松山藩 (出羽國)
| 松山藩 | |
|---|---|
| 譜代 | |
| 別稱 | 松嶺藩 |
| 日語漢字 | 松山藩 |
| 平假名 | まつやまはん |
| 羅馬拼音 | Matsuyama-han |
| 創藩日期 | 正保4年12月11日(1648年1月5日) |
| 創藩理由 | 分知 |
| 所在地 | 出羽國飽海郡松山 |
| 藩廳 | 松山城 |
| 大名家 | 酒井家 |
| 伺候席 | |
| 菩提寺 | 光照寺 |
| 廢藩日期 | 明治4年7月14日 |
| 廢藩理由 | 廢藩置縣 |
| 爵位 | 子爵 |
松山藩(日语:松山藩/まつやまはん Matsuyama-han)是日本出羽國飽海郡松山的藩[註 1],正保4年12月11日(1648年1月5日)創藩,明治2年6月22日(1869年7月30日)改稱為松嶺藩(日语:松嶺藩/まつみねはん Matsumine-han),明治4年7月14日廢藩(1871年8月29日),為庄內藩的支藩,石高在高峰期達25,000石,藩廳是松山城,藩校創建於明治2年10月27日(1869年11月30日),其後改名為里仁館[2],菩提寺是光照寺[3]。
武家屋敷方面,江戶藩邸上屋敷曾經設於外櫻田、大下馬後和淺草寺町,中屋敷曾經設於濱町和四谷仲町,下屋敷曾經設於千駄木、千駄谷、本所四目茅場町和本所菊川町四丁目,抱屋敷位於中之鄉村[4][2][註 2]。
歷史
[编辑]正保4年12月11日(1648年1月5日),酒井忠恒按其父酒井忠勝的遺言,從出羽庄內藩獲分知20,000石[2],分別是庄內8,000石和村山郡左澤12,000石,根據《松山町史》記載,庄內8,000石位於遊佐郡和櫛引郡內[9],《飽海郡誌》記載在慶安元年(1648年)時是飽海郡13村和田川郡17村,《大泉紀年》則指領地在慶安2年(1649年)才確定,總共34村。根據收錄於《寒河江文書》內的《左澤山里苅田畠寄帳》記載,村山郡左澤在慶安2年時是77村[10]。
寬文元年11月2日(1661年12月23日),忠恒獲准在中山興建住處,翌年遷入。寬文3年3月23日(1663年4月30日),松山藩與庄內藩交換領地[2],以最上川左岸的11村換取庄內藩在飽海郡的18村[10],《寬文印知》時的領地是飽海郡28村約5,215石、田川郡7村約2,787石和村山郡74村約12,000石[註 3]。寬文4年(1664年)4月,中山改稱為松山。延寶3年10月6日(1675年11月22日),忠恒之子酒井忠予繼位。享保17年7月25日(1732年9月13日),忠予嫡子酒井忠英由於眼疾而被廢嫡,同年8月29日(10月17日)改以庄內藩老臣酒井直隆長子為養子,並且於同年11月25日(1733年1月10日)由其繼位,即酒井忠休[2][11]。
延享4年3月11日(1747年4月20日),忠休出任奏者番,寬延元年閏10月1日(1748年11月21日)就任為寺社奉行,翌年7月6日(1749年8月18日)獲任命為西丸若年寄,松山藩的開銷也逐漸增加,甚至曾經暫停向家臣發放俸祿,引起譜代家臣的強烈不滿。寶曆2年10月7日(1752年11月12日)和翌年7月28日(1753年8月26日),家老北村五郎兵衛再三向庄內藩家老控訴忠休的秕政。寶曆3年9月1日(9月27日),家中和小姓聯署請求救助,同年10月足輕組也提出救助。寶曆4年2月14日(1754年3月7日),家老林杢太夫向忠休進諫,要求其隱退。寶曆5年9月9日(1755年10月14日),江戶的足輕在寶曆飢荒的背景下拒絕跟隨忠休前往江戶城。翌年8月17日(1756年9月11日),270名家臣聯署請求忠休隱退,並且於8月21日(9月15日)集體請辭。同年10月4日(10月27日),松山藩獲庄內藩派人前來處理,並且於閏11月處分首謀者,一連串事件被稱為寶曆事件[2]。
寶曆10年4月1日(1760年5月15日),忠休就任為二丸若年寄,翌年8月15日(1761年9月13日)成為本丸若年寄。安永8年12月15日(1780年1月21日),忠休憑其若年寄的功績獲加增上野國山田郡2村約1,001石和勢多郡11村約4,063石總共約5,000石,松山藩的石高也增至25,000石,同時獲准興建松山城。天明2年(1782年)9月,大手門完工。天明4年9月14日(1784年10月27日)[2],由於工程人手不足,為了調動人手,松山藩獲准以村山郡左澤46村6,000石的領地換取田川郡的幕府領23村6,000石,領地也因而變為出羽國田川郡31村約10,020石、飽海郡28村約5,084石、村山郡26村約5,719石、上野國山田郡2村約1,001石和勢多郡11村約4,063石[9][10]。翌年10月,松山藩為了改善財困,在庄內藩推薦下起用本間光丘[2]。天明8年(1788年)8月,田川郡的領地換回至村山郡[11]。
弘化2年11月20日(1845年12月18日),藩主酒井忠方之子酒井忠良繼位。慶應3年12月25日(1868年1月19日),松山藩與庄內藩等一同在江戶薩摩藩邸燒討事件中參戰[2]。戊辰戰爭爆發後,松山藩作為奧羽越列藩同盟成員與庄內藩並肩作戰,先後參與湯澤之戰和橫手之戰等戰事[12]。明治元年9月26日(1868年11月10日),松山藩投降。同年12月7日(1869年1月19日),忠良被處以隱居,2,500石的領地也被收回,由酒井忠匡繼位。明治2年正月24日(1869年3月6日),原本預計被收回的是松山城附近的領地,然而最終以上野國山田郡和勢多郡內的2,500石來代替[2]。同年6月22日(7月30日),為了避免與伊予松山藩混淆,松山藩改名為松嶺藩[1]。明治4年7月14日(1871年8月29日),廢藩置縣[2]。
歷任藩主
[编辑]| 家名 | 家格 | 名稱 | 石高 | 領地 |
|---|---|---|---|---|
| 酒井家 | 譜代 陣屋 |
酒井忠恒 | 20,000石 | 出羽國飽海郡、田川郡和村山郡 |
| 酒井忠予 | ||||
| 譜代 陣屋 ↓ 譜代城持 |
酒井忠休 | 20,000石 ↓ 25,000石 |
出羽國飽海郡、田川郡和村山郡 ↓ 出羽國飽海郡、田川郡和村山郡上野國山田郡和勢多郡 | |
| 譜代 城持 |
酒井忠崇 | 25,000石 | 出羽國飽海郡、田川郡和村山郡 上野國山田郡和勢多郡 | |
| 酒井忠禮 | ||||
| 酒井忠方 | ||||
| 酒井忠良 | ||||
| 酒井忠匡 | 22,500石 | 出羽國飽海郡、田川郡和村山郡 上野國勢多郡 |
領地
[编辑]| 令制國 | 郡 | 領地 |
|---|---|---|
| 出羽國 | 遊佐郡 | 土淵村、上茗荷澤村、下茗荷澤村、中山村、渡場村、引地村、中棚村、牧野嶋村、德田村、相澤村、田尻村、石名坂村、小出村、堀場村 |
| 櫛引郡 | 八色木村、西袋村、廻館村、柴野村、西荒屋村、西荒屋新田村、須走村、上七曲村、上七曲新田村、大野村、小中嶋村、田屋村、近江新田村、余目新田村、常萬村、三本柳村 |
| 令制國 | 郡 | 領地 |
|---|---|---|
| 出羽國 | 村山郡 | 大卷村、和鄉村、古真木村、送橋村、下足澤村、上足澤村、針生村、杉山村、宇津野村、太瀧村、助卷村、末吉良村、新宿村、中鄉村、能中村、八沼村、高田村、長沼村、石須部村、白倉村、多良村、松程村、大舟木村、今平村、須野瀨村、水口村、赤釜村、新崩村、一石猶村、夏草村、雪谷村、西助卷村、西舟渡村、立木村、藤田村、本富澤村、新富澤村、中澤村、藝息坂村、本左中村、新左中村、舟渡村、栗木澤村、川通村、堂屋敷村、鹽平村、所部村、材木村、本顏吉村、本橋上村、十八才村、新橋上村、大久保村、楢山村、本月布村、新月布村、大鉢村、新顏吉村、葛澤村、瀧澤村、上北山村、下北山村、荻袋村、本小漆川村、新小漆川村、一野澤村、丸竹村、雨池村、吉川村、原村、入間村、渴俁村、宮中村、左澤町 |
| 飽海郡 | 渡場村、小出村、堀場村、中山村、土淵村、上名荷澤村、下名荷澤村、引地村、石名坂村、相澤村、德田村、中棚村、牧野嶋村、田尻村、山寺村、外里村、普門寺村、飼澤村、地見興屋村、新興屋村、杉澤村、坂本村、田澤村、上餅山村、下餅山村、中北目村、上北目村、小見村 | |
| 田川郡 | 八色木村、西袋村、新興屋村、廻飯村、三本柳村、柴野村、余目村 |
| 令制國 | 郡 | 領地 |
|---|---|---|
| 羽前國 | 村山郡 | 宮內村、入間村、大隅村、和合村、古真木村、送橋村、下蘆澤村、水本村、針生村、杉山村、上鄉村、大瀧村、東助卷村、四野澤村、吉良村、新宿村、中鄉村、能中村、八沼村(八ツ沼村)、高田村、長沼村、石須部村、立木村、白倉村、太郎村、松程村、大船木村、今平村、常磐村、雪谷村、西助卷村、西船渡村、藤田村、富沢村、中澤村、粧坂村、本左中村、新左中村、栗木澤村、川通村、堂屋敷村、鹽野平村、所部村、材木村、橋上村、楢山村、月布村、大鉢村、瀧野澤村、下北山村、原村、左澤村、船渡村、本顏好村、十八才村、新顏好村、葛澤村、上北山村、荻袋村、小漆川村、市野澤村、松川村 |
| 田川郡 | 八色木村、西袋村、田谷村、廻館村、三本柳村、荒興屋村、余目新田村、堺新田村、柴野村、島田村 | |
| 羽後國 | 飽海郡 | 松嶺村、土淵村、上茗荷澤村、下茗荷澤村、上餅山村、下餅山村、上北目村、中北目村、小見村、石名坂村、相澤村、相澤新田村、中棚村、德田村、牧野島村、引地村、竹田村、庄兵衛新田村、山寺村、外里村、普門寺村、小出村、堀場村、渡場新田村、大沼新田村、臼澤村(臼ヶ沢村)、上鄉新田村、地見興野村、大川渡村、成澤村、新興屋村、田澤村、田澤新田村、坂本村、坂本新田村、杉澤村、小出新田村、𣕚新田村、堤新田村、正次郎新田村、中棚村 |
| 上野國 | 勢多郡 | 中村、西田面村、女淵村、粕川組、膳村、山上太郎左衛門村 |
註解
[编辑]參考資料
[编辑]- ^ 1.0 1.1 竹內理三、北原進、杉山博、竹內誠、所理喜夫、西垣晴次、譽田慶恩、森芳三、橫山昭男 (编). 松山〈酒田市〉・松山藩. 角川日本地名大辞典 山形県. 角川日本地名大辭典 6 日本文学Web図書館. 角川書店. 1981-12-08. ISBN 4-040-01060-4 (日语).
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- 分知への配慮・分知の村・御物成御勘定目録. 第二節 松山藩の成立 三、領地の確定. : 146–153.
- 寛文の御朱印. 第二節 松山藩の成立 三、領地の確定. : 169–170.
- 四、天明の領地替. 第四節 加増と築城. : 516–520.
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