跳转到内容

日琉同祖論

维基百科,自由的百科全书

这是本页的一个历史版本,由Translationpuppet留言 | 贡献2010年9月27日 (一) 00:25编辑。这可能和当前版本存在着巨大的差异。

日琉同祖論(にちりゅうどうそろん)は、日本人琉球(沖縄)人は、その起源において民族的には同一であるとする説。日琉同祖論は、歴史的には17世紀に摂政・羽地朝秀が著した『中山世鑑』にまでさかのぼり、明治以降は沖縄学の大家・伊波普猷によって詳細に展開された。

概要

羽地朝秀の日琉同祖論

羽地朝秀は、1650年、琉球最初の正史である『中山世鑑』を著し、この中で羽地は琉球最初の王・舜天は、源為朝の子であり、琉球は清和源氏の後裔によって開かれたと述べているが、この源為朝来琉説が、日琉同祖論の起源である。舜天が実在の王か否かについては議論があるが、舜天の名自体は、『中山世鑑』より100年以上前の1522年に建てられた「国王頌徳碑」に刻まれている。碑文は、琉球の僧で円覚寺第六代住持・仙岩が撰んだもので、そこには「舜天、英祖察度三代以後、其の世の主は遷化すと雖も同行を用いず……」とあり、舜天は16世紀初頭には琉球最初の王であると見なされていたことが分かる。

源為朝の来琉説は、『保元物語』の記述を根拠にしていると考えられているが、その起源は羽地朝秀以前にすでに大和(日本)から来琉した僧たちによって唱えられていたと言われている。

また羽地朝秀は、摂政就任後の1673年3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、王家の祖先だけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている[1]。なお、最近の遺伝子の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。高宮広士札幌大学教授が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘[2]するように、近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている。

こうした羽地の日琉同祖論は、王国末期の政治家・宜湾朝保(三司官)に影響を与えた。宜湾は未定稿ながら琉球語彙を編纂して、記紀、万葉集などの上代日本語と琉球方言を比較して、両者に共通点があると説いた[3]

江戸時代の日本における日琉同祖論

一方日本でも、江戸時代から日琉同祖論が唱えられていた。新井白石はその著『南島誌』(1719年)の総序において、『山海経』に見える「北倭」「南倭」の南倭とは沖縄のことであると述べ、琉球の歌謡や古語なども証拠に挙げて自説を展開している[4]

また藤貞幹はその著『衝口発』(1781年)において、神武天皇は沖縄の「恵平也(いへや)島」(伊平屋島)に生誕しそこから東征したと述べ、皇室の祖先は沖縄から渡来したとの説を展開した。藤貞幹は伊平屋島には天孫嶽(あまみたけ、クマヤー洞窟)という洞窟があり、地元では天孫降臨説があるのを知り、ここが高天原の天孫降臨の地であると推定したのである。本居宣長はこの説に激怒し、その著『鉗狂人』(1785年)でこれに徹底的に論駁している。

脚注

Template:脚注ヘルプ

  1. ^ 真境名安興『真境名安興全集』第一巻19頁参照。元の文は「「此国人生初は、日本より為渡儀疑無御座候。然れば末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖然言葉の余相違は遠国の上久敷融通為絶故也」。
  2. ^ 朝日新聞 2010年4月16日
  3. ^ 同上。
  4. ^ 同上7頁参照。ただし『山南経』の該当箇所の「北倭」「南倭」読み方については、今日別の説も存在する。

関連項目

外部リンク