思草紙

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思草紙
琉球國字頭おもろさうし
拉丁化Omoro sōshi(和)
Umuru sausi(琉)[1]

思草紙》(琉球語おもろさうし,漢字表記:思ろ草紙羅馬字Omoro Sōshi),琉球第二尚氏王朝時期的一部祝詞集,也被沖繩學學者當作是歷史上最早的一部琉歌集,1531年至1623年間由琉球國朝廷主持,編纂而成。原文是以日本平假名記錄的琉球語(其間夾帶少量漢字)。據沖繩學學者伊波普猷考證,「おもろ」在琉球語中是「思考」(琉球語:うむい,漢字表記:思い)的意思,[1]是古代琉球群島特有的一種祝詞;而「さうし」一詞來源於日本語,是「草紙」的意思。

這部祝詞集收集了自12世紀以來琉歌作品,共22卷,記載有關國王、祝女、英雄、詩人、航海者的事跡,以及與風景、天象、戰爭、神話有關的琉歌,還有少量的愛情詩作,有重要史實價值。《思草紙》中所收錄的祝詞,最短的僅有兩行,最長的有四十行,皆為韻文,盛行對句,因此被認為是後世琉歌的起源。但是,《思草紙》中的語言多為琉球古語,在現代的琉球語中已經不使用了。

《思草紙》的編纂,共分有兩個時期。最早是在尚清王時期的1532年,為頌揚先王尚真王的豐功偉業,尚清王下令編纂第一卷。此後70年間編輯中斷。直到1613年,琉球國淪為薩摩藩附庸國,琉球朝廷處處受到薩摩藩的制約,在政治上無所作為。為維持琉球人的傳統文化和歷史,尚豐王下令編纂第二卷。1613年至1623年間,又陸續編纂至22卷。

目錄和編纂時間[編輯]

標題 編纂時間 西曆時間
1 きこゑ大きみがおもろ 首里王府の御さうし 嘉靖十年 1531年
2 中城越来おもろ 首里王府の御さうし  萬曆四十一年
五月廿八日
1613年
3 きこゑ大きみかなし おもろ御さうし 天啓三年癸亥
三月七日
1623年
4 あおりやゑさすかさの おもろ御さうし 天啓三年癸亥
三月七日
1623年
5 首里天きやすへあんじおそいがなし 首里おもろの御さうし 天啓三年癸亥
三月七日
1623年
6 首里大君せんきみ君がなし もゝとふみあがりきみの つんしのおもろ御さうし 天啓三年癸亥
三月七日
1623年
7 首里天きやすへあんじおそいがなし はひのおもろ御さうし 天啓三年癸亥
三月七日
1623年
8 首里天きやすへあんじおそいがなし おもろねやがりあかいんこが おもろ御さうし 天啓三年癸亥
三月七日
1623年
9 首里天きやすへあんじおそいがなし いろ/\のこねりおもろ御双紙 天啓三年癸亥
三月七日
1623年
10 ありきゑとのおもろ御さうし 天啓三年癸亥
三月七日
1623年
11 首里ゑとのおもろ御さうし 天啓三年癸亥
三月七日
1623年
12 いろ/\のあすびおもろ御さうし 天啓三年癸亥
三月七日
1623年
13 舩ゑとのおもろ御さうし 天啓三年癸亥
三月七日
1623年
14 いろ/\のゑさおもろ御さうし 天啓三年癸亥
三月七日
1623年
15 首里天きやすへあんじおそいがなし うらおそいきたたんよんたむざおもろの御さうし 天啓三年癸亥
三月七日
1623年
16 首里天きやすへあんじおそいがなし 勝連具志川おもろの御さうし 天啓三年癸亥
三月七日
1623年
17 恩納より上のおもろ御さうし
18 首里天きやすへあんじおそいがなし 志ま中おもろ御さうし 天啓三年癸亥
三月七日
1623年
19 ちゑねんさしきはなぐすくおもろ御さうし 天啓三年癸亥
三月七日
1623年
20 こめすおもろの御さうし 天啓三年癸亥
三月七日
1623年
21 くめの二ま切おもろ御さうし 天啓三年癸亥
三月七日
1623年
22 みおやたいりおもろ御さうし

※「/\」為重復記號

相關條目[編輯]

註釋[編輯]

  1. ^ 1.0 1.1 「おもろ」在日本語中應讀作「omoro」,但在琉球語沖繩方言中實際讀作「umuru」。

參考文獻[編輯]

外部連結[編輯]