三橋美智也
三橋美智也 | |
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男歌手 | |
本名 | 北沢美智也 |
英文名 | Michiya Mihashi |
暱稱 | ミッチー(Mitchie) |
出生 | 1930年11月10日 |
逝世 | 1996年1月8日 | (65歲)
職業 | 歌手 |
音樂類型 | 演歌、歌謠曲 |
唱片公司 | King Records |
日語寫法 | |
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日語原文 | 三橋美智也 |
假名 | みはし みちや |
平文式羅馬字 | Mihashi Michiya |
三橋美智也(みはし みちや,1930年11月10日—1996年1月8日)是日本著名的演歌歌手,出生於北海道函館市近郊的上磯町(現北斗市)。愛稱「ミッチー」。
來歴・生涯
[編輯]歌謡界的重鎮
[編輯]把民謠作為基礎,由於舒展和有光澤的美聲,與春日八郎、村田英雄們一起領導了多年的歌謠界,是戰後日本男性流行歌手的代表。連續推出賣座歌曲,從1956年(昭和31年)開始的高峰期,32年來創下所謂的「黎明三橋入暮三橋」(三橋で明けて三橋で暮れる)的巨大聲望。同時,與春日、若原一郎一起締造King Records的全盛時期,「帝王唱片的三隻烏鴉」、「三人男」的叫法也流傳開來。此外,在多年的民謡業的基礎上,創立民謠三橋流。演奏津輕三味線,也出版唱片。門生有細川貴志等人。也唱著四國愛媛縣松山祭的「神輿音頭」。可以說是在松山當地無人不曉的名曲。
以11歲的年紀在全道民謠大會獲得冠軍,為了就業作為民謠歌手進京。在神奈川縣橫浜市的綱島溫泉一度從事鍋爐工程師的工作。昭和30年(1955年)以「女人船頭歌」(おんな船頭唄)初次亮相演歌界。轉瞬間加入了明星的行列,此後昭和30年代以「蘋果村」(リンゴ村から)、「哀愁列車」、「母戀吹雪」、「告別東京」(おさらば東京)、「夕陽鳶」(夕焼けとんび)、「古城」、「可愛的馬」(達者でナ)、「星塵的町」(星屑の町)為首的18曲銷售量突破百萬,成為代表流行歌曲黃金時代的男性歌手。
那個舒展高亢的歌聲,到現在受歡迎的勢頭還不曾減弱。1988年與交往甚深的村田英雄・春日八郎結成「三人會」,並且策劃了演歌界的活性化。
風格變更
[編輯]1970年代後半期,轉變到現在的演歌歌手的風格。在適合年輕人隨意風格的廣播節目(『電撃わいどウルトラ放送局』關東無線電(現在的日本無線電))自己第一次擔任DJ,「Mitchie」的愛稱廣受年輕人歡迎,令周圍的人吃驚不小。這個節目使用了當時的流行語「fever」,參與演出了杯麵「激面」(maru的東洋水產)的商業廣告,是模倣當時的賣座電影『週末夜狂熱』的主角約翰屈伏塔的白色套裝身姿、嘴裏連呼著fever「沸騰!沸騰!」的風格的。
記錄
[編輯]1983年作為日本的歌手,創造了歷史上第一次唱片的出版張數突破1億張的記錄。這個記錄至今無人打破(2005年現在)。據說一生的唱片銷售額達到1億600萬張,18首曲子創造銷售量突破百萬的記錄,代表曲之一「古城」的銷售額達到300萬張。
私生活
[編輯]私生活方面,1966年與元配(育有一子)離婚,三橋美智也本身也因此事而一度落選『NHK紅白歌合戰』。之後再婚。晚年為被妻子施以家庭暴力(如騎在身上毆打…等)和家庭成員詐取其財產(妻子、女兒和女婿合謀,像是在三橋不知情的情況下變賣其高爾夫球場的會員證…等行徑)等事所苦而搬出東京的家,到大阪借住在經紀人的住處(就在三橋倒下之前,離婚官司被判有效,翌年春天,三橋有意與經紀人結婚,但因為三橋病逝而作罷)。除了家庭變故外,事業上,亦有登記在他名下的旅社倒閉,而使他欠有數億日元的債務,這些事件突顯三橋美智也光纖亮麗的人生背後,失意與黯淡的一面。
晚年
[編輯]三橋美智也晚年時患有糖尿病且病情不斷惡化,也因為病情惡化造成的健康問題,晚年時的三橋美智也,嗓音有明顯的劣化,而且早年健壯的身材不再復見。也由於藥物副作用造成嚴重的掉髮問題,使三橋美智也在晚年長期使用假髮。
一本正經的性格也廣為人知,在自己表演的時候如果歌詞唱錯了會「重來一次」(晚年不會如此)。三橋美智也的正經性格及其私生活,也經常給予其龐大的壓力,據傳三橋的早逝和他這樣的個性帶來的壓力可能有關。
1995年10月,三橋外出打高爾夫球,在回程的路上,因不明原因在車上昏倒送醫,之後就陷入昏迷不醒。1996年1月8日上午11點30分,大阪市立大學附屬醫院(位於大阪市阿倍野區)宣布,三橋美智也因器官衰竭於院內病逝,享壽65歲。
NHK紅白歌合戰出場歷
[編輯]年度/放送回 | 回 | 曲目 | 出演順 | 對戰相手 |
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1956年(昭和31年)/第7回 | 初 | 哀愁列車 | 9/25 | 江利智惠美(1) |
1957年(昭和32年)/第8回 | 2 | 蘋果花開放的故鄉(リンゴ花咲く故郷へ) | 25/25 | 美空雲雀(1) |
1958年(昭和33年)/第9回 | 3 | 告別東京(おさらば東京) | 25/25 | 美空雲雀(2) |
1959年(昭和34年)/第10回 | 4 | 古城 | 13/25 | 島倉千代子(1) |
1960年(昭和35年)/第11回 | 5 | 可愛的馬(達者でナ) | 27/27 | 島倉千代子(2) |
1961年(昭和36年)/第12回 | 6 | 石狩川悲歌(石狩川エレジー) | 13/25 | 江利智惠美(2) |
1962年(昭和37年)/第13回 | 7 | 星塵的町(星屑の町) | 25/25 | 島倉千代子(3) |
1963年(昭和38年)/第14回 | 8 | 流星喲(流れ星だよ) | 13/25 | 島倉千代子(4) |
1964年(昭和39年)/第15回 | 9 | 又來啦(また來るよ) | 14/25 | 江利智惠美(3) |
1965年(昭和40年)/第16回 | 10 | 二本松少年隊 | 12/25 | 島倉千代子(5) |
1974年(昭和49年)/第25回 | 11 | 哀愁列車(2回目) | 17/25 | 小坂明子 |
1975年(昭和50年)/第26回 | 12 | 津輕民謠(津軽じょんから節) | 14/24 | 山口百惠 |
1976年(昭和51年)/第27回 | 13 | 津輕甚句(津軽甚句) | 13/24 | 森昌子 |
1977年(昭和52年)/第28回 | 14 | 風之街(風の街) | 10/24 | 南沙織 |
代表曲
[編輯]- 酒的苦喲~新相馬節~(酒の苦さよ~新相馬節~) - (昭和29年1月)
- 女人船頭歌(おんな船頭唄) - (昭和30年4月)藤間哲郎、山口俊郎
- 當初是為帝王唱片的新人歌手西村つた江準備的曲子。可是由於想讓三橋唱從高音開始的這首歌,這樣,掛川尚雄導演的個人意見決定了歌手最終為三橋美智也。三橋的第一張賣座歌曲。
- 心情愉悅,身體健康嗎(ご機嫌さんよ達者かね) - (昭和30年7月)
- 啊ゝ新選組(あゝ新撰組) - (昭和30年9月)
- 島船歌(島の船唄) - (昭和30年11月)
- 女孩在碼頭哭泣(あの娘(こ)が泣いてる波止場) - (昭和30年12月)高野公男、船村徹
- 船頭追分 - (昭和31年1月)
- 御存知赤城山 - (昭和31年3月)
- 蘋果村(リンゴ村から) - (昭和31年5月)矢野亮、林伊佐緒
- 哀愁列車 - (昭和31年6月)橫井弘、鎌多俊與
- 男涙的搖籃曲(男涙の子守唄) - (昭和31年5月)高橋掬太郎、細川潤一
- 啊ゝ田原坡(あゝ田原坂) - (昭和31年)
- 玄海船乗(玄海船乗り) - (昭和31年6月)
- 眼淚和武士(淚と侍) - (昭和31年8月)
- 縁があったらまた逢おう - (昭和31年9月)
- 花們(お花ちゃん) - (昭和31年10月)合唱:斉藤京子
- 數手球歌(手まり數え唄) - (昭和31年11月)
- 戀戀不捨的山巔(みれん峠) - (昭和31年11月)
- 木曽戀(木曽戀がらす) - (昭和31年11月)
- 您是漂泊的海鳥(君は海鳥渡り鳥) - (昭和31年12月)矢野亮、真木陽
- 母戀吹雪 - (昭和31年12月)
- 江差戀(江差戀しや) - (昭和31年12月)
- 我是煤礦夫(俺ら炭鉱夫) - (昭和32年1月)
- 東京見聞(東京見物) - (昭和32年3月)
- 一本刀入場式(一本刀土俵入り) - (昭和32年4月)高橋掬太郎、細川潤一
- 淡海崩塌(淡海くずし) - (昭和32年5月)
- 蘋果花開放的故鄉(リンゴ花咲く故郷へ) - (昭和32年7月)
- 辮子、花和地藏先生(おさげと花と地蔵さんと) - (昭和32年9月)東條壽三郎、細川潤一
- 三味線候鳥(三味線渡り鳥) - (昭和32年9月)
- 我是郵遞員先生(僕は郵便屋さん) - (昭和32年10月)
- 告別東京(おさらば東京) - (昭和32年11月)橫井弘、中野忠晴
- 東京無線電(現TBS)的「東京最受歡迎的六首歌」連續50周(約1年)創造了第1位的記錄。
- 夕陽鳶(夕焼けとんび) - (昭和33年3月)矢野亮、吉田矢健治
- 草笛的山岡(草笛の丘) - (昭和33年2月)
- 黃昏的故鄉(赤い夕陽の故郷) - (昭和33年11月)橫井弘、中野忠晴
- 吉他海鷗(ギター鴎) - (昭和33年1月)矢野亮、吉田矢健治
- 民謡酒場 - (昭和34年1月)
- sentimental東京(センチメンタルトーキョー -) (昭和33年8月)
- 幸福先生(幸福さん) - (昭和33年8月)
- 月下的山巔路(月の峠路) - (昭和33年9月)
- 鴛鴦新打(おしどり新打) - (昭和33年9月)
- 返鄉日的樂趣(帰る日が楽しみさ) - (昭和33年10月)
- 岩手的和尚先生(岩手の和尚さん) - (昭和33年11月)
- 浪人小曲(浪人小唄) - (昭和34年1月)
- 笛吹峠 - (昭和34年2月)
- 識夢(夢で逢えるさ) - (昭和34年4月)
- 聽到夜風了喲(夜風に聞いたよ) - (昭和34年4月)
- かすりの女と背広の男 - (昭和34年5月)
- 黑道三味線(やくざ三味線) - (昭和34年5月)
- 古城 - (昭和34年7月)高橋掬太郎、細川潤一
- 只有一個人(たった一人の人でした) - (昭和34年9月)
- 俺達は狙われている - (昭和34年9月)橫井弘、古賀丈晴
- 麥ふみ坊主 - (昭和34年12月)
- 沒有人知道的紅花(誰も知らない赤い花) - (昭和34年12月)
- 北海的末班火車(北海の終列車) - (昭和34年12月)
- 東京哭泣(東京が泣いている) - (昭和35年1月)
- 啊ゝ故鄉(あゝ故郷) - (昭和35年5月)
- 模特之夜(夜のマネキン人形) - (昭和35年5月)
- 海峽 - (昭和35年6月)
- 白菊之歌(白菊の唄) - (昭和35年9月)
- 快傑哈利毛之歌(快傑ハリマオの歌) - (昭和35年)加藤省吾、小川寛興
- 可愛的馬(達者でナ) - (昭和35年10月)橫井弘、中野忠晴
- 再來東京(また來るぜ東京) - (昭和35年12月)
- 石狩川悲歌 - (昭和36年1月)高橋掬太郎、江口浩司
- 漂泊流浪(さすらい流し) - (昭和36年2月)
- 武田節 - (昭和36年5月)
- 星塵的町(星屑の町) - (昭和37年5月)東條壽三郎、安部芳明
- 「文化廣播」全國歌謠Best Ten連續第1位,第4屆日本唱片大獎歌唱獎
- 津輕的三男坊(津軽の三男坊) - 1962年(昭和37年)
- 新選組之歌(新撰組の唄) - 1962年(昭和37年)
- 流星喲(流れ星だよ) - 1962年(昭和37年)
- 東京五輪音頭 - 1963年(昭和38年6月)宮田隆、古賀政男
- 一般認為作曲者是古賀政男,估計三橋美智也參與作曲了。
- 東村山音頭 - 1964年(昭和39年)土屋忠司、細川潤一
- 根據東村山市農協的要求製作。
- 男舞者的扇子(男の舞扇) - 1964年(昭和39年)
- 東京的鴿子(東京の鳩) - 1967年(昭和42年)
- 如果浜木綿花盛開(浜木綿の花咲けば) - 1967年(昭和42年)
- 京都哭泣(京都が泣いている) - 1970年(昭和45年)
- いいもんだな故郷は - 1974年(昭和49年)
- 明治製菓「卡爾」的招商歌
- 漂泊的船(さすらい船) - 1978年(昭和53年)
- 父子星 - 1980年(昭和55年)
- 長南音頭 - 1980年(昭和55年3月)
- I'm A 北海道 Man - 1984年(昭和59年)荒木豊久、かまやつひろし
- 大盜五右衛門音頭(ゴエモン音頭) - 1991年(平成3年)矩形波俱樂部
- 超級任天堂軟件(SFCソフト)「大盜五右衛門」主題曲(テーマ曲)
- 東京哭泣(東京が泣いている)
- 護城河町(堀のある町)
- 鳴門海峽
- 冬季煙花(冬の花火)
以下的4曲,是以「Mitchie」的名義發售的單盤收錄(寺內takeshi演出,迪斯可整理)。
- THE TOMBI(夕焼けとんび)
- BYE BYE HORSE(達者でナ)
- HANAGASA ONDO(花笠音頭)
- KAGOSHIMA OHARABUSHI(鹿児島小原節)
三人會的作品
[編輯]- 哀愁 村田英雄、春日八郎、三橋美智也
- 男人的故鄉(男のふるさと) 村田英雄、春日八郎、三橋美智也