • 1973年(昭和48年)
    • 3月 - 円福寺観音堂再建。
    • 3月 - 東総広域水道企業団設置。
    • 4月 - 尾永井団地宅地造成(第1次)竣工。
    • 7月 - 銚子有料道路愛宕山公園線完成。
    • 9月5日 - 南小川町に新設の学校給食共同料理場と四日市場町の調理場とを合わせ学校給食センターとし、全市の完全給食が実現する。
    • 10月15日 - 第28回国民体育大会千葉県で開催。本市では高等学校硬式野球及び卓球競技が行われる。
    • 10月15日 - 昭和天皇・香淳皇后行幸啓。
  • 1974年(昭和49年)
    • 5月23日 - 銚子大橋無料化。
    • 7月 - 水道第4次拡張事業工事竣工。
    • 8月19日 - 銚子商業高等学校野球部、夏の甲子園大会で全国優勝。
    • 10月27日 - 総武本線、成田線全線電化。
    • 12月 - 民営の豊里団地造成事業工事開始。
    • 諸持町にカントリークラブ開設される。
  • 1975年(昭和50年)
    • 1月16日 - 銚子市老人憩の家君が浜荘開設。
    • 1月 - 尾永井団地宅地造成(第2次)竣工。
    • 3月10日 - 東京・銚子間に特急列車しおさい」運転開始。
    • 4月1日 - 県道銚子佐原線が国道356号に昇格。
    • 5月1日 - 銚子市民交響楽団結成。
    • 5月6日 - 銚子市新庁舎開庁。
    • 8月 - 銚子みなとまつりに「やっぺおどり」登場。
  • 1976年(昭和51年)
    • 4月1日 - 銚子市立銚子西高等学校、旧猿田小学校を仮校舎として開校。
    • 10月22日 - 株式会社銚子十字屋、末広町に新店舗開店。
    • 12月25日 - 青色申告都市宣言。
  • 1977年(昭和52年)
    • 3月 - 銚子漁港魚市場第3卸売市場No.1完成。
    • 8月30日 - 大谷津団地宅地造成竣工。
  • 1978年(昭和53年)
  • 1979年(昭和54年)
    • 4月1日 - 銚子市小児言語指導センター設置。
    • 6月11日 - 市勢振興調査開始。
    • 8月8日 - 銚子市立銚子高等学校野球部、夏の甲子園大会初出場。
    • 10月6日 - 株式会社銚子ショッピングセンター(シティオ)開店。
  • 1980年(昭和55年)
    • 6月1日 - 銚子老人ホームを長崎町に移転し、銚子市養護老人ホーム長崎園と改称。
    • 6月1日 - 銚子市特別養護老人ホームを銚子市特別養護老人ホーム外川園と改称。
    • 11月16日 - 第1回農水産業まつり開催。
    • 12月3日 - 銚子商工会議所、商工会館落成式。
  • 1981年(昭和56年)
    • 8月8日 - 銚子市立銚子西高等学校野球部、夏の甲子園大会に初出場。
    • 11月12日 - 第1回東総地区広域市長村圏内市町長・議長合同協議会(東総サミット)開催。
  • 1982年(昭和57年)
    • 3月3日 - 東総用水県営事業着工。
    • 2月17日 - 銚子市勤労コミュニティセンター開設。
    • 6月30日 - 銚子駅跨線人道橋完成。
  • 1983年(昭和58年)
    • 2月10日 - 「市制施行50周年記念式典」挙行。
    • 2月10日 - 米国クースベイ市と姉妹都市協定締結。
    • 2月11日 - 市の木に「さざんか」、市の花に「おおまつよいぐさ」を指定。
    • 5月1日 - 銚子市公正図書館新築開館。
  • 1984年(昭和59年)
    • 3月30日 - 銚子市公共下水道供用開始。
    • 3月31日 - 銚子市立総合病院建設1期工事竣工。
    • 4月1日 - 銚子市豊里地区コミュニティセンター開設。
    • 4月17日 - 市立病院新病棟診療開始(7月1日、市立総合病院と改称)。
    • 9月14日 - 非核・平和都市宣言。
  • 1985年(昭和60年)
  • 1986年(昭和61年)
    • 2月27日 - 「銚子市新総合計画基本計画」策定。
    • 4月1日 - 銚子市海上地区コミュニティセンター開設。
    • 8月1日 - 中央みどり公園開園。
    • 8月20日 - 銚子市長に佐藤幹彦就任。
    • 10月1日 - 銚子市清掃センター(西小川町)供用開始。
  • 1987年(昭和62年)
    • 3月 - 銚子漁港魚市場第3卸売市場No.2完成。
    • 4月1日 - 銚子市東部地区コミュニティセンター開設。
    • 8月29日 - 「名洗港マリンリゾート構想」県・市・地区漁協協議会が覚書調印。
    • 10月20日 - 名洗港マリンタウンプロジェクト調査委託。
  • 1988年(昭和63年)
    • 1月1日 - 愛宕山地球の丸く見える丘展望館開館。
    • 4月1日 - 銚子市高神地区コミュニティセンター開設。
    • 6月7日 - 山武・東総地域広域幹線道路整備促進期成同盟会発足。
    • 10月1日 - 銚子市最終処分場供用開始。
  • 1989年(平成元年)
    • 3月 - 桜井堰整備工事竣工。
    • 4月1日 - 君ヶ浜しおさい公園休憩所開設。
    • 4月1日 - 銚子市スポーツコミュニティセンター開設。
    • 4月18日 - 総合保養地域整備法に基づく重点整備地区の指定。
    • 5月22日 - 第1回利根川下流域首長会議(利根川サミット)開催。
    • 7月20日 - 犬吠埼灯台ライトアップ開始。
    • 10月11日 - 銚子・波崎間利根川新橋建設促進期成同盟会設立。
  • 1990年(平成2年)
    • 3月5日 - 「銚子市新総合計画第2次基本計画」策定。
    • 8月7日 - 名洗港港湾計画を県地方港湾審議会が承認。
    • 12月1日 - 銚子市斎場供用開始。
    • 11月15日 - 市立総合病院精神神経科新病棟完成。
  • 1991年(平成3年)
    • 2月1日 - 西部支所新庁舎で業務開始。
    • 2月8日 - 名洗港マリーナ建設に着手。
    • 2月14日 - 名洗港が海洋性レクリエーション拠点港湾として国から指定。
    • 6月12日 - 銚子・東京間高速バス運行開始(千葉交通・京成電鉄)。
    • 6月24日 - 水産ポートセンター開設。
  • 1992年(平成4年)
    • 3月25日 - 第三セクター株式会社銚子マリーナ発足。
    • 3月31日 - 銚子銀座通りココロード完成。
    • 3月31日 - 東部不動ケ丘公園一部供用開始。
    • 4月1日 - 君ヶ浜しおさい公園オープン。
    • 4月1日 - 銚子市衛生センター(三崎町)供用開始。
    • 5月15日 - 名洗港公有水面埋立工事着手。
  • 1993年(平成5年)
    • 3月20日 - 公共下水道唐子ポンプ場完成。
    • 3月23日 - 老人憩の家・地域福祉センター(こも浦荘)開設。
    • 11月7日 - 第1回銚子市産業まつり。
  • 1994年(平成6年)
    • 3月21日 - 地球の丸く見える丘ふれあい広場完成。
    • 3月31日 - 銚子駅前通りシンボルロード整備事業完了。
    • 8月20日 - 銚子市長に大川政武就任。
    • 11月30日 - 福祉作業所のぞみ(春日町)開所。
    • 12月16日 - 銚子連絡道路が「計画路線」に指定。
  • 1995年(平成7年)
    • 2月7日 - 「銚子市新総合計画第3次基本計画」策定。
    • 2月7日 - 銚子新大橋有料道路(仮称)起工式挙行。
    • 4月5日 - 県立銚子商業高等学校野球部が春の甲子園大会で準優勝。
    • 6月29日 - 産業廃棄物最終処分場設置反対・不法投棄しないさせない都市宣言。
    • 7月1日 - イルカウォッチング開始。
    • 8月18日 - グリーンホーム銚子(予冷貯蔵施設)完成。
  • 1996年(平成8年)
    • 4月22日 - 芦崎高齢者いこいセンター開設。
    • 10月23日 - 銚子駅前に自転車等駐車場新設。
  • 1997年(平成9年)
    • 2月7日 - 銚子市共同作業所しおさい(春日町)開所。
    • 3月25日 - 本通りマイロード整備事業完成。
    • 3月31日 - アグリタウン銚子(営農センター)完成。
    • 4月8日 - 犬吠埼民間ホテルが温泉掘削に成功。
    • 4月9日 - 銚子駅前アーケード竣工式挙行。
    • 10月1日 - インターネットに銚子市ホームページ開設。
    • 11月1日 - 新国立劇場舞台美術センターが豊里台に完成。
  • 1998年(平成10年)10月19日 - 銚子郵便局新局舎完成。
  • 1999年(平成11年)
    • 4月1日 - 地方港湾名洗港銚子マリーナ開業供用開始。
    • 7月17日 - 「銚子マリーナ完成記念式典」挙行。
    • 7月20日 - 銚子マリーナ海水浴場オープン。
  • 2000年(平成12年)
  • 2001年(平成13年)
    • 1月1日 - 「世紀越えイベントin銚子」を君ヶ浜で開催。
    • 3月23日 - 「銚子ルネッサンス2025」第1次基本計画策定。
    • 3月 - 小畑池整備工事完了。
    • 8月31日 - 市内初の風力発電機運転開始。
    • 10月7日 - 銚子マリーナ周辺海域で国際モス級ヨット世界選手権大会開催。
    • 11月1日 - 銚子市市民センター開館。
  • 2002年(平成14年)
  • 2003年(平成15年)
    • 2月11日 - 市の魚に「いわし」指定。
    • 3月25日 - 銚子市共同作業所しおさい及び銚子市福祉作業所のぞみ複合施設銚子市ワークセンター完成。
    • 7月23日 - 銚子有料道路無料化。
  • 2004年(平成16年)
  • 2005年(平成17年)
    • 2月18日 - 銚子大橋架換事業着工。
    • 4月1日 - 千葉科学大学マリーナキャンパス供用開始。
  • 2006年(平成18年)
    • 3月25日 - 銚子連絡道路1期区間開通。
    • 4月1日 - 銚子市保健福祉センターすこやかなまなびの城開館。
    • 4月1日 - 興野小学校、若宮小学校が統合し双葉小学校が開校。
    • 8月20日 - 銚子市長に岡野俊昭就任。
    • 12月21日 - 健康スポーツ文化都市宣言。
  • 2007年(平成19年)
    • 3月28日 - 国道356号銚子バイパス(第1期工区)開通。
    • 11月19日 - 「銚子ルネッサンス2025」第2次基本計画策定。
  • 2008年(平成20年)
    • 3月13日 - 双葉小学校新校舎完成。
    • 4月1日 - 銚子市立銚子高等学校、銚子市立銚子西高等学校が統合し、銚子市立銚子高等学校となる。
    • 4月1日 - 千葉県立銚子商業高等学校、千葉県立銚子水産高等学校が統合し、千葉県立銚子商業高等学校となる。
  • 2009年(平成21年)5月18日 - 銚子市長に野平匡邦就任。
  • 2010年(平成22年)
  • 2011年(平成23年)
    • 3月11日 - 東北地方太平洋沖地震発生。震度5強の揺れと最大波2.5メートルの津波を観測し、家屋の倒壊や浸水被害多数。
    • 5月6日 - 河岸公園全面供用開始。
    • 10月20日 - 銚子ジオパーク推進協議会設立。
  • 2012年(平成24年)
    • 5月1日 - 清川町第二公園供用開始。
    • 9月24日 - 「銚子ジオパーク」が日本ジオパークに認定。
    • 10月1日 - 特別養護老人ホーム「外川園」が「松籟の丘」として移転開設。
  • 2013年(平成25年)
    • 1月8日 - 銚子市学校給食センター第一・第二調理場を統合し、新学校給食センター開設。
    • 4月1日 - 第四中学校、第八中学校が統合し銚子中学校が開校。
    • 5月18日 - 銚子市長に越川信一就任。
    • 11月3日 - 銚子半島ハーフマラソン開催(市制施行80周年記念事業)。
  • 2015年(平成27年)3月29日 - 銚子漁港魚市場第1卸売市場竣工。
  • 2016年(平成28年)4月19日 - 佐倉成田佐原、銚子を舞台とした「北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み」が日本遺産に認定。
  • 2017年(平成29年)
    • 1月23日 - 銚子漁港黒生地区-7.5メートル岸壁の一部供用開始式典。
    • 1月24日 - 新消防庁舎完成、業務開始。
  • 2018年 (平成30年)
  • 2019年(令和元年)
    • 3月 - 「銚子市総合計画基本構想」「銚子市総合計画基本計画」策定。
    • 4月1日 - 地域交流センター・銚子芸術村供用開始。
    • 4月1日 - 銚子電力株式会社が一般家庭への電気供給開始。
    • 7月30日 - 銚子沖の一部海域が「再エネ海域利用法」に基づく洋上風力発電の促進区域指定に向けた「有望な区域」に選定。
    • 11月10日 - 旧猿田小学校にさるだ学集館オープン。
  • 2020年(令和2年)
    • 7月21日 - 銚子沖が促進区域指定。
    • 9月16日 - 銚子共同事業オフショアウインドサービス株式会社共同設立。
    • 12月18日 - 銚子市文化財保存活用地域計画が認定。
    • 12月23日 - 犬吠埼灯台が国の重要文化財指定。
  • 2021年(令和3年)
    • 2月16日 - ゼロカーボンシティ銚子を表明。
    • 3月 - 県道愛宕山公園線バイパス開通。
    • 4月1日 - 第五中学校、第六中学校、第七中学校が統合し、銚子西中学校が開校。
    • 4月1日 - 東総地区クリーンセンター稼働開始。
    • 7月1日 - 東総地区最終処分場稼働開始。
    • 12月24日 - 銚子沖促進区域における洋上風力発電事業者選定(千葉銚子オフショアウィンド)。
  • 2022年(令和4年)
    • 1月20日 - 銚子市電子図書館サービス開始。
    • 3月 - 名洗港港湾計画改訂。
    • 5月 - 株式会社銚子漁業共生センター設立。
    • 7月11日 - 台湾・桃園市と友好協定。
    • 12月23日 - 「銚子市子ども未来基金」創設。
  • 2023年(令和5年)
    • 3月12日 - 弦哲也を銚子市名誉市民に推挙(市制施行90周年名誉市民顕彰式)。
    • 3月 - 銚子市DX推進計画策定。
    • 3月 - 銚子市ゼロカーボンビジョン策定。
    • 6月18日 - 銚子市制施行90周年記念神輿渡御。
  • 2024年(令和6年)
    • 3月14日 - 県道銚子海上線清滝バイパス全線開通。
    • 3月21日 - 東総台地地区広域営農団地農道全線開通。
    • 3月31日 - 銚子連絡道路2期区間開通。
    • 3月 - 銚子市地域公共交通計画策定。
    • 3月 - 銚子市立地適正化計画策定。

行政区域変遷[編集]

  • 変遷の年表
銚子市市域の変遷(年表)
月日 現銚子市町域に関連する行政区域変遷
1889年(明治22年) 4月1日 町村制施行に伴い、以下の町村がそれぞれ発足[77]
  • 海上郡
    • 銚子町 ← 新生村・荒野村・今宮村
    • 本銚子町 ← 飯沼村が単独で町制施行
    • 伊豆原村 ← 松本村・本城村・長塚村
    • 豊浦村 ← 小川戸村・辺田村・三崎村
    • 高神村 ← 高神村が単独で村制施行
    • 海上村 ← 松岸村・垣根村・四日市場村・余山村・柴崎村・高野村・三宅村・赤塚村
    • 椎芝村 ← 野尻村・小船木村・塚本村・忍村・猿田村
    • 船木村 ← 高田村・芦崎村・岡野台村・船木台村・三門村・中島村・正明寺村
    • 豊岡村 ← 塙村・八木村・小浜村・親田村・常世田村
  • 香取郡
    • 豊里村 ← 下桜井村・富川村・下森戸村・諸持村・宮原村・東笹本村
1891年(明治24年) 1月26日 椎芝村は改称し椎柴村になる。
8月14日 伊豆原村は町制施行・改称し西銚子町になる。
1933年(昭和8年) 2月11日 銚子町・本銚子町・西銚子町・豊浦村が合併し銚子市が発足。
1937年(昭和12年) 2月11日 高神村・海上村は銚子市に編入。
1954年(昭和29年) 3月31日 豊岡村の一部(塙と八木の一部)が飯岡町と三川村と合併し、飯岡町が発足。
4月1日 船木村・椎柴村は銚子市に編入。
1955年(昭和30年) 2月11日 香取郡豊里村は銚子市に編入。
1956年(昭和31年) 4月10日 豊岡村は銚子市に編入。
1958年(昭和33年) 飯岡町の一部(三川の一部)は銚子市に編入。
  • 変遷表
銚子市市域の変遷表(※細かな境界の変遷は省略)
1868年
以前
明治22年
4月1日
明治22年 - 昭和64年 平成元年 - 現在 現在
海上郡 新生村 銚子町 銚子町 昭和8年2月11日
銚子市
銚子市 銚子市
荒野村
今宮村
飯沼村 本銚子町 本銚子町
松本村 伊豆原村 明治24年8月14日
西銚子町
町制改称
本城村
長塚村
小川戸村 豊浦村 豊浦村
辺田村
三崎村
高神村 高神村 高神村 昭和12年2月11日
銚子市に編入
松岸村 海上村 海上村
垣根村
四日市場村
余山村
柴崎村
高野村
三宅村
赤塚村
高田村 船木村 船木村 昭和29年4月1日
銚子市に編入
芦崎村
岡野台村
船木台村
三門村
中島村
正明寺村
野尻村 椎芝村 明治24年1月26日
椎柴村に改称
小船木村
塚本村
忍村
猿田村
小浜村 豊岡村
の一部
豊岡村の一部 昭和31年7月1日
銚子市に編入
親田村
常世田村
八木村の一部
香取郡 下桜井村 豊里村 豊里村 昭和30年2月11日
銚子市に編入
富川村
下森戸村
諸持村
宮原村
東笹本村

政治[編集]

施策[編集]

次世代エネルギー産業[編集]

洋上ウインドファーム
クリーンモビリティ

銚子沖は、年平均風速7.0メートル毎秒以上と風況に恵まれているほか、水深20〜30メートルの遠浅の海が続き、着床式洋上風力発電の導入に適した自然環境となっている[76]2020年令和2年)7月21日、銚子南沖合の海域(3948.7ヘクタール)が「海洋再生可能エネルギー発電設備の整備に係る海域の利用の促進に関する法律」(再エネ海域利用法)に基づく促進区域に指定され、2021年(令和3年)12月には、促進区域における洋上風力発電事業者として、三菱商事株式会社等のコンソーシアム「千葉銚子オフショアウィンド」が選定された。2028年(令和10年)9月に13メガワットの大型風車31基が運転開始する計画であり、総発電出力は403メガワットが見込まれている。促進区域に隣接する名洗港について、港湾管理者である千葉県は、洋上風力発電事業の建設補助・維持管理の拠点港湾としての活用に加え、風車景観とジオパークが調和したエコツーリズム拠点の形成等を目指し、港湾計画の改訂を行った[24]。市、銚子市漁業協同組合及び銚子商工会議所では、2020年(令和2年)9月16日に「銚子協同事業オフショアウインドサービス株式会社」(C-COWS)を共同設立し、洋上風力発電による経済波及効果を長期間にわたって地域に還元するための体制構築を進めている[76]。こうした中、市は2021年(令和3年)2月16日2050年(令和32年)までに温室効果ガスの排出量を実質ゼロとする「ゼロカーボンシティ」を表明し、取組の方針や地域の特性を活かした実効性の高い再生可能エネルギーの導入目標、カーボンニュートラルの構築につながる取組を盛り込んだ「銚子市ゼロカーボンビジョン」を策定した。市はこの計画に基づき、地域新電力「銚子電力株式会社」と連携した再生可能エネルギーの地産地消システム(マイクログリッド)の構築、ICTを活用した漁場の可視化や藻場の育成による海洋環境の保全、AI(人工知能)やロボットを活用したスマート農業の推進、災害時の移動電源としても活用されるEVPHEVFCVの市内導入、都市緑化やブルーカーボン生態系による二酸化炭素吸収源対策等を進め、豊かな自然環境と共生したエネルギー産業の先端都市の実現を目指している[49]

子育て支援サービス[編集]

銚子市保健福祉センター・すこやかなまなびの城

本市では、2020年(令和2年)度に「銚子で生まれ育ち良かったと思えるような地域で支える『子育てのまちづくり』」を基本理念とした「第2期銚子市子ども・子育て支援事業計画」を策定し、子育てファーストのまちづくりを推進している[24]。銚子市子育て世代包括支援センター「すくサポ」は、妊娠時から子育て期にわたるまでの相談・支援等を提供する場として、銚子市保健福祉センター・すこやかなまなびの城に設置されている。「すくサポ」では、保健師・母子保健コーディネーター・子育てコンシェルジュ等の専門職が妊娠・出産・産後・子育てに関する相談等に応じるほか、家庭相談員が家庭における適切な児童の養育や児童福祉に関する相談に応じている[78]。また、市では生後4か月までの乳児のいる全家庭を訪問し、子育ての情報提供・不安や悩み等の相談を行う「こんにちは赤ちゃん訪問事業」(家庭訪問)を実施し、乳児の成長と育児の支援を図っている。銚子市保健福祉センター・すこやかなまなびの城では、3か月児、9か月児、1歳6か月児、3歳児を対象とした健康診査等を実施しているほか、予防接種離乳食教室、虫歯予防教室等を開催している。市内では、子育て広場(1か所)、地域子育て支援センター(4か所)において保護者の相談や交流の支援を行うとともに、保育所(11か所)、放課後児童クラブ(11か所)等で働く保護者のサポートを実施している[79]。このほか、市では千葉県内トップクラスの「ふるさと納税」受入額を活用して「銚子市子ども未来基金」を創設し、18歳までを対象とした子ども医療費助成、インフルエンザ予防接種助成、ファミリー・サポート・センター事業、産後ケア事業、出産・子育て応援ギフト(給付金)支給等を実施している[24]2024年(令和6年)度からは学校給食費の無償化を開始し、さらなる子育て支援サービスの充実を進めている[80]

ワーケーション[編集]

屏風ヶ浦

本市は2017年(平成29年)度から、総務省委託事業として「お試しサテライトオフィスモデル事業」を実施した。豊富な観光資源・食資源・地場産業と都心からのアクセス利便性を活かしたサテライト・オフィス環境の整備、勤務形態に係る多様なニーズに応えるための多種多様なお試し勤務地の整備、地域事業者・人材との交流や観光・開発合宿による地域の魅力体験等により、産業・経済の活性化と若者のための「しごとづくり」を推進するものであった。行政担当職員、地元事業者、再委託事業者が個別に有する都市部企業とのネットワーク等を最大限に活用したことで、順調にお試し勤務企業数を伸ばし、企業数は計48件と目標値を大幅に上回った。IT系コンサルティング系企業のほか、シェアオフィス運営、流通業、製造業、音楽・アニメ製作等、その業種は多岐にわたった。SNSを駆使したお試し勤務状況のリアルタイム配信のほか、地元事業UJIターンのマッチングを促す特設サイト「Seeゴトバ」の構築等、デジタル的なアプローチの充実も、多くのお試し勤務企業の確保につながった。本市では、お試し勤務企業を通じて2社のサテライト・オフィス進出企業を確保した。東京から電車で1本というアクセス利便性に加え、本市が有する独自の地域資源、さらにはそれを運営・管理する地元団体を巻き込んでお試し勤務の誘引を行ったことが、これらの企業確保の大きな要因であった[81]。また、市独自の企業誘致の施策として、2017年(平成29年)3月から「銚子市企業立地等促進事業補助金制度」を実施し、本市に進出する企業に対し、固定資産税相当額の補助や雇用創出に応じた補助金を交付している。また、工場の建替等、一定規模以上の規模の再投資を行う既存企業に対しても補助金の交付を実施している[24]

市役所[編集]

銚子市庁舎
  • 銚子市役所:銚子市若宮町1番地の1

1933年昭和8年)2月11日市制施行当時、本市は旧銚子町役場庁舎を市庁舎とし、その後これを増改築して使用していたが、1945年(昭和20年)3月の銚子空襲でこの庁舎は焼失した。このため、当時の銚子市三軒町所在の千葉県立銚子工業学校校舎に仮移転し、次いで妙見町の銚子市立興野国民学校講堂に移って執務を行っていた。1949年(昭和24年)4月1日には、旧香取海軍航空隊兵舎の解体材を用いて戦災前の位置に再建した庁舎に移転した。その後、市は新庁舎の建設を事務的に検討し始め、1968年(昭和43年)4月、条例をもって銚子市庁舎建設検討審議会を設置した。市庁舎の位置は、1972年(昭和47年)7月の審議会の答申を受け、銚子醤油株式会社第1工場敷地と決定し、以後用地買収や庁舎の設計に関する諸作業が進められた。着工は1973年(昭和48年)11月19日、竣工は1975年(昭和50年)5月1日であった[19]

市は新しい市庁舎の建設に当たって、市庁舎は住民自治の本拠であるとの基本的な考え方から、市民の利益を本位とする市民サービスセンターとして、市民から親しみをもって利用されることを建設の重点に置いた。その位置は、市街地のほぼ中央の工場跡地で、利根川銚子漁港及び銚子大橋を背景とした環境の中にある。庁舎は鉄筋コンクリート造、地下1階、地上8階の当時市内最高の近代的なビルディングで、庁舎棟、議会棟、付属棟の3棟から構成されている。市民に直接関係する窓口は庁舎棟の下層階に配置し、特に1階には開庁当時の市民課、税務課、会計課、保険年金課、厚生課、福祉課の窓口を集中させ、模写電送装置コンピュータの導入により、窓口事務処理の合理化とスピード化を図ることとした。また、庁舎棟1階には各種相談の窓口としての市民相談センターを設置し、議会棟1階には市民との対話の場として市民ホール、展示ホールを設けた。議場をはじめ議会関係の室は議会棟の2・3階に配置し、傍聴席のほかに、市民ホールにモニターテレビを設置して市議会の傍聴者が多数の場合の便宜を図っている[19]。2022年(令和4年)度には、災害発生時の拠点施設としての機能維持を図るため、SRF工法による耐震補強工事が実施された[24]

出張所[編集]

出張所は、市町村がその権限に属する事務を分掌させるため、必要な地に設ける出先機関であり、本市では2か所の出張所を設けている。

  • 銚子市役所豊里出張所

1955年(昭和30年)2月11日の豊里村合併に際して旧豊里村役場に設置された。1984年(昭和59年)4月からは同跡地に新設された豊里地区コミュニティセンター内で執務することとなった[19]

  • 銚子市役所豊岡出張所

1956年(昭和31年)4月10日の豊岡村合併に際して旧豊岡村役場に設置された。その後、1985年(昭和60年)4月に、同跡地に新設された豊岡農村婦人の家において執務を開始した[19]2019年(平成31年)4月には、銚子市地域交流センター内に移転した。

行政計画[編集]

市町村における初期の行政計画は、その計画フレームとして、将来人口の規模、地域生産力、所得水準、生活環境の充実度等を掲げ、工業用地造成と企業誘致を主眼とした地域開発型の計画づくりが各地で進められていった。本市においては、1961年(昭和36年)に実施した「市勢振興調査」が、既存産業の一層の発展とあわせて大工業化、新産業創設を提起し、これを受けて「銚子市長期計画」が策定された。その後「地方自治法」の改正にあわせて、1973年(昭和48年)6月に「銚子市基本構想」を定めた。この初の基本構想は、市民福祉の増進を目的に、東総地域等における近代的な中核都市として「住みよい豊かな文化・産業都市」を将来像とし、基礎的条件の整備、生活環境の整備と社会福祉等の充実、教育文化水準の向上及び産業の振興を施策の大綱と定めたものであった。以後、本市は様々な地域振興策を盛り込んだ基本構想を4次にわたって策定してきた。いずれも5か年計画として「基本計画」を定め、3か年の「実施計画」を毎年度見直し補正するローリング方式により、予算編成との整合を図って政策的事業の総合的・計画的推進を期している[19]

  • 銚子市長期計画:1966年(昭和41年)3月策定
  • 銚子市基本構想「住みよい豊かな文化・産業都市」:1973年(昭和48年)6月策定
    • 銚子市基本計画:1973年(昭和48年)6月策定
    • 銚子市第2次基本計画:1978年(昭和53年)3月策定
  • 銚子市総合計画基本構想「活力と魅力ある東総の中核都市」:1985年(昭和60年)6月策定
    • 銚子市新総合計画基本計画「活力と魅力ある東総の中核都市をめざして」:1986年(昭和61年)2月策定
    • 銚子市新総合計画第2次基本計画「人の住むための豊かな都市づくりにむけて」:1990年(平成2年)3月策定
    • 銚子市新総合計画第3次基本計画「活き活きとした温かいまち・銚子」:1995年(平成7年)2月策定
  • 銚子市総合計画基本構想「銚子ルネッサンス2025」「ひとがときめき 海がきらめき 未来輝く都市(まち)」:2000年(平成12年)12月策定
    • 銚子市総合計画「銚子ルネッサンス2025」第1次基本計画:2001年(平成13年)3月策定
    • 銚子市総合計画「銚子ルネッサンス2025」第2次基本計画:2007年(平成19年)11月策定
  • 銚子市総合計画基本構想・基本計画「握手~つながる まちづくりのちから~」:2019年(平成31年)3月策定

2015年(平成27年)10月には、国の「まち・ひと・しごと創生総合戦略」を踏まえた銚子版総合戦略として、5か年の基本戦略と具体的施策をまとめた「銚子市しごと・ひと・まち創生総合戦略」が策定された。「しごとづくり」を第1の目標とし、官民連携、異業種間連携、政策間連携を進めながら、市民をはじめとした多様な主体によるまちづくりを目指すものであった[24]。また、人口ビジョンに掲げた成長戦略を実現し、人口の将来展望を達成するため、「稼ぐ力」所得アップ産業創出プロジェクト、郷土定着・移住促進プロジェクト、「まちの宝」子ども育成・高齢者健康活躍プロジェクト、地域力・市民力応援プロジェクトの4つの基本戦略が総合戦略の柱とされた[82]

2019年(平成31年)3月には、総合戦略を含めた一体的な計画として「銚子市総合計画」が策定された。策定にあたっては、5回にわたる市民ワークショップが開催され、市民参加型の総合計画づくりが進められた。「握手~つながるまちづくりのちから~」が全体を貫くビジョンとされ、市民自治と協働の視点を強く盛り込んだ計画となった。また、生活者である市民の目線に立ち、生活と時間(ライフステージ)、生活と空間(コミュニティ)という2つの視点からまちづくりが捉えられた。重点プロジェクトとしては、銚子の強みを生かした雇用の創出、自然(再生可能)エネルギーの活用促進、質の高い子育て支援と文教都市の形成、多様な主体が支え合いながら安心して生活できる地域づくりの推進、広域幹線道路網の開通による道路ネットワークの確立が掲げられた。計画の期間は2019年(平成31年)度から2028年(令和10年)度までの10年間とされた[83]

市長[編集]

市長は市の執行機関として、市を統括代表し、市の事務を管理執行する地位にある。また、1999年(平成11年)度末までは国その他の団体に機関委任事務を管理執行する国等の機関でもあった。市長は銚子市制施行後1943年(昭和18年)までは「市制」に基づいて市会において選挙することになっていたが、同年同法の一部改正が行われて、市会が内務大臣に候補者を推薦し、内務大臣が勅裁を経てこれを選任することに改められた。次いで1946年(昭和21年)に更に「市制」の改正が行われて、選挙民が直接選挙する公選制となった。第1回の公選が行われたのは1947年(昭和22年)である。「市制」によって開かれた市長公選制は、その後「地方自治法」に受け継がれている[19]

銚子市長 越川信一
歴代市長

市制施行以来の歴代市長は以下の通りである。なお市制施行の1933年(昭和8年)2月11日から、川村市長就任の同年5月14日までの約3か月間は、正規の市長はまだいなかったが、この間4月30日までは、当時千葉県地方課長であった川村が「市制」に基づく「市長職務管掌」として、また5月1日から13日までは、前銚子町長野口薫が「市長臨時代理」として、それぞれ市長の職務を執行した[19]

  • 川村芳次:1933年(昭和8年)5月14日 - 1945年(昭和20年)5月13日
  • 大里庄治郎:1945年(昭和20年)5月14日 - 1946年(昭和21年)1月7日
  • 加瀬道之助:1946年(昭和21年)2月12日 - 1951年(昭和26年)4月4日
  • 嶋田隆:1951年(昭和26年)4月23日 - 1978年(昭和53年)8月19日
  • 大内恭平:1978年(昭和53年)8月20日 - 1986年(昭和61年)8月19日
  • 佐藤幹彦:1986年(昭和61年)8月20日 - 1994年(平成6年)8月19日
  • 大川政武:1994年(平成6年)8月20日 - 2002年(平成14年)8月19日
  • 野平匡邦:2002年(平成14年)8月20日 - 2006年(平成18年)8月19日
  • 岡野俊昭:2006年(平成18年)8月20日 - 2009年(平成21年)3月29日
  • 野平匡邦:2009年(平成21年)5月17日 - 2013年(平成25年)5月16日
  • 越川信一:2013年(平成25年)5月17日 - 現職

行政組織[編集]

市の事務を分掌する部課等の組織を行政組織と呼んでいる。「地方自治法」第158条は「普通地方公共団体の長は、その権限に属する事務を分掌させるため、必要な内部組織を設けることができる」と定めている。この編成に当たっては、当該普通地方公共団体の事務及び事業の運営が簡素かつ効率的なものとなるよう十分配慮しなければならない、とされている。本市においては、戦後の地方自治制度の改革とその後の改正、また、地域実態への対応等のため、行政組織の新設・再編等を行ってきた[19]

銚子市行政組織機構(令和5年4月1日)
  • 市長
    • 会計管理者(会計課) - 会計班
    • 消防長(消防本部
      • 消防総務課 - 総務班 警防班
      • 予防課 - 予防班
      • 消防署
        • 庶務班 予防班 機械班 救助班 救急班 通信情報班
        • 東部分署
        • 西部分署
    • 水道局
      • 管理室 - 管理班 経理班
      • 工務室 - 配水班 給水装置班 建設班
      • 本城浄水場 - 浄水班 水質班
      • 下水道室 - 下水道管理班 下水道工務班
      • 芦崎終末処理場
    • 副市長
      • 秘書広報課
        • 秘書広報室 - 秘書班 広報広聴班
        • 公民連携事業室 - 公民連携事業班
      • 企画課
        • 企画室 - 企画調整班 政策推進班
        • 情報政策室 - 情報政策室情報政策班 情報システム班
        • 洋上風力推進室 - 洋上風力推進班
      • 財政課 - 財政室 - 財政班 行政改革推進班
      • 総務課 - 行政民事暴力対策監
        • 総務室 - 政策法務班
        • 人事室 - 人事研修班
        • 施設管理室 - 施設管理班
        • 危機管理室 - 危機管理班
      • 市民課
        • 市民室 - 戸籍班 市民班
        • 豊里出張所 豊岡出張所
        • 保険年金室 - 国保給付班 国保料班 後期高齢者医療班 国民年金班
      • 税務課
        • 課税室 - 市民税班 固定資産税班
        • 債権管理室 - 債権管理班
      • 社会福祉課
        • 社会福祉室 - 社会班 保護班
        • 障害支援室 - 給付管理班 給付事業班 相談支援班
      • 子育て支援課 - 子育て支援班 保育班
        • 第二保育所
        • 第三保育所
        • 第四保育所
      • 高齢者福祉課 - 資格給付班 認定審査班 高齢者福祉班
      • 健康づくり課
        • 健康・地域医療推進室 - 保健総務班 病院事業班
        • 保健事業室 - 健康づくり支援班 食の健康推進班 子ども家庭支援班
        • 新型コロナウイルスワクチン接種対策室 - ワクチン接種対策班
      • 観光商工課
        • 観光プロモーション室 - 観光振興班 ふるさと納税推進班
        • 産業振興室 - 商工労務班 消費生活班
        • 消費生活センター
      • 水産課 - 水産班 漁政班
      • 農産課 - 農業振興班 基盤整備班
      • 都市整備課
        • 都市整備室 - 都市計画班 建築住宅班 空家対策班
        • 土木室 - 土木管理班 土木工務班
  • 市議会 - 事務局 - 庶務班 議事班
  • 教育委員会 - 教育長
    • 学校教育課
      • 教育総務室 - 教育総務班
      • 学校教育室 - 学務班
      • 学校給食センター
      • 指導室 - 指導班
      • 小児言語指導センター
    • 社会教育課
      • 生涯学習室 - 社会教育班
      • 青少年指導センター
      • 市民センター
      • 公正図書館
      • 青少年文化会館
      • スポーツ振興室 - スポーツ振興班
      • 体育館
      • 文化財・ジオパーク室
      • ジオパーク・芸術センター - 文化財班 ジオパーク班
    • 高等学校・中学校・小学校
  • 選挙管理委員会 - 事務局 - 選挙局
  • 監査委員会 - 事務局 - 監査班
  • 農業委員会 - 事務局 - 農地農政班
  • 固定資産評価審査委員会

財政[編集]

銚子市一般会計の歳入決算額において、費目別比率の大きい順にみると、市税、地方交付税、国県支出金又は市債の順である。2021年(令和3年)度では、自主財源の多くを占める市税が78.4億円であるのに対し、依存財源は地方交付税57.4億円、国庫支出金51.7億円、市債22.1億円、県支出金15.7億円となっている。銚子市一般会計歳出決算額における費目別比率は、民生費、総務費、教育費、公債費、衛生費、消防費、土木費の順となっている。歳出の性質別分類は、行政経費の性質に従った分類で、財政運営の状況や特色を判断するために用いられる。2021年(令和3年)度においては、扶助費56.4億円、人件費54.4億円、公債費30億円である。義務的経費は140.7億円であり、物件費、維持補修費、補助費等を加えた経常的経費は195.4億円となっている。物件費は業務委託料等、維持補修費は学校施設、廃棄物処理施設、市営住宅、道路、河川の補修・維持等の費用、補助費等では公営企業会計補助等がその主な内容である。投資的経費は21.3億円である。特別会計は、2021年(令和3年)度においては、国民健康保険事業介護保険事業及び後期高齢者医療事業の3会計となっている。地方公営企業は、2021年(令和3年)度において、水道事業及び病院事業の2事業で、それぞれ事業ごとに特別会計を設置している[84]。なお、本市の財政力指数は0.61(令和3年度)であり、県東部地域において最も高い財政力を有している[16]

銚子市令和4年度当初予算概要
  • 会計別予算額
    • 一般会計 238億6700万円
    • 公営企業会計(3会計) 73億5400万円
    • 特別会計(3会計) 147億1500万円
  • 一般会計当初予算
    • 歳入のうち
      • 市税 78億3828万3千円(32.8%)
      • 地方交付税 56億1492万6千円(23.5%)
      • 国県支出金 43億7896万7千円(18.4%)
    • 歳出のうち
      • 人件費 55億8290万3千円(23.4%)
      • 扶助費 45億5591万5千円(19.1%)
      • 公債費 31億4305万1千円(13.2%)
    • 市民1人当たり市税負担額 13万6117円
    • 市民1人当たり市税受益額 41万4466円

1985年(昭和60年)の国の「地方公共団体における行政改革推進の方針」以来、市は市長を本部長とする銚子市行政改革推進本部を設置し、事務改善委員会をその幹事会とし、行政改革推進に必要な調査審議をするための銚子市行政改革懇談会を置いた[19]。この体制によって、1986年(昭和61年)3月「銚子市行政改革大綱」を定め、以後、7次にわたる行政改革大綱を策定してきた。2017年(平成29年)度から2021年(令和3年)度までの「第7次銚子市行財政改革大綱」に掲げた措置事項は、歳入の確保、歳出の削減、特別会計の健全運営の確保、公共施設等の統廃合・集約化等の促進、広域連携の推進、行財政改革における事業仕分の応用、マイナンバーの活用、職員接遇力の向上、定住外国人・国際化への対応、積極的なアウトリーチの推進、市民参画と地域協働の推進等であった[85]

本市の「ふるさと納税」受入額は千葉県内トップクラスであり、中間事業者・返礼品事業者と連携し、ECサイトでの発信力を強化した結果、2023年(令和5年)度の受入額は約6億円と、2022年(令和4年)度の2倍余りに増加した[80]。市では「ふるさと納税推進ビジョン」を策定し、本市の特性を活かした魅力ある返礼品の企画・開発により、2025年(令和7年)度までに年間10億円を達成することを目標としている[86]

公有財産[編集]

地方公共団体の財産とは、「地方自治法」において公有財産物品及び債権並びに基金をいうものとされている。公有財産は行政財産と普通財産とに分かれる。行政財産とは、地方公共団体が事務事業を実施するためみずから使用するための庁舎・消防施設・船舶等の公用財産と、住民の一般的共同利用に供するための学校施設・衛生施設・公園・道路等の公共用財産をいう。普通財産は行政財産以外の公有財産で、直接特定の行政目的に供されるのではなくその経済的価値によって間接的に行政に寄与するものである。物品は、公有財産・基金に属するもの以外の備品、消耗品、材料品、不用品等である。債権は、地方税、使用料、手数料等の公法上の収入債権と物品売払代金、賃貸料等の私法上の収入債権である。基金には、財産維持・資金積立てのための基金と資金運用のための基金があり、その内容は現金預金土地等から成る[19]

広域行政[編集]

広域行政とは、2つ以上の地方公共団体がそれぞれの行政の区域を超えて行政事務を広域的に処理することである。戦後の合併によって市町村規模の適正化が図られたが、その後の急激な経済成長や交通手段の発達等に伴って住民の日常生活・経済活動の範囲が拡大し、改めて地方公共団体における行政の広域化の重要性が高まってきた。このため国は、このような地域社会の変動に対応し、住民の要請に応え魅力ある豊かな地域社会を建設するため、1969年(昭和44年)5月に広域市町村圏構想を打ち出し、計画策定に要する経費について補助金を交付する等の財政上の措置を講じ、広域行政を促進した。これを受け、千葉県では、支庁区域単位の広域圏の設定の促進を図っていたが、東総地域については、本市、旭市八日市場市飯岡町海上町光町野栄町香取郡干潟町を加えた3市5町を一つの広域市町村圏として、1971年(昭和46年)7月、千葉県知事によって東総地区広域市町村圏が設定され、同年9月に同広域市町村圏事務組合の設立が許可された。以後、この事務組合では、3次にわたり広域市町村圏計画(基本構想・基本計画・実施計画)を策定し、職員の統一共同採用試験・共同研修の実施、首長・議長合同協議会(東総サミット)の開催等を進めてきた。また、1990年(平成2年)9月には、地域の自立的発展が見込まれる圏域として千葉県内では唯一、ふるさと市町村圏のモデル地域に指定されたのを受け、ソフト事業を中心とした地域振興事業を実施し、圏域の一体的発展を図ってきた。近年は、地方分権とあわせて広域連合等の活用による広域行政の積極的な推進が求められており、また、環境問題等の新しい行政需要に応えるためにも広域行政の新たな展開が必要とされてきたことから、1997年(平成9年)11月に東総地域広域行政検討会が設けられ、既存の事務組合の統合・複合化、新たな広域処理事務事業の調査検討等に取り組んできた[19]。2023年(令和5年)度における主な事業は、銚子連絡道路の整備促進、ごみ処理の広域化に関する事業、職員採用試験合同実施事業、職員共同研修事業、中学生海外派遣研修事業である[87]

また、1989年(平成元年)5月に、利根川下流域市町の共同課題の解決と一体的な地域振興を図るため、古くから経済活動や日常生活が同一圏内であった茨城県波崎町を含め、本市、小見川町東庄町と茨城県神栖町、波崎町の1市4町による利根川下流域首長会議(利根川サミット)が結成された。これは、特定の事務を共同処理するものではないが、県境を越えた流域圏として、利根川新橋の建設促進をはじめ、広域道路網の整備、観光ルートの設定、河川敷の有効活用、利根川の水質浄化等の課題に積極的に取り組んでおり、利根かもめ大橋の建設実現はその成果である[19]

市町村合併[編集]

国は、国と地方の行政事務の再配分と合理化のため、1953年(昭和28年)9月に「町村合併促進法」を、1956年(昭和31年)6月に「新市町村建設促進法」を公布し、市町村合併を推進してきた。このような背景の中で、本市は海上郡船木村椎柴村、香取郡豊里村、海上郡豊岡村を編入合併した。この市村合併は、行政区域の規模の適正化により行政水準の維持を図ることを目的としたものであった。1999年(平成11年)7月の「市町村の合併の特例に関する法律」(合併特例法)の改正等により、自主的な市町村合併を支援する制度が拡充されたことから、市町村合併に関する議論や合併に向けての動きが活発化した[19]2004年(平成16年)8月に銚子市・東庄町合併協議会が設置され、協議が行われたが、合併へとつながっていく合意形成には至らなかった[88]。その後、本市において市町村合併は行われていない。

名誉市民と名誉参与員[編集]

濱口梧洞翁寿像

「地方自治法」上の制度ではないが、本市は市に貢献した者を顕彰するため、銚子市名誉市民と銚子市名誉参与員の制度を設けている。銚子市名誉市民は、1956年(昭和31年)1月12日施行の「銚子市名誉市民条例」に基づき、本市の市民又は本市の関係者で広く社会文化の興隆に功績が卓絶であった者の功績をたたえるとともに市民の社会文化興隆に対する意欲の高揚を図るための顕賞制度である。名誉市民は市長が市議会の同意を得て推挙し、推挙された者には銚子市名誉市民の称号を贈られ、その事績を市広報に登載し、名誉市民台帳に登録して終身その名誉を保有せしめ、名誉市民章を贈る。この他、市の公の式典への参列、死亡の際における相当の礼をもってする弔慰等の待遇がある。この条例の公布・施行により、1956年(昭和31年)3月11日に、市は濱口梧洞今井健彦の両氏の名誉市民推挙式を公正市民館講堂において挙行した[19]

名誉市民[編集]

1956年(昭和31年)3月11日推挙。ヤマサ醤油株式会社社長・会長として経済発展に寄与。財団法人公正会の設立と公正会館の建設、図書館の併設、夜間の公正学院の設立等、文化教育の発展に多大な貢献があった。1962年(昭和37年)1月31日逝去(享年89歳)[89]

1956年(昭和31年)3月11日推挙。衆議院議員8期、農林参与官、商工政務次官等を歴任。政治家としての活動中、銚子漁港の建設、佐原松岸間の鉄道敷設、市営上水道の敷設等、本市と中央政官界との連関を図った。1966年(昭和41年)1月20日逝去(享年83歳)[89]

  • 嶋田隆

1983年(昭和58年)2月10日推挙(市制施行50周年記念式典)。銚子市長連続7期在任。戦後の混乱した地方自治行政の処理と戦災復興から、地方財政危機時代、高度経済成長時代を経て、再び地方財源の大幅不足時期等、変転著しい地方行財政の運営責任者として多大に尽力した。2001年(平成13年)9月22日逝去(享年92歳)[89]

2007年(平成19年)6月2日推挙。参議院議員連続4期、同院地方行政委員会委員、懲罰委員会委員長、参議院副議長等を歴任。1998年(平成10年)3月に策定された「新・全国総合開発計画」の中に東総地域の開発を位置づけるため多大な尽力をしたほか、市民の利便性を考慮した銚子郵便局の移転整備の早期実現を図る等、市と中央政官界との密接な連携を図り、本市の発展に尽力した。2010年(平成22年)6月21日逝去(享年90歳)[89]

  • 安藤勇

2007年(平成19年)6月2日推挙。千葉県議会議員連続7期、千葉県議会議長等を歴任。県政においては、銚子を中心とした東総地域の振興を政見の重点として、スポーツや観光の振興とともに、名洗港の整備促進等に積極的に取り組んだ。また、銚子市交通安全協会、銚子市体育協会、社団法人千葉県観光協会、社団法人銚子市観光協会、千葉県水泳連盟の会長等の要職を務め、市と県政官界との密接な連携を図る等、本市の発展に尽力した。2011年(平成23年)11月22日逝去(享年88歳)[89]

  • 西川照幸

2007年(平成19年)6月2日推挙。1949年(昭和24年)から民生委員児童委員1950年(昭和25年)から保護司に就任し、いずれも約半世紀にわたり、慈愛と社会奉仕の精神をもって地域福祉活動及び更生保護活動を推進した。また、人権擁護委員調停委員司法委員等も多年にわたり務めた。特に、1976年(昭和51年)に銚子市社会福祉協議会の会長に就任以来、約30年にわたりその要職を務め、民間における社会福祉活動の基盤づくりと共助社会の構築に尽力した。2020年(令和2年)7月13日逝去(享年95歳)[89]

2023年(令和5年)3月12日推挙。公益社団法人日本作曲家協会会長、一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)会長。石川さゆり天城越え」、石原裕次郎北の旅人」、川中美幸ふたり酒」等、数々の名曲を生み出し、作曲家として活躍している。音楽生活50周年を記念し「犬吠埼・おれの故郷」を発表する等、たえず故郷を思い、音楽活動をとおし銚子の魅力を全国に発信し続けており、本市の発展に力を尽している[89]

名誉参与員[編集]

名誉参与員は、1956年(昭和31年)3月10日公布・施行の「銚子市名誉参与員条例」に基づくもので、本市自治振興に寄与し、特に功績が顕著な者を市民の総意による感謝の反映として銚子市名誉参与員に推薦し、永くその功績をたたえ、もって市民の愛市意欲の高揚を図ろうとするものである。名誉参与員は、かつて市議会議員として満12年以上在職した者、また、公共の福祉増進、社会文化の興隆、その他市政進展に特に功績があって市議会の同意を得た者の中から適当と認める者を、市長が推薦する。名誉参与員には推薦状に添え名誉参与員草を贈り、その事績を市広報に登載し、名誉参与員台帳に登録して終身その名誉を保有せしめる。名誉参与員は、市長の招集に応じ市政に関する報告等を受けることができ、また、市政の円滑運営を期するため市長に対し適切と認める助言をすることができる[19]

銚子市民憲章[編集]

市民憲章とは、都市宣言の一種であるが、総合的な目標を掲げた市民の守るべきおきてであり、その制定に際しては議会の議決を経る等市民合意に基づく形態をとっている。本市においては、1970年(昭和45年)3月市議会定例会において、既に前年から市長の発意に基づいて制定準備を進めてきた「銚子市民憲章」が市長から提案された。これまでの間、市は市民憲章起草委員を委嘱し、起草委員は市民から募集した草案98点からの入賞作品を基に最終案を作成して、市長がこれを議案として採用したものである。市民憲章には法的拘束力はないが、憲章を尊重する市民の合意を明らかにする必要があるとの考えから、「銚子市議会の議決に附すべき事項を定める条例」に基づく市議会の議決事項に「市民憲章に関すること」を加えるための条例の一部改正が行われ、「市民憲章」の議案を提出したものである。この議案は満場一致をもって可決され、同年4月1日からの施行となった。提案理由は、銚子市民であることの誇りと自覚を持ち、銚子市将来の目標をかかげ、これを実践し、健康で明るい文化都市を築くため、というものであった[19]

銚子市民憲章

洋々とした大海原、雄大な流れの利根川。漁業の町として、祖先のたゆまぬ努力によって栄えてきたわが銚子市は、あらたに近代都市として、力強くはばたこうとしています。わたくしたちは、この美しい郷土を守り育て、市民として誇りをもって生活できるようにするために、わたくしたちの願いをこめて、この憲章を定めます。

一 仕事をたいせつにし、明るく元気に働きます。

一 老人やこどもをいたわり、人に親切にします。

一 自然を愛し、町をきれいにします。

一 教養を高め、心を豊かにします。

一 力を合わせ、交通安全につとめます。

都市宣言[編集]

都市宜言とは、我が国の高度経済成長に伴って生じてきた様々な問題を提起し、目標を掲げて、行政と市民の連携と力の結集によって対処しようとするものである[19]。本市においては1962年(昭和37年)以降、7つの都市宣言を行ってきた。

  • 交通安全都市宣言

1962年(昭和37年)1月9日、市議会臨時会において、議員発議による都市宣言の決議案が可決され、本市最初の都市宣言となった[19]

  • 精神衛生都市宣言

1963年(昭和38年)2月25日、市議会2月定例会において、議員発議による都市宣言の決議案が可決され、第2の都市宣言となった[19]

  • 公害追放都市宣言

1970年(昭和45年)9月23日、市議会9月定例会において市長提案され、可決された[19]

  • 青色申告都市宣言

1976年(昭和51年)12月25日、市議会12月定例会において市長提案され、可決された[19]

  • 非核・平和都市宣言

1984年(昭和59年)9月14日、市議会8月定例会において市長提案され、可決された[19]

  • 産業廃棄物最終処分場設置反対・不法投棄しないさせない都市宣言

1995年(平成7年)6月29日、市議会6月定例会において市長提案され、可決された[19]

  • 健康スポーツ文化都市宣言

2006年(平成18年)12月21日、市議会12月定例会において市長提案され、可決された[24]

銚子市紋章[編集]

銚子市紋章
銚子市紋章

銚子市紋章は、1933年(昭和8年)2月11日の3町1村併合による市制施行を記念して、紋章図案を懸賞募集し、応募総数1127点の中から最終決定し、1934年(昭和9年)1月15日に市会の議決を経て、同日告示された。制定にあたっては、銚子市は本邦東端に位置し、旭日仰ぐは最も早く、即ち市の発展性は旭日と共に力強く、その増大を意味して紋章は之を象徴することとし、旭日を中心にその周囲を丁四(銚子)にて輪郭図案化せるものなり、とされている[19]

銚子市歌[編集]

銚子市歌は懸賞募集し応募総数267点の中から三軒町山崎晋道作詞を一等として採用し、1936年(昭和11年)1月27日に市会議決のうえ、同日告示第2号をもって告示された。戦後、小学校等で歌唱指導され、市主催の式典・行事等において演奏、斉唱されている[19]

銚子市歌

一 阪東太郎洋々と 太平洋にそそぐところ 四季に絶えせぬ海の幸 市民の意気はさかんなり 銚子、銚子、吾等の銚子

二 潮花咲く磯つづき 観光の美に富めるところ 犬吠埼の灯台は 文化の光世を照らす 銚子、銚子、吾等の銚子

三 遠く元和の昔より 醤油の香の匂ふところ 水産業の発展は 伸びゆく力世に示す 銚子、銚子、吾等の銚子

市の木・花・魚[編集]

おおまつよいぐさ

市の木は「さざんか」、市の花は「おおまつよいぐさ」である。1983年(昭和58年)2月11日、市制施行50周年を記念して指定された。いずれも市の風土に適し、市のシンボルにふさわしく、市民に愛され、まちの美化緑化にも役立つような木と花として、市民投票を経て選ばれたものである[19]2003年(平成15年)2月11日には市制施行70周年を記念し、市の魚に「いわし」が指定された[90]

  • さざんか

ツバキ科の常緑小高木で日本特産。花木として庭園に多く植えられ、品種は多種で一重・八重、色も淡紅・濃紅・白等がある。塩害に強く、花は晩秋から初冬にかけて咲き、市民に親しみ深い木である[90]

  • おおまつよいぐさ

アメリカ原産の帰化植物越年草。鮮やかな黄色の花が夕方に開き、銚子では夏の海辺の風物詩である。竹久夢二の「宵待草」の詩のゆかりもあって、市民投票で最も人気が高まった花である[90]

  • いわし

全国屈指の水揚量を誇り、銚子で水揚げされる魚の約半数を占めている。市制施行70周年を記念して一般公募した結果最も応募が多く、「大漁節」にも歌われており、小さくてもみんなで力を合わせて生きているというイメージから、銚子のシンボルにふさわしい魚として指定された[90]

なお、1971年(昭和46年)2月に、千葉国体開催を記念して「国体記念銚子市の木」として「プラタナス」が定められた。これは、市民からの公募により応募総数240通のうち59通と最も多かったプラタナスを選定委員会が選定したものであった。これを契機に、国道356号松岸町付近から国体高校野球会場となった前宿町運動公園までの通りを主に付近の道路等にプラタナスが植され、これ以前の植樹とあわせて、約1000本の街路樹となっている[19]

マスコットキャラクター[編集]

  • 銚子100年マスコットキャラクター「超Cちゃん」

「銚子」の「銚」と、とびぬけてすぐれている「超越」の「超」をかけ、様々な問題を跳び「超えて」発展する銚子のイメージと、キャラクターの制作意図でもある形が銚子(Choshi)の「C」に似ていることから名付けられた[91]

議会[編集]

銚子市議会[編集]

地方公共団体の議会は、住民の直接選挙による住民を代表する機関として団体意思の決定を行い、長との抑制と均衡のもと、地方公共団体の民主的・能率的運営を確保するために、法定の権限の範囲内でその機能を発揮する。議員は、国会議員、その他の地方公共団体の議員、長その他常勤の職員を兼ねることはできない。議員の任期は4年であり、一般選挙の日から起算されるが、4年の任期満了による場合のほか、身分の喪失事由に該当するときは任期途中であってもその職を失う[19]

  • 定数:18名
  • 2023年(令和5年)5月1日〜2027年(令和9年)4月30日
  • 議長:広野恭代(ひろのやすよ)みらい、1期
  • 副議長:石上友寛(いしがみともひろ)新風、1期
会派名 議席数 議員名(◎は代表)
市民クラブ 4 ◎地下誠幸、鎌倉金、石上允康、岩井文男
新和会 4 ◎野平仁人、宮崎光子、桶谷範幸、石神嘉明
新風 3 ◎池田健一、石上友寛、髙根一芳
みらい 2 ◎釜谷藤男、広野恭代
公明党 2 ◎加瀬栄子、塙保
立憲民主党 1 ◎加瀬庫藏
日本共産党 1 ◎笠原幸子
緑の会 1 ◎工藤忠男

※2024年(令和6年)1月31日現在

委員会

地方公共団体の議会には、常任委員会、議会運営委員会及び特別委員会の3種類の委員会を置くことができる。行政の多岐化・専門化に対応して、議会内部の事案調査・審査の徹底を図り、能率的な議事運営を期するためである。常任委員会の数は、1956年(昭和31年)の「地方自治法」改正により人口30万人未満の市は4以内と定められていたが、2000年(平成12年)の「地方自治法」改正により委員会数を定める規定は廃止された[19]。銚子市議会は2023年(令和5年)7月現在、総務企画・教育民生・産業建設・予算・決算の5委員会を置いている[92]

  • 常務委員会
    • 総務企画委員会(6人)
    • 教育民生委員会(6人)
    • 産業建設委員会(6人)
    • 予算委員会(9人)
    • 決算委員会(9人)
  • その他の委員会
    • 議会運営委員会(7人)
    • 議会だより編集委員会(7人)
会議

議会は会議を通じて活動を行う。地方公共団体の長が議会を招集し、招集は開会日前7日までに告示しなければならないが、緊急に招集する必要があるときは短縮することができる。会議には、年4回以内において条例で定める回数を招集する定例会と、必要かつ緊急な場合にその事件に限って付議できる臨時会とがある。本市の「市議会定例会条例」は定例会の回数を毎年4回と定め、定例会規則でその開催時期を毎年3月、6月、9月、12月と定めている。ただし、都合により招集の時期を繰り上げ、又は繰り下げすることができる。議会は長の招集行為によって活動能力を与えられるが、招集後の議会運営は自主的に行われ、会期の決定・延長、開会・閉会は議会が決定する。銚子市議会定例会の会期はおおむね20日程度、臨時会については1日程度である[19]

千葉県議会[編集]

  • 選挙区:銚子市・香取郡東庄町で一つの選挙区をなす。
  • 定数:2名
  • 任期:2023年(令和5年)5月1日 - 2027年(令和9年)4月29日
  • 2015年(平成27年)、2019年(令和元年)、2023年(令和5年)と無投票。
氏名 会派名
信田光保 自由民主党千葉県議会議員会

当選回数 6期

宮川太 自由民主党千葉県議会議員会

当選回数 2期

※2024年(令和6年)1月31日現在

国会[編集]

議員名 党派名 当選回数 備考
林幹雄 自由民主党 11 選挙区
谷田川元 立憲民主党 3 比例復活

国家機関[編集]

銚子港湾合同庁舎

国家機関[編集]

法務省
財務省
厚生労働省
  • 千葉労働局銚子労働基準監督署
  • 千葉労働局銚子公共職業安定所
銚子海上保安部巡視船かとり
国土交通省
裁判所

県機関[編集]

  • 千葉県海匝保健所(海匝健康福祉センター)
  • 千葉県銚子児童相談所
  • 千葉県銚子土木事務所
  • 千葉県銚子水産事務所
  • 千葉県銚子漁港事務所
  • 千葉県水産総合研究センター流通加工研究室銚子分室
  • 千葉県旭県税事務所銚子支所
  • 千葉県北総教育事務所東総研修所

経済[編集]

銚子半島航空写真

本市は豊かな自然環境と首都圏に位置する立地条件を活かし、水揚量と水産物流通加工機能によって全国一の地位にある水産業を中心として、生鮮野菜の一大供給基地となった農業、長い歴史と高度な技術力を有する水産加工業と醤油製造業、東総地域の中核として発展している商業、そして犬吠埼屏風ヶ浦等の景勝地に恵まれた観光業等の複合産業都市として発展している[19]。多角的でバランスの取れた産業構造が特徴であり[4]、各産業の性質上景気の影響を直ちに受ける度合いは少なく、安定した経済基盤を有している[19]。また、市では「ゼロカーボンシティ」を表明し、「再エネ海域利用法」促進区域における洋上風力発電事業を推進している[49]2018年平成30年)度の産業別就業者では、第一次産業に10.7パーセント、第二次産業に28.5パーセント、第三次産業に58.4パーセントが従事している[93]

企業・組織[編集]

ヤマサ醤油本社
ヤマサ醤油本社
銚子商工信用組合本店
銚子商工信用組合本店
銚子信用金庫本店
銚子信用金庫本店

市内に本社・本店を置く主な企業・組織[編集]

  • 関東警備保障
  • 兆星
  • 飯田商店
  • 銚子プラザホテル
  • ヤマヘイフーズ
  • 嘉平屋
  • 坂本飼料
  • 銚子メディクス
  • 大一奈村魚問屋
  • ヤマニンベン
  • マルヒカリ水産
  • 一政水産
  • マルヤス建設工業所

漁業[編集]

銚子漁港第1卸売市場
銚子漁港第1卸売市場
外川漁港
外川漁港

漁業は本市の経済を根本的に支える主産業である。銚子沖には水深200メートルの大陸棚が広がり、北からの親潮(寒流)、南からの黒潮(暖流)が交錯し、また、利根川からの有機物を含んだ真水の流入等により、全国屈指の好漁場が形成され、我が国三大漁場の一つである。その漁業種類も網漁業・延縄漁業・釣り漁業と多種類で、銚子漁港は水産物の一大物流加工拠点である総合漁業基地として大きく飛躍してきた。銚子漁港に所属する在籍船数は大小合わせ300数隻程おり、代表的漁業は、旋網漁業をはじめ、沖合底曳、小型底曳、サンマ棒受網、大目流網、一本釣り延縄等であり、銚子沖合を主漁場として沿岸沖合漁業が周年操業されている[19]

2022年令和4年)度の銚子漁港の水揚高は、数量23万7028トン(全国1位)、金額228億4840万円(全国4位)である[94]。漁港の魚市場に水揚げされた鮮魚は、そのまま、トラック輸送で京浜市場のほか関東地方各地へ、さらには関西方面へも出荷される。また、市内の水産加工業者によって各種食品に加工される[4]。水揚げされる魚種は、サバマイワシといった多獲性魚のほかに、カツオマグロ等の回遊魚、キンメダイヒラメカレイ等の底魚等、200種類に及ぶ近海の魚介類が水揚げされる。この水揚量の約92パーセントは、マイワシ(79.4パーセント)、サバ(12.9パーセント)、が占め、水揚金額でもこの2魚種が全体の約55パーセントを占める。主要な魚種としては、マイワシ18万8105トン、サバ3万633トン、ブリ類5777トン、カツオ1824トン、ビンナガ1419トンとなっている。銚子漁港に水揚げされる全てのマグロは冷凍ではなく生マグロという大きな特徴がある。また、5〜7月のマイワシは「入梅イワシ」と呼ばれ、特に太って丸みがあり1年の中で最も脂の乗りがよいことが知られている。そのほかにキンメダイは「銚子つりきんめ」としてブランド化されている[94]

水揚数量では、地元以外の廻船によるものが85パーセントを占めており、地元船以外の多くの廻船による銚子漁港への水揚げは、市の産業経済にとって極めて重要となっている[94]。このため、銚子市漁業協同組合は、1979年(昭和54年)以来、市から補助を受けて、廻船誘致対策事業として船籍漁協訪問、新規漁船の入港誘致、入港漁船や廻船乗組員へのサービス提供等を実施している[19]2023年(令和5年)3月に策定された「銚子市ゼロカーボンビジョン」においては、ICTを活用した漁場の可視化と漁業への活用、藻場の育成、船舶の脱炭素化の推進等が掲げられている[49]

漁業経営体[編集]

銚子漁港第2漁船渠

2018年(平成30年)の漁業センサスでは、海面漁業経営体が106経営体で、うち個人で営んでいるものが97経営体、会社が営んでいるものが8経営体、漁業生産組合で営んでいるものが1経営体で、漁業種類別経営体では、沖合底曳網漁業が2経営体、小型底曳網漁業が6経営体、大中型旋網漁業が6経営体、刺し網漁業3経営体、サンマ棒受網漁業4経営体、延縄漁業13経営体、釣り漁業70経営体、採貝・採藻4経営体、その他の漁業9経営体である[94]

内水面漁業[編集]

本市における内水面漁業は主に利根川における漁業である。養殖用ウナギの稚魚であるシラスウナギ漁(12月〜4月漁期)を中心に行われており、全国有数の水揚量となっている[94]

栽培漁業[編集]

資源の維持増大による漁業の振興を図るため、マダイヒラメ、フナ、ウナギの種苗放流を実施している。なお、マダイについては、中間育成した後に放流された[94]

漁港[編集]

銚子漁港航空写真国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成)

銚子漁港は近世において東廻り海運と利根川水運の中継港として発展した銚子港すなわち商港がその始まりであった。明治期に入り、商港の機能が失われて漁港へと転換していったものである。この利根川の河口港を近代的な漁港として整備し、銚子発展の基盤とするため、銚子漁港修築促進運動が台頭したのは大正期であった。全町を挙げての運動が奏功して、1925年(大正14年)11月に第1期の漁港修築工事が開始された。以来、戦後の第3次漁港整備計画からは毎年継続して銚子漁港整備事業が実施されてきた。これにより、銚子漁港は、我が国最大の規模と機能を有する特定第3種漁港となっている[2]。銚子漁港の整備計画で漁港の機能施設としての公共施設用地の埋立造成が盛り込まれたのは、1969年(昭和44年)度からの国の第4次漁港整備計画においてであった。その後の第5次以降の漁港整備計画においても引き続いて計画され、実施されてきた[19]。川口・黒生地区には水産物産地流通加工関係施設、銚子ポートタワー等の観光施設、ウオッセ21等の水産物販売施設等が立地し、漁業関連産業の中心地となっている[4]。銚子漁港では、2014年(平成26年)度に市場食堂、女性部活動拠点施設等を併設した高度衛生管理型の第1卸売市場が、2017年(平成29年)度には第3卸売市場に隣接して新たな製氷工場が完成した[94]。2022年(令和4年)度に策定された「圏域総合水産基盤整備事業計画」においては、第3卸売市場の高度衛生管理型及び前面岸壁の耐震強化の整備を一体的に進め、水産物の品質向上や輸出促進に取り組むとともに、漁船の大型化に対応する岸壁等の整備を実施し、生産流通機能の一層の向上を図ることとしている。第3卸売市場整備にあわせて、タブレットを活用した電子入札の導入が検討されている[95]

外川漁港は、江戸時代明暦年間に銚子に移住した紀州人崎山次郎右衛門によって開発された。大正時代に至るまでこの漁港は外川地区の漁業基地として大きな役割を果たしてきたが、漁船が動力化し大型化してきたことから、1922年(大正11年)以後、高神村が、のちに市が漁港改修を進めた。しかし外洋に直面して漂砂堆積が著しかったため、漁業協同組合、地元住民等が県営移管と国の漁港整備による改修促進運動を進めた結果、1969年(昭和44年)6月に県営移管と第4次漁港整備計画への組み入れが実現し、以後漁港修築事業が進められた[19]2002年(平成14年)4月1日施行の「漁港漁場整備法」により、共同漁業権内における漁港と漁場の一体的かつ効率的に整備することを基本方針とし、資源管理型漁港・つくり育てる漁業への支援、狭隘な漁港形態を解消するための新泊地と埋立用地の整備等、より効率的な流通機能の向上及び円滑な漁業活動と漁家経営の安定を図るための整備を推進している[94]。後背地の公共用地の埋立造成は1977年(昭和52年)度からの第6次漁港整備計画で着手され、その後、第8次、第9次の整備計画において実施された。この公共用地には、漁港機能施設としての水揚荷捌施設、製氷貯氷施設、漁村センター、漁船漁具保全施設等が整備されている[19]。外川漁港にはキンメダイ漁を行うキンメ船団が集結しており、ブランド水産物「銚子つりきんめ」の漁獲、資源管理、PRを行っている。2006年(平成18年)には、外川漁村が「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」に選ばれ、まち歩きをする観光客が増加している[94]

水産物流通と魚市場[編集]

  • 銚子漁港魚市場

銚子漁港魚市場は、銚子漁港の築港に伴い、1924年(大正13年)1月に千葉県が従来の生魚商組合による10か所の魚市場と本銚子漁業組合による共同販売所とを改修統合して開設され、千葉県水産株式会社がこれを借り受けて魚市場を開設したのが最初である。1934年(昭和9年)には、銚子市飯沼町に千葉県が設置した魚市場を千葉県水産株式会社が継続借り受けして市場業務が行われた。銚子漁港魚市場は当初から県有民営方式であったが、1972年(昭和47年)2月、千葉県は銚子漁港魚市場を銚子市漁業協同組合に払い下げ、民有民営方式が実現した。なお、この魚市場は、1973年(昭和48年)2月8日、千葉県知事許可により「卸売市場法」に基づく地方卸売市場となった。名称は銚子市漁業協同組合地方卸売市場、市場開設者は銚子市漁業協同組合であるが、銚子漁港魚市場と呼ばれている[19]

銚子漁港には3か所の卸売市場があり、取り扱う魚種はそれぞれ異なる。第1卸売市場では主にマグロ類、第2卸売市場ではサバ、マイワシ等の多獲性魚、第3卸売市場では主にキンメダイやヒラメ、カレイ、ヤリイカ等の底魚を中心に取り扱われる。魚市場は、平日の午前7時から午後5時まで営業している。取引の方法は入札方式で、市場手数料は3パーセントである。買受人は、鮮魚出荷業者、一般加工業者、冷凍業者、缶詰業者、練り製品業者、鮮魚小売業者で212人が登録されている[94]。銚子漁港魚市場に水揚げされた魚類の入札後の流通についてみると、イワシ、サンマ、サバ等の大衆魚は、大部分が加工業者等の工場に運ばれて加工され、水産加工品となってから市外に出荷される。その他の魚は鮮魚として消費されるが、市内の小売店において販売される量は全体からみればわずかで、大部分は市外へ出荷されている。仕向け地は東京都関東各県、東北地方中部地方関西地方である。量的には東京都が最も多く、次いで関東各県である。輸送はトラック輸送である。鮮魚出荷は、銚子漁港魚市場の買付人である鮮魚出荷業者によって行われているが、大衆魚を鮮魚で出荷する場合は加工業者が出荷することもある。いずれにしても生産地である本市においては、水揚げから出荷までの中間業者は、市場の卸売人である銚子漁協と買付人である鮮魚出荷業者や加工業者だけである。市内の小売業者もほとんど買付人になっているので、卸売人と小売業者の間に中間業者が入ることはあまりない。出荷先は仕向地の中央卸売市場や地方卸売市場である[19]

  • 外川漁港魚市場

外川漁港においては、戦前から、旋網漁業によるイワシの水揚げが行われていた。戦後には、1950年(昭和25年)7月、千葉県が新設した「銚子漁港魚市場条例」に基づいて、新設した新生魚市場の開設者として銚子市外川漁業協同組合を承認した。これにより、外川漁港を基地とする旋網漁船のイワシ、サンマがこの魚市場に水揚げされるようになった。その後、1959年(昭和34年)に新生魚市場が閉鎖された後には、銚子漁港魚市場に水揚げされたが、漁業者と水産加工業者との相対取引であった。しかし、外川漁港修築の進展に伴って、1977年(昭和52年)10月24日に、銚子市外川漁業協同組合地方卸売市場の開設と卸売業務の知事許可を得て、1980年(昭和55年)4月にイワシ市場業務が開始されることとなった。イワシ以外の魚種については、戦前は魚商との直接取引、戦後は外川漁業協同組合による共同出荷で、ほとんどがタイ、ヒラメ等の活魚の市外出荷であった。その輸送は、酸素補給の活魚槽の専用トラックによる運送業者委託である。なお、活魚出荷体制を整え、魚価低落時の出荷調整を図るため、1965年(昭和40年)度に沿岸漁業構造改善対策事業によって銚子市がかん水蓄養施設を設置し、その管理を銚子市漁業協同組合外川支所(旧銚子市外川漁業協同組合)に委託している[19]

ブランド[編集]

  • 銚子つりきんめ

2006年(平成18年)に「千葉ブランド水産物認定制度」第1号に認定されている銚子つりきんめの漁場は、銚子沖合約50キロの太平洋で、日本近海のキンメダイの生息地の北限である。この辺りは、黒潮と親潮が交錯し、餌となるプランクトンや小魚類が豊富な海域となっている。漁法は底立て縄と呼ばれる手釣りであり、非常に手間がかかるが、魚体を傷めないための最善の漁法とされる[94]。銚子産のキンメダイは、周年脂ののりの良いことが特徴である[94]。2018年(平成30年)開催の「第6回Fish-1グランプリ」のプライドフィッシュ料理コンテストでは、銚子つりきんめ煮炙り丼がグランプリを受賞している[96]

銚子市漁業協同組合[編集]

銚子市漁業協同組合

水産業協同組合は、1949年(昭和24年)2月15日施行の「水産業協同組合法」に基づき、漁民及び水産加工業者の経済的・社会的地位の向上と水産業の生産力の増進を図るための協同組織である。漁業協同組合という名称は、1933年(昭和8年)の「漁業法」改正によって、それまでの漁業組合が法人としての漁業協同組合となって用いられるようになった。漁業協同組合は、市町村やその内の一定地区を単位とする一般通常の組合を地区漁業協同組合と称し、本市では、沿海地区漁業協同組合として銚子市・銚子市外川・銚子市黒生・銚子市西の4漁業協同組合が、内水面漁業協同組合として下利根・中利根の2漁業協同組合があった。また、組合の地区が市町村区域等を越えて特定の漁業を営む関係者だけで構成する組織を業種別漁業協同組合と呼び、本市では、千葉県鰹鮪・千葉県機船底曳網・千葉県小型機船底曳網・銚子市川口の4漁業協同組合があった。漁業協同組合が行う主な事業は、組合員への資金貸付、貯金等の受入、物資の供給、共同利用施設の経営、漁獲物の運搬・加工・保管・販売等である。また、漁業権の管理も主要な漁業協同組合の事業であり、知事の許可を受けた漁業権行使規則又は入漁権行使規則によってその管理を行う[19]

1996年(平成8年)8月26日、市内銚子地区6漁協と呼ばれた銚子市・銚子市外川・銚子市黒生・銚子市西・千葉県小型機船底網・銚子市川口の各漁業協同組合が対等合併した新銚子市漁業協同組合が発足した。2002年(平成14年)1月には、新漁協のペイオフ対応と経営基盤の強化・健全化のために、信用事業を系統機関である千葉県信用漁業協同組合連合会に譲渡したのち、同年9月1日付けをもって、それまでの旧漁協独立性保持の体制から財務管理・組織管理上の完全統合による実質一体化が実現した[19]

海事事務[編集]

銚子海運支局局は、国土交通省(旧運輸省関東運輸局の所掌事務の一部を分掌する海運支局であった。組織改正により2002年(平成14年)7月から銚子海事事務所となったのち、2003年(平成15年)4月からは茨城運輸支局鹿島海事事務所に統合された。本市は「船員法」に基づく指定市とされ、船員手帳の交付、書換等の業務を行っている[19]

水産ポートセンター[編集]

銚子ポートタワー

水産ポートセンターは、千葉県はもとより我が国を代表する水産都市銚子にふさわしい水産と観光を結びつけた新施設として、1991年(平成3年)6月23日にオープンした。千葉県の「ふるさと千葉5カ年計画」に基づいて、県が事業主体となる銚子ポートタワーと水産関係公共施設、第三セクターによる水産物即売センター(ウオッセ21)の3種の施設が銚子漁港を眼下に展望する高台に建設された。なお、「ウオッセ21」の愛称は市民から公募したもので、ウオ(魚)+メッセ(市場)+21世紀の造語である[19]

  • 銚子水産観光株式会社

銚子水産観光株式会社は、1989年(平成元年)設立の第三セクターで、1991年(平成3年)6月23日にオープンした水産ポートセンターの一角を占める水産物卸売センター(ウオッセ21)を建設し、その店舗賃貸、管理運営、観光物産等の販売斡旋等を事業内容とする[19]

農業[編集]

キャベツ畑と風力発電所(高田町)

本市は夏涼しく冬暖かい気候であり、気温の年較差は千葉県内で最も小さく、1月と2月の月平均最低気温は0度を下らない[4]。この気候条件と東京から100キロメートル圏内という地理的な利便性を生かし、268億円の粗生産額をもつ農業が展開され、県下有数の農業都市となっている[79]。伸び続けている生産額は、変動しながらも拡大してきた野菜生産によっている。粗生産額全体のうち野菜が152億円で全体の57パーセントを占め、次いで畜産が110億円、が4億円となっている。春キャベツと春ダイコンの作付面積は全国1位を誇り[79]、京浜地帯や京葉地帯等、首都東京を中心とする周辺都市への生鮮野菜の供給基地に位置づけられている[19]

本市の総耕地面積は2540ヘクタールで、うち水田面積は545ヘクタール、畑地面積は1990ヘクタールと約80パーセント近くが畑地であり、畑作中心の営農が展開されている[79]水田は主に、利根川に沿う低地に集落と混在しながら、また台地を刻む狭い谷に谷津田として分布している。土地改良事業により畑が増加傾向にある反面、水田が減少し、また灌漑排水事業により施設園芸が増加し、安定した農業経営の条件が整ってきている[19]。販売農家戸数は1007戸で、うち専業農家が560戸、第1種兼業農家が300戸、第2種兼業農家が147戸となっており、専業農家率は55.6パーセントで千葉県平均の30.6パーセントを大きく上回り、千葉県内トップである[79]

生産額の高い主な品目はキャベツ、、ダイコン、ブタ等である。キャベツは1953年(昭和28年)に作付けが開始され、1957年(昭和32年)に「灯台印」銚子市蔬菜組合連合会が結成されて以来、県や国の特産地指定を受けてきた。銚子のキャベツ栽培は1月から5月に収穫するものであったが、次第に早春の3月から4月の収穫へと変わり、更に新品種導入により、晩秋から初夏までの長期間出荷が可能になった。キャベツは年に2作のキャベツ中心型の経営農家が多い。またキャベツは冬の温暖な気候を利用して栽培されるため、市域東南部の海岸に面した台地に多く作付けされている。京浜市場までトラックで2時間余りという位置と恵まれた自然条件とから、銚子の「灯台印」キャベツは京浜市場で大きなシェアを占めている。ダイコンはもともと自家用として古くから栽培されていたが、1960年代に冬ダイコンの、1980年代に春ダイコンの産地指定を受ける等、急速に生産が増加してきた。ダイコンの作付けは利根川沿いの内陸部に比較的多く、キャベツとは異なった作付分布を示す。また、ダイコンはニンジンジャガイモ等、他の野菜と組み合わせて作付けされている[4]。その他、1970年代から急増したメロン・キャベツを冬作としたときの夏作としてのスイカイチゴ等の果物類も多く生産され、青パパイヤの産地化へ向けた取組もなされている。6次産業化による付加価値生産事業者は少なく、今後期待される食品加工産業分野である[79]

農家1戸当たりの経営耕地面積は230ヘクタールで、経営耕地面積別経営体数では300戸以上の農家が全体の24パーセントに相当する245戸を占める。1戸あたりの栽培面積が増加し農地の集約化が進んだことで、最近20年で3ヘクタール以上の農家数が約2.5倍と大幅に増加していることから、経営規模拡大に対応した農業経営の効率化、労働力の確保、ICTの活用等による農業振興が目指されている[79]。本市においては、圃場・灌漑用水整備事業、東総用水事業、農業用道路・水路の整備、後継者育成対策、地域農業活動拠点の整備、環境対策、農業金融対策等を進めている[19]

主要農産物[編集]

  • キャベツ - 作付面積1908ヘクタール(2016年)
  • ダイコン - 作付面積974ヘクタール(2016年)
  • 水稲 - 作付面積471ヘクタール(2016年)
  • ジャガイモ - 作付面積51ヘクタール(2015年)
  • トマト - 作付面積51ヘクタール(2016年)
  • メロン - 作付面積50ヘクタール(2015年)
  • ニンジン - 作付面積26ヘクタール(2015年)
  • スイカ - 作付面積22ヘクタール(2015年)
  • イチゴ - 作付面積12ヘクタール(2015年)
  • 落花生 - 作付面積7ヘクタール(2017年)

野菜指定産地[編集]

農林水産省による野菜生産出荷安定法、および本法に基づき本市が指定された野菜[97]

  • キャベツ - 春キャベツと冬キャベツが指定されている。
  • ダイコン - 春ダイコン・秋冬ダイコンが指定されている。
  • トマト - 夏秋トマト・冬春トマトが指定されている。

農業生産基盤[編集]

千葉県東部地域では、東総用水事業の県営灌漑排水事業や県営畑地帯総合土地改良事業等により生産基盤整備が集約的に進められてきたが、本市全域、東庄町南部、飯岡町海上町東部における基幹農道網の整備による生産流通の合理化が必要とされ、1994年(平成6年)2月から東総台地地区広域営農団地農道の建設工事が進められている。千葉県が主体となって整備するもので、銚子市長塚町六丁目を起点に新町を経由し、東庄町小南地先の主要地方道多古笹本線に接続する総延長11.8キロメートルの基幹農道である[19]。銚子側の1期地区は2002年(平成14年)度に事業を完了し、同年度から2期区間の整備が進められている。

  • 東総用水事業

東総用水事業は、利根川を水源として、下総台地の本市はじめ1市4町の農地2800ヘクタールへの灌漑用水と、本市はじめ2市4町の約20万人への水道用水の安定供給を行う多目的利水事業として構想された。下総台地における農業は、土壌は肥沃であるが天水に依存していたために干ばつを受けやすく、また、生活用水も一部を除いては浅井戸を利用して水量・水質とも不安定な状況にあったことから、農業経営近代化と環境衛生向上を図るため水源の確保が必要とされていた。このため1978年(昭和53年)3月から水資源開発公団営事業として、東庄揚水機場工事、導水路工事、ファームボンド工事が逐次進められた。あわせて1981年(昭和56年)からは県営事業である灌漑排水事業、畑地帯総合土地改良事業が実施された。1984年(昭和59年)8月には農業用水が通水開始となり、最初に銚子市桜井地区31ヘクタールに通水された。公営団事業については、1989年(平成元年)3月に事業が完了し、以後県営事業による末端施設事業が推進されている[19]

地域農業拠点[編集]

  • グリーンホーム銚子(予冷貯蔵施設)

農業センター構想に基づく地域農業活動拠点の一つとして、特産物の鮮度保持と調整機能をあわせ持つ国内最大級の予冷貯蔵施設を建設し、集出荷の効率化と有利な販売促進を図ろうとするものであり、1994年(平成6年)度から翌年度にかけて新町に建設された[19]

  • アグリタウン銚子(地域農業総合管理施設)

農業生産から生産物販売までを1か所に集中した総合管理施設で、1996年(平成8年)度にグリーンホーム銚子と道路を隔てて建設された。野菜生産地としての将来発展を展望して、営農生産指導・農業経営指導の充実、土壌分析による健全な土づくり、農業情報ネットワーク構築による情報発信、蓄積データによる営農指導、各種研修・講習会に活用される[19]

  • 真空与冷庫

1996年(平成8年)度に既設の与冷庫に替わって小浜町に設置され、未成熟トウモロコシチンゲンサイ等を対象とする[19]

  • トマト選果施設

1995年(平成7年)度に新町地内の野菜集出荷所に設置された。これによりトマトの果実の選果が機械化され、出荷・調整作業が大幅に省力化された[19]

農業団体[編集]

ちばみどり農業協同組合銚子支店

工業[編集]

本市は事業所数・従業者数・出荷額等の総体において東総地域最大の工業都市である[98]。本市の製造業の中で、最も本市としての特殊性を有し、かつ本市の経済を支える重要な位置を占めているのは、水産加工品と醤油を双璧とする食料品製造業である。2014年(平成26年)においては、事業所数の60パーセント、従業員数の80.76パーセント、製造品出荷額の90.02パーセントと大きな比率を占めている[79][19]。製造品出荷額等からみた食品製造業に続く業種は、飲料たばこ飼料、金属製品、輸送用機械鉄鋼、生産用機械、繊維プラスチック印刷、汎用機械、ゴム、その他である[84]。市内では内陸部の国道126号沿いの小浜工業団地18.2ヘクタール、名洗港内の臨海工業用地28.2ヘクタールが造成されているほか、銚子漁港外港部の川口・黒生地区に造成された埋立地には水産物産地流通加工センターが形成されている。市の工業振興策としては、立地条件改善のための市内広域交通体系の整備、生産基盤整備のための工業用地・用水の整備、経営体制整備のための経営共同化・合理化の促進、設備近代化の促進、企業診断・経営指導の充実促進、金融対策としては、制度資金利用の促進、市預託融資の充実化等を図っている[19]

醤油製造業[編集]

ヒゲタ醤油銚子事務所

本市において醤油・食用アミノ酸製造事業所数は4、このうち主に醤油、食用アミノ酸を製造している事業所数は2である[84]1980年代に醤油の製造品出荷額等は400億円台であったが、2019年(令和元年)には800億円を超えている[99]。本市の醤油製造業は、江戸時代の前期に始まる古い歴史を有し、本市における最も主要な産業の一つである。本市には全国の大手醤油メーカーのうち、ヤマサ醤油株式会社ヒゲタ醤油株式会社の2社がある。市内の醤油製造業の全国シェアは大手2社を主に15パーセントを占め、市内における企業としては別格の地位にある[19]。2019年(令和元年)度において、市内の171の製造事業所による出荷額等の約44パーセントが主に醤油を製造している3事業所によって生産されており、市内全出荷額等の約40パーセントを占める水産加工関係工業とともに市工業の基幹をなしている[99]

関連加工品が多い醤油製造業では、つゆ・たれ等の醤油加工調味料の開発・改良が進められるとともに、うま味調味料やだし類も製造されている。つゆ・たれ類には、希釈用の濃縮つゆ、ストレートつゆ、めん類用つゆ、なべ物用つゆ・たれ、魚調理用つゆ・たれ、どんぶり物用たれ、めん類用スープ等がある。国民の食品嗜好や需要の変化に対応して、醤油製造業から発展して関連企業を独立させ、主につゆ・たれ類や水産物佃煮(瓶詰・パック詰)等を製造販売している。また、醤油の付加価値商品化が図られており、多種多様な製品が生産されている。市内で生産される醤油は、主として濃口醤油薄口醤油であるが、その種類は多岐に渡り、特に濃口醤油は家庭用に限ってみてもヤマサ醤油株式会社、ヒゲタ醤油株式会社の2社の商品は20種類を超えている。本市で生産された醤油は大部分が市外に出荷されており、市内で消費される量はわずかである。出荷先は関東地方を主として、全国に及んでいる。なお、ヤマサ醤油株式会社は1992年(平成4年)にアメリカ合衆国オレゴン州セーラム市に関連会社であるYAMASA CORPORATION U.S.A.を設立し、1994年(平成6年)7月に工場を完成させ、アメリカ、カナダメキシコ等に製品を出荷している[19]

このほか、醤油製造会社では、蓄積された研究開発技術により核酸関連物質を利用した医薬品原料、食品添加物化粧品原料、医薬品合成原料、研究用試薬、体外診断用医薬品、また、動物医薬用ワクチン抗がん活性物質抗ウイルス性物質、臨床検査薬、動物薬等の研究開発が進められている[19]

水産加工業[編集]

本市における水産加工業は、全市の製造業のうち最も主要な位置を占めて、醤油製造業とともに市工業の基幹をなしている。工業統計調査結果でみると、本市の水産加工品として水産缶詰・瓶詰、海藻加工品、水産練製品、冷凍水産物、冷凍水産食品、その他の水産食料品といった食料品、また、配合・単体飼料、有機質肥料等が挙げられている。冷凍水産物とは、水産物を原料として前処理をせずに凍結設備を使用して採ったままの姿で冷凍したものをいう。また、冷凍水産食品とは、水産物を原料として前処理を施したものや切身、開き、三枚おろしすり身等に加工した後に冷凍し、凍結状態のまま包装したものを指す[19]

戦後の水産加工業の特色は、その主力が肥料用のイワシ搾粕から養殖飼料用の冷凍イワシに替わったことであった。また、サンマ・サバ漁の発展に伴って、食用の一般加工品の原料が、イワシからサンマ、サバ、アジへと推移した。冷凍・冷蔵施設の普及・発展によって市外・県外・国外からの移入・輸入による原料の長期保存が年間均等操業を可能とし、更に最適時期の出荷までの製品の保存を可能にした。そしてこのことが水産加工業者による原料売買という新しい流通形態を生じさせ、製造業経営における商業的要素が大きくなった。原料の安定供給による年間均等操業と経営規模拡大に伴って、従業者の常時雇用制度に移るとともに、機械導入による省力化が進み、コンベアフォークリフト、自動選別機、自動軽量機、自動割裁機等が導入された。1970年代頃から水産加工機器の発達は著しく、大型加工場が多かった銚子地域では冷凍・冷蔵施設の大型化が競って進められた。施設整備、経営近代化と原料の移入・輸入等により、水産加工機器の集積度では日本有数の存在となり、本市製造業の首座にある[19]

銚子産のサバの青切り、サバの開干し、サンマの開干しは、生産高日本一の地位にあった。また、イワシは市内の冷凍・冷蔵施設で処理され、関西・九州方面の魚類養殖用飼料として出荷してきた。しかし、戦後の本市の水産加工の中心であったサバ・サンマの水揚げが減少したため、1980年代からは水産加工の原料魚を諸外国からの輸入によるようになってきた。サバのノルウェーからの輸入は最も早い時期に行われたもので、本市ではサバの輸入量が最も多い。サンマは台湾韓国からも輸入されて、加工原料や解凍して鮮魚として出荷される。また、サケはノルウェー、カナダから、ホッケベーリング海産の輸入である。イワシは、アメリカ東海岸からの輸入で、市内では二次加工を除き大量に加工する業者は少ない。このように原料として輸入魚のウエイトが高まってきた中で、1990年(平成2年)4月、市の保税上屋許可が得られ、原料の入手流通の合理化がさらに進められた。本市での水産加工原料としての冷凍サバ・冷凍サンマ等の輸入魚の量は年々増加傾向にある[19]

近年、国民の健康志向がさらに強まる中で、食生活における水産物そのもの、また、家庭用の調理水産食品や外食用加工水産食品の需要も増えている。この状況のもとで、本市の水産加工業が日本有数の機能集積力を活かしてさらなる発展を目指すためには、中小・零細経営規模の改善、雇用・労働条件の整備、従業者の高齢化対策、漁獲量減少対策と原材料の安定確保、未利用資源の利用、施設整備の改善と環境対策等への対応等が課題となっている[19]。また、水産関連事業者における工場設備では、独立行政法人日本貿易振興機構(JETRO)、独立行政法人中小企業基盤整備機構等の積極的な海外輸出に対応するため、HACCP認証加工設備やISO対応工場を建設し、欧米の市場も視野に入れた販路拡大を目指している。これらの動きは、インバウンド増加による「食のグローバル化」に対応したものである[79]

水産加工品

2018年(平成30年)における本市の水産加工品の生産状況をみると、マイワシの水揚数量の36パーセントが生鮮、練製品、すり身、缶詰等の食用として、残り64パーセントが飼料として使用されている。サバは文化干しフィレー、開干し、青切りが関東を中心に販売されている。塩蔵サバは名古屋大阪京都神戸等の関西方面の大都市への販売が多く、鮮魚とともに関西方面に好まれている[94]

  • サンマ加工品

サンマの水揚高が増加したことと冷蔵施設の普及によって、さんま加工の専門化と製品の鮮魚化が進んだ。開干しや丸干し等の塩干魚は、よく乾燥したもので保存性には優れているが、銚子産のものは乾燥度が低い生干しで、鮮魚と塩干品の中間であった。しかし、1960年代から全く乾燥させない開干しが製造され、主流となっていった。コールドチェーンの発達に伴って、従来の生干しよりも鮮魚化が進んだ製品が生産されるようになった。サンマ開干しの生産量は全国一である[19]

  • サバ加工品

サバの加工品も、1960年代からの大量水揚げに伴って大いに行われ、サンマと同様加工の専門化と製品の鮮魚化も進んだ。製品としては、古くからの開干し、1970年代前半から飛躍的に伸びた青切、その直後に開発された文化干しがある[19]

  • アジ加工品

アジは銚子漁港での水揚高は少量で、それも鮮魚で出荷されるので、1970年代に本格化した加工の原料は移入・輸入の冷凍アジで、開干しが生産されている。その他の水産加工品の開発研究も進められており、近年の新製品としては、アジ開き(頭と中骨を取り除いて甘塩仕立てにした開干し)、サバフィレー(3枚におろして一時塩で調理したもの)、イワシつみれ(イワシのすり身に調味料を加え団子状にして煮沸したもの)、サバ味噌づけ・西京づけ、定塩サケ等がある。定塩サケは、ベニザケギンザケ等を背骨ごと2つ割りにして食塩水に漬ける等の新しい技術によって調味した塩サケで、魚全体に塩をまぶす新巻サケに比べて塩味が均一であることから定塩サケと呼ばれている[19]

冷凍冷蔵業・製氷業[編集]

本市における戦後の冷凍冷蔵能力は、1947年 (昭和22年)に11工場であったが、1956年(昭和31年)に28工場へと増加し、その能力も製氷生産133.5トン、冷蔵6832トン、貯氷4006トンとなった。以後も水産加工業者による冷蔵庫の増設が進み、1980年代には冷蔵庫保有業者数は150業者、冷蔵能力は約15万トンとなり、飛躍的な普及拡大を遂げた。この中で、新しい営業形態としての冷蔵業が盛んとなってきた。専業業者はなく、一般加工業者による兼業業務として行われている。主としてイワシ・サバ・サンマを加工原料・飼料用に自家の冷凍冷蔵庫に保存し、そのままの形で冷凍加工原料魚、冷凍飼料として出荷する。自家で冷凍するもののみではなく、他業者の冷蔵庫を利用する場合、既に冷凍済みのものを移入する場合は、市内の他業者が冷凍したもの等を買入れる場合がある。出荷先は、加工原料については多くが市内業者で、市外でも本市近隣地であり、飼料については県外の養殖業者である[19]。2018年(平成30年)においては、冷凍冷蔵工場は69工場で全国3位、1日あたりの凍結能力は3402トンで全国15位となっている[94]

氷は船積み用・鮮魚出荷用その他、水産業における必需品であり、製氷業は冷凍冷蔵業務とは別に専門業者、漁業協同組合、水産業者の製氷工場で行われている。本市で最初に製氷を行ったのは日銚製氷株式会社の工場であったが、その後の変遷があって1945年(昭和20年)12月には日本冷蔵株式会社の製氷工場と変わった。1948年(昭和23年)6月には日本冷蔵株式会社の新工場が操業を開始して、2工場で日産50トンとなった[19]。2018年(平成30年)の製氷工場数は7工場、製氷能力日産778トン、貯氷能力8150トンである。また、製氷工場については、銚子市漁業協同組合が2001年(平成13年)度、2017年(平成29年)度に建設した製氷工場がある[94]

缶詰製造業[編集]

田原缶詰

本市における缶詰製造の歴史は1879年(明治12年)に行われたイワシ油漬缶詰の試験製造に始まったとされるが、企業としての缶詰生産は明治後期に本格化した。1906年(明治39年)のクジラの豊漁に刺激されたクジラ大和煮缶詰製造、その後、大正期にかけてクジラ以外の水産缶詰製造業定着を経て、昭和初期のイワシ豊漁に伴うイワシの大和煮・トマト煮、油漬製造の増加によって、銚子の缶詰事業は急激な発展を遂げた。戦時中の経済統制下では、市内の18工場をもって銚子合同缶詰株式会社が設立され、追って千葉県合同缶詰株式会社が発足したが、戦後にこの企業合同は解体された。その後、サンマ、サバの大量水揚げと冷凍冷蔵設備の整備によって、主に国内向けのサンマ、サバ缶詰製造が盛んになり、新規工場も加えて1956年(昭和31年)末には11社となった。1980年代半ばまでは、それまでのサバの豊漁と国内他地からの移入増加、イワシ水揚量の増加によって、輸出向けのサバ缶詰と多種多様な国内向け缶詰の生産が進んだ。しかし、この時期を過ぎると次第に円高傾向が強まって、輸出向けから国内向けへと販路の転換を迫られることとなり、水産缶詰製造業者は国内向け缶詰重視、他種兼業等の経営多角化を目指した[19]2014年(平成26年)における業者は2社であり[94]国連WFPを通じた援助物資としても缶詰を生産している[100]

戦前から1950年代まではイワシ缶詰が首位にあったが、これに代わってサンマ缶詰が1960年代まで、その後はサバ缶詰が圧倒的な強さで首位にあった。イワシ缶詰は1965年(昭和40年)末から生産量で第2位に復活している。このほかに、カツオ、マグロ、アジ、イカ、貝、サケ等の水産缶詰も製造されており、また、農産物を原料とする缶詰製造も行われている。本市の缶詰は戦前から東南アジア、アメリカ等へ輸出されていた。戦後は、中近東、アメリカ、ヨーロッパへも輸出されるようになった[19]

肥飼料製造業[編集]

戦前の本市の主な水産加工品であった肥料イワシ、搾粕の生産は1950年代に終わり、魚を中心とする飼料生産が行われるようになった。飼料製品は魚粕である。魚体全部又は缶詰・一般加工品製造の際の残滓を蒸煮し、圧搾して水分を除き、乾燥して魚粕を製造する。魚粕は魚粉(ミール)、さらに配合飼料の原料となる[19]

練製品製造業[編集]

本市における練製品製造業は明治中葉から始まった。1935年(昭和10年)以降は業者数も増え、新製品開発も行われたが、終戦直後は統制経済と食糧事情の悪化により練製品需要が高まったため、さつま揚げを主にその生産は急増した。練製品とは、魚肉をすり身にして蒸したり、焼いたり、油で揚げたりした食料品で、サメ類とタラを原料とする。種類としては半片蒲鉾鳴門、小魚を使った揚蒲鉾、イワシ・サバ等を原料とするつみれ等である[19]。出荷先は静岡以北で、特に関東・東北各地へ多く出荷されている。おでん種としての利用が多いため、冬期の生産量が増加する[94]

その他の加工業[編集]

一般加工品・缶詰・練製品以外にも水産加工品はあり、通常その他の加工品として一括されている。主なものは節類・佃煮類・ふかひれ等である[19]

節類

節類は戦前から一般加工業者が兼業で製造していた。1955年(昭和30年)には約30軒の業者があって、主として鰹節を製造していた。同年の生産高は約17トン、535万円であった[19]

ふかひれ

ふかひれはサメの鰭を煮干しにしたものであり、これを原料として中国料理の材料である金糸・銀糸を製造している。業者は1955年(昭和30年)には2軒であった[19]

佃煮類

佃煮類は、本市では水産加工業者の範疇に入らない食料品製造業者によって製造されている[19]

鉄工業[編集]

銚子の鉄工業は室町時代末期か江戸時代の鍛冶屋に源流があり、これが産業として近代化したのは明治以降の漁船の機械化、発動機船の普及を受けてのことであり[17]、漁船用内燃機関である焼玉エンジンの製造が盛んとなった。戦前は漁船用内燃機関のほか、澱粉製造機械、醤油工場関係の機械及び農機具等が製作されており、北海道東北から東海地方まで供給されていた。漁船エンジンのディーゼル化後は、市内の鉄工場の多くが大手機械メーカーに系列化に入り、その下請工場となった。1969年(昭和44年)には市街地から離れた小浜町に工業団地が造成され、40社以上が進出して小浜工業団地を形成している[19]

造船業[編集]

造船業は銚子の特色ある地場産業の一つである。江戸時代から明治初年までは、10トン未満の手漕ぎ漁船が盛んに造られており、造船所は全て小規模な個人企業であった[17]。明治後期には、機械船と称された大型船(20トン〜100トン)の建造が着手されて、銚子における造船産業化の先駆をなしている。戦後、強化プラスチック船が普及し始めると、鋼船以外の新船は強化プラスチックで造られるようになり、従来の木船の造船所は鋼船・強化プラスチック船に転換した[19]

製網業[編集]

全国有数の漁港を擁する銚子では、それに附帯して漁労用の綱や網の製造が行われている。江戸時代には漁法も小規模であったので、その需要は女性の手編で間に合う程度であった。明治中期に漁業の副業として産業化されて、大正・昭和に至って急速に発展を遂げ、大小の製網業社が設立された。戦後は規模や設備の近代化が進められている[17]

発電業[編集]

風力発電所(長塚町)

風力発電事業とは、自然の風を電力源として風力発電機によりクリーンな電力を生み出し、その電力を電力会社に売電して収益を上げる事業である。地球温暖化の防止、原子力発電問題等を背景に、日本国内での事業化が進んできている。市内では2001年(平成13年)9月に銚子屏風ヶ浦風力開発株式会社が小浜町において風力発電機の運転を開始した[19]。2022年(令和4年)9月現在、市内には34基の大型風車が立地し[101]、関東地方で最大の風力発電拠点となっている[23]。本市で風力発電が進められるようになったのは、地域における平均風速や風向等の風況が風力発電に適していること、台地上には工作物建築の規制が強い自然公園区域指定がないこと、既存の送・配電線との系統連系がよいこと等によるものである[19]

2009年(平成21年)8月から2017年(平成29年)3月までの約8年間にわたって、本市の沖合で国内初となる洋上風力発電設備の実証研究が行われた。2019年(平成31年)4月に「海洋再生可能エネルギー発電設備の整備に係る海域の利用の促進に関する法律」(再エネ海域利用法)が施行され、国が公募によって選定した事業者に対して、最大30年間の海域の占用が認められることとなり、2020年(令和2年)7月、本市の南沖合の海域(3948.7ヘクタール)が洋上風力発電事業を推進するための「促進区域」に指定された。2021年(令和3年)12月には、促進区域における洋上風力発電事業者として、三菱商事エナジーソリューションズ株式会社、三菱商事株式会社及び株式会社シーテックを構成員とするコンソーシアム「千葉銚子オフショアウィンド」が選定された。発電設備は着床式洋上風力発電で、総出力40.3万キロワット(1.3万キロワット×31基、GE製)、年間発電量約12億キロワット時、運転期間は2028年(令和10年)9月から2052年(令和34年)1月までが予定されている。市は「ゼロカーボンシティ」を表明し、再生可能エネルギーのポテンシャルを最大限に活用し、地域と連携した経済の好循環により、地域循環共生圏の形成を目指すこととしている[49]

本市は、恵まれた日射量と風況から、太陽光発電及び風力発電のポテンシャルが高く、太陽光発電においても、2019年(令和元年)度における市の電力使用量(年間約454ギガワット時)の約3.5倍の導入ポテンシャルを有している。これらを背景として、市内における再エネ導入量は増加傾向にあり、区域の電気使用量に対する再エネ発電電力量は、39.1パーセントとなっている[49]

商業[編集]

本市は東総地域最大の商業都市であり、銚子商圏を形成する単独商圏都市である[102]。本市に住む消費者の地元購買率は75.5パーセント、他の市町村から本市への吸引人口は約6万3000人である[103]。本市の商業は、銚子漁港魚市場の仲買人による鮮魚の市外出荷すなわち卸売りを除けば、ほとんど全てが市民を中心とする一般消費者を対象とした小売業である[19]卸売業はこれらの小売業に対する卸売り、あるいは市内の業者に業務用の原材料を売る卸売りであり、市外の小売業をも対象とする卸売業は醤油その他の食料品についてごく少数である。本市の商業の特徴の一つは人口に比較して商店数が多いことである。このことは戦後一貫して変わっておらず、2019年(令和元年)においても、人口1000人あたりの本市の小売店数は千葉県内1位、飲食店数は同3位となっている[104]。このため総体的に商業の経営規模は小規模であり、零細な規模の商店が多いこともまた本市の商業の特徴となっている[19]

本市において、おおむね100店以上の小売店・飲食店が機能的に一体化している商業集積地区、いわゆる繁華街は銚子銀座、田中町、銚子駅前の3地区である[19]。銚子は、明治後期に至るまで県内最大の戸数と人口をかかえ、東北地方や関東地方の米や肥料を東京へ運ぶ物流の拠点であった。また江戸時代以来の漁業・水産加工業や醤油醸造業等の生産活動も盛んであった。漁港・醸造業地・河港として有数の都市となった銚子は、海上郡匝瑳郡香取郡の各町村から茨城県鹿島郡に及ぶ広大な地域に商圏を広げ、東総地域の中核都市としての強い独立性をもって発展してきた[4]。近年は大規模店舗等の進出により市内外の商業地図の変化が著しく、特に小売業を取り巻く環境が大きく変化している。このため、市は商工会議所や関係団体・機関との連携により、商圏拡大のための広域幹線道路の整備促進、地域特性を生かした各商店街の整備、経営体の強化・近代化、後継者育成、金融対策の充実、交流・イベントの振興、地域外資本の導入等の施策を推進している[19]。毎年8月に開催される「銚子みなとまつり」は、50年以上の歴史がある銚子の夏の風物詩であり、周辺地域からも多くの観客を集め、中心商店街は賑わいをみせる[19][105]

2010年(平成22年)3月に開店したイオンモール銚子は、13万人、4万4000世帯を商圏とし、核店舗「イオン銚子店」、準核店舗「イオンシネマ銚子」、100の専門店で構成する東総地域最大規模の大型ショッピングセンターである[72]。市は、国道126号から県道愛宕山公園線が分岐する交差点の周辺地区を広域交流拠点として位置づけ、広域的な商圏を対象とした商業施設や良質なアミューズメント施設等の集積を促進している[106]。また、市とイオン株式会社は2010年(平成22年)に地域振興に関する包括提携協定を締結しており、その取組の一つとして、地域循環型電子マネー「WAON」を通じた地域貢献型カード「犬吠WAON」が発行されている[107]

大規模小売店[編集]

イオンモール銚子

本市においては、平成年代に入ってから郊外型店舗等の機能集積が進んだ。市内における大規模小売店舗立地法に基づく大規模小売店は以下の通りで、市外からのいわゆる外部資本がほとんどである[108]

商店街[編集]

各地域の商店街振興の基盤となる主要道路整備は平成に入ってから重点的に進められ、魅力ある商業空間、観光拠点づくりが図られた。道路整備事業にあわせて、道路管理者及び地元関係者の協力のもと、電線管理者である東京電力株式会社が電線類地中化計画の一環として単独地中化方式による無電柱化を実施し、安全快適な通行空間の確保、都市景観の向上、都市災害の防止等を図っている[19]

  • 銚子駅前通りシンボルロード

銚子駅前通り610メートルは、戦災復興土地区画整理事業により、都市計画道路3・2・1銚子駅前線として、地方都市としては例の少ない36メートルの広幅員道路として整備されていた。この銚子駅前線は、駅寄りの240メートルが県道の主要地方道銚子停車場線で、駅前十字路から利根川までの370メートルが市道である。この道路をリゾート都市銚子の玄関口にふさわしい「シンボルロード」として整備することとなり、1988年(昭和63年)7月に市が事業主体となって事業認可を得て、1989年(平成元年)度から1993年(平成5年)度まで国庫補助事業として事業費14億4000万円をもって県道分・市道分をあわせて整備した。歩道については、県道と市道の形態を同一にし、歩道幅員10メートルのうち通行帯5メートルを自然石舗装とし、施設帯5メートルには照明灯、植栽桝、ベンチ、ごみ箱、水飲等を設け、車歩道境に木製のくさり付き境界柱を、交差点に係船柱型の車止めを設置したほか、信号機標識もグレードアップした。車道の交差点内・路側帯は、インターロッキングブロック舗装とした。また、駅前広場6900平方メートルは右回り一方通行とし、バス用に8バース、タクシーには37台分のプールを設けて、交通動線の円滑化と駅利用者の利便に配慮した。海・黒潮・港をイメージし、銚子にふさわしい魅力ある道路づくりによって、銚子地域の活性化と地元商業の一層の振興に資するものであった[19]

この事業推進に当たり、従来のアーケードを撤去することが必要であったため、シンボルロードと交差する県道の一部の延長584.8メートルにアーチ型のプラスチック樹脂板の屋根をかけ、照明灯、統一デザインの看板の設置等を行って商店街の活性化を期することとした。事業費は4億7225万5000円、工事は1996年(平成8年)10月着工、1997年(平成9年)3月に完成した。銚子駅前商店街振興組合では、シンボルロードを利用したフリーマーケット1994年(平成6年)以来定期的に開催している。また、銚子商工会議所青年部では、1999年(平成11年)から銚子駅前に大型ツリー状のイルミネーションを設置し、毎年クリスマスから成人式までの時期に点灯している[19]2014年(平成26年)12月19日には、経済産業省の地域商業自立促進事業の補助を受け、十字屋跡地に「銚子セレクト市場」がオープンした[24]

  • 銚子銀座通りココロード

銚子銀座通りは、漁港近く飯沼観音門前町として古くから銚子の中心的な商業地を形成しており、戦災後も都市計画道路本通馬場町線として整備されていた。しかし、市内の商業環境条件の変化に対応して、街路形態の改善と環境の整備により商店街の近代化と振興を図りたいとする地元要望が高まってきた。1988年(昭和63年)7月、銚子銀座商店街振興組合が事業主体となって、千葉県から商店街近代化事業として指定を受け、1990年(平成2年)・1991年(平成3年)度に、事業費7億4000万円をもって、新生町港橋から飯沼観音前までの550メートルの街路整備等が行われた。車道を6.5メートルに拡幅し、歩道は磁器製タイルで舗装、パーキングスペースを20か所設置し、電線類の地中化、アーケードを撤去して日よけ型テント・シェード張りにし、モニュメント、植栽等を配した。通りの愛称は市民から公募して「ココロード銚子」と決められた。市民の多様な生活ニーズに対応できるふれあいの広場としての中心商店街の振興活性化を期するものであった[19]。銚子銀座商店街振興組合では、毎週金曜日に「金曜市」を開催し、干物、惣菜、花等を販売している。また、2011年(平成23年)6月からは、毎月第4日曜日に軽トラックでの販売を中心とした「門前軽トラ市」を実施し、飲食、惣菜、雑貨、骨董品等を販売し、市内外から買い物客を呼び込んでいる[79]。また、民間の「わくわく門前町プロジェクト」の一環として、商店街の空き店舗を活用した飲食店がオープンしている[109]。2023年(令和5年)度には、道路照明灯のLED化を含めた更新整備が実施された[24]

  • 本通りマイロード

マイロード事業は、市道本通馬場町線のうち、既に整備済みの銚子銀座商店街ココロードと銚子駅前商店街シンボルロードに接する460メートルについて、銚子市街の中心エリアを貫く交通軸として、都市づくりと地域活性化に役立つような道路整備を企図したものであった。1992年(平成4年)度からの国庫補助事業により、事業費6億4000万円をもって1996年(平成8年)度末に完成した。延長460メートル、幅員20メートル、車道舗装、歩道の擬石平板・自然石舗装、街路灯・信号街路灯の設置、植栽、電線類の地中化等を実施した。特に、この道路はかつて利根川に面した河岸道路で飯沼観音に通じ、みなとまつりのみこしパレードの巡路となることことから、マイロード事業推進委員会を設け、住民のアイディアと協力を得て、みなと銚子のお祭り通りとして、市民に親しまれるような活気あふれる個性豊かな道づくりを目指した。マイロードの完成によって、銚子駅前通り、本通り、銚子銀座通りが連結し、銚子の新しい景観が整えられた[24]

銚子商工会議所[編集]

銚子商工会館

法に基づく地域的な総合経済団体としての銚子商工会議所は、千葉県で最初の商工会議所として1936年(昭和11年)12月に設立認可されたが、戦時中の「商工経済会法」によって銚子商工会議所は解散し千葉県商工経済会が設立され、本市には千葉県下で唯一の支部が置かれた。戦後に商工経済会は解散となり、1946年(昭和21年)12月に民法法人である社団法人銚子商工会議所が設立され、1953年(昭和28年)の新「商工会議所法」施行により翌年に同法に基づく法人として組織を改めた[19]

銚子商工会議所は地域総合経済団体として市経済の活性化と市勢発展のために重点目標を掲げて地域開発促進を図っており、2023年(令和5年)度においては、洋上風力発電事業による地域活性化及び再生可能エネルギー推進に関する調査研究、広域幹線道路の整備促進、ウィズコロナ・アフターコロナ時代の経営改善策の推進、会員増強と財務の健全強化、中心市街地活性化の推進、事業承継対策支援強化、会員企業の雇用確保及び健康経営の推進、地場産業の結集(農・漁・商・工・観連携)による六次産業化の推進、観光都市づくりの推進等を重点目標として諸事業への取り組みに当たっている[110]

銚子商工会議所では、2012年(平成24年)度から「ちょうしブランド推奨品」認定事業を実施している。これは、銚子の地域資源を活用した独自性や品質の高い産品の販売を通じて地元住民や観光客の支持・信頼を得ることで、地域の活性化を図っていくために、一定の基準を設け、推奨することによりブランド化を図り、本市のイメージ向上と市内産業の支援を図ることを目的として選定された商品39品目である[111]。2014年(平成26年)度からは、銚子商工会議所の主催による「銚子創業スクール」を毎年開催し、独立開業に対する支援を行っている[79]

金融機関[編集]

千葉銀行銚子支店
千葉銀行銚子支店
常陽銀行銚子支店
常陽銀行銚子支店
京葉銀行銚子支店
京葉銀行銚子支店
中央労働金庫銚子支店
中央労働金庫銚子支店

市内の金融機関は、中小企業等金融業である信用金庫本店・6支店、商工信用組合本店・6支店、地方銀行支店4店及び労働金庫1店の計18店のほか、農林水産金融業である農業協同組合及び信用漁業協同組合連合会、貸金業質屋等がある。銀行については普通銀行が増加し、信用金庫及び信用組合の支店が増設され、また、貸金業等が昭和から平成にかけての時期に増加した[19]

  • 銚子信用金庫本店
    • 市内支店6店舗(外川支店・本城支店・橋本支店・松岸支店・船木椎柴支店・清川町支店)
    • 市外支店21店舗(八日市場支店・飯岡支店・松尾支店・波崎支店・大原支店・勝浦支店・大多喜支店・茂原支店・鹿島支店・神栖支店・東金支店・東庄支店・土合支店・旭中央支店・横芝支店・海上支店・干潟支店・山田支店・千葉支店・佐倉支店・蓮沼支店)

対外関係[編集]

姉妹都市提携[編集]

クースベイ市 エンパイア湖
クースベイ市 エンパイア湖
レガスピー市
レガスピー市

本市では、1980年代に進展をみせた我が国の国際化に伴って市町村における国際交流の機運が高まる中、民間人や市長の訪問交流が姉妹都市提携へと発展していった。1983年昭和58年)2月10日アメリカ合衆国オレゴン州クースベイ市と、また、1985年(昭和60年)6月27日にはフィリピン共和国アルバイ州レガスピー市と姉妹都市協定を締結した[19]

アメリカ合衆国の旗 クースベイ市Coos Bay, Oregon, アメリカ合衆国オレゴン州

クースベイ市は、オレゴン州南西岸、ポートランドの南西274キロメートル、カリフォルニア州境から北225キロメートルのクース湾岸に位置する港湾都市である。オレゴン州岸における人口集中地区で、人口約1万5000人、面積21.2平方キロメートル、温暖な気候と豊かな自然環境に恵まれている。産業面では、農業林業水産業商業及び観光が盛んであり、教育文化面でも短期大学のほか図書館美術館等を有し、全体的に調和のとれた都市である。1982年(昭和57年)10月に銚子市長が港湾施設等視察のため渡米した際に、クースベイ市を訪問したことが契機となり、同年12月にクースベイ市長から同市議会が姉妹都市協定締結の申し入れを決定した旨の書簡を受けた。クースベイ市の基幹産業が農業、水産業であり、漁港、港湾を有する等本市との類似点が多いことから、本市としても姉妹都市協定の締結を希望する旨を回答し、1983年(昭和58年)1月市議会臨時会で姉妹都市協定締結について提案し、満場一致の賛同を得た。同年2月10日、銚子市制施行50周年記念式典の席上、クースベイ市代表者の出席を得て、姉妹都市協定締結の調印式を行った[19]

フィリピンの旗 レガスピー市Legazpi City, フィリピン共和国アルバイ州

レガスピー市は、ルソン島南東部ビコール半島東岸、マニラから南東556キロメートルのアルバイ湾岸に位置するアルバイ州の州都で、人口15万人を超える港湾都市である。周辺地域特産のアバカ(マニラ麻)、ココヤシ製品がレガスピー港から世界中へ輸出されており、マニラ富士とも呼ばれる秀麗なマヨン山をはじめ、海浜、丘陵、河川等に恵まれた風光明媚な観光地としても有名である。1976年(昭和51年)2月、両市のロータリークラブの間で姉妹クラブ契約が締結され、交流が積み重ねられていく中で、両市間での姉妹都市提携の気運が高まり、1985年(昭和60年)3月にレガスピー市議会が本市との姉妹都市提携を議決し、レガスピー市長から姉妹都市協定締結の申し入れがあった。両市の人口規模、産業形態が類似していることや、世界の平和を祈念して愛宕山上に建立された「日比友愛の碑」の斜塔がレガスピー市のマヨン山を指していること等から、同年6月27日市議会の議決を得て姉妹都市協定が成立した[19]

クースベイ市とは、不定期ではあるが親善のための訪問団派遣・来訪団受け入れ、小学校・中学校・市立高等学校の姉妹校協定、コミュニティカレッジへの1年留学、市内中学生・高等学校生徒の訪問団派遣等が行われてきた[19]。姉妹都市協定締結40周年を迎えた2023年令和5年)12月20日には、クースベイ市のサラ・スティーブンス議員が本市を訪問し、両市の記念品の交換が行われた[112]。レガスピー市との姉妹都市関係については、1986年(昭和61年)2月にフィリピンで政変が生じたため、親善訪間計画は実現しなかったが、以来、両市間の民間有志の交流、慶祝文通等は行われている。また、2000年平成12年)1月のマヨン火山噴火による被害に対して、市と市議会から見舞金を贈っている[19]

友好交流協定都市[編集]

桃園市

中華民国の旗 桃園市Taoyuan, 中華民国

桃園市台湾の北西部に位置し、台湾の空の玄関口である桃園国際空港を擁し、人口約226万人の13行政区で構成される直轄市である。桃園市の観音区は桃園国際空港の南側に広がる人口約6万5000人の農業と工業が盛んな地域である。海岸線には砂丘が約8キロにわたって伸びており、風力発電の風車が多数立地する。白沙岬燈塔は日本統治時代初期に日本人により建設された灯台で、台湾で唯一赤煉瓦と石が使われており台湾歴史建築百景に選ばれている。また、永安漁港は社子渓の河口に位置し、観光魚市場や夕陽鑑賞の名所である永安観海橋は観光客で賑わっている。2018年(平成30年)春、桃園市からの打診を受けて犬吠埼灯台と白沙岬燈塔の姉妹関係の構築が目指されることとなり、その後は本市と桃園市の都市間交流に切り替えて交流が重ねられてきた。2019年(平成31年)1月には銚子市長が桃園市を訪問、同年8月には桃園市長が本市を訪問した。また、同年10月に本市で開催した灯台ワールドサミットにおいて桃園市関係者が講演を行ったほか、2020年(令和2年)2月には本市の市民10人が白沙岬燈塔を訪れて観音区長の歓迎を受ける等、交流を重ねてきた。その後、桃園市からの提案により、2022年(令和4年)7月11日にオンライン形式による友好交流協定締結式が行われた。灯台や漁港、風力発電の風車等、本市と類似点が多いことが協定締結の契機となった[113]

本市と台湾の友好関係は古く、銚子ライオンズクラブと龍山国際獅子会の交流をはじめ、台湾茶の専門家を招いた国際茶文化セミナーの開催、台湾女子ソフトボールチームの合宿や2020年東京オリンピックホストタウンの決定、銚子電気鉄道株式会社台湾鉄道蘇澳線との姉妹提携、銚子ジオパークと野柳地質公園との姉妹提携、銚子はね太鼓保存会の台湾ランタンフェスティバルへの出演等、多様な交流が重ねられてきた[113]

その他[編集]

ロカ岬

1993年(平成5年)に結成された銚子ぽるとがる友好協会は、ユーラシア大陸西端のポルトガル共和国シントラ市ロカ岬Cabo da Roca)とほぼ同緯度にある犬吠埼を姉妹岬として友好親善を深めることを深めることを目的に、銚子市制60周年と日本ポルトガル友好450周年を記念して、犬吠埼に犬吠埼・ロカ岬記念碑を建立し、その除幕式を1993年(平成5年)9月12日に行った[19]2017年(平成29年)11月には、銚子市国際交流協会(Choshi International & Multiculture Association)が設立された。同協会では、日本語教室や国際交流パーティーを開催し、多文化共生のまちづくりを推進している[114]。このほか、銚子市地域おこし協力隊(多文化共生)による「World Travel in Choshi」等が定期的に開催されている[115]

産業経済面での国際化については、本市の基幹産業である水産缶詰、醤油等の製品輸出が実績を挙げている。製造業の原料については、水産缶詰、水産加工品、醤油等の原料輸入が早くから行われている。また、企業の海外進出例としては、醤油製造業、水産加工業等において、輸出先の消費国で設立した関連会社工場における生産や海外会社工場における第一次加工処理の例も見られる。外国人技能実習制度については、市が実施主体となる漁業研修生をはじめ、国が認めた事業計画に基づく研修生が主に水産加工関係事業所での技術研修を行っている[19]

施設[編集]

警察[編集]

千葉県銚子警察署

銚子警察署は、1872年明治5年)10月に第16大区警察出張所荒野屯所と称して荒野村宝満寺に設置された。その後1874年(明治7年)、飯沼村円福寺観音堂境内薬師堂に、1876年(明治9年)荒野村明神町信田鉄之丞方に移転、銚子分署と改称した。1877年(明治10年)2月、警察出張所荒野屯所の名義を廃止し、八日市場警察署銚子分署となったが、1878年(明治11年)12月に八日市場警察所管を離れて銚子警察署となった。銚子警察署となってからは、海上郡を2大区に分け、銚子警察署と旭町警察署がそれぞれを管轄した。そして1937年(昭和12年)に本署の庁舎を、築港の埋立地である新生一丁目に新築、11月1日から開庁した。この頃の署員の定数は54人で、その後1947年(昭和17年)に66人に増員された。新庁舎は1945年(昭和20年)7月の空襲で焼けたが、戦後修復して1973年(昭和48年)まで使用されていた[19]

銚子市警察は「警察法」施行前の1947年(昭和22年)11月から試験的に発足し、1948年(昭和23年)から警察署の機構・施設等が整備されたが、1954年(昭和29年)6月30日をもって廃止され、千葉県警に移管となった。その後1954年(昭和29年)7月1日施行の新「警察法」により、千葉県銚子警察署が発足した[19]。管轄区域は本市全域、職員定数は合計約100人である[116]。警察署の庁舎は1973年(昭和48年)まで従来の新生一丁目の庁舎を使用していたが、同年春日町に新庁舎を建設し、4月24日から同庁舎に移った[19]

本市における刑法犯認知件数は、2002年平成14年)以降減少傾向が続いている[79]。人口100人当たり刑法犯認知件数を見ると、本市においては1.101件で、千葉県全県1.551件よりも相当に少なく、59市区町村のうち48位にあって、治安はかなり良好である[117]。なお本市では、2005年(平成17年)に「銚子市犯罪のない安心して暮らせるまちづくり条例」を制定して自主防犯活動を促進しており、市内では銚子市防犯指導員、地域防犯パトロール隊等、様々な防犯ボランティア団体が活動している[79]

警察署[編集]

交番・駐在所[編集]

銚子駅前交番
銚子駅前交番
犬吠埼駐在所
犬吠埼駐在所
外川駐在所
外川駐在所
  • 中央交番
  • 銚子駅前交番
  • 海鹿島駐在所
  • 犬吠埼駐在所
  • 椎柴駐在所
  • 高神駐在所
  • 外川駐在所
  • 豊岡駐在所
  • 豊里駐在所
  • 猿田駐在所
  • 本城駐在所
  • 松岸駐在所

消防[編集]

銚子市消防本部・消防署

本市における消防の創始は、1887年(明治20年)に創設された私設のヒゲ夕消防組である。1894年(明治27年)に国より「時間制規則」が公布されたが、当時、全国的には公設消防組は少なく、ほとんどが自治的な私設消防組で、ヒゲタに続き1896年(明治29年)にはヤマサ消防組が設置され、公設の消防組が組織されるまで、要請によって市中の火災に出動していた。1880年(明治13年)以後、海上村消防組を皮切りに、西銚子町、高神村においても消防組が組織され、1923年大正12年)9月1日関東大震災において火災による被害が甚大であったことを踏まえ、銚子町、本銚子町にそれぞれ消防組が設置された。1933年(昭和8年)の市制施行に伴い、同年12月に銚子町、本銚子町、西銚子町、豊浦村の4消防組を合併して、組織は後の消防団に相当する非常備消防の体制で本部1、部15、救護班1、組員754人からなる銚子市消防組へと改組された。また、1936年(昭和11年)には、消防組本部に本市では初めての常備班が設置され、班長含め7人がポンプ自動車1台の配置により業務を開始している[79]

消防本部[編集]

消防組織法により、消防事務については市町村の責任とされ、これを処理するための機関として、常備消防である消防本部消防署及び非常備の消防団を設置している。消防事務の責任者である消防長のもと、消防本部と消防署(分遣所含む)に大別され、職員113人、20台の消防車両をもって消防事務に携わっている。消防本部は、消防総務課及び予防課の2課15人で構成され、主に予算、人事、施設管理等の総務事務に加え、消防団事務や教急業務高度化推進に係る消防事務、並びに消防関係法令に基づく危険物規制事務や消防設備関係事務をはじめ火災予防に関する専門的な事務を担当している[79]

銚子市消防本部は、1949年(昭和24年)1月1日施行の「銚子市消防組織条例」に基づいて銚子市役所内に設置された[19]千葉市市川市に続き県内3番目の消防本部であった[79]。当初、消防長は市長が、また、その他の職員は市役所庶務課員が兼務した。その後、1951年(昭和26年)に専任の防職員の配置、1954年(昭和29年)12月に専任の消防長就任、1955年(昭和30年)に新生一丁目と消防本部位置の変更等を経て、消防本部の組織の拡充、消防職員の階級の改正・細分化、係制から課制への移行等が進められた[19]。消防本部・消防署の庁舎については、1971年(昭和46年)9月から新生一丁目(従来の庁舎の隣地で元千葉県銚子土木出張所跡)に建設した庁舎を使用していたが、2017年(平成29年)1月、鉄筋コンクリート造3階建て新庁舎が唐子町に完成して移転した[24]

消防署[編集]

消防署は消防長の指揮監督を受けて消防事務を行う機関である。消防本部と消防署に消防職員として消防吏員及びその他の職員を置く。銚子市消防署は、先述のとおり、消防本部とともに1949年(昭和24年)1月1日から設置された。庁舎の位置は新生一丁目、当時の銚子市警察署の隣接地であった。当時の消防署長は市長が兼ね、職員数も26人であったが、その後は、欠員補充、定数増加、消防装備の強化が進められた[19]。消防署は、本署に消防隊、教助隊、救急隊を配置して、常時14人から17人程度の人員を確保して災害対応の中枢的な役割を果たしている[79]2018年(平成30年)9月25日からは、「銚子市消防署所再編計画」に基づき、本署・東部分署・西部分署からなる1署2分署体制に移行した。なお、東部分署は2018年(平成30年)度に新築され、西部分署も2023年令和5年)度に大規模改修工事が実施され、地域防災拠点施設として整備された[24]

消防団[編集]

消防団は市町村に設けられる消防機関の一つであり、設置、名称、区域は条例で、その組織は規則で定める。消防団員非常勤特別職地方公務員で、消防長又は消防署長の所轄の下に行動する。消防団の長は消防団長で、消防団の推薦に基づき市町村長が任命する。初期の消防団の装備は、自動車と人力による車両が相半ばしていたが、その後自動車化の方向をたどるとともに、1960年代に出場の際に専用の積載車で運搬する可搬式小型動力ポンプがポンプ自動車とともに団の装備の主力となった[19]2017年(平成29年)度においては、最高責任者である消防団長のもと、11分団510人、ポンプ自動車等の車両39台を配備した体制となっている[79]1984年(昭和59年)度からは、消防団の統制、防御技術の向上を図ることによって円滑な災害活動を行うため、近隣に先駆けて本市独自に消防団実戦操法訓練を実施した。当時の鈴木勝夫消防団長が火災防御活動に即応して実際に放水する操法として考案したもので、その後、消防団幹部が中心になり、その操法内容に年々検討を加えている[19]。近年の大会は銚子マリーナ周辺を会場としている[24]

災害発生状況[編集]

本市においては、火災、救急、救助等の事象のほか、地震台風ゲリラ豪雨等の自然災害等、大規模化、複雑多様化する災害に対し、消防機関が一体となって活動にあたっている[79]

火災

本市における火災発生状況は、1949年(昭和24年)から2017年(平成29年)に至るまで、最も少ない件数は2016年(平成28年)の15件で、最も多い件数は1962年(昭和37年)の109件である。1959年(昭和34年)から1978年(昭和53年)までの20年間は、1年間の平均発生件数が最も多く76.3件であったが、近年、火災の発生件数は減少傾向にあり、2009年(平成21年)から2016年(平成28年)までの8年間は、1年間の平均発生件数は25.8件となっている[79]

救急

1951年(昭和26年)4月、本署に救急自動車を1台配備して救急業務を開始、1963年(昭和38年)には消防法の改正により、救急業務が法制化されている。本市における救急出動件数は、全国的な救急需要の増加を受けて1951年(昭和26年)の58件から増加し、2016年(平成28年)の出動件数は2792件となっている[79]。市内の救急病院は、銚子市立病院、島田総合病院、たむら記念病院の3病院である[118]

救助

本市では、法制化に先駆け1980年(昭和55年)に救助隊を発足した。火災の消化活動等に携わる消防隊兼務の救助隊で、2017年(平成29年)度においては、隊長以下18人の体制で、梯子車、救助工作車といった特殊車両や装備品等を駆使して、交通事故、労働災害、水難事故等の災害活動にあたっている。発生状況は、1993年(平成5年)から2017年(平成29年)まで、1年間の平均発生件数で50件前後を推移している[79]

医療[編集]

銚子市立病院

銚子市医師会[編集]

銚子市医師会は5病院29診療所からなる会員数64名の一般社団法人である[78]。診療所では外来を主とする一般診療や在宅診療を、病院は外来診療に加え入院を要する急性期医療、リハビリや療養に関わる医療のほか、老人保健施設等の介護事業を行っている。医師会はそのほかにも休日当番医、夜間小児急病診療所、特定検診、行政との各事業への参加等、本市における医療保健活動の中心的存在となっている[79]。本市における急変時医療救急体制は、主に平日昼間は市内診療所・病院のかかりつけ医、夜間はかかりつけ医または島田総合病院・たむら記念病院・銚子市立病院等の病院、日曜・休日昼間は休日当番医、夜間はかかりつけ医、島田総合病院、たむら記念病院で行っている[119]

銚子市医師会の沿革は、1887年(明治20年)に千葉県医師会規則により設立された千葉県医会海上匝瑳郡部医会に始まる。1897年(明治30年)には郡制改正により匝瑳郡部医会と分離、1907年(明治40年)2月に「医師法」に基づく法定の海上郡医師会となった。この後に改組を経て、1933年(昭和8年)3月に銚子市制施行により新たに銚子市海上郡医師会が設立されたが、1942年(昭和17年)の「国民医療法」施行により千葉県医師会銚子市海上郡支部となった。戦後の1947年(昭和22年)11月、民法に基づく公益法人として社団法人銚子市医師会を設立した。同医師会は、医学の発展及び公衆衛生の普及・向上を図りもって社会福祉の増進に寄与することを目的に、医学振興、公衆衛生の啓発指導、幼稚園保育所小学校中学校高等学校学校保健活動、医師等の研修・養成、医業経営管理の改善・向上、医療の普及・研究、医事衛生調査・研究、広報活動等の事業を行っている[19]

銚子市歯科医師会[編集]

社団法人銚子市歯科医師会は、1947年(昭和22年)11月に民法に基づく公益法人として設立された。同歯科医師会は、歯科医学医術の発展と公衆衛生普及の向上を図り、社会福祉の増進に寄与することを目的に、乳幼児妊産婦の歯科健診、口腔衛生の啓発・指導、幼稚園・保育所・小学校・中学校・高等学校の学校歯科保健活動、虫歯予防図画・ポスター表彰、健歯コンクールの実施その他広報活動、学術・社保・税務・医療管理講習会の開催等の事業を行っている[19]。会員数は42名である[78]

銚子市薬剤師会[編集]

銚子市薬剤師会の正式名称は社団法人千葉県薬師会銚子支部である。その前身は、1926年(大正15年)10月発足の千葉県薬師会海上郡支部で、銚子市制施行に伴って銚子支部となった。同薬師会は、分業推進委員会、学術委員会等を置き、医薬分業の推進と関係諸機関・団体との連携強化、学校薬剤師の業務実施と学校保健活動への協力、薬剤師倫理と職能技術向上のための講習会の開催等を行っている[19]。会員数は40店舗である[78]

銚子市立病院[編集]

本市は1950年(昭和25年)に銚子市診療所を開設したが、その後実費診療所と療養所を一体化した病院として、1951年(昭和26年)9月3日に銚子市立病院を開設した。1977年(昭和52年)5月には総合病院建設準備室を設置し、総合病院化計画の策定業務委託とその後の詳細検討を進めた。1981年(昭和56年)度に建設用地の測量・地質調査を実施し、当年度の起債許可を得て、1981年(昭和56年)度銚子市病院事業会計当初予算において2か年(のち5か年)の建設事業継続費を設定して、事業が着手された。1984年(昭和59年)3月に第1期建設工事が完成、4月15日に市立病院新館竣工式が挙行された。引き続き第2期建設工事により管理棟・一般病棟が建設され、その後さらに精神神経科病棟・リハビリテーション施設・駐車場等が整備された[19]2008年(平成20年)7月に運営を休止したが、2010年(平成22年)5月6日に「医療法人財団銚子市立病院再生機構」を指定管理者として診療を再開した[119]2015年(平成27年)4月1日からは「一般財団法人銚子市医療公社」が指定管理者となり[120]、地域包括ケアシステムの一翼を担う公立病院として、診療体制の充実を推進している[24]2023年(令和5年)12月14日には、院内1階に千葉県内初の省人化店舗である「ローソン銚子市立病院店」がオープンした[121]

郵便局[編集]

銚子郵便局

直営郵便局[編集]

1872年(明治5年)7月、海上郡荒野村に荒野郵便取扱所が開設され、翌年4月に荒野郵便役所に、1880年(明治13年)2月に銚子荒野郵便局に、1888年(明治21年)2月に銚子郵便局と改称、1889年(明治22年)9月には電信局と合併して銚子郵便電信局に、1903年(明治36年)3月に銚子郵便局と改称された。1906年(明治39年)7月に特定三等郵便局に、1929年(昭和4年)12月に二等郵便局に、1941年(昭和16年)2月に普通郵便局となったが、戦後の1949年(昭和24年)6月には郵政電気通信の2省分割実施により電信電話業務を分離した。庁舎の位置は、1889年(明治22年)移転以来、本通三丁目にあり、庁舎も1929年(昭和4年)新築後はそのままであったが、1970年(昭和45年)11月24日、三軒町に鉄筋コンクリート造、2階地下1階建ての局舎等を新築し移転した。その後、この庁舎が狭隘となったため、移転新築が構想され、銚子市庁舎南側の若宮町のヒゲタ醤油株式会社工場敷地を取得して新局舎建築に着手した。1997年(平成9年)9月に着工、1998年(平成10年)9月末に鉄筋コンクリート造地上3階建て(一部4階)の新局舎が完成し、10月19日に開局した[19]

  • 野尻郵便局

1872年(明治5年)5月、当時の野尻村に開局した。本市の市域内の郵便局としては、郵便局前身の荒野郵便取扱所より早く開設され、特定郵便局集配局として業務を行っていたが、1983年(昭和58年)8月28日から銚子郵便局に統合されて無集配局となった[19]

  • 外川郵便局
  • 銚子植松郵便局
  • 銚子本町郵便局
  • 銚子南町郵便局
  • 銚子愛宕町郵便局
  • 銚子本通郵便局
  • 銚子清川町郵便局
  • 銚子本城郵便局
  • 銚子松岸郵便局
  • 諸持郵便局

簡易郵便局[編集]

  • 銚子余山簡易郵便局
  • 銚子小浜簡易郵便局

図書館[編集]

銚子市公正図書館
  • 銚子市公正図書館

銚子市公正図書館の前身は、1924年(大正14年)4月設立の財団法人公正会の活動拠点であった公正会館内に開設されていた図書館であった。蔵書数は400冊で、開架式閲覧・館外貸出方式の図書館活動を行っていた。図書館として本格的な形態を備えた公正会館の図書館は、昭和前期の銚子の文化の向上に裨益するところが大きかった。この公正会館が1948年(昭和23年)3月に市に寄贈された後、その1階にあった書庫・閲覧室合わせて52坪の図書館部分が、1948年(昭和23年)3月に「市立公正図書館設置等に関する条例」をもって「市立公正図書館」と改称し、9月22日に「銚子市公正図書館」として開館された。当時の図書館の蔵書数は1万2870冊で、その後の蔵書数は徐々に増加して、施設の狭隘化の解決が課題となった。市はこれに対応するため、市制施行50周年記念事業の一環として図書館の新築事業を企図し、位置の選定、規模・機能の検討等を経て、1981年(昭和56年)度に施設整備計画を決定し、1982年(昭和57年)度中に建設工事を完了し、1983年(昭和58年)5月1日に開館した[19]2022年(令和4年)1月には「銚子市電子図書館」が開館し、インターネットを通じてパソコンタブレット端末スマートフォン等のデバイス上で電子書籍の貸出・返却・予約を行うことが可能となった[122]2021年(令和3年)における蔵書冊数は約15万6000冊であり、市内最大の図書館施設である[52]

博物館[編集]

犬吠埼灯台資料展示館
  • 犬吠埼灯台資料展示館

犬吠埼灯台資料展示館は、社団法人燈光会が日本財団および市の支援を受けて全国で5館目の資料展示館として犬吠埼灯台敷地内に建設し、2002年(平成14年)3月22日にオープンした。建設位置については、隣接ホテルからの眺望維持のため、最終的に灯台敷地内への建設が特例として認められた。主な展示資料は、国産第1号大型1等レンズのほか、犬吠埼灯台設計建設指揮者の英国人リチャード・ヘンリー・ブラントンの資料、灯台の歴史、航路標識事業の紹介資料等である[19]

  • 濱口陽三作品展示室

世界の版画界の巨匠である濱口陽三は、1909年(明治42年)3月ヤマサ醤油株式会社創立者濱口儀兵衛梧洞)・恭子の三男として和歌山県有田郡広村に生まれたが、1916年(大正5年)に銚子に移住し、末広町の濱口家別荘で幼少時を過ごし、銚子とはゆかりが深い芸術家である。1982年(昭和57年)12月、ヤマサ醤油株式会社から同社が所有する版画作品等を市に寄贈したいとの申し入れがあり、同月に8点、翌年10月8点計16点の寄附がなされた。市はこれらの寄贈作品を収蔵・展示することとし、1983年(昭和58年)11月6日に銚子市公正市民館内の常設展示室をオープンした。銚子市公正市民館は、ヤマサ醤油株式会社創立者で濱口陽三の父である濱口儀兵衛設立の財団法人公正会の拠点であった公正会館が社会教育振興のために市に寄附したもので、濱口陽三が幼少期を過ごした濱口家別荘の東隣に位置している。なお、この常設展示されていた16点の版画作品は、2001年(平成13年)11月開館の市民センター内の常設展示室に移され、後述の通り郷土出身の日本画家渡邊學の作品とあわせて、市民や来遊者、美術愛好家の鑑賞に資することとなった[19]

  • 渡邊學作品展示室

日本画家渡邊學(本名富男)は1916年(大正15年)1月海上郡本銚子町に生まれ、郷土銚子の漁場を素材に海に働く人々をカ強い画風で描き続けた。2002年(平成14年)8月、渡邊家から日本画作品12点が市に寄贈された。市はこれらの作品を銚子市小畑新町に建設した市民センター内に前述の濱口陽三作品とあわせて常設展示することとした[19]

  • 新国立劇場舞台美術センター資料館

新国立劇場舞台美術センター資料館は、新国立劇場で主催公演したオペラバレエ・現代舞踊・演劇等の舞台美術を保管・活用する目的で、銚子市豊里台一丁目に建設され、1997年(平成9年)11月1日にオープンした。特殊法人日本芸術文化振興会がその設置・管理に当たっている。センター内には、舞台装置・衣裳の保管棟、組立補修のための美術工作棟、展示公開のための資料館がある。資料館の1・2階に舞台模型・舞台衣裳、小道具等の舞台関係資料の展示スペース、2・3階に図書・映像資料保管の資料庫を備えている。展示ホールでは新国立劇場の主催公演にあわせ、3か月ごとに舞台衣裳の展示替えをし、また、年に1回の企画展を行っている[19]

  • ヤマサ醤油「しょうゆ味わい体験館」

しょうゆ味わい体験館は、ヤマサ醤油株式会社が2016年(平成28年)4月27日にオープンした工場見学者用の新施設である。歴史資料・道具類の見学、煎餅焼き体験、映像によるバーチャル体験「タップトーク」等ができる。施設オープンにあたり、ヤマサ醤油株式会社では、「銚子から発信する」「今までのヤマサ醤油にとらわれない」をコンセプトに、銚子発・味覚発信プロジェクト「ORIENT WINDMILL」を発足している[123]。なお工場内には、大正末期に導入されて以後、1964年(昭和39年)まで同社で使用されていた、日本に現存する最古のディーゼル機関車「オットー」が展示されている。

  • ヒゲタ史料館

1985年(昭和60年)4月にヒゲタ醤油株式会社が第2工場内に開設した。醤油醸造の設備・道具・容器、博覧会受賞メダル、会社年表、製品200点を展示している。醸造蔵内に描かれたフレスコ画の大壁画「天地人」(2.8×10メートル)が見学できる[19]

  • 外川ミニ郷土資料館

2007年(平成19年)3月にオープンした個人所有の郷土資料館[19]。銚子市外川の歴史、方言、民話資料のほか、昔の漁師が使用した漁具、銚子で発掘された化石、万祝、絵葉書等を展示している[124]

文化施設[編集]

  • 銚子市青少年文化会館 - 銚子市青少年文化会館は、都市青年の家、児童文化センター及び市民会館という3機能の総合施設として計画された。1970年(昭和45年)4月20日に起工され、1971年(昭和46年)9月に完成、10月1日に開館した。青少年のための社会教育施設であるとともに、一般市民利用のための貸会場の性格もあわせ持つ文化会館であり、本市における生涯学習や芸術文化の拠点施設である[19]
    • 市民会館 - 地域の芸術文化の向上を目的とし、各種舞台芸術の鑑賞並びに音楽、演劇、舞踊等の発表の場として、また市民の集会の場としても活用できる施設である[19]
    • 児童文化センター - 少年に対し科学知識の普及、実験実習の場の提供、情操の涵養、生活指導等を行い、健全な自発的活動の促進を図るための施設で、ホール・科学展示室・展示室・工作室・郷土資料室・天文台・プラネタリウム室等の設備がある[19]
    • 都市青年の家 - 都市の青少年の日常生活に即した交友と研鑽の場を提供し、青年の研修・団体活動の助長を図るための施設で、会議室・談話室・学習室・実験実習室・視聴覚ライブラリー室・調理室・和室・プリント室等の設備がある[19]
  • 銚子市市民センター

市民から「小畑無線」と呼ばれてきた銚子無線電報サービスセンターは、1996年(平成8年)3月に廃止となった。1908年(明治41年)5月16日逓信省が本銚子町平磯台に無線電信局を開設して以来88年の我が国最初の無線電信局はその任務を終えた。市は、銚子無線が古く明治後期から市の歴史と深く関わってきたことを踏まえて、旧局舎の有効活用を図るため、土地・建物を取得し、公正市民館機能の全面移転を中心に生涯学習や地域コミュニティ活動の拠点となる市民センターとして、2000年(平成12年)、2001年(平成13年)度の2か年継続でリニューアル整備を実施した。旧小畑無線局舎の北側に位置する旧事務棟は公民館棟とされ、会議室、和室、調理実習室、企画展示室、常設展示室、プレイルーム等、公正市民館が持つ機能を中心とした施設に改修された。その南側の旧機械棟はホール棟とされ、従来の公正市民館が持っていなかった機能として、約300人収容の多目的ホール、防音の音楽広場、スタジオ、マルチメディアスペース等に改修整備された。加えて、陶芸等ができる木造平家建の創作棟が新設された[19]

  • 銚子市ジオパーク・芸術センター

銚子市地域交流センター・銚子芸術村は、旧第八中学校を活用し、地域の交流拠点、子育て支援、高齢者の健康増進、芸術村等の複合的な機能を持った施設として、2019年(平成31年)4月に開設された[125]。2022年(令和4年)度からは、施設の名称を「銚子市ジオパーク・芸術センター」に改め、銚子資産を活かした「学び」の拠点としての再整備が実施されている[24]

交流施設[編集]

銚子市中央地区コミュニティセンター
  • 地区コミュニティセンター - 本市における種々のコミュニティ振興対策の中心となったのは、地区コミュニティセンターの整備であった。これらの地区コミュニティセンターは、会議室、集会室、多目的ホール、調理室、和室等を備えており、地域住民の自主的な学習や地域活動の拠点として利用しやすいように、地元に管理の一部を委託している[19]
    • 銚子市中央地区コミュニティセンター
    • 銚子市東部地区コミュニティセンター
    • 銚子市海上地区コミュニティセンター
    • 銚子市豊里地区コミュニティセンター
  • 銚子市勤労コミュニティセンター

本市では早くから勤労会館を建設して、勤労者の福利向上と労政関係機関庁舎として利用に供してきたが、1975年(昭和50年)の市庁舎移転に伴ってこれが廃止されたことから、その後、勤労者団体、労働組合等からの再建要望に応えて、1982年(昭和57年)2月17日、市役所敷地内に「銚子市勤労コミュニティセンター」が設置された。1階に事務室・和室、2階に集会場を備え、市内一円の勤労者の福祉とあわせて近隣住民の利便に供する共同施設となっている[19]

  • 銚子市森戸農村広場やすらぎの家
  • 銚子市親田農村広場やすらぎの家
  • 青年館 - 青年館とは、地域における青少年健全育成や住民共同利用のための小規模な集会施設であり、千葉県が1964年(昭和39年)度から青年館設備費補助金制度によって促進を図ったものである。本市においては、1964年(昭和39年)から千葉県からの補助金、市費、地元寄附金を財源として市立青年館の設置が進められた[19]。2023年(令和5年)4月現在で24館を有し[126]、そのすべてについて管理の一部を地元町内会等に委託して円滑・有効な運営を図っている。いずれの青年館についても、青少年健全育成のための施設としての設置当初の利用に加え、町内会、老人会婦人会等の集会に利用されている[19]
    • 銚子市南町⻘年館
    • 銚子市本城町⻘年館
    • 銚子市黒生町⻘年館
    • 銚子市余山町⻘年館
    • 銚子市春日町⻘年館
    • 銚子市⻑塚町⻘年館
    • 銚子市高神⻘年館
    • 銚子市上野町⻘年館
    • 銚子市三崎団地⻘年館
    • 銚子市和田町⻘年館
    • 銚子市海鹿島町⻘年館
    • 銚子市浜町・田中町⻘年館
    • 銚子市茶畑町⻘年館
    • 銚子市三宅町⻘年館
    • 銚子市大橋町⻘年館
    • 銚子市三崎町⻘年館
    • 銚子市常世田町⻘年館
    • 銚子市海鹿島町⻄⻘年館
    • 銚子市海鹿島町南⻘年館
    • 銚子市東町・飯沼町⻘年館
    • 銚子市柴崎町⻘年館
    • 銚子市前宿町⻘年館
    • 銚子市明神町⻘年館
    • 銚子市岡野台町⻘年館
  • 集会所
    • 栄町町内会集会所
    • 後飯町町内会集会所
    • ⻄部集会所

スポーツ施設[編集]

  • 銚子市体育館

本市では、1963年(昭和38年)に3千人の収容能力を有し、市民ホールとしても使える体育館の建設を決定し、1963年(昭和38年)度から3か年継続事業として着手した。1964年(昭和39年)10月に工事を開始、1965年(昭和40年)8月に完成した。開館式は同月14日に行われた。完成した体育館は鉄筋コンクリート2階建て、ダイヤモンド・トラス構造の建物で、1階はステージ、フロアー、格技室、楽屋、休憩室、格納庫、会議室、事務室等、2階は観覧席と放送室から成っている。当時市民から要望されていた屋内運動場兼大集会場の実現によって、各種スポーツ教室が開講されるとともに、児童・生徒・学生を含めた市民の多様な体育活動や各種の大会・行事が盛んに行われるようになった[19]。多目的な利用に対応するため、2020年(令和2年)度から2022年(令和4年)度にかけて大規模改修工事が実施された[24]

  • 銚子市野球場

本市は1941年(昭和16年)に前宿町に総合運動場を建設する計画を立て、整地事業を開始し、1944年(昭和19年)度中に完了した。運動場は陸上競技場軟式野球場野外相撲場の3種であった。終戦後、戦災で焼失した飯沼国民学校の復興に際し、校地を従来の後飯町から前宿町の運動場の一部に移すこととなり、野球場がこれに当てられた。しかし市営球場の設置を望む声が大きくあがったことから、市は1946年(昭和21年)に当初の計画を変更し、陸上競技場を野球場とすることとし、バックネットや木製の固定ベンチ等の設備を施して、市民の利用に供した。その後銚子市体育連盟を中心とする野球関係者から、本格的な公認球場設置の陳情が続けられたため、市もその必要を認めて、1949年(昭和24年)に工事に着手し、1950年(昭和25年)に完成した。開場式は6月17日であった。本格的な銚子市営球場の完成により、少年野球、小学校・中学校対抗野球、社会人野球等のほか、職業野球高校野球の招待試合等が多く行われるようになった[19]1986年(昭和61年)7月26日には夜間照明施設が供用開始され、4月初めから11月半ばまでの夜間に野球場利用が可能となった[19]。2007年(平成19年)度、2008年(平成20年)度には「都市再生整備計画(銚子市中心市街地地区)」の一環として改修事業が実施され、あわせて周辺道路等の整備が実施された[24]

  • 銚子市庭球場

1948年(昭和23年)12月、市は本通公園内にテニスコート2面を造り、市民に無料開放した。その後、市営テニスコートの設置が望まれるようになったことを受け、1974年(昭和49年)に清川町公園内に4面のテニスコートが設置された[19]

  • 銚子市スポーツコミュニティセンター

1989年(平成元年)4月、柔道剣道弓道関係者からの要望に対応し、また、清掃施設建設等の地元対策の一環として、銚子市西小川町にスポーツコミュニティセンターが新設された。柔剣道場(2面)と弓道場(5人立射座)と和室集会室とホールを有し、武道練習・大会会場として、また、地域住民の集会施設としても利用されている。これを機にスポーツ教室の種目が増加した[19]

  • 豊里台多目的スポーツ広場

1997年(平成9年)7月、豊里台多目的スポーツ広場が開場した。これは、市教育委員会が豊里台住宅団地内に将来の学校予定地として保有していた1万2000平方メートルの土地を多目的スポーツ広場として当面利用することとしたもので、主にサッカーラグビー等の球技専用となっている[19]

公園[編集]

君ヶ浜しおさい公園

本市における都市計画公園等は、都市計画公園13園、都市公園12園、公園等施設11園である。都市計画公園は、戦災復興都市計画による街区公園8園及び近隣公園3園並びにその後都市計画決定された運動公園2園である。都市公園は、豊里台第一公園をはじめ街区公園9園、近隣公園1園、都市緑地1園および風致公園1園で、都市計画決定しなかった公園である。また、その他の公園施設としては、1ヘクタール未満の小規模公園・広場8ヶ所、児童遊園2ヶ所、夫婦ヶ鼻公園及び君ヶ浜しおさい公園がある[19]

  • 本城第一公園
  • 清川町第二公園
  • 三軒町公園
  • 唐子町公園
  • 河岸公園
  • 本通公園
  • 陣屋町公園
  • 末広町公園
  • 清川町第一公園
  • 後飯町公園
  • 本城第二公園
  • 前宿町公園
  • 桜井町公園
  • 豊里台第一公園
  • 豊里台第二公園
  • 豊里台第三公園
  • 豊里台第四公園
  • 豊里台第五公園
  • 豊里台第六公園
  • 豊里台プレイロット
  • 上野町公園
  • 大谷津公園
  • 豊里台緑ヶ丘公園
  • 中央みどり公園
  • 東部不動ヶ丘公園
  • 新生公園
  • 高神公園
  • 末広町広場
  • 河岸広場
  • 松本町公園
  • 猿田コミュニティ広場
  • 夫婦ヶ鼻公園
  • 君ヶ浜しおさい公園
  • 東部不動ヶ丘公園広場
  • 銚子駅南広場
  • 東部児童遊園
  • 外川児童遊園

保健・福祉施設[編集]

銚子市保健福祉センター・すこやかな学びの城

保健施設[編集]

  • 銚子市保健福祉センター・すこやかな学びの城

保健・福祉センターとは、市民の健康づくり推進のための健康相談・健康教育・健康診査等の保健サービス提供及び児童高齢者心身障害者等に対する福祉活動の拠点である[19]。市は2001年(平成13年)度からの銚子市総合計画「銚子ルネッサンス2025」に保健・福祉センターの建設推進を位置づけ、建設用地として2002年(平成14年)3月に銚子市役所の南側のヒゲタ醤油株式会社所有地を取得し、2003年(平成15年)に基本設計・実施設計を実施した。設計者選定にあたっては、有識者で構成する銚子市保健・福祉センター建設設計者選定委員会が設置され、本市初の試みとなるプロポーザル方式による評価が行われた。また、市民14名によるワークショップが開催され、市民の意見が施設の設計等に反映された。2004年(平成16年)度、2005年(平成17年)度の2か年継続事業により建設工事が進められ、2006年(平成18年)4月に銚子市保健福祉センター・すこやかなまなびの城として開館した。1階には銚子市子育て世代包括支援センター「すくさぽ」が設置されており、保健師社会福祉士、母子保健コーディネーター、子育てコンシェルジュ、家庭相談員等の専門職が妊娠・出産・産後・子育てに関する相談に応じている[24]。2階プレイルームには、0歳から3歳を中心とした乳幼児と保護者の交流の場として「子育て広場」が常設されており、保育士資格を持つ職員が育児に関する相談に当たっている[78][24]

児童福祉施設[編集]

本市では、次世代育成支援対策行動計画に基づき、地域子育て支援センターへの支援や放課後児童クラブの運営等を実施するとともに、乳幼児医療費助成、ひとり親家庭等医療費助成事業、子育て広場の開設等により、子育ての支援の充実を進めてきた。2015年(平成27年)度には「銚子市子ども・子育て会議」での議論を踏まえて「銚子市子ども・子育て支援事業計画」を策定し、社会福祉課の内部組織であった「子育て支援室」を「子育て支援課」として組織体制を強化した。2018年(平成30年)度には、銚子市子育て世代包括支援センター「すくサポ」が開設されるとともに、子ども医療費助成の拡充が実施された。2020年(令和2年)度には、「銚子で生まれ育ち良かったと思えるような地域で支える『子育てのまちづくり』」を基本理念とした「第2期銚子市子ども・子育て支援事業計画」が策定された。また、「児童福祉法」の改正を受けて、2021年(令和3年)度に子ども家庭総合支援拠点が設置され、子育て世代包括支援センターと一体的に運営を行うこととなった[24]

保育園・保育所

本市は「児童福祉法」施行後、積極的に児童福祉対策を推し進めてきた。その最初が市立保育所の設置で、市内で人口が集中していた東部地区に重点的に開設された。高度経済成長時代には、共働き世帯の増加、女性の社会進出、核家族の増加等により、これまで東部地区に集中していた人口が市域の西部方面へと移動してきたことを受けて、保育所の新設・再整備が実施された。その後は、核家族化の進行や母親の就業機会の増加等により、子どもたちを取り巻く環境は大きく変化して、乳幼児保育・時間外保育・一時的保育・障害児保育といった特別保育事業内容の充実が図られてきた。また、各保育所において時間外保育等が実施されるようになった。近年は、地域における世代交流事業、異年齢児交流保育、子育て支援事業等が行われている[19]

  • 銚子市第二保育所
  • 銚子市第三保育所
  • 銚子市第四保育所
  • 銚子保育園
  • 外川保育園
  • 松岸保育園
  • 銚子中央保育園
  • 聖母保育園
  • 東光保育園
  • 萌保育園
認定こども園
  • 銚子幼稚園
企業主導型保育事業
  • あおの杜保育園
地域子育て支援センター
  • マンマ子育て支援センター
  • ひまわり子育て支援センター
  • えがお子育て支援センター
  • 聖母マリア子育て支援センター
放課後児童クラブ
  • 清水放課後児童クラブ
  • 飯沼放課後児童クラブ
  • 明神放課後児童クラブ
  • 本城放課後児童クラブ
  • 春日放課後児童クラブ
  • 高神放課後児童クラブ
  • 海上放課後児童クラブ
  • 豊里放課後児童クラブ
  • 中央放課後児童クラブ
  • 双葉放課後児童クラブ

障害者福祉施設[編集]

本市は1998年(平成10年)に「銚子市障害者福祉計画ー心のかよう福祉の充実のためにー」を定め、国・県との連携協力、関係機関と広範囲にわたる市民参加の中で、その総合的な計画推進を図ることとした[19]。2021年(令和3年)度には、「障害のある方もない方も自分らしく暮らせるまち・銚子」を基本理念とした「銚子市障害者福祉計画・第6期銚子市障害福祉計画及び第2期銚子市障害児福祉計画」が策定された[127]

  • 銚子市地域活動支援センターかんらん

銚子市地域活動支援センターかんらんは、地域において就労機会を得がたい障害者等に対して、通所による創作的活動や生産活動の機会を提供し、社会との交流の促進等の便宜を供するため、障害者等の状況に応じた支援を行う施設であり、医療・福祉及び地域の社会基盤との連携強化のための調整・地域ボランティア育成、障害に対する理解促進を図るための普及啓発等の事業も行っている[127]

  • 銚子市児童発達支援センターわかば

1959年(昭和34年)4月、県下最初の精神薄弱児通園施設として銚子市立わかば学園が、天王台の旧高神小学校跡に設置された。知的障害児童を毎日保護者のもとから通わせて保護するとともに、独立自活に必要な知識技術を与えることを目的とする。この施設の開設は、当時市立、都道府県立、国立を通じて全国で13番目であった。なお、天王台の同学園は、園舎が狭隘であったため、1971年(昭和46年)4月に三崎町三丁目に新園舎を建設して移転した[19]2012年(平成24年)4月、知的障害児通園施設から児童発達支援センターとなり、児童発達支援、保育所等訪問支援、相談支援を開始した。2018年(平成30年)4月には「銚子市児童発達支援センターわかば」に名称を変更し、同年8月から居宅訪問型児童発達支援を開始した。2022年(令和4年)4月からは、指定管理者による運営に移行している[128]

高齢者福祉施設[編集]

本市は1994年(平成6年)3月に「銚子市高齢者保健福祉計画」を策定し、保健福祉施策の展開を図ってきたが、2000年(平成12年)度から介護保険制度が旅行されることとなり、介護保険の保険者となる市町村による「介護保険事業計画」の作成が必要となった。このため市は、2000年(平成12年)3月に「銚子市高齢者保健福祉計画・介護保険事業計画ーハートフルしおさいプラン・21ー」を策定した。本市における高齢者保健福祉の指針として保健・福祉・生活環境・社会参加等全般にわたる総合的計画で、介護を要する人を含むすべての高齢者等を対象とした[19]2024年(令和6年)3月に策定された「銚子市高齢者福祉計画・第9期介護保険事業計画」は、「みんなが支えあい すこやかに暮らせる福祉のまちづくり」を目指し、より中長期的な視点のもと、介護ニーズの増加を見据えた方向性についても「地域共生社会の実現」等を踏まえて位置づける計画となっている[129]

介護保険サービス

要介護者に対し、施設サービス計画に基づいて、日常生活上の世話、看護、機能訓練、療養上の世話等を行うため、介護老人福祉施設介護老人保健施設がある[19]

  • 特別養護老人ホーム松籟の丘
  • 特別養護老人ホームさざんか園
  • 介護老人保健施設 慈風園
  • 介護老人保健施設 なぎさ
  • 介護老人保健施設 とよさと
高齢者福祉サービス

高齢者が、住みなれた地域で生きがいをもって安心していきいきと自立した生活を送ることができるよう、生活全般にわたる支援が図られている。施設サービスとしては、盲養護老人ホームケアハウス、老人憩の家がある[19]

  • 千葉県救護盲老人施設猿田の丘なでしこ

救護施設は、生活保護を必要とする者のうち、身体上又は精神上に著しい障害があるため、自分一人では生活できないものを入所させて保護するための施設である。本市には、1972年(昭和47年)に、県下唯一の盲老人ホームとの併設施設である猿田荘が設置された[19]

  • 軽費老人ホームケアハウスマリンピア銚子
  • 軽費老人ホームケアハウスかすが苑
  • 軽費老人ホームケアハウス第2かすが苑
  • 銚子市老人憩の家・地域福祉センターこも浦荘
  • 銚子市芦崎高齢者いこいセンター
地域包括支援センター

本市は2006年(平成18年)4月、高齢者の総合的な支援を行う拠点として市役所高齢者福祉課内に地域包括支援センターを設置した。2016年(平成28年)10月には市内3か所に委託型の地域包括支援センターが設置され、市役所内のセンターは基幹型支援センターとなった。地域包括支援センターは、地域包括ケアシステムの中核として、保健師、社会福祉士、主任介護支援専門員(主任ケアマネージャー)等が中心となり、生活、介護、福祉、認知症対策、権利擁護等の高齢者支援を行っている[24]

  • 銚子市地域包括支援センター
  • 銚子市東部地域包括支援センター
  • 銚子市中央地域包括支援センター
  • 銚子市西部地域包括支援センター
その他
  • 千葉県生涯大学校東総学園

千葉県生涯大学校は、高齢者に社会環境の変化に順応できる能力を再開発し、社会活動への参加を通じて生きがいに満ちた充実した生活が営めるよう、地域における高齢者福祉の増進を図るために千葉県が設置している。本市には1978年(昭和53年)度に北総学園として総合福祉科70人、生活科学科20人の2科が銚子市青少年文化会館内に設置された。1991年(平成3年)3月には、北総学園陶芸家教室が銚子市台町に竣工して、同年4月1日陶芸科20人、園芸科70人が新設された。1993年(平成5年)4月からは校名が千葉県生涯大学校と、1995年(平成7年)4月には東総学園と改められている[19]。東総学園の課程としては、健康・生活学部70人、造形学部園芸まちづくりコース35人、陶芸コース25人の2学部130人である。入学資格は、県内在住の満60歳以上で、学習の成果を地域活動で役立てる等意欲のある者とされる[130]

教育[編集]

千葉科学大学
千葉科学大学
千葉県立銚子高等学校
千葉県立銚子高等学校
千葉県立銚子商業高等学校
千葉県立銚子商業高等学校
千葉県立銚子商業高等学校海洋校舎
千葉県立銚子商業高等学校海洋校舎
銚子市立銚子高等学校
銚子市立銚子高等学校

戦後の新しい教育制度においては、1947年昭和23年)7月施行の「教育委員会法」により、地方公共団体は独立した行政委員会として公選委員と議会選出委員から成る合議体の教育委員会を設置し、地方の教育行政事務に当たることとなった。本市においても、1952年(昭和27年)11月1日に公選委員4人と市議会選出委員1人による銚子市教育委員会が発足した。しかし、その後、1956年(昭和31年)「教育委員会法」が廃止され、10月1日地方教育行政の組織及び運営に関する法律」の全面的施行に伴って、議会同意を得て長が委員を任命することとなったため、本市では市議会同意を得て、10月1日付けで市長から新委員5人が任命された[19]

教育委員会はその権限に属するすべての事務を教育長に処理させるため、事務局を置く。本市においては「銚子市教育委員会事務局の組織及び運営に関する規則」により、銚子市役所内に事務局を置き、2024年令和6年)4月1日現在、教育長のもとに学校教育課、社会教育課を設置している[19][131]

大学[編集]

高等学校[編集]

中学校[編集]

  • 銚子市立第一中学校
  • 銚子市立第二中学校
  • 銚子市立第三中学校
  • 銚子市立銚子中学校
  • 銚子市立銚子西中学校

小学校[編集]

  • 銚子市立飯沼小学校
  • 銚子市立清水小学校
  • 銚子市立明神小学校
  • 銚子市立双葉小学校
  • 銚子市立本城小学校
  • 銚子市立春日小学校
  • 銚子市立高神小学校
  • 銚子市立海上小学校
  • 銚子市立船木小学校
  • 銚子市立椎柴小学校
  • 銚子市立豊里小学校

幼稚園[編集]

  • 銚子幼稚園
  • 飯沼幼稚園

特別支援学校[編集]

  • 千葉県立銚子特別支援学校

教育関係機関[編集]

情報・通信[編集]

マスメディア[編集]

新聞[編集]

市内に通信部・支局を置く日刊の全国紙等は3紙、市内に本社のある日刊の地元新聞は1紙、また、地元の月間新聞1紙がある。

放送局[編集]

銚子テレビ放送

銚子テレビ放送は1990年平成2年)4月に開局し、多チャンネルの情報・テレビ番組の再送信と自主番組・広告の送出を主たる業務としている。2002年(平成14年)4月1日現在で、エリアカバー世帯1万5444世帯のうち5330世帯が加入している。市はこれに対して全国紙と同様に、定期又は随時に市の事務事業や行事予定等の情報提供を行っている[19]

生活基盤[編集]

ライフライン[編集]

電力[編集]

本市の最初の電灯会社は1910年明治43年)2月に地元有志が設立した銚子電燈株式会社である。同社は電灯、電力の供給及び付随事業を目的としていた。同社は大正年代に東京の帝国電燈株式会社に吸収され、この会社も東京電燈株式会社と合併した。同社は1917年(大正6年)に東京の帝国電燈株式会社に吸収され、この会社も1926年昭和15年)5月に東京電燈株式会社と合併した。その後、1938年(昭和13年)の「電力管理法」、「日本発送電株式会社法」、また、1941年(昭和16年)の「配電統制令」により全国に9つの配電統制会社がつくられることとなり、1942年(昭和17年)4月に東京電燈株式会社は関東配電株式会社となった[19]

戦後の1940年代後半には、工場・住宅等の復興につれて電力、電燈の需要が急増したが、その供給は十分ではなかった。1951年(昭和26年)2月には電力事業の再編成が行われて、新たに全国に9つの電力会社がつくられ、関東配電株式会社は東京電力株式会社となって、同社千葉支店銚子営業所が置かれた。1950年代前半に電力事情はさらに悪化して、産業活動の電力不足も生じた。しかし、1953年(昭和28年)12月の銚子変電所増設により、好転に向かった。1960年代には、経済成長と家庭用電気機器等の普及に伴い、電灯・電力とも需要は大幅に増加した。これに対応するため、銚子変電所の増設、犬吠変電所の新設、さらに旭市に網戸変電所の新設、1988年(昭和63年)7月の明神変電所の新設によって、出力の増強が図られた[19]

  • 東京電力パワーグリッド株式会社成田支社銚子事務所
    • 電源 - 市内で使用される電気の大部分は鹿島火力発電所で発電されたものである。そのほかには、千葉県近辺の発電所で発電された電気が、東千葉変電所を通して送られてきている。水力発電原子力発電の電気は混合して使用されている[19]
    • 送電 - 鹿島火力発電所で発電された電気は、湖南線、銚子線の送電線によって銚子変電所に送られ、さらに犬吠線により犬吠変電所に送られている。東千葉変電所からは八日市場線で送られてくる。送電線はいずれも架空線で、湖南線は鹿島臨海工業地帯の神之池変電所と佐原変電所を結ぶ線であり、銚子線は佐原変電所と銚子変電所を結ぶ線である。犬吠線は銚子線から分かれて大吠変電所に至る線である。銚子への送電電圧はいずれも6万ボルトである。なお、銚子までの途中には橘変電所が、また八日市場線の途中には網戸変電所があり、ここから椎柴、豊里地区の一部に配電されている[19]
    • 配電設備 - 市内の低圧線に流れている電気は、100ボルトと200ボルトである。工場等では高圧線から直接引き込んでいるところもある。また2万ボルト以上の特別高圧線を引いている工場もある。市内の配電線はすべて架空配電線であったが、平成に入ってから電線類の地中化を市内3か所について実施済みである。電柱は以前はすべて木柱であったが、近年では鉄筋コンクリート柱がほとんどである[19]
  • 銚子電力

銚子電力株式会社は、電力の地産地消や収益の地域還元を目的に、2018年平成30年)6月に市や地元金融機関等が出資して設立された地域新電力である。電力サービス「チョウシeデンキ」や「太陽光発電システム」の提供を行っている[132]

都市ガス[編集]

本市における都市ガスは、1913年(大正2年)7月設立の銚子瓦斯株式会社による石炭ガスの供給をもってその始まりとする。供給区域は銚子町本銚子町の区域内で、当初は灯火用、昭和に入ってから燃料用が主となった。太平洋戦争末期から戦後にかけての事業休止の後、1956年(昭和31年)に事業が再開された。戦後は石油系のガスに代わり、1980年代公共下水道建設との関連や漁港後背地への区域拡張等にあわせて新規の管布設や交換が進められ、需要戸数が増加した。供給区域は川口町から市内中心部、清川町、台町、春日町の一部までの市街地で、ガス管の総延長は本支菅合わせて約49キロメートルである[19]

上下水道[編集]

本市は、1933年(昭和8年)の市制施行と同時に、保健・産業・防火上等の観点から近代都市として発展するためには水道が必須条件であることを認め、1934年(昭和9年)度に市内井戸の水質検査、1935年(昭和10年)度の調査を経て、銚子一円を給水地域として、給水人口3万人、計画1日最大給水量4500立方メートルの市内水道創設事業を定めた。1937年(昭和12年)12月に起工式を挙げ、1939年(昭和14年)3月に全工事を完成し、同年4月に竣工式を挙行した。給水は、1938年(昭和13年)11月に一部地域から順次開始した。以後、給水人口の増加、市民の生活水準向上、産業の発展等に伴う水需要の増大を受けて、6次にわたる施設の拡張・増設事業が進められた。当初は水源を地下水に求めていたため水源の水量が乏しく、1949年(昭和24年)度から専門家による綿密な調査の結果、地下水以外の表流水、最終的には当時市外の高田川に水源を求め、高田川の水を灌漑期以外に取水し、白石鶏沢新田内に築造した貯水池に貯水し、本城浄水場に導水する構想を得ることとなった。その後、1965年(昭和40年)度から1968年(昭和43年)度までの第3次拡張事業において、利根川河口堰による利水配分を受けて利根川水系黒部川からの暫定取水が可能になった。1973年(昭和48年)3月には、市水道部の主導により2市4町からなる東総広域水道企業団が設立され、本市は西部地区に同企業団からの受水を開始した[19]

本市の地勢は、利根川沿岸の一部低地を除いては相当の勾配があるにも関わらず、市街地内の下水を河川に排除するには困難があり、特に飯沼観音近傍とそれ以東の低地帯においては、大雨時には丘陵台地からの雨水も集中するため、早くからその防止対策が求められていた。また、便所の水洗化の普及、工場からの産業排水による水質汚濁防止のため、下水道建設が改めて重視されるようになった。このため、市は1969年(昭和44年)度から翌年度にかけて、公共下水道事業の認可設計を専門業者に委託して、銚子市公共下水道事業計画を作成した。1971年(昭和46年)度の終末処理場用地の先行取得に始まり、1972年(昭和47年)度に唐子・芦崎間の幹線管渠築造工事着手して以来13年目の1984年(昭和59年)3月、本市初の公共下水道の供用が開始された[19]

  • 水道
    • 水道配水量 - 9483525平方メートル
    • 普及率 - 98.73パーセント
    • 浄水場
      • 本城浄水場 - 1976年(昭和51年)の「水質汚濁防止法施行令」の改正を受け、濃縮槽と天日乾燥床5床等が建設された[19]
      • 新宿取水場高度浄水処理施設 - 原水段階で生物活性炭処理によって異臭味、トリハロメタン値の低減化と凝集処理、排水処理の改善を図るために建設され、2004年(平成16年)に完成した[19]
    • 貯水場
      • 白石貯水場
    • 配水場
      • 上野町配水場
      • 春日台配水場
      • 高田町配水場
      • 笠上町高区配水場
      • 愛宕山高区配水場
      • 三崎町高区配水場
      • 豊里台高架配水場
      • 諸持町受水配水場
    • ポンプ所
      • 後飯町増圧ポンプ所
      • 名洗増圧ポンプ所
      • 上野町増圧ポンプ所
      • 野尻町増圧ポンプ所
      • 春日町増圧ポンプ所
      • 笹本町増圧ポンプ所
  • 下水道
    • 認可区域 - 894.9ヘクタール
    • 下水道の普及状況
      • 整備面積 - 732.76ヘクタール
      • 処理区域内人口(普及率) - 30404人(47.61パーセント)
      • 水洗化人口(水洗化率) - 23726人(78.04パーセント)
      • 雨水整備面積 - 60.3ヘクタール
    • 終末処理場
      • 芦崎終末処理場 - 公共下水道の終末処理場として1984年(昭和59年)3月から供用開始した[19]
    • コミュニティプラント
      • 銚子市豊里住宅団地下水道終末処理場 - 1985年(昭和60年)に星和住宅株式会社から市に移管され、公共下水道とあわせて市水道局が維持管理している[19]
    • ポンプ施設
      • 唐子ポンプ場 - 公共下水道の中継ポンプ場として1984年(昭和59年)3月の供用開始とともに仮稼働し、1993年(平成5年)度から本稼働を開始した[19]
      • 銚子市大谷津住宅団地ポンプ所 - 特定環境保全公共下水道として処理開始後、大谷津ポンプ所として稼働している[19]

電話[編集]

銚子での電話開通は1907年(明治40年)4月で、千葉に次いで県下2番目であった。銚子郵便局内に電話機を設置して、公衆に利用させる電話通信業務を開始した。翌年4月には千葉県初の電話交換業務が開始された[19]

市外局番

市外局番は市内全域で0479(銚子MA)である。本市の他に銚子MAが使用されるのは、千葉県旭市匝瑳市山武市松尾町香取郡多古町山武郡芝山町横芝光町茨城県神栖市 (太田・太田新町・須田・砂山・土合北・土合中央・土合西・土合東・土合本町・土合南・波崎・波崎新港・矢田部・柳川・柳川中央・若松中央)である。

交通[編集]

鉄道路線[編集]

JR銚子駅
JR銚子駅
JR銚子駅構内
JR銚子駅構内

本市と市外を結ぶ鉄道は東日本旅客鉄道(JR東日本)の総武本線成田線である。本市を起点として、市内に銚子駅松岸駅猿田駅椎柴駅下総豊里駅の5駅が設けられている。総武本線には、銚子発・東京駅直行の特急列車しおさい」が運転されており、所要時間は約1時間50分である。銚子駅からは私鉄の銚子電気鉄道線外川まで通じている。

銚子駅舎は1948年昭和23年)に建築され、その後改修が重ねられたが、2016年平成28年)10月から全面的な駅舎建替えが行われた。新駅舎は2018年(平成30年)4月に開業した。銚子の人々が生み出す「にぎわい」をテーマに、外装は犬吠埼灯台、内装は醤油蔵をイメージしてデザインされ、地場産の山武杉が使用される等、地域の特色を取り入れた新しい都市交流拠点として整備された[133]。駅構内には、銚子を音楽の街として盛り上げることを目的として木製の駅ピアノが設置され[134]、地元の高校生や千葉県内外のピアニストに親しまれている[135]

東日本旅客鉄道(JR東日本)

総武本線は、1894年明治27年)7月に民営の総武鉄道株式会社市川佐倉間を開業したことに始まり、同年12月本所(錦糸町)・市川間の開業、1897年(明治30年)5月1日の佐倉・成東間、6月1日の成東・銚子間の開業によって、本所(錦糸町)・銚子間が開通した。その後、1904年(明治37年)4月5日に両国橋(両国)・錦糸町間が開通したが、1907年(明治40年)9月1日には、国がこれを買収して国有鉄道総武線になり、1909年(明治42年)10月に総武本線と改称した。成田線は、1897年(明治30年)1月に民営の成田鉄道株式会社が佐倉・成田間の営業を開始し、同年12月に成田・滑川間が、1898年(明治31年)2月に滑川・佐原間が開通し、1920年(大正9年)9月1日に国有鉄道成田線となった。1931年(昭和6年)11月10日に佐原・笹川間が、1933年(昭和8年)3月1日笹川松岸間が開業し、銚子から佐原・成田回りで両国までの鉄道利用が可能となった。

私鉄に始まった日本の鉄道は、国有化されてからは、鉄道院、鉄道省運輸通信省による直接経営であったが、戦後は1949年(昭和24年)施行の「日本国有鉄道法」により、公共企業体である日本国有鉄道の経営となった。1987年(昭和62年)4月1日に国鉄は分割・民営化され、旅客鉄道株式会社6社と日本貨物鉄道株式会社が発足した。これに伴って、国鉄総武本線と成田線は、東日本旅客鉄道株式会社東京圏運行本部直轄区域を除き、同本部の千葉運行部の所管となり、1988年(昭和63年)度からは千葉支社の所管になった[19]

銚子運輸区 - 銚子運輸区は、2012年(平成24年)5月に設立された乗務員の運用、車両検査等を業務とする現業機関である。職員数は約100人である[136]

銚子電気鉄道(銚子電鉄)

市内唯一の私設鉄道である銚子電気鉄道は、1923年大正12年)7月に銚子鉄道株式会社として設立開業し、戦後の1948年(昭和23年)1月24日に「企業再建整備法」により、新旧勘定合併のため資本金23万6250円となり、銚子電気鉄道株式会社と改称し、設立登記を行った[19]。平成に入ってからは、各駅のヨーロッパ風の改良整備、アジサイ等の植栽による車窓風景の美化、ワンマン化車両購入・重軌条交換等の近代化設備整備事業、1日乗車券「弧廻手形」の販売等が進められている[19]。また、元日は初日の出に合わせた臨時列車の運行を行っている。営業キロ数は銚子駅構内から外川駅まで6.4キロメートルである[19]

バス路線[編集]

本市の区域における最初の営業用路線バスは、1921年(大正10年)に鈴木初太郎が暁雞館の乗用車1台を借り受けて暁雞館自動車部の名義で馬場町・外川町間に開業したもので、後にトキワ自動車、さらにヤオキン自動車と改められた。大正末期から昭和初頭にかけて、バスという呼称はなく、乗合自動車と呼ばれた。このほかにも乗合自動車営業を始める者が続いたが、1937年(昭和12年)までに、まず北総自動車合資会社に、その後に成田鉄道株式会社にそれらの営業権が譲渡されて、本市とその近郊の路線バスは成田鉄道株式会社が経営することとなった。戦後の1946年(昭和21年)11月、成田鉄道株式会社は成田バス株式会社となり、1948年(昭和23年)に戦時中多くが休止していた市内の路線バスの運行が再開された。なお、成田バス株式会社は1956年(昭和31年)11月、社名を千葉交通株式会社と改めた。また、1962年(昭和37年)12月の銚子大橋開通後には、茨城県鹿島参宮鉄道株式会社が鹿島・銚子観音間の路線バス運行を始め、千葉交通も銚子観音・波崎町舎利間のバス路線を開業した[19]

高速バス[編集]

南海バス
南海バス
犬吠号
犬吠号

千葉交通株式会社は、1991年(平成3年)6月から首都方面との都市間高速バスの運行を開始した。当初は大栄・旭ルートだけであったが、1995年(平成7年)4月から小見川ルートが、1997年(平成9年)9月には小見川ルートから分かれた佐原ルートが設けられた。なお、旭ルートについては、1991年(平成3年)度から千葉交通と同時に、京成電鉄株式会社も高速バスの運転を開始している[19]2022年令和4年)9月17日には、横芝光・旭ルートの運行を開始するとともに、同日に開業する「バスターミナル東京八重洲」への乗り入れを開始した。また、既存ルートにおいても、乗り入れにあわせ、ダイヤ改正及び運賃改定を実施した[137]

路線バス[編集]

千葉交通バス
千葉交通バス
ちばこうバス
ちばこうバス

民間2社が国道・県道を中心に、銚子駅を発着点として、8系統の路線バスを市内各地区及び周辺地区で運行しており、東総地域におけるバス交通の拠点となっている。

  • 千葉交通千葉交通銚子営業所
    • 市立高校・春日台線(銚子駅 - 農協前 - 清川町 - 春日町 - 市立高校前 - 市立高校坂上 - 春日台)
    • 市立高校・春日台線(銚子駅 - 農協前 - 清川町 - 春日町 - 銚子警察署前 - 三崎団地 - 三崎 - 上野町南 - 上野町 - 本城団地入口 - 上野町東 - 春日台)
    • 豊里ニュータウン線(銚子駅 - 農協前 - 銚子中学校 - 松本一丁目 - 大込 - 本城小学校 - 本城三丁目 - 長塚宮前 - 長塚町 - 五中前 - 教習所前 - 松岸駅前 - 柴崎十字路 - 四日市場町 - 余山仲町 - 余山 - 芦埼新田 - 中島通り - 芦埼 - 船木農協 - 富士正食品 - 西部支所 - 椎柴駅 - 滑川薬局 - 野尻 - 椎柴小入口 - 塚本町 - 忍町 - 東富川町 - 西森戸 - 森戸 - 豊里駅入口 - 七中前 - 豊里ニュータウン第一 - 舞台美術センター - 豊里ニュータウン第二 - 豊里台緑ケ丘公園 - 豊里台スポーツ広場 - 豊里ニュータウン第三 - 豊里ニュータウン第四)
    • 旭銚子線(銚子駅 - 農協前 - 清川町 - 春日町 - 銚子警察署前 - 三崎団地 - 三崎 - 三崎新田 - 田村記念病院 - イオンモール銚子 - 特別支援学校入口 - 三崎三丁目 - 小浜新田 - 小浜 - 親田 - 常世田薬師 - 八木町 - 豊岡小学校 - 旧第八中学校 - 飯岡灯台入口 - 下永井 - 西部支所 - 東町 - 玉崎神社 - 野尻 - 飯岡農協 - 八軒町 - 平松 - 旭駅 - 飯岡観光センター - 飯岡支所入口 - 食彩の宿いいおか入口 - 田宿 - 三川曽根 - 三川目那 - 三川犬林 - 八畝田 - 横大道 - 網戸下宿 - 網戸中宿 - 網戸上宿 - 旭中央病院 - 旭中央病院入口 - 旭農高 - 旭駅入口 - 旭銀座)
    • 名洗・千葉科学大学線(銚子駅 - 双葉小学校 - 妙見橋 - 西小川町北 - 西小川町中央 - 西小川町南 - 名洗入口 - 名洗 - 千葉科学大学マリーナ前 - 千葉科学大学本部前)
  • ちばこうバス(京成タクシー成田
    • 川口線(銚子駅 - 双葉町 - 公民館 - 新生 - 陣屋町 - 銚子観音 - 浜町 - 田中町 - 和田町 - 橋本町 - 通町 - 川口一丁目 - 川口二丁目 - 明神下 - 川口千人塚 - 川口 - 夫婦ケ鼻 - 黒生住宅 - ポートセンター)
    • 長崎線(銚子駅 - 駅前十字路 - 市役所前 - 本通一丁目 - NTT前 - 新生 - 銚子銀座 - 銚子観音 - 圓福寺前 - 文化会館入口 - 市立病院入口 - 前宿町東 - 市立病院 - 前宿町東 - 高神原 - 小畑入口 - 高神坂上 - 高神札場 - 高神西町 - 渡海神社 - 犬若 - 外川四丁目 - 外川漁業会 - 外川一丁目 - 老人憩いの家・こもうら荘 - 長崎西口 - 長崎国民宿舎)
    • 海鹿島線(銚子駅 - 双葉町 - 公民館 - 新生 - 陣屋町 - 島田病院 - 後飯町 - 清水坂下 - 清水坂上 - 笠上駅 - 西海鹿島 - 金杉前 - 池の端 - 独歩碑前 - 海鹿島坂上 - 海鹿島)
    • 海鹿島線(銚子駅 - 双葉町 - 公民館 - 新生 - 陣屋町 - 島田病院 - 後飯町 - 清水坂下 - 清水坂上 - 笠上駅 - 明神一丁目 - 黒生住宅入口 - 笠上入口 - 黒生 - とんび岩 - 伊勢路ケ浦 - 海鹿島)
    • 外川線(銚子駅 - 双葉町 - 公民館 - 新生 - 陣屋町 - 島田病院 - 後飯町 - 浅間台 - 愛宕町四丁目 - 榊町 - 市民センター前 - 小畑 - 君ケ浜入口 - 池の端 - 宮内内科 - 犬吠 - ホテルニュー大新前 - 長崎入口 - 外川車庫)
  • 関東鉄道関東鉄道潮来営業所波崎車庫
    • 鹿島神宮駅 - 鹿嶋宮中 - 住金鹿島 - セントラルホテル - 日川 - 土合中央 - 波崎営業所 - 銚子駅
    • 矢田部公民館 - 土合中央 - 済生会土合クリニック前 - 波崎営業所 - 銚子駅
    • 鹿島神宮駅 - 鹿嶋宮中 - 粟生 - セントラルホテル - 知手団地入口 - 土合北 - 波崎中央 - 銚子駅
    • 知手団地南 - 知手団地入口 - ゆーぽーとはさき - 土合北 - 波崎中央 - 銚子駅
    • 土合東電 - 土合北 - 銚子駅
    • 銚子駅 - 波崎中央 - 仲町公園 - 波崎海水浴場

タクシー[編集]

銚子で最初にタクシー営業を始めたのは、1929年(昭和4年)頃、既に乗合自動車を営業していたヤオキン自動車タクシー部である。これに続いて吉原自動車も営業を始め、タクシー業者が増えていった。その後一部合併を経て、1941年(昭和16年)4月には企業合同を行って株式会社銚子合同タクシーを設立して、戦時下のタクシー事業に対処した。1952年(昭和27年)10月に株式会社銚子合同タクシーは企業合同を解いて株式会社銚子タクシーとなった。そして、その翌年には平和タクシー株式会社、ミタカタクシー株式会社、有限会社ミナト交通が設立された。タクシーは1960年代以降には、生活水準の向上に伴って市民の日常的な交通機関となり、業者も増加した。平成以降、市内のタクシー業界ではいち早く独自な新規サービスの展開が始まり、GPSの導入、千葉県下初のハイブリッドカーの導入、訪問介護タクシー事業、運転代行業等が実施されている[19]。市内におけるタクシー業者は以下の通りである[138]

  • 銚子タクシー
  • 大丸タクシー
  • ミナトミタカタクシー
  • 平和タクシー
  • アステル交通

道路[編集]

銚子大橋
銚子大橋
利根かもめ大橋
利根かもめ大橋

本市は国道126号国道356号国道124号や広域農道が道路網の骨格で、域内は国道126号と国道356号をつなぐように県道や市道が整備されている[21]。国道126号は、銚子から九十九里沿岸、八日市場に至る古来の街道であり、1876年(明治9年)に県道に編入され、のちに千葉銚子線県道となり、沿線市町村長の促進運動の結果、1953年(昭和28年)5月18日に政令第96号をもって国道に昇格された。一般国道126号と称する。貨物輸送をはじめその他の交通における大動脈としての役割は極めて大きい。国道356号は、古来、佐原街道と称され、銚子から佐原に至る幹線道路である。1879年(明治12年)に県道に、のち主要県道銚子佐原線になり、1974年(昭和49年)11月12日に政令第364号をもって一般国道356号に指定され、1975年(昭和50年)4月から施行された。国道126号に次ぐ本市の動脈である。国道124号は、銚子大橋の県境までの区間が市域に属する。水戸市に至る国道で本市と茨城県を結ぶ最大の幹線道路になっている[19]

県道としては、県道外川港線が中心市街地と外川漁港を結び内陸部を南北に縦断し、県道銚子公園線が中心部から海岸沿いを循環している。市の南西部には天王台から三崎町に至る県道愛宕山公園線が整備され、銚子公園線及び外川港線と結ばれている。広域幹線道路については、国道356号銚子バイパス、国道126号飯岡バイパス、東総台地地区広域営農団地農道東総有料道路東関東自動車道水戸線、九十九里有料道路等が整備されている[19]。近くは2000年(平成12年)3月に本市と波崎町を結ぶ利根かもめ大橋が開通し、2013年(平成25年)3月には銚子大橋架替事業が完了しており、今後は首都・県都方面に至る高規格の銚子連絡道路の延伸が計画されている。また、市内の主要道路の整備も進み、県道銚子海上線の拡幅整備、県道愛宕山公園線バイパスの整備、県道銚子公園線長崎周遊道路の開通、銚子駅前通りシンボルロード・本通りマイロード・銚子銀座通りココロードの整備等により、市内観光ルートの整備も進められてきた[19]

有料道路[編集]

国道[編集]

一般国道

都道府県道[編集]

主要地方道
一般県道
自転車道

空港[編集]

千葉県成田市の成田国際空港(成田空港)が最寄りとなり、約40キロメートルの距離に位置する。東京都大田区東京国際空港(羽田空港)へは約95キロメートルの距離に位置する。

船舶[編集]

名洗港海岸
  • 名洗港(避難港地方港湾
    • 銚子マリーナ
      • 計画収容隻数 1000隻(海面440、陸上560)
      • 整備状況 450隻(海面160、海面ディンギー20、陸上90、陸上ディンギー180)※海面:県施行、陸上:市施行

名洗港は、本市の東南端に位置しており、1951年(昭和26年)に避難港の指定を受け、1952年(昭和27年)には避難港整備工事に着手、1953年(昭和28年)に千葉県が港湾管理者となった。1962年(昭和37年)には名洗港整備基本計画が策定され、1965年(昭和40年)から岸壁、防波堤、臨港道路及び水域施設が整備される等、荒天時における避難港として、また地域の生産、消費活動に必要な物資の取り扱い港として利用されてきた[139]。1991年(平成3年)2月14日には、運輸省から海洋性レクリエーション拠点港湾の指定(港計第29号)を受け、「房総リゾート地域整備構想」における「銚子マリンリゾート」として、1000隻収容のマリーナを核とした滞在型マリンリゾートの整備が行われた。マリーナ整備は1988年(昭和63年)度から実施され、1999年(平成11年)4月1日に一部供用開始した[140]。銚子マリーナの管理運営は、株式会社銚子マリーナが市から業務委託を受けて当たっている[19]

名洗港の環境整備のため港湾環境整備事業として、マリーナ泊地の北側に1.6ヘクタールの緑地(名洗港海浜公園)が整備された。また、屏風ヶ浦における海岸環境整備事業もマリーナ整備にあわせて進められた[19]1998年(平成10年)4月にはビーチ利用促進モデル事業として位置づけられ、離岸堤、突堤、遊歩道等が整備された[141]。1999年(平成11年)7月には、この事業によって造成された人工海浜が海水浴場として一部供用開始された[19]2011年(平成23年)3月に発生した東北地方太平洋沖地震の津波により、浮桟橋や泊地・公園施設等が被災したが、2013年(平成25年)3月までに復旧を完了している[140]

2020年(令和2年)7月に、名洗港港湾区域の前面海域(約40キロ平方メートル)が再エネ海域利用法に基づく促進区域として国から指定を受けた[141]。千葉県においては、洋上風力発電事業のメンテナンス等の拠点としての名洗港の利活用及び地域経済の活性化を図るため、2022年(令和4年)3月までに3回の千葉県地方港湾審議会を開催し、港湾計画の改訂原案を取りまとめ、原案の通り2022年(令和4年)3月に改訂された。洋上風力発電設備の建設補助や維持管理拠点の形成、豊かな自然と風車が調和する緑地空間の形成、港内静性確保と埋没対策を兼ねた防波堤整備、銚子マリーナの利用促進、一般貨物向け公共埠頭の確保に取り組むものとし、2030年代(令和10年代)半ばが目標年次とされている[139]

観光[編集]

銚子は三方を海に囲まれ、夏涼しく冬暖かい快適な気候である[21]水郷筑波国定公園の中心的地域であり、犬吠埼屏風ヶ浦といった風光明媚な景勝地のほか、日本屈指の漁港として活況を呈す銚子漁港、滞在型マリンリゾート拠点として整備された銚子マリーナ等を有し、千葉県随一の観光都市となっている。江戸時代に河港都市として繁栄し、歴史文化遺産が多数存在する古都でもあり[23]、年間を通じて約250万人の観光客で賑わっている[21]2012年平成24年)9月、「銚子ジオパーク」が千葉県唯一の日本ジオパークに認定され[142]、次いで2016年(平成28年)4月、本市はじめ千葉県内4市が「北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み」として日本遺産に認定されている[143]2017年(平成29年)度からは、銚子市観光協会を中心とした銚子版DMO(Destination Management Organization)構築による観光まちづくり事業が持続可能戦略として推進されており、2022年令和4年)4月に登録DMOとして観光庁の指定を受けた[144]

観光名所[編集]

犬吠埼
犬吠埼
君ヶ浜
君ヶ浜
屏風ヶ浦
屏風ヶ浦
銚子マリーナ
銚子マリーナ
  • 犬吠埼 - 日本列島沿岸で最も早く初日の出を見ることができる関東最東端の岬。太平洋の怒涛が砕ける荒磯と高く屹立する白亜の灯台は海岸美の極致[19]中生代白亜紀の地層が見られ、琥珀アンモナイトの化石を多産する。灯台周辺には高浜虚子の句碑や若山牧水佐藤春夫の文学碑がある。
  • 犬吠埼灯台 - 明治政府が招聘した英国人技師リチャード・ヘンリー・ブラントンによって設計され、文明開化の先駆けとして19世紀後半の1874年(明治7年)に初点灯した。現役の西洋型第1等灯台としては国内最古であり、国の重要文化財近代化産業遺産。光度は110万カンデラ。
  • 犬吠埼灯台資料展示館 - 2002年(平成14年)に開館した犬吠埼灯台敷地内の灯台資料展示館。国産第1号大型1等レンズ、リチャード・ヘンリー・ブラントンの資料、灯台の歴史、航路標識事業の資料等を展示。
  • 犬吠埼温泉郷 - 太平洋を眺望する関東最東端の温泉郷。海岸沿いに温泉宿が建ち並んでいる。中生代白亜紀の地層から湧出する温泉は化石海水と呼ばれて海のミネラル分を多く含み、保温保湿効果が高い。
  • 犬吠テラステラス - 2019年(平成31年)1月、犬吠埼灯台に隣接してオープンした地域情報発信のための複合商業施設。1階はカフェ、ベーカリーズキッチン、野菜マルシェ、クラフトビール醸造所、2階は展望テラス、セレクトショップ。週末にはワークショップを開催している。
  • 君ヶ浜 - 海鹿島海岸から犬吠埼まで約1キロメートルの白砂青松の砂浜海岸。古くから関東舞子の愛称で愛され、日本の渚百選に選定されている。松林の中には散策路が設けられており、森林浴を楽しむことができる。夜は漁り火とともに水平線から昇る月の出を鑑賞できる。
  • 屏風ヶ浦 - 銚子半島南側に延々10キロメートル続く海抜50メートルの雄大な断崖絶壁で、縞模様がむき出しになっている。英国ドーバー海峡ホワイト・クリフ)になぞらえて、「東洋のドーバー」と称される[26]。国の名勝及び天然記念物
  • 銚子マリーナ - 「海洋性レクリエーション拠点港湾」名洗港内に整備された千葉県最大の収容能力を有する本格的マリーナ。隣接する緑地公園や海水浴場とあわせたマリンリゾートの中核施設であり、海上からのアクセス拠点機能も果たしている。夏季には様々なマリンスポーツ大会が開催される。
  • ホエールウォッチング - 銚子沖では黒潮親潮が交錯し、沿岸から沖合(30キロメートル)海域でほぼ1年を通して高い確率で野生のイルカクジラ類やオットセイ海鳥等が見られる。イルカの大群に遭遇することもある。特に4~10月頃にかけての天候のよい日には高い確率で遭遇できる。
  • 屏風ヶ浦シーカヤック - 屏風ヶ浦を望む太平洋でのシーカヤック体験。
  • 地球の丸く見える丘展望館 - 北総最高峰である愛宕山山頂の展望館。屋上の展望スペースからは、北は鹿島灘から筑波山、東と南は太平洋、西は屏風ヶ浦から九十九里浜までの360度のパノラマを望む。1階はマリンショップ、2階はイベントホール、3階はティーラウンジ。
  • 地球の丸く見える丘ふれあい広場 - 地球の丸く見える丘展望館前に整備された緑地公園。園内には文学碑、日時計、モニュメント等が点在する。毎年6月には、大海原を背景にした大小約300株の紫陽花が見頃を迎える。
  • 黒生海岸 - 江戸時代から銚子瓦の生産地として知られていた。大小無数の岩礁群があり、各々に「鳶岩」「鯨岩」等の名前が付いている。「黒生チャート」と呼ばれる淡緑色のチャート岩石がある。
  • 海鹿島海岸 - 古くから保養地として文人墨客の別荘が立ち並び、国木田独歩竹久夢二小川芋銭尾崎咢堂の文学碑が点在する。名前の由来は、明治中頃までニホンアシカが生息していたことによる。竹久夢二の代表詩「宵待草」は、海鹿島海岸での悲恋を詠ったものである。
  • 利根川河口 - 日本最大の流域面積と日本で2番目の長さを持つ利根川は、別名を「坂東太郎」といい、群馬県北部の大水上山に源を発し、関東平野を貫流して銚子から太平洋に注いでいる。徳川家康の利根川東遷以来、銚子は江戸東北を結ぶ中継港として発展した。
  • 銚子漁港 - 黒潮と親潮が交錯する世界三大漁場の銚子沖合を控えて、国内最大規模の特定第3種漁港大正時代濱口吉兵衛今井健彦、小野田周斎とともに奔走し、東洋一の近代漁港の建設が実現した。日本屈指の水揚量を誇り[1]魚市場周辺の商店街には、鮮魚店や老舗寿司店が点在している。
  • 銚子ポートタワー - 日本屈指の水産都市・銚子のシンボルとして、1991年(平成3年)6月23日、水産ポートセンター内にオープンした海抜57.7mのツインタワー。3・4階の展望室からは360度のパノラマが広がり、漁船の出入風景、太平洋の海原、利根川に沈む夕日を望むことができる。
  • 水産物即売センター「ウオッセ21」 - 銚子ポートタワーと空中歩道で直結する水産物直売所。地元専門業者が多数出店し、漁港に水揚げされた新鮮な魚介類や加工食品、銚子縮や地酒を販売する。2階は旬の地魚料理を提供するシーフードレストラン「うおっせ」。
  • カモメウォッチング - 銚子は世界有数のカモメ探鳥地である。銚子で観察されるカモメ類の種類と飛来数は全国一で、毎年冬には銚子漁港や外川漁港等の海岸部のほか、利根川流域にも多数のカモメ類が越冬のために飛来する。
  • 外川漁港 - 江戸時代初期、紀州移民によって開発された銚子で最も古い歴史を持つ漁港。戦後は近代的な漁港に修築され、沿岸沖合漁業基地となっている。釣船の基地でもあり、ここで水揚げされる「銚子つりきんめ」は千葉ブランド水産物に認定された高級魚である。
  • 外川の町並み - 銚子電鉄終着の漁業集落。江戸時代初期、紀州移民の崎山治郎右衛門により漁港を中心に碁盤目状の街区が整備され、「外川千軒大繁盛」と称された。急傾斜地に密集して形成された漁村風景が広がり、港へ下る坂道には石畳が残っている。
  • 千騎ヶ岩 - 外川漁港内の標高17.4メートルの巨大な岩礁。源義経が兵千騎で立て籠った伝説が伝わる。千葉県最古の地質時代の硬質砂岩で、海岸植物自生地として千葉県指定天然記念物である。
  • 犬岩 - 名洗港南防波堤近くの海中の巨岩。奥州に逃れた源義経がここに残した愛犬が主人を慕って7日7晩鳴いて岩と化したとの伝説がある。
  • ヤマサ醤油ヒゲタ醤油工場 - 銚子の醤油醸造は江戸時代元和年間に創始され、濃口醤油を発祥した関東最古の銘醸地。夏涼しく冬暖かく適度な湿度という最適な気候風土、良質な水、利根川水運に支えられて発展し、ヤマサ醤油・ヒゲタ醤油を中心に醤油産業の一大集積地を形成している。
  • ヤマサ醤油しょうゆ味わい体験館 - ヤマサ醤油工場の見学施設。醤油醸造の歴史・道具を展示するほか、売店や体験コーナーを併設している。ツアーでは原料サイロ、麹室、仕込蔵等の見学や醤油醸造過程のバーチャル体験ができる。
  • ヒゲタ史料館 - ヒゲタ醤油工場内の史料館。醤油醸造の設備・道具・容器・博覧会受賞メダル、会社年表、製品200点を展示。醸造蔵内に描かれたフレスコ画の大壁画「天地人」が見学できる。
  • 銚子電気鉄道線 - 銚子駅外川駅を結ぶ1923年(大正12年)創業のローカル線6.4キロメートル。ノスタルジックな車両や駅舎、線路沿いに咲く四季折々の花、車窓に広がる一面のキャベツ畑、幻想的な緑のトンネル等、美しい沿線風景が市民や観光客に親しまれてきた。
  • 銚子大橋 - 1962年昭和37年)に利根川対岸の茨城県と結んで開通した全長1500メートルの長大橋。千葉県東総地域と茨城県鹿行地域を結ぶ幹線道路として、経済・社会・文化等の交流と発展に大きな役割を果たしている。2013年(平成25年)に架換事業が完了した。
  • 河岸公園 - 利根川や銚子大橋を間近に望むウォーターフロント散策空間の拠点。サークルステップ、ボードウォーク、芝生広場等を備えている。
  • 利根かもめ大橋 - 2000年(平成12年)に銚子大橋上流約8キロメートルで茨城県と結んで開通した有料道路。「人と自然にふれあう躍動感のある橋」をテーマにカモメの羽ばたきをイメージしてデザインされている。
  • 濱口陽三・渡邊學常設展示室 - 銚子にゆかりの深いメゾチント版画家濱口陽三と銚子と銚子出身の日本画家渡邊學の作品を小畑新町の市民センターに常設展示する。
  • 新国立劇場舞台美術センター資料館 - 新国立劇場で主催公演を行ったオペラバレエ現代舞踏演劇等の舞台美術を保管する。1990年(平成2年)11月1日竣工。保管棟、美術工作棟、資料館が設置されている。展示ホールでは3か月毎に舞台衣装の展示替えを行い、年1・2回の企画展を行う。
  • ハーブガーデンポケット - ツリーハウス、グリーンショップ、ドッグランを併設した海のそばのハーブ園。
  • レインボーヒルズカントリークラブ - 利根川を眼下に見下ろす林間コースのゴルフ場。27コース。

社寺[編集]

  • 川口神社 - 986年寛和2年)に創建と伝えられ、速秋津姫命を祀った神社。利根川河口を一望する丘上にあり、銚子港の守り神として漁業関係者に篤く信仰されている。古くは安倍晴明と延命姫の伝説から白紙明神と称された。毎月12日に大漁と海に出た男達の安全を祈願する「明神講」が開かれる。
  • 猿田神社 - 平安時代初期の807年大同2年)に社殿が建立されたと伝えられ、猿田彦大神天鈿女命菊理媛姫を祀っている。東総地方の総鎮守的存在。千葉県指定天然記念物の樹齢数百年の森に囲まれた本殿は千葉県指定文化財。毎年11月には七五三祝いの多数の参詣客がある。
  • 渡海神社 - 大綿津見命を祭神として709年和銅2年)に創建されたと伝えられる。外川の日和山から高神に移り、郷土の人々の篤い信仰を集めている。社殿を取り囲む森林は陽樹林から陰樹林へと変わった極相林で千葉県指定天然記念物
  • 海上八幡宮 - 802年延暦21年)に宇佐八幡を勧請。海上郡六十余郷の総鎮守として総社八幡と称された。旧暦8月15日には神輿渡御後、流鏑馬が行われる。本殿は千葉県指定文化財。
  • 銚港神社 - 創建は養老年間。主祭神は龍神闇淤加美神である。旧称を龍蔵権現といい、歴代領主の祈願社として崇敬された。
  • 白幡神社 - 江戸時代から銚子の中心にあり、高崎藩仙台藩から寄進を受け、多くの商家に支えられてきた。境内には仙台からの船乗が航海の安全を祈願して奉納した庚申塔が残る。
  • 菅原大神 - 祭神は菅原道真。古来より桜井の鎮守として遠近の信仰が厚く、別名子宝神社と称される。奉納されている子宝石を抱くと子宝に恵まれると伝えられる。連続テレビ小説澪つくし」で有名となり、全国各地から多くの女性たちが子授け祈願と御札参りに訪れる。
  • 石尊様 - 愛宕山から流れる湧水を水源とする小畑池の南側には、雨乞いの神を祀る大山阿夫利神社を本山とする「石尊様」と呼ばれる社があり、そこから湧水が流れ出ている。周辺では多くの野鳥が観察できる。
  • 飯沼観音 - 728年神亀5年)開基。境内には本尊十一面観音像を安置する観音堂のほか、五重塔、大仏、大銀杏がある。坂東三十三観音第27番札所であり、ここを中心として花街や興行街が発達した。本坊である円福寺境内には、古帳庵句碑、「天保水滸伝」で知られる銚子五郎蔵の墓がある。
  • 和田不動尊 - 創建は1720年享保5年)。かつては飯沼観音・円福寺の修行道場で、「田場の不動様」と呼ばれ親しまれている。赤松宗旦利根川図志」に「風景いたって良し」と紹介される。周辺は東部不動ヶ丘公園として整備されている。毎年8月には「不動様まつり」が開かれる。
  • 妙福寺 - 1314年正和3年)開基。妙見様と称される。平安時代に京都御所から移植された樹齢750年の「臥龍の藤」の花簾鑑賞の来遊者が多い。毎年5月第1土曜日・日曜日には藤祭りが開かれ、銚子の初夏を彩っている。
  • 常燈寺 - 常世田薬師の名で深く信仰されている。目の病に御利益があるとされ、古くから人々に篤く信仰されている。1673年延宝元年)に建立された本堂は千葉県指定文化財。木造薬師如来坐像は国の重要文化財。一般公開は毎年1月8日
  • 満願寺 - 巡礼の歴史と伝統を受け継いで開創。本尊と西国坂東秩父霊場や四国八十八箇所の本尊を観請して奉安してある。
  • 浄国寺 - 浄土宗第三祖然阿良忠上人によって1256年建長7年)に創建。境内には樹齢百年の雌雄一対の大銀杏、松、梅等の古木があり、開花時期には多くの人が訪れる。
  • 宝満寺 - 本堂には米国の現代美術作家ジェニファー・バートレットの描いた合計321点の絵からなる天井画がある。境内には染井吉野山桜等が参道沿いに植えられており、毎年4月上旬には仏教婦人会主催の「夜桜の会」が開かれる。
  • 持宝院 - 木造薬師如来立像は檜材による一本割矧造で、平安時代後期の作と推定され、市の指定有形文化財。9月を除く毎月8日が縁日で、9月12日の大祭には参詣の人々で賑わう。
  • 等覚寺 - 1390年元中7年)頃、中島城主海上山城守が観音薬師地蔵の三尊像を安置したことが創始で、成就院と称された。木造薬師如来立像2体、木造菩薩立像1体、金銅経筒1合が所蔵されている。一般公開は毎年7月11日
  • 東光寺 - 徳川家康から寺領を寄進され真言密教道場として発展。境内を取り囲むようにイヌマキの群落が形成されている。最大のものは横齢350年以上。巨大なイヌマキの群落は千葉県内でも数少なく貴重。十二天画像12幅、真言八祖画像8幅所蔵されている。

史跡・旧跡[編集]

旧国鉄新生貨物駅跡
  • 粟島台遺跡 - 銚子半島南部に位置する縄文時代前期から後期の遺跡。1940年(昭和15年)に発見された。千葉県最東端の貝塚であり、銚子半島の岩石海岸から産出する砂岩、硬砂岩等を使用した石器製造遺跡として、また琥珀や漆器の出土した遺跡としても著名。
  • 余山貝塚 - 利根川に注ぐ高田川東岸、標高7メートルの砂丘上の集落によって形成された貝塚大森貝塚と並ぶ貴重な遺跡。縄文時代後期から晩期を中心にして形成されているが、弥生、古墳、奈良、平安時代に至る遺跡や遺物も出土している。国指定重要文化財「みみずく土偶」の出土が有名。
  • 野尻古墳群 - 利根川を望む台地上に残る前方後円墳1基、円墳8基、方墳3基からなる古墳群。古墳時代後期に築造。
  • 逆川地蔵尊 - 野尻町の旧銚子六中近くにある地蔵尊。自然石に彫られた本尊、地蔵菩薩の御影は空海上人の爪彫りの作と伝わる。毎月24日の縁日には遠来からの参詣客で賑わう。
  • 中島城本丸跡 - 中島町の標高36メートルから43メートルの台地突端部に位置し、鎌倉時代から銚子地方を治めていた千葉氏一族海上宗家の居城。落城は1590年天正18年)。東西約500メートル、南北約400メートルの遺構が見られる。市指定史跡。
  • 紀國人移住碑 - 妙福寺には江戸時代紀州から移住し、銚子の発展に功ある人々の道徳を讃えて1903年(明治36年)に建立された「紀國人移住碑」があり、「銚子木国会」が毎年5月に慰霊祭を行っている。碑文には「銚子港もと海浜の一僻地、今日の繁栄はひとえに我が国人の開拓の功による」とある。
  • 崎山治郎右衛門碑 - 外川の町並みや外川漁港は、紀州から移住した崎山治郎右衛門によって築かれた。外川には碁盤目状の街区が残り、江戸時代から続く漁師町の面影が残されている。
  • 千人塚 - 「阿波の鳴門か銚子の川口、伊良湖渡合が恐ろしや」といわれ日本三大海難所であった銚子川口での遭難者供養のために築かれた塚。1960年(昭和35年)には海難漁民慰霊塔が建立された。毎年遭難者を供養する「川施餓鬼」が行われている。近くの堤防には「一の島灯台」がある。
  • 七ツ池 - 江戸時代の享保から寛保年間に造られた農業用水の溜池。かつては7つの溜池があったことから「七ツ池」と称されたが、5つのみが残る。戦後に2千本の桜が植えられ桜の名所となった。「七ツ池再生委員会」が環境美化活動を行い、名所の復活を目指している。
  • 一里塚道標 - 高さ約90センチ、幅約18センチ、上部に仏像を配し、その下に「飯沼観音江一里」と書かれている。長塚町神明神社入口にあり、1783年天明3年)の飢饉の際に建立された。このほか、高田町に二里塚、富川町に三里塚、宮原町に四里塚がある。市内には4〜50基の道標の存在が確認されている。
  • 庄川杢左衛門頌徳碑 - 天明の大飢饉の際、高崎藩の代官であった庄川杢左衛門は、独断で藩の米倉を開放し、住民を飢饉から救ったと伝えられる。この庄川杢左衛門を偲んだ民謡として「じょうかんよ節」があり、1823年文政6年)には都波岐神社前に頌徳碑が建立された。
  • 滑川家住宅 - 椎柴駅近く、野尻町旧道沿いにある滑川家は、多くの河岸問屋が存在していた野尻河岸において、代々藤兵衛と名乗り、名主として海運業に従事した。1873年(明治6年)の主屋や江戸時代末期の長屋門が現存し、舟運で栄えた集落の往時を示している。
  • 旧西廣家住宅 - 西廣家は銚子を代表する船主。江戸時代末期に紀州から移住し、2代目治郎吉が漁業を始めた。敷地内には主屋、納屋、缶詰工場等の建物や煉瓦塀が残る。
  • 磯角商店主屋 - 1953年(昭和28年)建築の廻船問屋。舟底状の折上天井を張った座敷、鯛や帆掛船の彫刻等、港町銚子にふさわしい意匠を伝えている。
  • 清水の大井戸跡 - 清水小学校下の交差点の真下には多量の湧水があり、江戸時代から銚子名水として飲料水に利用されていた。
  • 吉田松蔭詩碑 - 篠崎信山が銚子在住中の1944年(昭和19年)に私費を投じて建立した。碑表の「松蔭先生曽遊之地」は徳富蘇峰の書で、碑陰の吉田松蔭作「銚子港」の漢詩はヤマサ醤油10代目当主濱口梧洞の書。
  • 濱口梧陵紀徳碑 - ヤマサ醤油7代目当主濱口梧陵は実業家としてだけでなく防災・防疫の分野でも優れた業績を残し、1897年(明治30年)に有志の手によって紀徳碑が建立された。碑文は梧陵と親交のあった勝海舟が彼の死を悼んで捧げたものである。
  • 美加保丸遭難者墓碑 - 1868年慶応4年)8月26日榎本武揚率いる幕府の艦隊8隻が江戸を逃れ、函館に向かう途中、暴風雨にあい、そのうちの1隻である美加保丸が黒生沖で座礁、沈没し乗組員13名が死亡した。その後1882年(明治15年)9月、地元有志によって黒生海岸に遭難碑が建てられた。
  • 国木田独歩碑 - 国木田独歩は銚子沖で難破した播州竜野藩の竜野丸に乗船していた国木田専八と当地の淡路まんとの間に生まれた子である。「武蔵野」「運命」等の作品がある。碑文は詩人日夏耿之介の書による「独歩吟」の一節。1952年(昭和27年)7月15日に市民有志の手によって建立された。
  • 竜の井(玄蕃井戸)- 玄蕃山北側にある竜の井、通称玄蕃井戸は「紫大尽」と呼ばれた第10代田中玄蕃が、ヒゲタ醤油の醸造用水として用いた湧水井戸で、龍神を祀っている場所である。水屋は煉瓦で囲われている。
  • 飯沼陣屋跡 - 銚子地方が高崎藩領となった1802年(享保2年)に陣屋が設けられて郡奉行代官が派遣常駐し、明治に至るまで存続した。陣屋町の地名が残り、児童公園入口に陣屋跡碑が建つ。
  • 飯沼水準原標石 - 飯沼観音境内にある水準原標は1872年(明治5年)にオランダの土木技師リンド(Isaac Anne Lindo)が設置した。河川工事のために高低測量の基点となるものであり、日本最初の水準原標となっている。
  • 旧国鉄新生貨物駅跡 - 新生駅は1900年(明治33年)以来貨物営業を実施してきたが、1977年(昭和52年)度末をもって貨物扱いが廃止された。市は同駅跡地に市街地の緑化を目的として中央みどり公園を整備し、1986年(昭和61年)に開園した。
  • 無線電信創業之地碑 - 1908年(明治41年)5月16日、日本最初の無線電信局である銚子無線電信局が設置され、同年5月25日に太平洋航行中の丹後丸と初の無線交信に成功した。その後1929年(昭和4年)に小畑町に受信所が開設され、1939年(昭和14年)には野尻町に送信所が移された。
  • 竹久夢二詩碑 - 海鹿島海岸に房総夢二会によって建てられ、碑文は竹久夢二の作詞による「宵待草」の一節。竹久夢二は1910年(明治43年)の夏に海鹿島に滞在し、「宵待草」のモデルとなる女性、長谷川カタと出逢った。銚子の海岸にはマツヨイグサが群生し、夕方に黄色い花を咲かせる。
  • 水明楼之址碑 - 1957年(昭和32年)、徳富蘆花三十回忌の日に銚子文化遺跡保存会によって建立された。水明楼は文人墨客が数多く宿泊した犬吠埼の名旅館であった。
  • 御野立所の碑 - 1911年(明治44年)5月20日大正天皇皇太子の時、千葉県を行啓の途次、銚子川口の浜に立ち奇岩・荒磯の風光明媚に感銘を受けた。本銚子町では大正天皇即位を記念して1915年(大正4年)、この地に記念碑を建立した。
  • 吉田東伍終焉碑 - 海静寺の境内にある。「大日本地名辞書」の著者として知られる地理学者、吉田東伍は、1918年(大正7年)1月19日夜に来銚し観音前吉野屋旅館に投宿、21日に発病し、22日に逝去した。のち地元有志並びに在京知友門人等によってその遺芳をしのぶ碑が建てられた。
  • 涙痕の碑 - 早稲田大学出身の青年詩人である三富朽葉今井白楊1917年(大正6年)に君ヶ浜で遊泳中に溺死し、2人の死を悼んだ朽葉の父三富雪州によって追悼碑が建立された。
  • 内野家住宅洋館 - 国指定重要文化財。大正初期の建造、東京麹町に所在した医院宅を1937年(昭和12年)長山町に移築し改造したもの。南の庭に向けてベイウインドウ状の張出しを設け、階下を吹放ちとしてテラス風に造る。内部インテリアは階段室を含め大正期の雰囲気をよく留めている。
  • ヤマサ醤油煉瓦蔵 - ヤマサ醤油本社西側には1915年(大正4年)から1923年(大正12年)に増設された煉瓦造りの仕込み蔵が残っている。同様に煉瓦を使用した塀が旧公正会館近くのヤマサ醤油社長宅東側に残っている。
  • 旧公正会館 - 1926年(大正15年)にヤマサ醤油当主濱口梧洞により、財団法人公正会の活動拠点として建設された。正面玄関はセセッション風の意匠が施され、古典様式を落とし込んだモダニズムデザインから当時の流行が伺える。公正学院・図書館・講堂を備えた銚子の文化の殿堂であった。
  • オットー機関車 - ヤマサ醤油工場内には日本に現存する最古のディーゼル機関車が展示されている。ドイツ製で、考案者の名を取って「オットー」と呼ばれる。大正末期に輸入され、1964年(昭和39年)までヤマサ醤油で使用された。
  • 思咢庵・潮光庵 - 海鹿島海岸には、小川芋銭がアトリエとして使用した潮光庵が佇んでいる。歌人越川芳麿が尾崎咢堂のために建てた思咢庵には、杉の板戸に書かれた咢堂直筆の漢詩がある。敷地内には越川芳麿の収集による数多くの書画骨董を収蔵した思咢庵美術館(非公開)がある。
  • 濱口吉兵衛銅像 - 銚子醤油株式会社社長濱口吉兵衛は、衆議院議員となって銚子漁港修築に尽力した。1937年(昭和12年)に吉兵衛の功績を讃えて新生河岸公園に銅像が建立されたが、1943年(昭和18年)に戦時供出され、戦後再建された。
  • 翔天の碑 - かつてこの地には下志津陸軍飛行学校銚子分教場があり、太平洋戦争末期にはここから18人の特攻隊が出撃し、17人が戦死した。碑は1993年(平成5年)に有志が建立し、毎年終戦記念日に慰霊祭を行っている。
  • 白石ダム - 白石町にある貯水池。1953年(昭和28年)3月に着工し、取水・貯水・浄水・配水の各施設を建設して1959年(昭和34年)に完成した。起伏のある地形に雑木林が広がっている。
  • 日比友愛の碑 - 第二次世界大戦で戦火を交えた日本とフィリピンが永く世界の平和を祈念するために建立された碑。フィリピンのマヨン山に向かって建てられている。愛宕山「地球の丸く見える丘展望館」敷地内にある。
  • 義経伝説 - 銚子には悲劇の英雄である源義経にまつわる伝説が多く残る。奥州に落ちのびる義経一行が立て籠った千騎ヶ岩、海岸に残した愛犬が吠え続けて岩と化した犬岩、その声が届いた犬吠、九郎判官がなまって名付けられた大小2つの宝満の岩等が伝えられる。

文学碑[編集]

古帳庵句碑が建つ円福寺本坊
  • 松尾芭蕉「枯枝に からすのとまりけり 秋の暮」
  • 小林一茶「此臺の清風たゝちに心涼しく西方仏土もかくあらんと 本とゝす 爰をさること 遠からす」
  • 古帳庵「ほととぎす銚子は国のとっぱずれ」
  • 国木田独歩「なつかしき わが故郷は 何処ぞや 彼処にわれは 山林の児なりき」
  • 竹久夢二「まてど暮らせど来ぬ人を宵待草のやるせなさ今宵は月も出ぬさうな」
  • 小川芋銭「銚子灘朝暾 大海を 飛びいつる如と 初日の出」
  • 尾崎咢堂「朝またき 彼方の岸は アメリカと 聞て瓜立つ おはしまのはし」(瑞鶴荘にて)
  • 尾張穂草「わかれても故郷の海のあいいろが目にあり秋のさびしくあるかな」
  • 高浜虚子「犬吠の 今宵の朧 待つとせん」
  • 佐藤春夫「ここに来て をみなにならひ 名も知らぬ草花をつむ みづからの影踏むわれは 仰がねば 燈台の高さを 知らず 波のうねうね ふる里のそれには如かず ただ思ふ 荒磯に生ひて 松のいろ 錆びて 黝きを わが心 錆びて黝きを」
  • 若山牧水「ひさしくも見ざりしかもと遠く来てけふ見る海は荒れすさびたり とほく来てこよひ宿れる海岸のぬくとき夜半を雨降りそそぐ まともなる海より昇る朝の日に机のちりのあらはなるかな」
  • 源俊頼「磐はしる 外川の滝の むすぶ手も しばしはよどむ 淀むせもあれ」

海水浴場[編集]

  • 海鹿島海水浴場 - 周りを岩礁に囲まれたプール状の海水浴場
  • 長崎海水浴場 - 沖合に岩礁を積んだ犬吠埼灯台を望む海水浴場。
  • 銚子マリーナ海水浴場 - 東洋のドーバーと言われる[26]屏風ヶ浦を背にした海水浴場。

宿泊施設[編集]

温泉街から望む犬吠埼

本市においては、主として犬吠埼地区にホテル旅館、外川・犬若地区に民宿ペンション、中央地区にビジネスホテルが立地している[19]

  • 絶景の宿 犬吠埼ホテル
  • ホテルニュー大新
  • 別邸 海と森
  • ホテル 月美(太陽の里)
  • 犬吠埼観光ホテル
  • あかつきの宿 大徳
  • 銚子プラザホテル
  • ホテルサンライズ銚子
  • ホテルルートイン銚子駅西
  • ビジネスホテルいずや
  • ホテル近江屋
  • 大新旅館

特産品・土産品[編集]

銚子半島南部のキャベツ畑
  • 入梅イワシ - 銚子港で最も多く水揚げされる魚はイワシ。梅雨の頃のマイワシは「入梅イワシ」と呼ばれ、最も脂が乗る。イワシ料理として、刺身、塩焼き、煮付け、佃煮以外になめろうつみれ汁、さんが焼き、蒲焼き、卯の花漬けがある。丸干しを焼いた目刺し、頬刺しもある。
  • 磯ガキ - 銚子の夏の味覚。銚子の荒磯で採れる磯ガキは、手のひら大の、おおよそ5~7年もの。夏に水揚げされる天然もののため出荷期間が短く、また漁獲量が限られている。レモンを絞って生のまま食する。ほかに焼きガキ、カキフライ等の料理法もある。
  • シジミシラス - シジミは日本全域の淡水海水の混じる汽水域と東北以南の湖や川に生息する。銚子付近の下利根川で採れるのは「ヤマトシジミ」。下利根川ではウナギも名物。ウナギの稚魚「シラスウナギ」は貴重なもの。
  • 灯台キャベツ - 銚子におけるキャベツの栽培は、温暖な気象条件を生かし1953年(昭和28年)から開始され、灯台印キャベツとして一大産地。春系品種「金系201」を中心に11月~翌年6月の長期間出荷され、京浜市場において高いシェアを維持している。生産量は全国1位[45]
  • 銚子メロン - キャベツと並ぶ銚子の農産物。タカミメロン、クインシーメロン、アムスメロンの3種類がある。高品質な有機肥料を使用、ミツバチ交配による生産方法をとる。特にアムスメロンの最高級品は「金印」とされ、糖度16度以上の品質でブランド化を達成している。日本農業賞受賞。
  • サバカレー - テレビドラマ「コーチ」に登場する缶詰を商品化したもので、1905年(明治38年)創業の信田缶詰で生産されている。市内で最も生産量の多い缶詰はイワシ缶詰で全国の約50パーセント、サバ缶詰が約30パーセントのシェアを占める。ほかにサンマ、カツオ、貝がある。
  • はんぺん - 銚子は日本有数のはんぺんの生産地。原料の白身魚ヨシキリザメアオザメスケトウダラ等。はんぺんはすり身山芋によって気泡を抱き込ませたゆで蒲鉾。そのほか、蒲鉾ちくわさつま揚げ、つみれ等の練製品は関東、東北地方へ出荷されている。
  • (ひしお) - 大豆と大麦から造られる発酵調味料。味噌のような形だが味や風味は醤油に近い。2千年以上の歴史を持ち、醤油のルーツ。銚子では1630年寛永7年)創業の老舗、山十商店の「ひ志お」がある。
  • 鰹の佃煮 - 銚子港に水揚げされたカツオを銚子産の醤油で煮込んだ佃煮。銚子では1921年(大正10年)頃、篠田政太郎が独自に製法を開発した。篠田食料品店のほか、1837年天保8年)創業の今津徳兵衛商店、信田缶詰で製造されている。カツオ加工品には、土手伊平商店の鰹節、塩辛もある。
  • ぬれ煎餅 - 生地を焼いた後、熱いうちに醤油につけた煎餅。1963年(昭和38年)、横山雄次が商品化した。柏屋米菓、福屋、イシガミの煎餅専門店のほか、銚子電鉄売店でも製造販売している。
  • 海藻こんにゃく - 銚子の食卓の常連。地元では単に「海藻」で通じる。長崎海岸で海女たちが採る「コトジツノマタ」を干し、煮込んで固めたもので、ネギや唐辛子、醤油をつけて食する。カラギーナンの含有量が多い。
  • のげのり - 銚子特産の乾燥海藻食品。味噌汁、吸い物、刺身のつま等に使われる。学名は「フクロフノリ」。
  • 地酒 - 江戸時代末期から明治にかけて創業した2つの酒蔵が醸造する地酒。
  • 犬吠の月 - 昭和天皇献上銘菓。大粒栗をねりあんで包んだもの。
  • いわしサブレ - 全国菓子大博覧会金賞受賞。銚子産のイワシを粉末に加工し、原材料として使用している。
  • ピーナッツみそ - 千葉県特産のピーナッツを炒って味噌とハチミツと白ゴマで和えたもの。
  • 木の葉パン - 卵やバターを加えて焼いた焼き菓子。
  • カレーボール - 魚のすり身にカレー粉を混ぜて団子状にしたもの。
  • 銚子縮 - 江戸時代、銚子の漁師の妻女達が内職で始めた織物。縞、格子柄が多く、糸は5倍の撚りをかけて強度を高めている。染色の優雅さ、生地の丈夫さ、独特の肌触り等が通人の間で大変な人気を得た。昭和初期に生産が途絶えたが、戦後再興された。千葉県指定無形文化財。
  • 万祝式大漁旗 - 銚子の大漁旗は伝統的な「万祝式」という染め方によるもの。漕出式、進水式等に漁船に飾られるほか、結婚式、出産祝い、新築・開店祝いにも人気がある。「額賀屋染工場」「小澤染工場」で製造販売されている。千葉県伝統工芸品。
  • 籐製品 - 素材から製品まで一貫した手作り、手巻、手編みで作る椅子や小物類。

祭礼・行事[編集]

犬吠埼からの初日の出

本市における観光行事は、古くから夏の「大潮祭り」、「銚子みなとまつり」が中心であったが、市内の産業団体が連携協力して開催する産業まつりや古くから地域で行われてきた諸行事やスポーツレクリエーション行事等についても、市民のみならず多くの来遊者がある[19]

  • 初日の出(1月1日) - 関東最東端の犬吠埼は、地軸の傾きのために元日前後の数十日に限っては、山頂・離島を除き日本列島沿岸で最も早く初日の出を見ることができる。
  • 常燈寺初薬師(1月8日) - 国指定重要文化財の木造薬師如来坐像の一般公開。子供は額に朱印を押してもらい無病息災を祈願する。
  • 漕出式(1月上旬) - 年の初め、大漁を祈願し漁船が川口沖沿い(利根川河口付近)を航行する。「乗り初め」ともいう。
  • 中学校対抗銚子半島一周駅伝(1月上旬) - 毎年1月第二日曜日に開催される新春の風物詩。千葉県内外の70以上の中学校が参加する、関東近県では最大規模の駅伝大会。
  • 辻切り1月20日) - 小浜町に江戸時代から伝わる民間信仰。町内3か所の辻に注連縄を張り、蛸、賽、酒標、藁の刃、呪文入りの木札や杉の小枝を吊り下げ、不幸や災いをもたらす悪魔が村に侵入しないように悪魔払いをする。「おしめ」「〆張り」ともいう。
  • おびしゃ(1月25日) - 春の農村行事。もとは歩射(ぶしゃ)の神事で、弓で的を射てその年の豊凶を占った。
  • あんば囃(1月27日) - 小畑町に江戸時代から伝わる元服の祝いを取り入れた新年の行事。夜、町内の産土神である有政神社に集まり、魔除け、無病息災を祈願し、その後15歳になる子供を先頭に、あんば囃を鳴り物が演奏しながら町内の辻々を回る。小畑町民謡保存会が伝承している。
  • 初午稲荷講(旧暦初午前日) - 銚子ポートタワー近くに鎮座する沖見稲荷社に、毎年旧暦の初午の前日、銚子漁協所属漁船の船主夫人が集まり、大漁満足と航海安全を祈願する講。祈願の際、一同で「神のはなみ」「ほめことば」「おいなり様」「大漁節」等を唱和する。
  • 菅原大神祭礼(2月25日11月25日) - 奉納された約90個の子産石(子宝石)を抱くと子宝に恵まれるという言い伝えがあり、全国各地から多くの夫婦が子授け祈願と御札参りに訪れる。春と秋の祭礼の時に限り石を抱くことができる。
  • 飯沼観音八日まち(4月8日) - 坂東三十三観音第27番札所の飯沼観音で、釈迦の誕生を祝う。
  • 妙福寺藤まつり(5月上旬) - 境内には茶店が立ち並び、日曜日には神輿が担ぎ出される。夜間にはライトアップが行われる。
  • 銚子ハワイアンフェスティバル(5月中旬) - 屏風ヶ浦と太平洋を背景としたフラダンスハワイアンミュージックの祭典。全国各地からフラダンサーが集結する。ハワイアンショップも多数出展する。
  • 大潮祭り(旧暦6月15日) - 早朝、神輿2基が川口神社の階段を駆け降り、千人塚に立ち寄り、平磯浜に至り、神事を行う。その後銚港神社まで氏子が町内を練り歩く。午後は魚市場を経て、川口神社に還御する。竹町の大杉神社の大天狗が露払いを担当し、渡海神社、海上八幡宮でも神輿が出る。
  • 辺田地蔵尊「盂蘭盆会」(旧暦7月15日前後) - 春日町の観行院地蔵堂前で行われる盂蘭盆会。市内各地域から多くの人々が供養に集まる。
  • 御太刀祭り(7月海の日) - 黒生大神宮にて神職による儀式の後、不動明王の利剣を模した御太刀を担ぎ出し、黒生漁港にてお潮取りを行い、町内を廻る。
  • 小川神社神楽(7月第三月曜日) - 悪祓い、豊作を祈願して獅子舞が奉納されるほか、おかめひょっとこ顔合わせ、大漁節、早馬鹿が演奏される。小川町郷土芸能保存会が伝承している。
  • 浅間神社「初山」(7月第三土曜日) - 浅間山と呼ばれる小高い丘の上にある浅間神社の例祭。生まれて初めて迎える旧暦6月1日の早朝に裸足でわが子を抱いて開段を駆け登りお参りをすると御利益があるとされ、「初山」と呼ばれて信仰されている。銚子における最も賑やかな祭りの一つ。
  • 海水浴場オープン(7月中旬) - 銚子マリーナ海水浴場、長崎海水浴場、海鹿島海水浴場の3つの海水浴場がオープンする。
  • 峯神社「夏越の祓い」(8月5日) - 1年の悪事、災難、罪を除き、心身を清め、安全を祈願する祭りで、人形に名前と年齢を書き、芽の輪をくぐり参拝する。午後7時頃からは、人形を収めた藁の船を利根川に流す儀式を行う。
  • 銚子みなとまつり(8月上旬土・日曜日) - 毎年8月上旬の土・日曜日の2日間に開催され、50年以上の歴史がある夏の風物詩。第1日目は利根川河畔の花火大会、第2日目は約1000人の担ぎ手による銚子銀座通りのみこしパレードで、銚子の街は活気に溢れる。銚子大漁節やはね太鼓も披露される。
  • 海上八幡宮例祭(旧暦8月15日) - 中秋の名月の日に行われる。神輿渡御の後、地元では「お的式」と呼ばれる流鏑馬が行われる。氏子22町内が1本ずつお的を立て、馬に乗った神官がそれを射る。的中した的はその地区の代表が持ち帰る。
  • 豊岡「芋念仏」 - 八木町に鎌倉時代から伝わる行事。この念仏は毎年2、10、11月の10日と秋の彼岸明けの計4回各地の寺院を巡っている。念仏保存会によって伝承されている。名前の由来は10月の行事が芋の収穫期のため、参会者に採れたての料理を振る舞ったことによる。千葉県指定無形文化財。
  • 銚子農産まつり・銚子水産まつり(10月最終日曜日) - 川口外港とその周辺を会場として、市内の農業・水産業の関係団体が一体となり、ダイコン・キャベツ等の新鮮野菜、銚子で水揚げされるキンメダイや生マグロ等の展示販売を行う。イベントも充実し、焼きサンマ・餅の無料配布もある。
  • きんめだい祭り(10月最終日曜日) - キンメダイを中心とした銚子産魚介類のPRと魚食普及を目的として銚子市漁業協同組合外川支所キンメダイ・アカムツ研究会が企画運営を始めた。外川漁港を会場に1995年(平成7年)から開催されている。
  • 銚子さんまマラソン(11月中旬) - 犬吠埼や君ヶ浜等がコースのマラソンイベント。メイン会場からは屏風ヶ浦を一望できる。
  • 猿田神社の七五三参り(11月15日) - 11月に7・5・3歳の近郷近在の子供が親に連れられてお詣りする「おさるだ様まいり」は、室町時代に始まり、江戸時代から特に盛大となった。
  • 黒潮よさこい祭り(11月下旬) - 全国60チームが市内各所で演舞を行い優勝を競う、銚子市民主催のよさこい祭り。
  • 銚子マルシェ(不定期開催) - グルメや地元野菜・雑貨販売のほか、ワークショップ等が開催される。
  • 銚子大神幸祭 - 1102年康和4年)が起源。東庄町東大社を出発した神輿は小船木町で豊玉姫神社、雷大神の神輿と合流、渡海神社で1泊。翌日は外川浜で渡御、銚港神社で1泊。3日目は白幡神社まで町内渡しで神輿を担ぎ最後の祭典を行い一路東大社に還御する。道中、多くの芸能が披露される。

文化[編集]

銚子市文化祭[編集]

犬吠埼灯台の光

銚子市文化祭は、1949年昭和24年)11月に第1回を開催して以来、継続している70年以上の歴史のある市主催の恒例行事である。当初は銚子市公正市民館の2階講堂を会場として、11月3日文化の日の前に文化団体の展覧会を、その後に芸能会を開催していた[19]2023年令和5年)度においては、主として銚子市市民センターを会場とし、多くの市民の参加協力によって盛況をみている[145]

令和5年度銚子市文化祭
  • 展覧・文芸の部(銚子市市民センター)
    • 書道展(全紙以内、軸装または額装)
    • 華道展(応募資格は茶華道会の会員及び推薦)
    • 陶芸展(幅40センチメートル・奥行き20センチメートル・高さ50センチメートル程度)
    • 茶席
    • 写真展(半切以上全紙大以内、額・パネル・組写真いずれも可)
    • 美術展(洋画日本画水彩画仏画水墨画押花絵工芸彫塑等)
    • 短歌展(短冊・色紙等)
    • 俳句展(短冊・色紙等)
    • 短歌大会(未発表のもの)
    • 俳句大会(当季雑詠)
  • 芸能の部(銚子市市民センター)
    • 日本舞踊部門(ふくろうの会、若柳汎克社中、若柳流衣美会、正派若柳流若柳鏡染社中、正派若柳流若柳吉芳鏡社中、大河流大河寛貴会、若柳流若衣の会、正派若柳流扇の会、正派若柳流若柳和扇社中)
    • 音楽ダンス部門(銚子KOTOBUKI・BAND、フィオ・サンライズ、SD・フラダンス グループ、フラ サークルオ・カ・プア、ラピス・ミージャ、ナ・プア・エ・ピリ・クウレイ、アンダンテ、Joyオカリナ、高橋バレエ学園、土の音、オカリナデュオ ぽん・ぽこ、銚子ギターアンサンブル)
    • カラオケ部門(楽天堂遊楽、石井音楽教室第1、石井音楽教室第2、スイングアカデミー、ペンギンの会、友愛、友思美)
  • 芸能の部(千葉県東総文化会館)
    • ダンス部門(銚子ダンススタジオ、フラ フイ オ マ ルラニ、ハーラウ・レイメリア マカマエ、ハーラウ フラ オ カナニプナヘレ、プアレイ・ホークー・さとこ・フラ・スタジオ、プアレイ・ホークー・さとこ・ウクレレ・スタジオ)
    • 音楽部門(銚子吹奏楽団、銚子ソニアブラス、コールソレイユ、ちょうし少年少女合唱団、銚子市民合唱団、Pia⭐︎Singers、県銚同窓会合唱団)

文化財[編集]

磯角商店主屋
磯角商店主屋
石上酒造文庫蔵
石上酒造文庫蔵
犬吠埼灯台
犬吠埼灯台
番号 指定・登録 類別 名称 所在地 所有者または管理者 指定年月日 備考
1 国指定 重要文化財(建造物) 犬吠埼灯台(灯台、旧霧笛舎、旧倉庫) 銚子市犬吠埼 国(海上保安庁)、公益社団法人燈光会 令和2年12月23日 1基、2棟
2 重要文化財(彫刻) 木造薬師如来坐像 銚子市常世田53-1 常灯寺 昭和34年6月27日 1躯
3 重要文化財(工芸品) 奈良国立博物館 円福寺 昭和34年6月27日 1口
4 記念物(名勝及び天然記念物) 屏風ケ浦 銚子市春日町744-1他 銚子市・千葉県・国 平成28年3月1日
5 記念物(天然記念物) 犬吠埼の白亜紀浅海堆積物 銚子市犬吠埼9578-10他 銚子市・国 平成14年3月19日
6 県指定 有形文化財(建造物) 猿田神社本殿 銚子市猿田1677 猿田神社 昭和30年12月15日 1棟
7 常灯寺本堂 銚子市常世田町53-1 常灯寺 昭和54年3月2日 1棟
8 海上八幡宮本殿 銚子市柴崎1-17 海上八幡宮 平成2年3月16日 1棟
9 有形文化財(彫刻) 木造薬師如来立像 銚子市岡野台町2-473 等覚寺 平成元年3月10日 1躯
10 木造薬師如来立像 銚子市岡野台町2-473 等覚寺 平成元年3月10日 1躯
11 木造菩薩立像 銚子市岡野台町2-473 等覚寺 平成元年3月10日 1躯
12 有形文化財(工芸品) 梵鐘(享徳十一年在銘) 銚子市馬場町293-1 円福寺 昭和42年3月7日 1口
13 釈迦涅槃図 銚子市馬場町293-1 円福寺 平成3年2月15日 1幅
14 有形文化財(古文書) 天正検地帳 銚子市ほか 銚子市ほか 昭和57年4月6日 18件・71冊
15 有形文化財(考古資料) 金銅経筒(建長四年在銘) 銚子市岡野台町2-473 等覚寺 昭和60年3月8日 1合
16 無形文化財 銚子縮 銚子市松岸町 常世田眞壱郎 平成13年3月30日
17 記念物(天然記念物) 渡海神社の極相林 銚子市高神西町2 渡海神社 昭和34年4月24日
18 猿田神社の森 銚子市猿田1675-21他 猿田神社 昭和49年3月19日
19 犬吠埼産出のアンモナイト 銚子市前宿町1034 銚子市 平成18年3月14日 5標本6点
20 国登録 登録有形文化財(建造物) 内野家住宅洋館 銚子市長山町2034 個人 平成11年7月8日 1件
21 磯角商店主屋 銚子市飯沼町186 個人 平成26年4月25日 1件
22 滑川家住宅主屋ほか 銚子市野尻町27-1 個人 平成29年6月28日 2件
23 旧西廣家住宅(治郎吉)主家ほか 銚子市川口町1-6271 株式会社ランス 平成30年3月27日 5件
24 石上酒造米藏ほか 銚子市田中町7-1 個人 平成30年3月27日 5件

財団法人公正会[編集]

旧公正会館

公正会は1925年大正14年)に、銚子町濱口儀兵衛(梧洞と号す)が、私財30万円を投じて設立した社会教育事業を目的とする財団法人である。公正とは社会的正義を意味する。拠点となった公正会館の開館は1926年(大正15年)4月であった。公正会館は鉄筋コンクリート2階建ての近代的な建物で、1階は図書館・教室・事務室、2階は約500人収容のステージ付きホールになっていた。公正会の意図するところは、当時既に学校教育における人物養成の不完全性に目を注ぎ、人物養成のために、生涯教育を推進しようというものであり、その活動は図書館事業、夜間の各種学校である公正学院の経営及び公正会館主催の各種事業の3つの柱から成っていた。図書館の蔵書は開館時400冊で、閲覧室は3室あった。開架式の閲覧方法や館外貸出しも、利用者に大きな利便を提供した。図書館として本格的な形態を備えた公正会館の図書館は、昭和前期の銚子の文化の向上に神益するところが大きかった。勤労青少年を対象とする公正学院は本科2年、高等科1年の公正商業修業年限で、高等小学校卒業を入学資格とする普通課程の学校であった。教育内容は一般の中学校と同程度で、かなり高いものであった。生徒数は1学年1学級で合計3学級であった。1学級の人数は50人程度であった。入学者は地元ばかりでなく、対岸の波崎町からもあった。その後公正会では、これを実業学校令に基づく甲種商業学校に昇格させることにし、文部大臣の認可を得て、1941年昭和16年)4月から開校した。新校は公正商業学校と称し、公正会館の裏手に新たに教室が増築された。公正商業学校も高等小学校卒業を入学資格とした。甲種商業学校でも修業年限は4年であった[19]

図書館や公正学院の運営は、公正会の主要な事業ではあったが、より広範に住民に影響を及ぼしたのは、公正会館ホールを拠点とする講演会・展覧会・映画会・音楽会等の文化的な催しであった。講演会の講師には、中央から各界の一流人が招聘された。作家では巌谷小波菊池寛舟橋聖一等のクラスが来銚している。会場は常にほとんど満員で、銚子に知的に飢えた人々が多かったことを示しており、その欲求にこたえた事業の意義は大きかった。こうした催しのほかに、さらに公正文化会、公正母の会、子供会・読書会等の会員制のグループ活動をも推進していた。これらは戦後に始まった公民館活動に相当し、内容の充実度においては、これを凌駕するものがあった。その活動を創意し展開したのは、初代館長兼学院長の小山文太郎であった。小山は東京帝大出身の文学士であったが、財団理事長の濱口儀兵衛の負託にこたえ、公正会館活動の基礎を築いた。1932年(昭和7年)に小山が館長を辞した後も、その特色は継承され強化されていった。1937年(昭和12年)に第3代館長になった堀秀彦は、戦後大学教授としてあるいは著述家として中央で活躍した[19]

公正会の活動は終戦を境にしてほとんど停頓状態となり、1948年(昭和23年)3月1日に公正会館の施設一切を市に寄付して解散し、20余年の歴史に終止符を打った。末期の経過をみると、公正学院は文部省の戦時教育体制の改革により、1944年(昭和19年)度から生徒募集を中止し、1947年(昭和22年)3月に廃校となった。図書館は1945年(昭和20年)3月の空襲後、公正会館内に銚子市国民健康保険組合立病院が開設されることになったため、2階の講堂に図書を移し、1946年(昭和21年)の初頭から館外貸出しを再開した。公正商業学校の廃校が要因となって、1948年(昭和23年)度から市民の要望により、県立銚子商業高等学校に定時制課程(夜間)が設けられることになった。1948年(昭和23年)6月16日から2階の講堂の図書館は元の室に戻り、閲覧と貸出しを再開して平常の状態に復した。図書館以外の部分は、貸し会場として、市民の集会その他の利用に供されることになった。寄付後の図畫館は市立公正図書館、その他の部分は市立公正館と称した。そして1949年(昭和24年)に公正館は「社会教育法」に基づく公民館となり、同年9月22日に銚子市公正市民館の名をもって開館した。図書館(銚子市公正図書館)公民館のいずれにも「公正」の名をとどめたのは、財団法人公正会とその創立者濱口儀兵衛を永く記念するためである。1957年(昭和32年)、市は濱口儀兵衛の功を讃えて、公正市民館の前にその寿像(胸像)を建立し、市制施行記念日である2月11日に除幕式を行った。像の制作者は市川市在住の彫刻家大須賀力である。なお、銚子市公正市民館は2001年平成13年)10月末をもって廃止され、銚子市中央地区コミュニティセンターと改称された。従来の公正市民館の機能は小畑新町に整備された銚子市市民センターに移されている[19]

伝統工芸品[編集]

万祝式大漁旗[編集]

万祝

揚操漁業に関係する衣料に万祝があり、昭和初期まで盛んに作られていた。万祝を染める染物屋は銚子には何軒もあった。大漁が続くと船主が祝儀用に作って、乗組員や水産加工業者等関係方面に配っていた。万祝は型紙で防染糊を置いて、その中を顔料で色さししたものである。固着剤は豆汁(大豆たんぱく)である。色さしが終わったら伏せ糊をして、地をで紺に染める。技法としては友禅染めの種類に入る。万祝の味は生地の木綿と図柄の素朴な趣きにあるが、図柄にも変遷があり、古いものは簡単で小さく、時代が下るにつれて大きく多様になる。万祝を染めていた染物屋は、大抵江戸時代からの型紙を用いていた[19]。銚子の大漁旗はこの万祝と同じ技法で作られたもので、大漁で帰港するときや祭りのときに船上に掲げられる[100]

銚子縮[編集]

江戸時代、銚子地方の漁師の主婦たちが、イワシの丸干しを製造する傍らに、家計の一助として手織り布の製造を始めたのが、銚子縮の起こりである。出来上りは縞、格子柄が多く、綿糸に通常の何倍もの撚りをかけて糊で固めた右撚りと左撚りの2種類の横糸を交互に織り込む独特の技術をもっている。その染色のしっかりとしていること、生地の丈夫なことと共に、縮独特の肌触り等が一般に歓迎され、特に通人の間には大変な人気を得た[19]。値段も1反1両ほどで、かなり高価であった。江戸の雑俳に「はやり糸銚子縮を着てお酌」があり、また、講談の幡随院長兵衛の一節には「さすが親分だ。銚子ちぢみを着流して」とある。江戸時代の最盛期には、機屋が40軒、主婦や娘の副業の出機は100軒余あった[146]明治に入って新しい紡績機が装備されて時勢に順応したが、大正を経て昭和に入る頃には衰微した。戦後、清川町の製綿業者常世田真次郎が商用で九州方面に旅行の際、別府市日名子旅館の女将より銚子縮の話をきき、それを欲していることを知って、遠く九州まで喧伝されている郷土名産を再興することを決意した。各機業地を視察すると共に市内識者を尋ねて調査研究を重ね、1951年(昭和26年)7月設備にかかり、同年8月28日より操業を開始した。従来は10番、20番糸を使用したために厚地であったが、再興にあたって現代向きの薄地に改良された[17]。その後2代目の常世田秀雄を経て、2001年(平成13年)3月に3代目眞壱郎がその製作技術を継承している[19]

籐製品[編集]

は熱帯性のヤシ科の植物で、乾燥した茎を材料として椅子やテーブル等の家具、バスケットやかご等の小物類、履物用の籐表等の籐製品が作られる。籐製品の材料は全て輸入ものであり、表皮を材料として仕上げたものについて、銚子では挽籐と呼んでいた。銚子で籐製品が製造されるようになったのは明治後期からで、大正から昭和にかけて主要な地場産業の一つに成長した。当時の銚子の籐製品はほとんどが籐表であった。籐表は草履や下駄に使われるもので、挽籐を畳表の目のように編んだものであり、籐表の履物は丈夫で美しく、履物としては高級品であり贅沢品であった。籐製品製造業は銚子独特の産業で、銚子と波崎は籐表の全国的特産地であった。籐を挽いて籐表を編むには高度の技術と根気を要したが、多くは漁民家庭や一般家庭の主婦が内職として行い、生計の支えとしていた。籐表はそのままの形で、主として中部地方関西地方に出荷された。最盛期は大正期の関東大震災後で、業者は百数十軒あった。戦後は国民の生活様式の変化によって、製品の主力であった籐表の需要は減少し、家具や小物類が多く作られるようになった[19]

祭礼[編集]

氏神の社は近世の村ごとにあり、祭礼はその区域ごとに行われている。たとえば旧銚子町の場合、新生地区は峯神社、荒野地区は白幡神社、今宮地区は若宮八幡神社となっている。神社の祭事で最も盛大なものは、神輿の渡御が行われる夏の大祭である。祭り提灯が軒ごとに下げられ、神輿を担ぐ掛け声や笛・太鼓の音が終日響き渡って、祭り気分に溢れる。銚子の祭りの特色は、神輿の独特な担ぎ方とヨーイヨイヤセという掛け声にある。米何俵という表現で重さを示す重い神輿を、担ぐのではなくもみ合う豪快なものである。これは漁業地の風土から生まれたもので、この独特の担ぎ方と掛け声は、戦前から戦中・戦後の祭りの中断期を経て継承されている。昭和初期まで、松岸では氏神の宇賀神社の祭礼の翌日、神納を済ませた後、利根川に遊山舟を出して関係者を慰労する習慣があった[19]

漕出[編集]

新年の初出漁のことを漕出という。主として銚子漁港を基地とする漁船の行事である。期日は一定せず、1月の吉日を選んで行う。また旋網・底曳・大縄等漁種ごとに行っている[19]。この日の早朝、漁船員は船主から酒3升と鏡餅2座及び大根の膾を受け、おぼり(鰯の鰓に藁を通した神饌物)を持って、船に祀られている「おふなだま」(船霊)に新潮を汲み、神酒を供え、一同拝礼してから、船頭の合図で出航する。大漁旗で飾られた漁船は、係留地から利根川河口の川口神社の下、通称明神下まで出航、同所で停船して左舷から神酒を注ぎ、幣束で船尾、中央部、船首の順に清め祓いをしてから幣束を海に流す。続いて川口神社に参拝し、神酒と膾とおぼりを献撰し大漁と海上安全を祈り、その後御嶽神社、西宮神社、和田不動尊等に参拝してから、船主宅で開かれる新年の宴に出席することが通例となっている[147]

旋網漁船の場合は、漕出で出航するときの一番船を「生切り」と呼んでいる。そして生切りになると縁起が悪いとされてこれを嫌う習慣がある[19]。このため漁業組合は奨励金を出し、抽選で生切りを決めていた。出漁遅延の防止のための苦肉の策であり、漁師は抽選に当たれば奨励金で酒を浴びるように飲んで不本意ながら出航するのが常であった[17]。近年は前年に漁獲高1位となった船が生切りをつとめることになっている。底曳漁業のうち、沖合底曳は毎年7月から8月までの2か月間、資源保護のため休漁する。そこで9月からの出漁に備えて、8月末にも漕出を行っている。正月を加えて年に2回である。なお底曳漁船や大縄漁船の場合には生切りはない。外川・黒生漁港を基地とする漁船も、初出漁のことを漕出と呼んではいるが、儀礼的なことは行っていない。外川漁港では以前は大杉神社で銚子と同様のことをしていた[19]。生切りの起源は不明であるが、小川芋銭の句に「生切りの船を見送る初霞」がある[17]

常燈寺初薬師[編集]

常燈寺

常燈寺は「千葉県の近世社寺建築」に「常灯寺は一般に常世田薬師と呼ばれ、行基菩薩の創立と伝えられる古い真言宗寺院で、境内には現在本堂(寛文一三年)白山神社(延享四年)鐘楼(宝暦一一年)仁王門(元禄元年)等の江戸時代の建築が残っており、江戸時代の地方寺院の景観がよく保存されているとともに、江戸前期から後期にかけての建築様式の変化を各建物によって知りうるという点で貴重である」とある[19]

本尊の木造薬師如来座像は国の重要文化財に指定され、収蔵庫に安置されている。また本堂は県の文化財に指定されている。本尊の胎内には1243年仁治4年)に修理が行われた際の墨書銘があり、平胤方以下人名が記されている。平胤方は中世における海上地方の支配者であり、海上を苗字とする。中世以降海上地方の人々の言仰を集めてきた古刹名刹であり、近代における隔年旧暦元月15日の開帳は多数の参詣者で賑わった。開帳は午前3時か4時頃に行われ、境内には露店等が出て、前夜から夜通しの賑わいが続いた[19]

八日まち[編集]

飯沼観音本堂

江戸と銚子の相似点の一つは、浅草観音飯沼観音である。観音を中心に花街や興行街が発達して、常に人の来集し、両者は全く性質を同じくしている。本尊十一面観音は、その草創伝説も、浅草が628年推古天皇36年)に檜前浜成・竹成兄弟が宮戸川で漁猟中、網にかかったされるのに対し、飯沼も728年神亀5年)漁夫の網に拾い上げられたとされる。その差は、僅かに年代1世紀があるのみである。浅草観音は坂東13番札所、飯沼観音は27番、続く28番香取郡滑河観音も、840年承和7年)鬼怒川入江の朝日ヶ淵から拾い上げられた十一面観音との寺伝を持っている。円福寺はこの飯沼観音繁昌後、海上氏一族の庇護によって発展し、大をなしている。戦後は観音堂が景勝の台地2402坪を占め、その南に円福寺が街衢に遮断されているが、以前はこの辺り一帯数万坪を境内としていた。1578年天正6年)海上山城守・同若狭守・同能登守・辺田民部等によって、方八間の観音堂が建造されたが、1773年(安永2年)十間四面の木造銅茸に改められ、戦災前までその豪壮な姿を見せていた[17]。戦後しばらく仮堂のままであったが、1973年(昭和48年)3月、壮大に再建された[19]。観音境内を東南へ2町ほど離れて円福寺本坊がある。その薬師堂は間口10間・奥行3間・瓦葺、これに続く客殿・庫裏と共に豪壮な建物である。商家や往還が遮断しているが、江戸時代初めまでは境内続きであった。所蔵の古文書から、最盛時の寺域広大の規模を知ることができる[17]

八日まちの期間は4月8日から15日までの8日間である。4月8日は釈迦の誕生日とされて、寺院では誕生会(灌仏会)を営む。花で飾った小堂を作り、水盤に釈迦の像(誕生仏)を安置し、参詣者は小さな柄杓で頭上に甘茶を注ぐ。銚子では戦前この日から飯沼観音の境内に曲馬団を始めさまざまな見世物小屋が掛かり、露店香具師が出、近郷近在からの人出で幾日も賑わった。当時は特に子供たちの待ちこがれる年中行事の日になっていた。始まりの日ははっきりしていたが、終わりはいつ終わるともなく終わったので、銚子のだらだら祭りと言われた。戦前は旧暦で行われていたが、戦後他の年中行事が新暦又は月遅れに改められるとともに、八日まちも新暦で行なわれるようになった[19]

浅間様[編集]

清水の坂

浅間様は旧暦6月1日浅間神社に参拝する行事である。したがって新暦では大体7月になる。地域によっては月遅れの新暦7月1日に参拝するところもある。浅間神社は富士山信仰をもとに成立したもので、祭神は木花開耶姫命である。市内には江戸時代の村の地区ごとに浅間神社があり、1村あるいは2、3村ごとにある。いずれも小さな石の祠程度のものである。生まれて初めて浅間神社の例祭の日を迎えた子は、この日の朝早く父親に背負われて参拝する。かつては父親は裸足になることになっていた。浅間様に参拝すると丈夫に育つと言われており、これを初山と呼んでいる。夕方は一般の人々が参拝する。市内に数ある浅間様の中で、最も参拝者が多く、沿道に露店が立ち並んで賑わうのは、後飯町の浅間神社である。戦前からそうであったが、戦後はさらに賑わうようになった[19]。群集雑踏し、往来全く遅々として進まないありさまで、銚子における最も賑やかな祭りの一つに数えられている[17]。ここは旧暦6月1日である。ここもまた石の祠だけの神社であったが、1978年(昭和53年)に同社を管理する後飯町町内会が祠を覆う社殿を建てた[19]。山麓には「宝暦八戌虎二月吉日、清水廿六夜講中」寄進の手洗鉢や「天保十五年甲辰歳秋九月再建、後田、石工吉五郎」と銘ある高さ8尺8寸の石鳥居がある。いずれも銚子石を使ったものであるが、江戸時代に一般崇敬の厚かったことが窺える[17]

大潮祭[編集]

川口神社 参道

大潮は1か月のうちで最も干満の差が大きい潮のことをいうが、銚子で大潮というと、普通旧暦6月15日の大潮をさし、満潮よりも干潮の方が意識されて、この日は銚子では最も潮の引く日とされている。旧暦6月15日は、銚子では祭りと行楽の日として、年中行事の中に主要な位置を占めている。祭りは川口神社の例祭であり、行楽は磯めぐりである[19]。川口神社は鹿島灘を一望する丘陵突端であり、出船入船の目印として、太古より祭祀の対象となった。一説に986年寛和2年)の創始とある。崇敬者は銚子から茨城福島両県下の漁民に多く、古来この沖で漁獲して銚子港に入ると、まずその鮮魚を社前に奉献するのが例であった[17]。旧暦6月15日が例祭の日で、神輿の渡御が行われる。銚子の夏祭りの代表的なもので、この見物と磯めぐりを兼ねて、戦前から大いに賑わっていた。磯めぐりは既に江戸時代から、銚子における行楽の一つの型になっていた。旧暦6月15日の磯めぐりが特に盛んになってきたのは、明治以降のことである。新暦では7月の半ば以降になるため真夏の行楽である。元来はその名の通り、変化の多い銚子の海岸を一周したものであるが、戦後は一周はしなくとも、海水浴をしたり、貝等を拾って楽しむ磯遊びが盛んとなり、この日の潮の引いた海岸には多くの人出が見られた[19]

大潮の日にはまた、川口の夫婦ヶ鼻で日の出を拝む習慣があった[19]。旧暦6月15日夜より暁にかけて近郷近在から数万の人が、夫婦ヶ鼻・犬吠埼を目指して集まり、御来光(日の出)を拝するのであるが、その盛んであることは銚子の年中行事中、最大のものであった[17]。夫婦ヶ鼻は漁港工事のため姿を消したが、日の出を拝む場所は残っており「女男ケ鼻御来光拝礼之碑」が建っている。その右側には由来を刻んだ碑もある。これは1955年(昭和30年)に民間で建てたものであるが、その由来には1688年元禄元年)に武蔵上野下野常陸下総5か国の「不二道孝心会」の人々が、この場所を「朝日御恩礼修行場」に定めたとある。また幕末に成立した清宮秀堅の「下総国旧事考」には「七月二十六日の夜銚子中の老若男女此所に出でて月待ちす」とあることから、江戸時代の月待ちの習俗が、明治・大正の間に日の出を拝むことに変化したことが窺われる[19]

銚子大神幸祭[編集]

東大社

香取郡東庄町に鎮座する東大社(旧県社)は、古く東宮または八尾社と呼んだ旧社で、鎌倉時代にはこの地方の豪族東氏の領域、東之庄33郷の総鎮守として崇敬されていた。祭神は玉依姫命であるが、命は海神(わだつみのかみ)の女で、鸕鷀草葺不合尊の后となって彦五瀬命三毛入野命・神日本磐余彦命(後の人皇第1代神武天皇)を生んだと伝える[17]。東大社は20年に一度、銚子みゆき又は大みゆきと称する神幸祭を行っている[19]。この神幸には、摂社の2社の神輿が加わり、先達と供奉をつとめることになっている。一つは香取市貝塚鎮座の豊玉姫神社(祭神は豊玉姫命、もと編玉神社あるいは編玉総社大明神また新宮大神といった)で社頭より供奉し、もう一つは旭市見広鎮座の雷大神(祭神は天穂日命桓武帝より雷大明神の神号を賜うと伝える)で、これは小船木の神逢塚に待ち受けて先導するのが例となっている。塚上の石祠には玉依姫命・豊玉姫神社・天穂日命の三神分霊が祀られているが、もとは日本武尊を祭る白鳥神社だけであった。蜿々とした数里に至る行程を大神輿をかつぎ行列するため、前後5日を費やしている。即ち往路は8日高田泊、9日柴崎泊、10日渡海神社泊、復路は11日高田泊、12日還幸という順序になっている。その通行路は、古式伝統を墨守する神事の常として、必ず古道を辿り、遠近にかかわらず新しい道路を踏まない[17]

8日、小船木神逢塚に座す白鳥神社の前に待つ雷大神と一緒になり、雷大神の行列が案内先頭となって野尻に出て高田神明神社に着き、同夜はここに駐泊、9日は高田区民に送られて芦崎に向かい、余山・四日市場を経て柴崎の海上八幡宮に入り、神輿を仮行在所に安置し神酒並びに種々の神饌を献り、厳粛な祭典を執行してここに宿泊する。10日朝出立、垣根・松岸・長塚・本城・大込を経て唐子に入るが、これまでの道順は大体佐原街道を通る。唐子からは都市計画等によって新街路が舗装されているが、それを避けるようにしてヒゲタ醤油の横通りに出て、旧目出度町道路(昔はここが繁華街であった)を抜け、東岸寺前大通りを駅前大通りへと屈折し、旧西芝郵便局前の小路に入って小学校前から踏切を通り、妙福寺(俗称妙見様)横通りをまっすぐに滑川橋を渡ってヤマサ醤油工場横小路を西小川町通りへ出る。それより小川戸から細い古道や畑道を通って、原の高神街道の旧村境石標が建っているところから庚申塚(都波岐神社)へと行列を進めると、そこに山口宮三郎はじめ高神村民一同が出迎えていて、渡海神社に安置して、夜を徹して盛宴を開く。11日払暁より外川浦神幸祭渡御を拝観の群集数万が詰めかける中を、神輿は神輿島に進発、更に数百人の白丁にかつがれて御神輿島へと海中渡御が執行される。この祭事が終わって還幸となるが、帰路は山口宮三郎家に寄り祭祀を行って後、小畑を経て飯貝根・飯沼に入り、銚港神社に臨んで祭典を執行、それより馬場町の関所を経て興野・今宮と往路を逆行し高田に1泊、12日は雷大神のみがここで別れて自宮へ還幸、東大神・豊玉姫神は野尻・小船木・塚本・忍・富川・下森戸・東笹本・下桜井を経由して諸持より上り、宮本の本宮に還幸する。これらの通路には、曲り角や辻に古い庚申塔馬頭観音の石塔、あるいは小祠・老木等がのこっていて、昔ながらの往還の面影をとどめているところが少なくない[17]

民謡[編集]

銚子大漁節[編集]

川口神社

1864年元治元年)の春、銚子港は未曽有の豊漁で、港は鰯の銀鱗で埋めつくされた。この豊漁を祝って作られたのが「銚子大漁節」である。川口明神で大漁祭を催すこととなり、飯貝根浦の網元網代久三郎、飯沼村前瀬古の文人松本新左衛門(雅号旭江)、呉服屋質屋を営んでいた「綿利」の主人で俳諧師の石毛利兵衛の三人が松本家の奥座敷「夏蔭庵」に集って歌詞を合作し、常磐津師匠の遊蝶が作曲し、清元師匠で川安旅館の名妓きん子が振付したものをこの祭礼で歌い踊ったのが起こりとされる[147]。前奏に阿波囃子、後奏に銚子の早拍子を加え、これを松岸遊廓の開新楼が花魁の総踊りに実演して評判となり、花柳界の座敷歌として全国に喧伝されていった[100]。銚子では盆踊りや宴席等で披露されて座を盛り上げている[147]小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は「漁師の数え歌」として英訳している。

銚子大漁節

一つとせ 一番ずつに積み立てて 川口押し込む大矢声 この大漁船

二つとせ 二間の沖から外川まで 続いて寄り来る大鰯 この大漁船

三つとせ 皆一同に招をあげ 通わせ船の賑やかさ この大漁船

四つとせ 夜昼焚いても焚き余る 三杯一丁の大鰯 この大漁船

五つとせ いつ来てみても干鰯場は あき間もすき間も更になし この大漁船

六つとせ 六つから六つまで粕割が 大割小割で手に追われ この大漁船

七つとせ 名高き利根川高瀬船 粕や油を積み送る この大漁船

八つとせ 八手の沖合若衆が 万祝揃えて宮参り この大漁船

九つとせ この浦守る川口の 明神ご利益あらわせる この大漁船

十とせ 十を重ねて百となり 千を飛びこす万漁年 この大漁船

じょうかんよ節[編集]

高神原町の東南隅、原と俗称する一帯の台畑を出はずれるところは、切通しの坂になっている。その切通しの右手の石階と石鳥居のある上が、庚申塔群の林立する都波岐神社であり、その反対側の石段の上に建っているのが庄川杢左衛門の碑である。地方民の間には、天明年間に高崎藩代官として銚子地方に派遣されていた人で、天明大飢饉の際に領内庶民の難渋するのを見かね、藩の銚子米倉を開いて数済の緊急手配をとったが、後にその独断専行の責任を問われて自刃したと云う伝説が流布されている。しかしこの碑文には、1790年寛政2年 )57歳で病死したとあって、それらしいことは記されていない。ただ再三にわたる救米数千俵と救恤金数百両により、2万余人の者が起死回生することが出来たと、その仁慈の徳を読えている。碑身の大きさは、高さ3尺・幅1尺2寸の角石、材は小松石である。基盤や台石等3段から成り、これだけの碑石が大勢の村民によって造立されたことは、その徳望が非常に高かった事実を示すものである。碑文によれば、没してから三十三回忌に当たる1823年(文政6年)に、高神村名主の加瀬新右衛門が主となって、村民一同が追暮謝恩をこめて建立したものである。そして当初は、ここを霊場として墓牌(碑の正面には尊位の文字が使われている)を安置したと記されており、三十三回忌までの永い間は小さな堂があったことを示している。また文中に、高崎の先祖の墓所に葬ったとあり、銚子には遺族のないことが判明している。しかし、その伝記が詳細でなく、高崎にも何ら記録や手がかりが存在しないばかりか、墓所も不明となっている[17]

この碑が台地の突端に近いこの地を選んで建てられているのは、この前の都波岐神社に関連する。この神社は元来は庚申塚の発展したもので、銚子で最も盛大な庚申待の行われたところである。無慮何百の庚申石塔が林立し、庚申待の集会家屋まで建っているが、江戸時代には高神全村がここに集まり、講を結んで夜を明かしていた。太平洋戦争の頃まで、この麓には名物団子を売る茶店がのこっていた。これを裏付けるかのように、此の村の盆踊唄は「じょうかんよ節」と呼ばれている。その古い歌詞の一つに、じょうかんよ、さまよ、アレハノセイ、さまに三夜の三日月様は宵にちらりと見たばかり、ションガエー。というのがある。唄い出しの初句は、庄川左衛門を悼むものである。村人の集合場所となっていた都波岐神社の前の原野は、秋の収穫の盆踊の場所でもあった。村人はここに忘れがたき恩人の頒徳神を建て、無事に秋の実りを迎えた欣びを唄う詞のなかに、情深かった代官(じょうかん)を偲んでいた[17]

じょうかんよ節

様よ三夜の三日月様よ宵にちらりと見たばかり

胸に手をあて庄川様は人のためなら是非もない

許しを得ずに米蔵開きお役ご免で自刃する

信仰[編集]

千人塚[編集]

利根川河口

江戸期の船乗仲間の間では、「阿波の鳴門か銚子川口、伊良子渡合が恐ろしや」とうたわれ、銚子川口を日本三大海難所の一つに数えていた。昔から下総地方で言われる俚言に「銚子川口てんでんしのぎ」というものがある。川口にかかったが最後、自分の船をあやつるだけで精一杯というところから、誰の口からともなく言い出されたものである。銚子は一年中風が強く、突風によって暗礁に触れたり、難破することが多かった。ここに難船溺死した漁民の供養のため築かれたのが千人塚である。ここで詠まれた古歌に「うたかたの消えしあわれは昔にて今になみだの露ふる塚」がある。 1706年宝永3年)に観音像が造立され、続いて20年後には銚子の寺院によって追善供養の石地蔵が建てられている。90余年たった1816年文化13年)には、浄土宗の高僧徳本上人を招聘して法要を営み、その筆になる「南無阿弥陀仏」の名号塔を建立している。浄国寺に伝わる日記から、この時は各宗寺院が参加した銚子挙げての大行事であったさまが窺える。塚の前面一帯には墓石や供養卒塔婆が立ち並んでおり、江戸時代のものは風化してしまっているが、墓石は明治が15、大正が5、昭和が13と合計33基がわかる。中にひときわ目立つのは、1910年(明治43年)3月12日の巨碑2基である。この日の大暴風による遭難は漁船80余隻、漁船千余人で、銚子空前の大海難事件であった。遠く三河伊豆から出漁しての遭難もあるが、大部分はこの地のものである。市内の寺院の過去帳を見ると多くの水死人や難破船の記録が見出され、一度に5〜10人、多い時は30人の葬式が執行されている。昔はこの塚の上で焚火をして、帰りが遅い漁船の目印としていた。また、幕末に異国船の来航がしきりになった折には、高崎藩は塚上と伊勢路浦に砲を置いて港口警備にあたり、川口砲台または千人塚砲台と呼ばれたが、後に頂上に航路標識の塔が建てられた[17]

千人塚は遭難漁民だけの塚ではない。江戸時代の銚子港は東北地方と江戸を結ぶ海運の要港であり、回船が付近でしばしば遭難しているので、それらの乗組員も葬られている。また千人塚は塚の名が示すとおり墓所で、ここに遭難者の遺体が葬られた。戦後漁港工事のため塚の周辺の一部が掘削されたとき、多数の人骨が発見されている。これらの人骨は火葬の上、再び千人塚に葬られた。遺体が収容されない行方不明者の場合も、千人塚が墓所となって供養されてきた。地元の者の場合は、その家の代々の墓所に葬られ、千人塚に葬られたのは他郷の者や無縁の者であった。それでも東北地方からの回船の乗組員は元より、銚子の漁民の多くは他郷からの出稼ぎ人であったため、千人塚と呼ばれるほど多数の人々が葬られることになった。さらに千人塚は過去の歴史の遺跡であるばかりでなく、戦後もなお墓所であり供養の場所になっている。戦後においては遭難者の遺骨はここに葬ることはなく、それぞれの家の墓所に葬るが、それでもここに石碑を建てることがある。また石碑は建てなくとも、遺族は卒塔婆を建てて供養を怠らない。このようなことから、海難防止の悲願をこめて、戦後新たに海難漁民慰霊塔が建立されることになった。慰霊塔の建立は1959年(昭和34年)に計画され、各種漁業従業員組合を主体とする銚子港海難漁民慰霊塔建設期成会が結成されて、事業の実行に当たった。慰霊塔は1960年(昭和35年)7月、千人塚の中央に完成、同月20日除幕式が行われた。塔の題字は時の内閣総理大臣岸信介の揮毫によるものであり、基壇の正面には碑文が、左右と後には遭難者名が刻まれている。また塔に向かって左側に、銚子の生んだ現代日本画家渡辺学の漁民の図を刻んだ記念神も建てられ、その裏面に千人塚の由来が刻まれている。塔の基壇には遭難者の名簿が納められているが、名簿に記載されている遭難者数は、1884年(明治17年)から1969年(昭和44年)3月9日までで1039人である。その後若干追加されているが、1971年(昭和46年)9月に漁港工事による新航路が開通してからは、利根川の河口付近での遭難はなくなった[19]。毎年旧暦7月26日には供養の川施餓鬼を、市内主要寺院総出で行うことになっている[17]

銚子特産の一つである牡蠣殻と共に、利根川底から浚渫されるものに石塔がある。石塔は五輪塔宝篋印塔の2種で、一石造りと各部別造りの2様式に分れるが、前者は高さ1尺内外の小形、後者は完形1尺5寸位である。銚子石で造られており、時代は室町末期から江戸中期にわたるものである。こうした石塔は川施餓鬼の行事の所産であり、川口の難所を控え、物故した水難者の霊を慰め、あわせて航行の安全と漁猟の恩恵を祈念した奉納遺物である。元来宝篋印塔や五輪塔は追善供養等のために営造されるものである。地方の寺院には、多くの小形塔(中には木製あり)が納められている所もある。宮城県仙台附近松島の雄島附近の海底からは、小形板碑(板石塔婆)が盛んに発見されている。同島は鎌倉時代に禅宗の高僧頼賢の参籠あってより衆庶の信仰するところとなり、室町から江戸へかけ供養のため海中に小板碑を投入する風習が盛んであった。この板碑は銚子の石塔と全く性質を同じくするものである。竜神の加護を求め、同時に亡者の霊を弔って、梵鐘を河や海へ沈める風習も諸国にあったが、全く滅びて僅かに口碑伝説だけが伝えられている。市内良福寺に安置されている川口観音は、1954年(昭和29年)1月7日牡蠣殻採取の際、引き揚げられた仏頭に胴体を補作の上、奉納されたものである。またこれと前後して寛永通宝の青銭が多く揚がっている。これらも川施餓鬼に関連する遺物である。さらに白亜紀硬砂岩の下総式板碑の断片が揚がり、持宝院に納められている。「キリク」の梵字だけが読まれ、南北朝頃の様式を備えている[17]

銚子木国会[編集]

妙福寺

銚子市妙見町の妙福寺には、「紀国人移住神」と刻まれた石陣が残されている。紀伊国から銚子に移り住んだ祖先を持つ人々が結成した銚子木国会が、この石碑を囲み毎年5月に祖先を偲ぶ法要を行っている。この石陣は、もともと1903年(明治36年)に妙見道と称する地に建てられていたが、1927年(昭和2年)に妙福寺に新たに建てられている。この銚子木国会による法要は1959年(昭和34年)に宝満寺で初めて行われ、第2回を1960年(昭和35年)、その後毎年5月に行うようになった。銚子木国会には「紀州移住者子孫無縁法講及姓名控 明治三十二年五月調査宝満寺徒分」と表紙に書かれた古文書が残されている。内容は過去帳で、特に宝満寺に葬られている人のうち紀伊国出身者ですでに無縁となっている者を抽出したものとなっている。銚子木国会が結成された1898年(明治31年)と1回目法要の1959年(昭和34年)の間に作成されていることや、同会で保管されていることから、銚子木国会の会員が紀伊国から移住してきた人々を敬う気持ちで作成したものとわかる。この帳面の冒頭には「性潮寛文十二年六月十一日崎山次郎右衛門 妻子」という名前もみることができる[4]

銚子の商店街には、湯浅屋・広屋・紀ノ国屋あるいは印南商店・美呂津薬局等、紀州地名ゆかりの看板が多い。いずれも父祖出身地を示すものであり、銚子という都市の性格を大きく反映している。「木国会史」に引用する1730年享保15年)4月、高神村名主勘四郎の書上に、外川浦住居の者が列挙されているが、その中に紀州出身の仕入商・商人・船買人等多数が見られる。いずれも外川開発者の崎山と共に、もしくは刺激されて来住したものである。また同書の巻末に載る1936年(昭和11年)5月の会員名簿を見ると、大部分が商業か漁業関係であり、銚子の有力階層となっている。紀州人姓氏は田辺を最多数とし、名島・崎山・湯浅等の紀州地名をとするものがこれに次いでいる。銚子を構成する市民の少なからさる部分が類似の家歴を持つものであることは、この市成立の特徴をなしている。しかし、郷里広町と銚子に家を存し栄えている濱口家は異例とし、大部分は離郷数世ないし10余世の末裔とあって、多くは祖先発祥地と疎遠になっている。また中には、世の変動に子孫も絶え、市内寺院の一隅に墓石を止めるのみというものもある。また紀州人の分布は、旧時代の西銚子町・銚子町・本銚子町から高神村外川にかけて密、豊浦村海上村等の西部農村地帯に疎である。漁業に商工に、この水辺地帯は紀州人の屈強の入植地であった[17]

神社[編集]

永照稲荷大明神

銚子には農耕神と漁労神が錯雑混交しているが、利根川沿いから海岸づたいに名洗にかけては漁村色の濃い遺物が多く、弁天をはじめ金毘羅、西宮(夷神)等、水運・舟・漁に関する神を祀った小祠が至るところに分布している。これらの神社は全市何百に達しており、板子一枚下は地獄の生活、危険な漁が生業の人々が根強い信仰の中に生きていたことをうかがわせる。これらの神社の中には石器時代以来の遺留神も混じっており、また、国造時代の権力者が奉祀したものも入っているが、いつ創建されたかを識別することは困難である。ただ、千葉氏の妙見信仰から考えて、本城町妙見神社はその支流本庄氏、春日町妙見社は同じ分かれの辺田氏とそれぞれによって勧請崇敬されたものの引継であり、また、海岸地帯に多い西宮神社(名洗町・長崎町・植松町・和田町)は、江戸時代に入って来植した西ノ宮漁夫達の勧請したものであると推定される。同様に、銚子に多い熊野神社は紀州人が設けたものと推定され、古くから下総にある熊野神領の関係から来ているものと混在している。最も新しい例では、新地町の漁運稲荷がある。かつてここにあった旧家の野崎小平次が伏見稲荷を勧請して屋敷の守護神としたものであるが、幕末に同家が退転して市街地となり、漁師や花街に引き継がれ、その信仰を集めて栄えた。また海鹿島の伊勢路浦は、田中玄蕃が漁場開拓の折に伊勢神宮の分祀を奉祭したため地名もこれに因んでおり、この地の産土神となっている。このような特定の人物が祀った神祠が非常に多いことも銚子の特徴であり、また入植地的な土地柄を示している[17]

亀墓[編集]

川口神社参道石段傍の斜面には海亀を祀る小碑が多くあり、漁夫から大漁の神として崇敬されていた。昔はよく大きな海亀が網にかかったり、陸にあがったりしたが、銚子では酒を呑ませて海へ帰すのが例であった。この塚は斃死した亀を埋め、奉祀したものである[17]。長崎には亀を祀った神社があり、縁日の12日は祭事もある[19]。またの頭骨を埋葬して「大漁之神」としたものもある。明治年間の造立であるが、裏面の文も風蝕漫滅して、瘞鯨顱銘、本港漁師増田三平云々を辛うじて読む程度である。鯨を埋めて神石を立てたものは、我が国では銚子と山口県大津郡青海島にあるのみである[17]

寺院[編集]

市内には圧倒的に真言宗寺院が多い。これは古くからの真言系寺院として飯沼観音、円福寺が栄え、中世に至って豪族海上氏一族の絶大な店護によって発展したことによる。江戸期に入っては米倉(八日市場町)の西光寺・水田(旭町)の幸蔵寺・野尻(本市に併合)の東光寺等が、東下総の真言宗の牙城としての役割を果していた。当時は高野山派、古義真言宗に属するものであった。西光寺は1589年天正17年)僧照味以来西下総より南常陸へかけ、真言宗を続轄して大本寺格の権限を有し、幸蔵寺は太田大坊を以て呼ばれた南下総の巨刹、東光寺もまた東下総に門末127寺を従え、常法檀林の中本寺であった。市内に散在する多数の円福寺末寺は、直接には円福寺発展の所産であるが、古くはこれらの方がより影響が大きかった。創立年代を見ると、東岸寺・川福寺・良福寺は同派の教陣伸展と歩調を合わせて創立されており、高福寺・威徳寺・観行院・光厳院・持宝院・阿弥陀院等も、これらと相前後しての草創である。下総が智山派の勢力地となったのは、すべて明治中期以降に属している[17]

これに対して他宗寺院は、江戸時代以降、宝満寺・大慈寺・妙福寺・印定庵・清水庵・笠上寺・和田不動・欣求庵・安産寺・真福寺が創立されている。江戸時代に入って起った銚子の変相は、関西人を主流とする諸国出稼人の開拓であった。彼らは漁業に海運に、あるいは商工業に、銚子の礎を築いた。この階層に檀信徒を求め、新興の銚子を目指して転来、あるいは創立されたのが上述の諸宗寺院である。鎌倉時代の創立とされる浄国寺も、実質的な宗教活動はこの頃からである。これら諸寺院中、宝満寺・妙福寺・浄国寺は、新興階層の興隆と共に発展し、市内屈指の大伽藍となっている[17]

講社[編集]

銚子では、地域の生活共同体、また職能団体として講社が近世以来継承されている。全体的に見ると農業地域に多く、西部地区には様々な種類の講社が見られる。農業地域に次ぐのが漁業地域で、最も少ないのが市街地域である。講社には地域単位のものが多いが、いずれの地域の講社でも、その行事の内容は時代の影響を受けて簡略化されてきている[19]

二十三夜待
望月

江戸時代以来盛んになった月待信仰の一種である。月待とは、十五夜、十七夜、二十三夜等特定の月齢の夜に、人々が宿に寄り合って飲食を共にし、月の出を待ってこれを拝する信仰である。「海上郡誌」は「毎月陰暦二十三日夜、多くの婦女会合なし大陰を祭る。画像を掲げ、御酒を供へ、三更に至る迄雑談に耽り、酒肴を飲食して帰るなり」と述べているが、二十三夜の月は午後11時頃昇るので、真夜中まで集まっていた。三夜様、三夜講等とも呼ばれて続いているが、新暦で行うことが多くなっている。飯沼地区では二十三夜講がいくつかあるが、新暦の毎月23日に行うのが多い。飯沼観音境内には二十三夜堂があって、戦災で焼失したが戦後再建され、同地区の二十三夜講のうちの一つが、この堂に集まって行事を行っている。森戸町では各戸ごとに積み立てをしていて、正、5、9月に三夜講振る舞いと称する飲食をする。また野尻町では本来二十三夜の月を拝む集まりであったが、同夜大火があったことがあったので、青年団を中心にした夜警を兼ねた集まりを三夜講と呼んでいる[19]

庚申講

庚申待の夜に寝ると、人の腹の中にいる三戸虫が抜け出して昇天し、天帝にその人の罪過を告げ命が奪われるという道教の教えから出たもので、庚申の夜を寝ないで過ごし、健康長寿を祈る信仰である。農業地域に広く行われており、昔からの習慣を伝えているところも多い。正、5、9月の申の日に行う地区が多いが、必ずしも一定していない。船木町では正、5、9月の申の日に当番の家に集まり、庚申の像を掲げる。一軒当たり米5合を集め、料理を作る。料理は農家の作物を使ったものが多い。世間話をして夜10時頃解散する。60年ごとの庚申の年には庚申塔を建てることになっている[19]

子安講

市内で広く行われている講である。昔からの習慣を伝えているもの、簡略化されているもの等、内容は様々である。月1回程度集まり、飲食しながら世間話をしている。集まる場所は当番の家や寺である。垣根町の場合は毎月1回寺で行っている。子安様の掛け軸を掛け、昔から伝えられている「おがみ」をする。毎月の子安講はお茶を飲みながら世間話をする程度であるが、正、5、9月には食事をする。講には頭がいて講を取り仕切っている。新しく嫁がくると、姑の紹介で講に入る。これを「仲間入れ」といっている。仲間入れは嫁の家で行い、仲間入れのおがみを行う。このような一通りの儀式が済んで初めて講の一員になる。初めての出産のときは倍神講(シンジンドウと呼んでいる)を行い出産が軽くなることを祈る。妊婦の家に講の人たちが集まって祈るが、これにも昔からのおがみがある。妊婦の家では講の人たちにご馳走をする。2月と8月には講中の人たちで観音参りをする。垣根町の仁王尊と飯沼観音である。以前は1日であったが、最近は勤め人が多くなったので日曜日にしている。観音参りでは安産や子供の丈夫な成長を祈る。観音参りが終わったら、後日都合のよい日を選んで砂はたきをする。妊婦が出産で亡くなったときや、飼い犬が死んだときにも観音参りをする。この場合は垣根の仁王尊と松岸の良福寺である。垣根町の子安講は昔の行事をかなり残しているが、このような子安講は外の地区にもある[19]

観音講

戦後も多くの地区で続いているが、関西参りの同行講が多い。八木町の一部集落では、婦人たちが年齢に応じて講に加わっている。嫁は子安講に加わり、ある程度の年齢になると子安講をぬけて三夜講に加わり、関西参りに行ってくるとその同行で観音講をつくる。それぞれの講は月1回ずつ集まっている[19]

十九夜講

南町には戦前十九夜堂があり十九夜講が続けられていた。戦火で堂は焼失したが、講は南町青年館を会場にして存続している。おばあさんたちが集まって念仏を唱える。本来は十九夜の月を祭るもので、毎月旧暦の19日が講日であったが、戦後は新暦の19日になっている。南町の外に十九夜講の残っているところは森戸町、八木町等である[19]

後草芋念仏

本市の八木町および旧飯岡町の下永井、後草の人々が共同で行っているもので、老人たちで集まり、亡くなった人々に念仏供養する。期日は新暦の2月10日、9月の彼岸の明け、10月10日11月10日である。各集落の当番制になっており、当番集落の寺に集まる。この芋念仏には独特の儀式と踊りがあって、千葉県の無形文化財に指定されている。なお芋念仏とはいわないが、念仏講と称する集まりは他の地区にもある[19]

伝承[編集]

延命姫伝説[編集]

安倍晴明

川口神社はもと白紙明神といい、1870年(明治3年)閏10月に現称に改められた。白紙明神の由来については、安倍晴明と延命姫にまつわる伝説が残っている。銚子近在の長者の娘延命姫は容貌が極めて醜く、陰陽師の安倍晴明を慕って夫婦となったが、晴明は姫を嫌って長者の家を逃げ出し、小浜の海から投身したように装って、親田の真福寺に隠れた。それを知らない姫は、晴明を慕うあまり、後を追って海中に身を投げて死んだ。土地の人はこれを憐れみ、姫の歯や櫛をこの丘に埋めたことから、白紙(歯櫛)明神と呼ぶようになった、というものである。この伝説から、江戸時代から「あざ除け」の白粉を神社で売り出しており、昔はアザやソバカスに悩む妙齢の女性の参詣が絶えなかった。神社の前面、川口の暗礁を明神岩といい、漁民は櫓櫂が触れることを怖れ、これを白紙明神の霊として崇りを信じていた[17]

義経伝説[編集]

源義経

犬吠埼から名洗へかけて、源義経に関する伝説が多い。兄頼朝の追手を逃れて奥州落ちをした時、この地から海路去ったと伝え、その遺跡と称するものがいくつかある。外川浦の犬岩は彼が従者と共に乗船した折、後に残された愛犬が化して巨岩となった。そしてその折、義経を慕って7日7夜吠えたことから犬吠の地名が起こり、乗ってきた愛馬が糞を落とした灯台下に馬糞ノ鼻の称があったと伝えられている。また犬若浦の前方の海中にある千騎ヶ岩(仙ヶ窟)は、義経が一千騎を率いて隠れた洞窟であるといわれる。「東国古戦記」には、「承安四年春、源九郎義経、奥の金商橘次、下総結城の領主深栖頼重と共に下総に下向し、夫より海上郡佐貫城主たる片岡海上介常春が方へと赴きける。(中略)常春御曹子、義経を御慰めの為め、弟八郎弘常に申附け、幕下の諸士多く御供にて、海岸の風光荒波の景色、上方にはあらざる勝地見物として出られける。先づ外川仙ヶ岩屋より畳石、屏風ヶ岩、長崎、鯨這、霧ヶ浜、女夫ヶ鼻杯見廻り、切岸岩にと登り給ひ、此処に暫く御酒宴催されける」の記載がある。この地の義経伝説は、江戸時代中頃から江戸都人士の来銚が多くなるにつれ好事の士がいうようになったもので、薄倖の英雄に対する同情愛惜の念をうかがうことができる[17]

早器居士の墓[編集]

飯沼観音境内

銚子における不思議な伝説の人物は、早器居士(総帰とも書く)であって、早くから江戸の文人の間にも騒がれているが、その正体は把握できない。墓石は飯沼観音堂裏の一画にあったが、太平洋戦争の災禍を受けて廃絶の寸前にある。戦国乱世の武将が主家の敗亡後、全く系累もないままに、この地の衆庶の間に諦観安住を得たものと見られる。滝川一益説もあるが、史的根拠はきわめて薄弱で、関連は不明である。観音堂裏の柵内一隅に現存する墓は、3分の1以上が欠失して、僅かに下部と大石が残っているに過ぎない。文字等は一切見えず、宝塔基盤らしい半肉彫図が窺えるだけである[17]

大納屋おさつ[編集]

外川漁港

外川漁港には、おさつの供養塔がある。おさつは1768年明和5年)、紀州湯浅村から銚子対岸波崎の移住者を慕って来た女性で、東海道を徒歩で波崎まで来たが、住み良いところではなく、しばらく飯貝根に男装して水夫として働いていた。しかし、男装ということが判って雇う人がなくなり、外川の崎山家に女中兼水夫として雇われ、その後崎山次郎右衛門の後妻となった。おさつは家業に尽くしたが、不漁が続き紀州に帰った次郎右衛門を慕うあまり気が狂い、1802年享和2年)3月8日に浦人に殺された。おさつの死後、外川浦は不漁時代が続き、村内は寂れるばかりであった。1816年(文化13年)、徳本上人が下総地方への巡錫の折に、外川浦人の懇意によりおさつの霊を慰めたところ、法力で海は穏やかになり、大漁の日が続いた[148]。以来、地元では「徳本講」を組織し、旧暦3月8日に外川、長崎、高神地区で大法会を行うようになった[149]。団子を供え、小船で団子と花、小銭を海に流している。この小銭が海辺に漂着するとご利益があり、拾った者に幸福がもたらされると信じられている。また、この日は必ず穏やかな南風が吹いて豊漁となると伝えられ、この日は「徳本風」と呼ばれている[147]。徳本上人の名号碑は外川、千人塚、浄国寺に建立されている。おさつの墓は波崎の宝善寺にあり、湯浅佐平阿姫と刻まれている[149]

食文化[編集]

  • なめろう - おろしたイワシに味噌、長ネギ、青じそ、生姜を混ぜ、包丁でたたき合わせて作る漁師料理[147]
  • さんが焼き - イワシのたたきに味噌、生姜、タマネギ等を加え、小判型に焼いた料理[100]。酒の肴となる[147]
  • 海藻こんにゃく - 海藻のコトジツノマタを煮溶かして固めた料理。色は緑灰色で、寒天に似た食感であり、ネギ、鰹節、唐辛子等とあわせて醤油をかけて食べる[100][150]
  • のげのり - 銚子特産の乾燥海藻食品。味噌汁や吸い物等に用いる[150]
  • 磯牡蠣 - 銚子付近の荒磯で採れる天然牡蠣。夏場が旬で、生のままレモンをかけて食べる[100]
  • 伊達巻鮨 - 半月状の玉子焼きを太巻き鮨の上に乗せた鮨。東芝町の鮨店「大久保」が明治初期に細工鮨として考案したもので、「漁夫のプリン」と称される[151]
  • 木の葉パン - 卵やバターを加えて焼いた焼き菓子。大正初期に浜町の菓子店「宮内」2代店主により創作された[152]

方言[編集]

銚子市外川町

江戸川柳に「又銚子言葉と母にしかられる」というものがある。勘当を許されて江戸に戻った放蕩息子の口から、しばしば銚子言葉が飛び出すさまを詠んだものである。この川柳が作られたのは、江戸中期も遅い安永年間(1772年1781年)であるが、江戸の川柳子の間では、銚子や銚子言葉がよく知られていたことがわかる。この頃の銚子とは、利根川の最下流の下総側沿岸地帯のことで、明確な境界線はなかった。そして江戸の人々が銚子に対して抱いていた印象は、大小の船の出入りする港町とイワシのとれる浜であった。近代の銚子の地域を最も広く捉えると、明治の「市制町村制」に基づく3町3村となる。江戸時代の村にすると19村である。各町村の区域の特色は、旧本銚子町地区は漁業地域、旧豊浦村地区は農業地域というように、産業によって区分することができた。近代に至るまでには、それぞれの地域の言葉には、それぞれの地域性が現れるようになり、その地域差は銚子人同士には十分識別できる程度のものとなった。銚子の言葉は大別すると、漁業地域の言葉と農業地域の言葉と商工業地域の言葉とに分けられる。漁業地域は主として東部と南東部、農業地域は南部と西部、商工業地域は中央部である。これらの各地域の言葉に共通しているのは、濁音と訛りが多いため言葉の響きが重く、東京言葉のような軽やかさがないことである。このような銚子の言葉の特徴を代表するのは、漁業地域の言葉いわゆる浜の言葉である。戦後は旧町村区域というような行政区画上の地域差はほとんどなくなり、また漁業地域・農業地域というような地域差も薄れつつあり、青少年層はもとより中・高年齢層も含めて共通語化が進んでいる[19]

意志・推量を表す「べえ」は古語「べし」の変化であり、古くから関東方言の特徴とされている。べえべえ言葉は関東から東北地方南部にかけての広い地域に見られるが、銚子では「コノ イゲー サガナワ アンダッペ」(この大きい魚は何だろう)、「キョーワ アミキヨリ ヤッペヤ」(今日は網の修理をしようよ)のように促音のあとに続く場合には「ぺ」になる。「イゲー」(大きい)は関東から中部地方にかけて分布する方言であり、「いかめしい」の「いか」と同じ語源の語である。発音の面での特徴としては、連母語の長音化、「ヒ」と「シ」の混同、語中のカ行・タ行を有声音(濁音)で発音する現象、鼻濁音の存在等が挙げられる。「アゲー」(赤い)、「テーヘン」(大変)「クデー」(くどい)「シデー」(ひどい)等は連母語が規則的に変化するもので、全国的に広く見られる現象である。「シデー」のように「ヒ」と「シ」の混同する現象は東京下町方言の特徴である[153]

銚子方言の大きな特色の一つは東北方言との共通性である。「オメサン ドゴサ イグダ」(あなたはどこに行くのか)のように用いられる方向を表す格助詞の「サ」は東北方言の特徴であり、関東では主として栃木茨城両県のほか、銚子を含む千葉県北東部にも見られる。この「サ」は「サマ」(様)の変化と考えられている。鼻濁音は「カカ゜ミ」(鏡)の「カ゜」のように、語中のガ音行が鼻音になる現象である。関東では栃木・茨城と千葉北部で見られ、銚子では特に盛んである。「ツグエ」(机)、「カダ」(肩)のように語中のカ行音とタ行音が有声語(濁音)になる現象も東北方言の一特徴である。関東では栃木・茨城と千葉県北部に認められる。銚子方言のもう一つの大きな特徴は関西方言の流入である。「臆病者」の意味の「オジクソ」は西日本系の語である。「オジクソ」の「オジ」の部分は共通語の「おじけづく」の「おじ」と同源である。このように、銚子地方の方言は基本的には関東方言の諸特徴を有するが、その上に東北方言と関西方言の特徴がかぶさっており、対岸が茨城県であるという銚子の地理的位置と、漁業や醤油醸造に関わる関西との交流の歴史が言語の特色に反映している。「カンクルリンと忘れた」「アバトバして追いかける」「ミジミジ(しっかり)やれよ」「ヤキヤキ(いらいら)する」のような擬声語擬態語が豊かなことも銚子方言の特色である[153]

銚子や波崎では「まつかさ」を「チンチロ」「チンチリ」と言うが、これは紀州人から持ち込まれたものである。「塩辛い」を「ショッパイ」「ショッペー」と言う中、高田、小船木、森戸では関東に多い「カライ」と言った。「薬指」は東日本ではクスリ類(「クスリユビ」等)、西日本ではべニ類(「ベニユビ」等)が多いが、長塚、船木では「ベニサシユビ」「ベニツケユビ」「ベニユビ」等、西日本に多いベニ類が使われていた[100]

語彙
  • あおなじみ(青あざ)
  • いがい(大きい)
  • いぎれる(はしゃぐ)
  • いじやげる(じれったい)
  • いっちゃぐ(一緒)
  • うだだい(かったるい)
  • うらっぽ(先端)
  • うんならがす(張り切る、乗り物を飛ばす)
  • おしゃらぐ(お洒落)
  • おじくそ(臆病者)
  • おっぺす(押す)
  • かしき(船の炊事)
  • がぜ(ウニ)
  • かっちゃぐ(掻く)
  • かっぺる(船が転覆する、被せる)
  • がんまち(自分勝手、利己的)
  • きたんきたん(ぼろぼろ)
  • きもいれる(頭にくる)
  • きやり(身体の一部を捻る)
  • きらっせえ(おいでなさい)
  • ぐすぐす(とことん)
  • くっつぐ(食い付く)
  • こったんねえ(間が抜けている)
  • けえちゃ(裏返し)
  • こわい(疲れる)
  • 逆潮がぶっとんでる(女房のヒステリー)
  • 潮の口があく(潮の引き始め)
  • しゃっこい(冷たい)
  • じゃみる(にじむ)
  • しょっぴぐ(引っ張る)
  • すてっぱず(最大)
  • そぐべる(寝そべる)
  • つっぽす(突き刺す)
  • ていろを見る(漁の様子を見る、人の顔色を見る)
  • てんこ、てんこ(潮がいっぱい引く)
  • てんとまつみ(夕暮れまで2時半ほどある)
  • どんたく・どんご(綿入れの着物)
  • ぬぐだまる(温まる)
  • のぜえる(物がつかえる)
  • のめる(埋める)
  • のんべんだらりん(だらしない状態)
  • びだげる(甘える)
  • びだびだ(ひたひた)
  • びんちょ(揃わない)
  • ぶぐじげない(気が利かない、不器用)
  • ふっかげる(雨が降りかかる)
  • ふったがる(燃え盛る)
  • ぶっちゃげる(壊れる)
  • ふんぐじぐ(ぶちのめす)
  • へえとのたませえ(ふぬけ)
  • べえぼ(くぼがい、すがい)
  • ほぎほぎ(たっぷり)
  • ほぎる(繁る)
  • ぼっか(大うなぎ)
  • ぼった(ぼろぼろ)
  • までる(収納する)
  • まん直し(間をおく、酒を飲む)
  • めど、めんとこ(穴)
  • もうれんやっさ(船幽霊)
  • もじぐ(もぎとる)
  • わーか(少し)
鳥山石燕『舟幽霊』
銚子の俚言・格言
  • 雨ぽーぽー、興野の旦那が船おろす。ミノもカサもあんもねえ。 = 雨天に着るぼうぼ袖(筒袖)の外套で興野の船主がやって来たが、おれたちは、蓑笠も何もないので、ぬれて船おろしをする。
  • 行って戻らぬ赤口日(どうごにち) = 「赤口」の日には船の進水式や出港を嫌ったが、結婚式には吉日とされる。
  • かせぎ男に、まわし女 = 男は浜で稼ぎ、女房はその金をうまく切り盛りする。
  • おもかじ枕にすっと、しょっぴぎこまれる = 船幽霊は右側のおもかじから上がって来るので、枕にすると海に引きずりこまれる(船霊様は左側のとりかじにまつってある)。
  • かあるぐなあれ、かあるぐなあれ = 海で死者を見つけたときの唱えことば。このことばを唱えながら死体を引き上げると本当に軽くなるという。
  • 月の満とき、港に潮なし = 月が真上に輝いているときには、港には潮が引いてないということ。
  • 7月8日の朝がれ夜がれ = 旧暦の7月8日は、朝方と夕方に引潮になる。
  • おてんとさんが腰とった = お日様が沈むときに雲が入ったり、うすい色で太陽が見えたりすると、天気がくずれる。
長崎鼻
気象のことば
  • 上げ潮みなみ = 午後の上げ潮どきに吹く南寄りの風(春〜夏)。
  • 上げ潮あめ = 上げ潮どきに降る雨(春)。
  • 宵のシュウテは、明日の凪 = 宵のうちの時雨は必ず明日の好天(シュウテは時雨・疾風)
  • 宵イナサ、朝マガダ = 宵に南東の風が吹けば、翌朝は北西の風になる(サンマの漁期によく吹く。イナサは最もおそろしい風)
  • イナサのドブ = 4、5月に何日もしょぼしょぼと降り続く生あたたかい南東風の霧雨。
  • いぬいのかん立ち、照りの元 = 北西に出る大きな雲は、厳しい暑さの元である(外川から見る飯岡方面の入道雲)。
  • 三風 = 愛宕山を中心にして、犬吠から北は北寄りの風、長崎鼻から南は南風、中央の酉明海岸は西寄りの風(冬に多い)。
  • 秋山春海 = 秋は西の山の方が晴れれば天気は上がってくる。春は東の海の方が晴れれば天気は上がってくる。
銚子の夕空
風向きの呼び方
  • 北ゴチ = 北北東
  • コチ = 北東
  • イナサゴチ = 東南東
  • イナサ = 南東
  • ヤマセ = 南
  • ニシヤマ = 西南西
  • マカダ = 北西
犬吠埼の怒濤
波浪の呼び方
  • ナグロ = 大うねり、大波、台風低気圧による大津波。
  • 磯ケ = 磯波、台風〜低気圧の前後に海岸に打つ波が多くなる。
  • オル(オル波) = クダケ波。
  • 三角波 = 海・潮流と風向きが相反対になったときに起きる波。
  • 風子 = さざ波。静かな海面上に局部的に弱い風が吹いたときに起きる。
  • アビキ = 足引き。台風襲来前後に起きる現象。海岸へ非常な勢いで打ち上げ、また、非常な速度で引く。ちょうど海岸が小さな津波のような状態となる。
小浜地区の辻切り
ほめことば

これこれ申し八木村さん。お前は常世田行かしゃんせ。わたしゃ、親田の目を忍び、小松のかげで話そうと、これまで慕うてきたものを小浜小浜と言わすんが、そんな辺田じゃれ言わずとも小川戸とか名洗とか、呼んでくだしゃんせ。全体お前の気が高神で、にくていの犬岩に食いこまれ、そばの屋台門島に笑われて、えび島のように赤くなり、これこれ仙ヶ岩屋をごろうじろ。こんな大きななりをして、お台場さんと向かい合い、仲のよいのがしおらしい。新浦の悪い心をなおそうと、安波様へと願をかけ、向こう三つ磯畳磯、そばに三社の腰掛け岩、長崎の金石は色は黒いが固いもの。雀岩をばはや越えて、石切り越えて君ヶ浜、海鹿も鳴くや黒生の、千人塚へとかけ上がり、波崎の沖を眺むれば、積み来る船数知れずとほめ申そう。(昔、祝言などで村人が節をつけて唱えたもの)

高校野球[編集]

千葉県立銚子商業高等学校

高等学校野球は高校のクラブ活動として学校体育の一環とされるが、銚子では古くから盛んで、全国優勝の栄冠を得た銚子商業がある。高等学校野球の全国大会には春の大会と夏の大会の2種類がある。春の大会は、1924年(大正13年)からの毎日新聞社日本高等学校野球連盟主催による選抜高等学校野球大会であり、夏の大会は、1915年(大正4年)からの朝日新聞社と日本高等学校野球連盟主催による全国高等学校野球選手権大会である。選抜大会には数県をもって単位とする地区から選抜された学校が、選手権大会には地方大会優勝校が出場する。特に夏の大会は地方予選から甲子園大会まで、一貫してトーナメント方式であるため、予選の段階から人気が沸騰する[19]

戦前の銚子において、野球部を有する中等学校は、千葉県立銚子商業学校であった。同校野球部の創立は学校創立と同時の1909年(明治42年)である。1938年(昭和11年)夏の千葉県予選では初めて優勝したが、南関東大会で敗れて甲子園出場は果たされなかった。銚子商業学校は戦後銚子商業高等学校となった。その銚子商業が初めて念願の甲子園に出場することになったのは1953年(昭和28年)の春の選抜大会である。これ以後1968年(昭和43年)、1969年(昭和44年)、1972年(昭和47年)、1973年(昭和48年)、1974年(昭和49年)、1977年(昭和52年)、1995年(平成7年)と合計8回出場した。この間の最高成績は1995年(平成7年)の第67回大会において準優勝したことである。夏の選手権大会については、1958年(昭和33年)の第40回大会に初出場した。これ以後1961年(昭和36年)、1963年(昭和38年)、1965年(昭和40年)、1970年(昭和45年)、1971年(昭和46年)、1973年(昭和48年)、1974年(昭和49年)、1976年(昭和51年)、1985年(昭和60年)、1995年(平成7年)、2005年(平成17年)と合計12回千葉県代表として出場している。この間、1965年(昭和40年)の第47回大会においては決勝戦まで進出して準優勝し、さらに1974年(昭和49年)の第56回大会においては、全国優勝の偉業を成し遂げた。甲子園大会への期待は、戦後ほとんど銚子商業が担ってきたが、1970年代以降は市立高等学校野球部の力量も向上し、銚子市立銚子高等学校1979年(昭和54年)夏の第61回大会では銚子市立銚子高等学校が千葉県予選で優勝し、銚子商業に代わって甲子園出場の栄冠を勝ち取った。1981年(昭和56年)には銚子市立銚子西高等学校が第63回大会に初出場した。千葉大会決勝戦で銚子商業に勝ち、創部5年目の甲子園初出場となった[19]

このような活躍の中で、銚子商業から花沢英雄新井彰関根知雄田中達彦古川明木樽正明杉山茂市原明町田公雄渡辺進根本隆土屋正勝篠塚和典宇野勝尾上旭片平哲也大川隆八木政義澤井良輔、市立銚子から遠藤伸久石毛宏典銚子利夫長谷川昌幸窪田淳のように、数多くのプロ野球選手を輩出している。銚子から甲子園出場となると、多数の市民が甲子園まで出かけ、はなやかな大漁旗を振って応援した。また、試合中銚子にいる市民はテレビで観戦するため、街の中は自動車も人通りもまばらになった[19]

千葉県立銚子商業高等学校校歌

作詞 相馬御風 作曲 東儀鉄笛

一 幾千年の昔より 海と陸との戦いの 激しきさまを続けつつ 犬吠岬は見よ立てり

二 流れて絶えず新たなる 利根の流れは汪洋と 千古の歩み絶えずして 不易の姿を現わせり

三 嗚呼偉大なる此の郷の 自然の大気身に浴びて ここに学べる健児等の 胸に希望のなからめや

四 学びの道の行く手には 進みてとるにまかせたる 広く大なる人生の 戦いの野ぞ開けたる

五 嗚呼人生の戦いの 糧を貯え武器を砥ぎ 力をここに養なえる 若き健児の我等あり

六 われに取るべき武器とては 習むる業の外になく 我を助くる者とては 我の力の外になし

七 独立自主の精神ぞ 我等健児の命なる 進取不屈の気象こそ 我等健児の命なれ

八 富国の基国運の 未来の鍵は我にあり 見よ人生の戦いの 勝利の旗は我を待つ

九 鳴呼偉大なる此の郷の 自然の大気身に浴びて ここに学べる健児等が 行く手の道はかがやけり

十 いざ声あげて諸共に 希望の歌を歌わなん いざ声あげて諸共に 進取の歌を歌わなん

銚子と文学[編集]

江戸時代[編集]

犬吠埼の荒磯

文化文政の頃から江戸在住の文人墨客が銚子へ相次いで来遊し、銚子の海岸の風光を和歌俳句漢詩に詠み、あるいは文に記し絵にして雅懐を述べている。磯巡りという言葉もこの時代には既に生まれており、文人墨客に限らず一般の人々も含めて、海岸見物が銚子を訪れる人々のコースの一つになっていた。文人墨客の作品は一様に、銚子の海岸の奇岩、断崖、白砂、青松、怒涛等、変化に富んだ明媚な風光を讃えている[19]。海岸以外の名所として江戸時代に著名であったのは飯沼観音や和田不動、川口明神等の寺社であった[19]。文人墨客の中には船主や素封家に寄食し長逗留する人もいて、その折に書画等が記念として贈られたため、多くの作品が銚子に残されている[35]

松尾芭蕉[編集]

浄土宗の名刹で大銀杏や老松が枯淡な趣きを見せる春日町の浄国寺境内には、1846年弘化2年)に建立された芭蕉の「枯枝にからすのとまりけり秋の暮」の句碑がある。句碑の片隅には檀家の行方屋庄治郎(俳号桂丸大里氏)の句がある。浄国寺は江戸時代には江戸の文人墨客や風流雅人が好んで足を運んだ所であり、渡辺崋山や梁川星巌とその妻紅蘭、小林一茶等もその名を連ねている。桂丸は銚子の廻船問屋「行方屋」の6代大里庄治郎富文である。葛斎恒丸に俳諧を学び恒斎桂丸と号した。編著に「椎柴」があり、青野太筇の序、豊島久蔵(由誓)の跋を得ている。桂丸は渡辺崋山や一茶の後援者の一人としても知られ、一茶の「七番日記」の中に桂丸との風交が記されている[154]

小林一茶[編集]

民衆俳人として親しまれている小林一茶は、文化年中に何度も下総各地の俳友や弟子を訪ねて来遊している[154]1817年(文化14年)には江戸隠退を決意、その挨拶巡りのため、松戸の馬橋、布川、鹿島詣での後、潮来から船で銚子入りをしている[17]。浄国寺境内の望西台上で吟じた句として、この台の清風ただちに心涼しく西方浄土もかくあらんと、「ほととぎす爰を去ること遠からず」の句を残している[154]

十返舎一九[編集]

十返舎一九の銚子への来遊は1816年(文化13年)であるが、「玄蕃日記」の同年閏8月18日の条にもそのことが見えている。銚子地方の紀行をまとめたものは「南総紀行旅眼石」で、この時下総を巡遊して各地に狂歌の愛好家を訪ねている。この時、一九は江戸を出て一路香取神宮に詣で利根川を下り、松岸・銚子に来て磯巡りをし、更に鹿島神宮から水戸筑波日光を経て帰っている[17]。銚子の街の様子を詳しく記述し、旅館や料亭、名所等を具体的に挙げている[35]。特に松岸・本城の遊郭に遊楽して遊女の源氏名を挙げている。これ以後、銚子では狂歌が盛んになり、廻船問屋の十五屋が狂歌会を催し、その伝統は明治・大正にまで及んだ。明治に入ってからは情歌の称が起こって神社奉納の歌会がしばしば催されている[17]

明治以降[編集]

犬吠埼周辺は景勝地として古くから知られていたが、1874年明治7年)の灯台建設後、犬吠埼は磯巡りの名所から、灯台見物や海水浴を目的とした観光の拠点となっていった。1885年(明治18年)には旅館暁雞館が創立されて、その離れ「水明桜」には明治期の多くの文人が宿泊している。この頃日本国内において、治療行為としての海水浴が開始され、暁雞館はこれらの潮湯治客を相手としていた。その後、1897年(明治30年)に総武鉄道が銚子まで開通し、それまでの蒸気船による交通から、より以上の便をもって東京と結ばれた。こうした状況の中、伏見宮家の別邸の用地として犬吠埼が選定され、1905年(明治38年)に竣工した[34]伏見宮貞愛親王1923年大正12年)に66歳で没するまで、毎年のように避暑や避寒のため銚子を訪れていた[34]。瑞鶴荘の敷地には主屋、茶室、潮見亭、撞球場、倉庫等の建物があり、これらの建物や庭園は、海岸の風景を借景とした設計がなされていた[34]。総武鉄道の銚子駅と犬吠埼付近を結ぶ銚子遊覧鉄道も整備され、1913年(大正2年)から1918年(大正7年)まで営業した。遊覧鉄道の廃業後、1923年(大正12年)には銚子鉄道が営業を開始した[155]

国木田独歩[編集]

犬吠埼の高波

明治文壇に不朽の足跡を残した国木田独歩は、1871年(明治4年)7月15日に銚子で生まれた[154]。通説では、難破した播州竜野藩用船の竜野丸に乗り込んでいた藩士、国木田専八と銚子の淡路まんとの間に生まれた子とされている[154]。父である専八は、難破と共に負傷しその療養のため観音前の吉野屋旅館に滞在、そこで女中をしていた淡路まんと結ばれた[154]。郷土を離れてからの独歩はその短い生涯の大半を東京で過ごし、生活のため各地を転々としたが、自らの出生地の銚子を何度も訪れている。1893年(明治26年)には千葉から徒歩で銚子に向かう途中、東金で一泊した。たまたま同宿した青年と意気投合し、徹夜で語りあかした体験をもとに「驟雨」という作品が書かれた。また、その4年後の4月には田山花袋とともに布佐柳田国男を訪れ、その後単身で銚子に向かっている。彼の終焉は1908年(明治41年)6月23日神奈川県茅ヶ崎市南湖院病室で、38歳の若さであった。南湖院は有名な結核療養所であり、明治から大正にかけて幾多の文人が入院し、またその多くがここで他界している。その「病状録」には故郷銚子の風光に思いをはせ、望郷の念を口述して知友真山青果に筆記させている[154]

余は水を愛し、雲を愛す。雲を見て空間の無限を恐れ、海を見て空間の無限を知る。然かも海に立つ毎に余は必ずしも対岸を思はざる事あらざるなり。夏の波は高く、冬の波は低し、土用七月の波、これを犬吠岬に見る。その壮観未だ忘るゝ能はず。河流を見て天智の悠久を知る。斯の水、斯の人、何の時か又相会はんや。利根の大流に潸然として涙を濺ぎし事ありき

「病状録」

1952年昭和27年)には、市民有志の寄付により、海鹿島海岸の松林に囲まれた一角に碑が建立された。「なつかしきわが故郷は何処ぞや、彼処にわれは山林の児なり」の碑文は、詩人日夏耿之介の揮毫にかかる[17]

徳富蘆花[編集]

川瀬巴水『犬吠の朝』

明治を風靡した文豪の一人、徳富蘆花房総半島には数回来遊しており、銚子へは1897年(明治30年)11月1日日本橋蛎殻町河岸から船で、中川・江戸川を経て利根川下りで来ている。この時の紀行は「青山白雲」の中に書かれているが、2日の午後2時に銚子に上陸し吉野屋旅館に泊まった。3日は飯沼観音に詣で、浜づたいに川口・夫婦ヶ鼻・黒生・海鹿島・犬吠埼と磯巡りの後、水明楼に泊まっている。蘆花はこの地の風光を気に入り、4日、5日も同様に泊まって、長崎浦から外川方面を散策している。6日には銚子の街に出て、利根川河畔の大新旅館に一泊、翌日息栖・潮来へ出て水郷を数日めぐって帰京している[17]。蘆花は「枕を撼かす濤声に夢を破られ、起って戸を開きぬ。時は明治二十九年十一月四日の早暁、場所は銚子の水明楼にして、楼下は直ちに大東洋なり。」に始まる「自然と人生」の一編「大海の出日」において、水明楼から見た太平洋に昇る日の出を、華麗で緊迫した文語体で微細に描き出している[156]

波の音に雑る鶏声に夢破れ、起きて縁側の戸少し開けば、海の面は猶ほの闇く、空には星爛々として下弦の月の光さやかなり。左手の方より時々白光のさし来るは、犬吠岬の燈台の回転するなり。己にして東の空少し朱黄色になりて、冷々としたる風の海面を撫づるままに、海は東より明けそめ、仰げば空の星は一つゝ消え、黄金の弓と見し月も今は白銀の光薄うなりつ。東の空は何時か燃ゆるばかり、朱紅色になり、見るが内に一分ばかり流を出づるものあり。眩ゆくして見るべからず。あゝ是れ日の海を出づるなり。真に瞬く間もなし。呀と云ふ間に、分より寸、眉よりして眼、鼻よりして口、今海を離るゝかと思へば一道の金ゆらゆらと万里の太平洋を駛りて、忽ち眼下の磯に到る頃は、吾が居る室内赫と明るくなりて、行燈の光白うなりぬ。顧みれば吾影黒う壁にうつりたり。銚子の日の出聞きしばゝ、今始めて見るを得き。

「自然と人生」大海の出日

「自然と人生」は当時のベストセラーとなり、自然を見る新しい目は旧来の花鳥風月の美意識を覆した。特に「雑木林」と「大海の出日」は明治の青年に衝撃を与え、犬吠埼の日の出へと人々を誘った[156]。犬吠埼から長崎町に至る海岸道路の端には、1957年(昭和32年)徳富蘆花三十回忌の日に、銚子文化遺跡保存会が建立した「水明楼之趾碑」がある。

高村光太郎[編集]

旧暁雞館 表門

高村光太郎が銚子を訪れたのは1912年(大正元年)夏のことで、その頃デカダンに陥り悩み果てていた光太郎は、犬吠埼に写生に訪れて暁雞館に宿泊し、同じく訪れた長沼智恵子と出会った。光太郎は智恵子を以前から知っており、この夏の犬吠埼で2人の間に強い繋がりが生まれた。光太郎に会いたい希望は智恵子から出たもので、柳敬助夫人や日本女子大学の先輩・八重が仲立ちに立ったと言われている[35]。詩集「智恵子抄」に付されている「智恵子の半生」にこの夏のことが書かれている[154]

そのうちに私は現在のアトリエを父に建ててもらう事になり、明治四十五年には出来上がって、一人で移り住んだ。彼女はお祝にグロキシニアの大鉢を持って此処へ訪ねてきた。丁度明治天皇様崩御の後、私は犬吠へ写生に出かけた。その時別の宿に彼女が妹さんと一人の親友と一緒に来ていて又会った。後に彼女は私の宿へ来て滞在し、一緒に散歩したり食事したり写生したりした。様子が変に見えたものか、宿の女中が一人必ず私達二人の散歩を監視するためついて来た。心中しかねないと見たらしい。智恵子が後日語る所によると、その時若もし私が何か無理な事でも言い出すような事があったら、彼女は即座に入水して死ぬつもりだったという事であった。私はそんな事は知らなかったが、此の宿の滞在中に見た彼女の清純な態度と、無欲な素朴な気質と、限りなきその自然への愛とに強く打たれた。君が浜の浜防風を喜ぶ彼女はまったく子供であった。しかし又私は入浴の時、隣の風呂場に居る彼女を偶然に目にして、何だか運命のつながりが二人の間にあるのではないかという予感をふと感じた。

「智恵子の半生」

この出会いの後智恵子は熱烈な手紙を書き送り、光太郎も「此の人の外に心を託すべき女性は無いと思うように」なって、やがて結婚した[154]

暁雞館には当時、水汲みや雑役に太郎と呼ばれる大男がいて、光太郎はこの太郎をモデルに、「犬吠の太郎」と題する一編の詩を作っている[35]

犬吠の太郎

太郎 太郎

犬吠の太郎 馬鹿の太郎

けふも海が鳴ってゐる

娘曲馬のびらを担いで

ブリキの罐を棒千切で

ステテレカンカンとお前がたたけば

様子のいいお前がたたけば

海の波がごうと鳴って歯をむき出すよ

  (以下略)

犬吠埼の強風に荒れ狂う怒涛のリズムを取り入れた、口語体で書かれたこの詩には、当時の光太郎の鬱屈した心理状態が反映されている[35]。暁雞館には、明治から昭和にかけて、皇族華族・政府高官や文人墨客が多数宿泊し、銚子の迎賓館としての役割を果たすと共に、地元各界名士の社交場としても利用された。

三富朽葉・今井白楊[編集]

涙痕の碑

早稲田大学出身の青年詩人三富朽葉今井白楊1917年(大正6年)8月2日、波荒い君ヶ浜に水泳を試み、一人が溺れているのを救おうとして相共に激浪にさらわれて死んだ。朽葉の父は悲嘆のあまり翌年8月、ここに涙痕の碑を建てて追悼した。二人はこの海岸にあった三富家の別荘に来ていての遭難であった。その前後の模様は「追悼録」に詳しい。

 八月二日午前のことである。二人(三富今井)は飄然銚子町に出掛けた。今井君に郵便局の用事その他があり、三富君に若干の買物があった為でもあったが、之等は必ずしもその日を要することではなかった。つれづれなるままに漫歩してみたくなったのであろう。

 初め遊覧鉄道を利用する筈であったが、発車時間に後れたので、徒歩銚子町に向った。(略)

 銚子町ではビール一ダースが主なる買物であった。そして帰途又予定の列車に乗り後れた。次の発車を待つ程の事もないので、再び徒歩帰途に就いた。ビールは中半ダースを商店に預けて、相共に残り半ダースを携えた。

 犬吠駅に近く海獺島なる駅がある。駅前に毎夏三富君が無聊の折に立ち寄った珈琲店がある。この時もここに珈琲を啜って小憩をとった。

 別荘より数丁の所に日頃ゆきつけの一農家があって、店に青物や草花を拡げている。二人はここにも立ち寄って、昼餉の膳に上る茄子を求めた。後に主人の語るところによれば、この二青年は常に快活で、来れば、何事か戯言を交えずに去ることをしなかった。然るに、この日ばかりは共に口を噤んで語らず、いたく疲労の体に見えた。ただ無雑作に風呂敷を投げ出し、主人が包むに任せた。顔色やや青ざめて、態度に力が無かったという。

 別荘に帰りつくと二人は元気を恢復したらしく見えた。直ちに衣を更めて波打際に下り立とうとした。母堂はその日の天候と或る不可思議な理由に促されて、しきりに二人を止めた。

 この日は空模様悪しく、浜風の吹き廻しが何となく不安であった。海は常よりも鞺鞳の響高く、別荘の前庭即ち断崖の上に立って望めば、波浪岩に当って砕ける状物凄く、波打際はただ真白に見えた。

 二人は暑いから一浴びあびてくるという軽い言葉をのこしてこの断崖を駈け下りた。

 時を隔てて、一老人が二人の遭難を報じて来た。

「追悼録」

「新東京文学散歩」(野田宇太郎著)は、朽葉について「明治四十四年早稲田大学を卒業する以前よりフランス近代詩に意を傾け、サンボリウムに感化され、次々に注目すべき作品を発表していた。『早稲田文学』『劇の詩』などの早稲田系の雑誌のみならず『創作』『文章世界』『ザムボア』などでもその作品は光った」と記している[17]

竹久夢二[編集]

マツヨイグサ

大正浪漫を代表する叙情画家である竹久夢二は、海鹿島を訪れた際に次の詩を作っている[35]

宵待草

遣る瀬ない釣り鐘草の夕の歌が あれあれ風に吹かれて来る

待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草の心もとなき

想ふまいとは思へども 我としもなきため涙 今宵は月も出ぬさうな

夢二は1910年(明治43年)夏に海鹿島を訪れ、宮下旅館に間借りをした。宮下旅館の南隣には長谷川康という名望家がいた。子供が4人あって、長女がシマ、次女がカオル、三女が賢(カタ)、長男が某といった。夢二は賢を見そめ、長谷川家に近づき、彼女を散歩に誘い出すことに成功した。海鹿島の松林の中には犬吠埼灯台へ行く白い路が延びており、夢二はここを通い路と名付け、逢瀬を重ねた。その様子は集落中の大評判になった。夢二は翌年再び海鹿島を訪れたが、賢はすでに鹿児島の教師のもとへ嫁入りをしていた。この詩は、夢二が失望のあまり当てもなく海鹿島海岸をさまよっていた時、海岸に咲き乱れるマツヨイグサによせてわが身の悲恋をうたったものである[35]

原詩は3行詩の形に改められて、1923年(大正12年)発行の「どんたく」に掲載された。これにヴァイオリン奏者・多忠亮がメロディーをつけて、一世を風靡した[35]1971年(昭和46年)、房総夢二会が海鹿島の思咢庵美術館敷地内にこの歌碑を建てた。オオマツヨイグサは市の花に選定されており、夏の夕景として、海鹿島から犬吠埼にかけての海岸に苗の植付けが行われている[19]

小川芋銭[編集]

河童の絵で有名な日本画家の小川芋銭は、1923年(大正12年)、東京三越の展覧会が終わった直後、後援者であった篠目八郎兵衛の勧めにより、海鹿島海岸の高台にある篠目別荘で休息した。芋銭は逗留中に「樹間如水人如魚」や「水魅戯」を描き、海鹿島海岸に魅せられた。翌年、海鹿島を再度訪れた芋銭は篠目別荘を「潮光庵」と名付けて半年間逗留し、1938年(昭和13年)に71歳で没するまで毎年のように来て、多くの名作を描いた。1930年(昭和5年)の「積雨収」、1932年(昭和7年)の「海鹿秋来」、1940年(昭和10年)の「雲巒烟水」等である。画作の合間には、海岸を散歩し、俳句を作って楽しんだ。海鹿島滞在中、付近の人はよく「潮光庵」に遊びに行った。洗濯を手伝ったり、お茶話の相手をしたりするとよく即興に絵を描いたという[154]。特に晩年、芋銭の身辺の雑事等、何くれとなく世話した老人に山本喜三郎がおり、芋銭は昼飯時には山本家に勝手口からあがって塩鮭を自分で焼き、お茶漬けを食べるのを楽しみにしていた。海鹿島海岸には丸山あるいは鉄砲台と呼ばれる岩山があり、その自然石の断崖絶壁に芋銭の句碑が刻まれている。1960年(昭和35年)頃に銚子咢堂会が刻んだもので、1933年(昭和8年)に皇太子明仁親王の誕生を賀して詠んだものである[35]

大海を飛び出づる如と初日乃出

銚子灘朝暾

海鹿島は「利根川図志」に「年中あしかこの島にあがること二、三十あるいは八、九十多いときには二、三百疋にも及ぶ。数百のあしかかさなりあい、上になり下になり、くるい遊ぶさま、犬の子の乳を争うが如し。その鳴き声白鳥のなくごとく、遠くまで聞こえてさわがし。」とあり、地名はこれによる。1897年(明治30年)頃までは少数のニホンアシカが住んでいたが、その後見られなくなった。

平林たい子[編集]

田中町商店街

平林たい子は近代プロレタリア文学の騎手として数多くの作品を世に出した。特に1955年(昭和30年)1月から1956年(昭和32年)7月まで「主婦の友」に連載された長編自伝小説「砂漠の花」は名作といわれている。この小説は、彼女が女学校を卒業後上京してから小堀甚二と離婚する直前までを扱ったものであるが、この中に銚子の情景が描写されている。平林たい子は大正末期に短い期間ではあったが、文学仲間と銚子で放浪の日々を送ったことがあり、その時のことを書いたものである[19]

駅を出ると、醤油工場でもっているこの町の殷賑ぶりが興味ふかかった。道路には運搬の途中こぼれた大豆がぽつぽつ落ちていて、それを拾うために飼っている子豚が、砲丸みたいなかっこうで、ちょこちょこ連れ立って歩いている。

「なんだかお醤油のにおいがしますわね。」

 私は、潮気をふくんだ空気をふかく吸ってみて、この町出身の石田に話しかけた。

「銚子の五郎蔵の縄張りだからね。なんとなく昔の宿場のような感じがあるでしょう。」

 古い町並は、醤油工場の醤油樽を作る下請仕事でにぎわっていた。長い竹をサッサッと削るたびに、ぱたんぱたんと床を打つたがの音が響く。

    ◇ ◇

 つめたい冬の風が、空をわたる音はしていたが、暖流の影響を受けているせいか、東京のような寒さではなかった。

 私もショールをかぶって、男たちの後について行く。田中という町の、せまい意味ありげな横丁にはいると、家々の造りが、隠微に似かよって、はめこんだ窓ガラスが、青と透明との細かい市松模様になっていた。そのすかしのガラスから中をのぞくと、つぶし島田に平打のかんざしをつけたサボシという私娼が、炬燵に当ったり、鏡台に向かったりして、外の気配に気をつけている。

「遊んでいらっしゃいよ。ちょいと、その半オーバーの兄さん、寄ってらっしゃいよ、ねえ。」

と石田に声をかけるけれども、うしろにショールを巻いた女がいるのを見ると、つまらなそうに、別なすかしガラスから別な男に声をかける。

    ◇ ◇

 これほど素手で銚子の生活をはじめるはずだったのかと、私には意外だった。しかし、すでに石田との関係から、私はこの無力な仲間とのっぴきならぬ結びつきをもってしまっていた。いままでただおもしろくこの無抵抗な生活ぶりを観察していた私は、位置をかえていた。私はいつのまにか、その仲間のなかに、すっぽり落ちこんでいたいたのである。

「私、働きましょうか。カフェの女給ということをこのごろ覚えたんですけれど、その日にお金がとれてあんがいいいですよ。派手な着物が一枚あるからあれを着て、どっかいいカフェに行きましょう。」

と石田にささやいた。

「そうしてくれるとありがたいが、気の毒ですねえ。」

「いえ、かまわないわ。こうやっていても、お客さんのお酌をしていても、私にはかわりはないわ。」

 実行力のある私は、その日のうちに、石田と連れ立って盛場に出かけていった。銚子一流といわれるレストランの「太洋軒」の表を通ると、さいわいに「女給さん入用」の貼紙がしてあった。さっそくはいって行って、用向きを言うと、大胆な私の着物の柄に満足して、すぐに雇うことを承知した。

「それじゃ、もう私帰りませんわ。洗面の道具と寝巻をあとでとどけてくださいませんか。」

「すまないね。」

といった簡単ないきさつで、石田だけが海岸の家に引っ返して行った。

 漁業と醤油屋でもっている銚子のカフェには、東京のようなサラリーマンの客種はすくなかった。十円札を印伝の大財布に厚く入れて、派手な遊びをしにくる荒くれた客は、大漁旗をかかげて入港したトロール船の漁撈長や、地引網の網元などだった。

 ようすがわかってみると、一番美しくてはばをきかしている女給頭は、この店の持主の妾であった。その年増女を張りにきたいろいろな男たちが、宵からテーブルを占領して大した酒ものまず、窓越しにコック場のコックとむだ話をかわている。おそろしく悠長で、高円寺の「鈴蘭」の面も向けられないようなはげしい売らんかな主義の商売とは、まるで違っていた。

「砂漠の花」

文中の「太洋軒」というレストランは、新生三丁目付近にあった「巽軒」をモデルにしたもので、彼女は実際にそこで働いていた。「砂漠の花」の中には「この町出身の石田」という人物が登場しているが、作品全体の中ではこのほかに銚子の人間として、「須磨」という青年とその妹の「雪子」、須磨の家で働いている職人なども登場しており、これらにはいずれもモデルがある。同行の仲間はアナーキスト・グループの仲間であり、「須磨」の世話で海鹿島の松林の中の別荘に滞在していた[19]

この時代は恐慌を始めとして、弾圧・テロその他様々な出来事が起き、社会が不安に満ちていた時代であった。またその反動として、一見華やかではあるが退廃的な享楽主義が瀰漫し、エロ・グロ・ナンセンス時代といわれる世相を呈していた。東京の銀座通りにはモダン・ボーイやモダン・ガールが闊歩し、浅草にはレビューが登場し、カフェーサラリーマン階級の心のうさの捨てどころになっていた。こうした風潮は銚子にも及び、カフェーが各所に現れ、人々は蓄音機から流れるジャズ歌謡曲、和服にエプロン姿の女給のサービスに都会的なモダニズムを味わっていた[19]

林芙美子[編集]

君ヶ浜

君ヶ浜の松林の中にはかつて杉山平助の別荘があり、当時としてはモダンな建物であった[19]。女流作家の林芙美子1940年(昭和15年)にここに泊まり、潮騒に眠りを妨げられるまま壁面に「激しく寝がへりを打ちてかへりゆく波のうねり、犬吠の岬に来て何も忘れ果てたり」と鉛筆で書きつけたと伝えるが、建物は戦後失われた。林芙美子は青春時代の放浪の日を銚子で過ごしたことがあり、銚子のカフェー「第二仙松軒」で女給をしていたことがあった[19]

尾崎咢堂[編集]

銚子咢堂会の招きで来銚した政界の重鎮尾崎咢堂(行雄)は、犬吠埼の瑞鶴荘で以下の句を作った。

朝またき彼方の岸はアメリカと聞きて爪立つおはしまのはし

この歌碑は1959年(昭和34年)11月に建てられ、海鹿島の小高い小松林の中にある。1947年(昭和22年)には海鹿島に咢堂を迎える「思咢庵」が建てられ、そばにある「思咢庵美術館」には咢堂の遺品が集められている[154]

ノーマン・メイラー[編集]

長崎町の漁村風景

米国人作家ノーマン・メイラー1945年(昭和20年)の9月から翌年春まで半年の間銚子に滞在した。メイラーは短編「The paper house」で銚子について描いている[154]

ぼくたちは…裏道や山道をジープでとばし、それから海岸へおりていって、波打ちぎわをぶらぶら歩いていった。美しい景色だった。なにもかもまるで、マニキュアみたいにみがきあげているように見えた。

ぼくたちは小さな松林を過ぎて、小っちゃな谷間にはいり岩石のふところにだかれている小さな漁師町を通りぬけて、ピクニックをしたり、話をしたり…とても楽しかった。

「The paper house」(山西英一訳)

メイラーは1946年(昭和21年)5月に帰国して「裸者と死者」を書き上げ、発表と同時に全米でベストセラーとなり、世界的にもまた大きな反響を巻き起こした。作中に登場する日系少尉イシマルの生まれ故郷は銚子で、彼は日記に望郷の思いを綴り、故郷を見ずして戦死するが、その日記を読むワカラは「日本にいたとき銚子を訪れ」ていたことになっている[154]

2哩ばかりの銚子の半島は、日本全体の縮図だった。太平洋にむかって、数百フィートの高さに切り立った、大絶壁があった。まるでエメラルドみたいに完全で、きちんとつくられた豆絵の林、灰色の木と石塊でつくったちっちゃな漁師町。稲田。悲しげな低い丘。魚の臓腑や人糞が鼻をつく、銚子の狭苦しい息もつまりそうな町。ものすごい人だかりの漁港の波止場。何ひとつむだにするものはない。土地という土地は一千年の長きにわたって、まるで爪の手入れみたいによく手入れされていた。

「裸者と死者」(山西英一訳)

メイラーはアメリカから小説の訳者山西英一に送った手紙ではしきりに日本を懐かしみ、「日本はかつてぼくが見た最も美しい国としてぼくの記憶に生きています」と書いている[154]

出身著名人[編集]

国木田独歩

政治家・官僚[編集]

実業家[編集]

学術[編集]

文化・芸術[編集]

芸能・マスコミ[編集]

スポーツ[編集]

作品[編集]

文学・小説[編集]

  • 『七番日記』(1811年〜1819年、著者:小林一茶
  • 『南総紀行旅眼石』(1827年、著者:十返舎一九
  • 利根川図志』(1858年、著者:赤松宗旦
  • 『驟雨』(1893年、著者:国木田独歩
  • 『利根川だより』(1898年、著者:島崎藤村
  • 『青山白雲』(1898年、著者:徳富蘆花
  • 『三社めぐり』(1899年、著者:大和田建樹
  • 『自然と人生』(1900年、著者:徳富蘆花)
  • 『銚子の紀行』(1903年、著者:尾崎紅葉
  • 『銚子行の日記』(1905年、著者:木下杢太郎
  • 青春』(1905年〜1906年、著者:小栗風葉
  • 『涼しき土地』(1907年〜、著者:竹久夢二
  • 『関東の山水』(1909年、著者:大町桂月
  • 青年』(1910年〜1911年、著者:森鴎外)
  • 『犬吠岬旅情のうた』(1911年、著者:佐藤春夫
  • 宵待草』(1912年、著者:竹久夢二)
  • 『犬吠の太郎』(1912年、著者:高村光太郎
  • 大菩薩峠』(1913年〜1941年、著者:中里介山
  • 『寝顔』(1914年、著者:舟橋聖一
  • 道程』(1914年、著者:高村光太郎)
  • 『燈台へ行く道』(1914年、著者:田山花袋
  • 『くろ土』(1921年、著者:若山牧水
  • 『砂丘日記』(1932年、著者:吉田絃二郎
  • 『瑞枝』(1934年、著者:黄瀛)
  • 『秋一人』(1935年、著者:吉田絃二郎)
  • 『犬吠ヶ埼』(1935年、著者:吉田絃二郎)
  • 『天の真榊』(1936年、著者:香取秀真
  • 『暁紅』(1940年、著者:斉藤茂吉
  • 『素描』(1940年、著者:前田夕暮
  • 智恵子抄』(1941年、著者:高村光太郎)
  • 裸者と死者』(1948年、著者:ノーマン・メイラー
  • 『歩道』(1950年、著者:佐藤佐太郎
  • 『砂に残された文字』(1951年、著者:広津和郎
  • 『死んだ海』(1952年、作・演出:村山知義
  • 『房総鼻眼鏡』(1954年、著者:内田百閒
  • 『砂漠の花』(1955年〜1957年、著者:平林たい子
  • 『犬吠岬紀行』(1958年、著者:吉田絃二郎)
  • 『犬吠』(1961年、著者:尾張穂草)
  • 『かずら野』(2001年、著者:乙川優三郎
  • 『むこうだんばら亭』(2005年、著者:乙川優三郎)
  • 『十津川警部 銚子電鉄六.四キロの追跡』(2010年、著者:西村京太郎
  • 『トモシビ - 銚子電鉄の小さな奇蹟 - 』(2015年、著者:吉野翠)
  • 『十津川警部 わが愛する犬吠の海』(2016年、著者:西村京太郎)
  • 『あなたのなかの忘れた海』(2016年、著者:高橋弘希

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

音楽[編集]

MV撮影[編集]

屏風ヶ浦では多数のプロモーション用ミュージックビデオが撮影されている。

アニメ[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 山頂や離島を除く。
  2. ^ 山岳や離島を除く平地。
  3. ^ クジライルカスナメリシャチ等。
  4. ^ 2009年(平成21年)に利根川対岸の波崎海岸に死骸が漂着している。また、本種の繁殖海域は過去から現在に至るまで一切が不明であるが、本市沿岸や九十九里浜の周辺を候補地の一つとして挙げる研究結果も存在する。
  5. ^ アジア系の個体群は、一度は絶滅したか、または生存数が200頭前後と危機的な状況に置かれている。
  6. ^ アジア系の個体群は壊滅した可能性があり、商業捕鯨の終了後の日本列島における記録は非常に少ない。
  7. ^ 高崎藩藩主が銚子一帯でのアシカの捕獲を原則的に禁止し、特別な許可制を敷いてこの地域における捕獲を制限していた時期も存在する。
  8. ^ 上記の通り、千葉県の重要保護動物に指定されている。
  9. ^ 千葉県の一般保護生物に指定されている。
  10. ^ 千葉県の最重要保護生物に指定されている。
  11. ^ 上記の通り、銚子は世界でも有数のカモメ類の探鳥地となっている。
  12. ^ 近年、銚子近海における目撃が増加している。上記リンクを参照。
  13. ^ 上記の通り、極めて珍しい親子が2020年に目撃されている他に、銚子の一帯が重要な生息域の一部だった可能性も示唆されている。

出典[編集]

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関連項目[編集]

外部リンク[編集]

行政
観光