羽風號驅逐艦
外观
羽風 はかぜ | |
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概觀 | |
擁有國 | 大日本帝国 |
營運者 | 大日本帝國海軍 |
艦級 | 峯風級驅逐艦 |
製造廠 | 長崎三菱重工 |
下訂 | 1917財政年度(八四艦隊案) |
動工 | 1918年11月11日 |
下水 | 1920年6月21日 |
結局 | 1943年1月23日遭美軍潛艇擊沉 |
除籍 | 1943年3月1日 |
技术数据 | |
排水量 | 標準:1,215公噸(1,196長噸) 公試:1,345公噸(1,324長噸) |
全長 | 102.6米(336英尺7英寸) |
全寬 | 8.92米(29英尺3英寸) |
吃水 | 2.79米(9英尺2英寸) |
动力 | 帕爾森式蒸汽渦輪發動機 4 × ロ號艦本式水管鍋爐 2座2軸推進 |
功率 | 38,500匹軸馬力(28,700千瓦特) |
最高速度 | 39節(72公里每小時;45英里每小時) |
續航距離 | 以14節航行時為3,600海里 |
武器裝備 |
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羽風(はかぜ)是大日本帝國海軍峯風級驅逐艦的七號艦。其艦名有「鳥類振翅飛過風中」與「舞者的長袖舞衣產生的風」的意味。
服役生涯
[编辑]羽風號驅逐艦於1918年11月11日在三菱長崎造船所起造。竣工後被歸類為一等驅逐艦,並劃由橫須賀鎮守府管轄。
1938年(昭和13年),第二次中日戰爭期間,本艦主要於華中沿岸參與作戰活動。
太平洋戰爭爆發後,本艦被調往太平洋南部執行海上護衛與運輸作戰等任務。1943年(昭和18年)1月23日,本艦在護衛秋津丸登陸艦前往拉包爾的任務中,在卡維恩西南方海域遭遇美國海軍潛艇鶴魚號(USS Guardfish, SS-217),隨即遭美方以魚雷擊沉。
歷任艦長
[编辑]※本節資料均依《艦長們的軍艦史》(艦長たちの軍艦史)第225~226頁與《官報》而來。
- 艤裝員長
- 驅逐艦長
- 北川保橘 少佐:1920年9月16日 - 1921年12月1日
- 北川保橘 中佐:1921年12月1日[3] - 1922年12月1日
- 中島直熊 少佐:1922年12月1日[4] - 1923年12月1日
- 中島直熊 中佐:1923年12月1日[5] -
- 高山忠三 少佐:1924年12月1日 -
- 中円尾義三 少佐:1925年9月21日 - 1926年12月1日 同日より予備艦
- 伊藤長 少佐:1926年12月1日 -
- 加藤仁太郎 中佐:1926年12月7日 - 1927年12月1日
- 伊藤長 少佐:1927年12月1日[6] -
- 園二郎 少佐:不詳 - 1928年12月10日[7]
- 帖佐敬吉 少佐:1928年12月10日 -
- 新美和貴 少佐:1930年6月20日 - 1932年8月5日[8]
- 庄司芳吉 少佐:1932年8月5日 - 1932年11月15日[9]
- 莊司喜一郎 少佐:1932年11月15日 - 1935年10月31日[10] ※本艦自1932年11月15日起轉為預備艦
- 大島一太郎 少佐:1935年10月31日 - 1936年12月1日
- 勝見基 少佐:1936年12月1日 -
- 清水逸郎 少佐:1937年12月1日 - ※本艦自1938年3月5日起轉為預備艦
- 豐島俊一 少佐:1938年12月1日 -
- 山口達也 少佐:1939年11月15日 -
- 前川二三郎 少佐:1940年11月15日 -
- 鹿島正徳 少佐:1942年4月20日 -
腳注
[编辑]- ^ 『官報』第2321号、大正9年4月30日。
- ^ 『官報』第2391号、大正9年7月21日。
- ^ 『官報』第2801号、大正10年12月2日。
- ^ 『官報』第3102号、大正11年12月2日。
- ^ 『官報』第3385号、大正12年12月4日。
- ^ 『官報』第279号、昭和2年12月2日。
- ^ 『官報』第587号、昭和3年12月11日。
- ^ 『官報』第1682号、昭和7年8月8日。
- ^ 『官報』第1765号、昭和7年11月16日。
- ^ 『官報』第2651号、昭和10年11月2日。
參考文獻
[编辑]- 『丸スペシャル』第51号 日本の駆逐艦Ⅱ、潮書房、1981年。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
- 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻、発売:第一法規出版、1995年。
- 日本海軍人事手帳(?)