小諸城

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小諸城
長野縣
三之門
三之門
日語漢字 小諸城
平假名
羅馬字 Komoro-jō
通稱 醉月城 穴城 白鶴城
城郭構造 平山城
天守構造
建造者 武田信玄
建造年份 不明
主要維修者 仙石秀久
主要城主 武田氏、仙石氏、牧野氏等
廢城年份 不明
現存遺跡 大手門、三之門、天守台、石垣、空堀
文化財級 重要文化財(大手門、三之門)
經緯度 36°19′38.41″N 138°25′2.09″E / 36.3273361°N 138.4172472°E / 36.3273361; 138.4172472
黑门桥(黒門橋)

小諸城(こもろじょう)是位於日本長野縣小諸市的一座城堡。築城及廢城時間不詳。江戶時代小諸藩的藩廳。別名、酔月城穴城白鶴城鍋蓋城

概要[编辑]

目前認為是長享元年(1487年)時由大井光忠築城。戰國時代武田信玄東信州經營時的領地。據說,現在残存的城跡是信玄的軍師山本勘助的領地,但史料沒有紀錄。

安土桃山時代到了江戸時代,城郭修改為近代的石牆建築。現在的許多結構由仙石秀久修改,三重天守塔也是建於此時期。天守的桐紋鍍金瓦到了寛永3年(1626年)被閃電擊中燒毀。

城郭在比城鎮還低的低地建築,從城鎮還可俯望城內、因此有穴城或鍋蓋城的別稱。此外,利用浅間山的田切地形的深谷作空壕,西側的千曲川断崖作天然的防御。

歷史・沿革[编辑]

天文23年(1554年)時竣工,武田信豊入城,但這是錯誤的。勝頼時期的御一門衆的下曾根浄喜擔任城代的職務,天正10年(1582年)織田・徳川連合軍侵略甲斐之際,浄喜把往小諸城逃的信豊的人頭獻給織田信長,但浄喜也被誅殺了。

武田氏滅亡後給滝川一益,再由北条氏統治,最後由徳川氏取得。之後小田原征伐功勞而得5萬石的大名仙石秀久在天正18年(1590年)時入城。秀久在關原之戰參與東軍、之後的元和8年(1622年)2代的忠政轉封上田城為居城。

江戸時代小諸藩的藩廳設立,之後由松平氏青山氏酒井氏等封於此、元禄15年(1702年)在牧野康重之後不再移封,牧野氏10代康済時迎來了明治時代

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(28名)被選定。

遺構[编辑]

現在は、当時の建造物は石垣と現在の懐古園の入り口の三の門、市街地に存在する大手門のみが現存している。これら2つの門は共に国の重要文化財に指定されている。その他、天守台、石垣などが現存する。

現存する三の門は1615年に建てられたが、1742年に起きた洪水によって崩壊し、現在のものは1765年に再建されたものである。大手門は近年まで民家として利用されていたが、平成20年(2008年)に再び門として修復、復元された。

移築現存する建物としては、足柄門が市内光岳寺山門として、黒門が市内正眼院山門として、旧北御牧村(現:東御市)の民家に本丸御殿の書院といわれるものが移築されている。

侍屋敷[编辑]

侍屋敷は、特に保存されていない。しかし、三の門を向かって左手方向の旧馬場町、右手方向の旧足柄町(いずれも住居表示は小諸市古城)一帯には、旧藩時代の直系子孫が現在も居住して、かつての面影を若干残していることがある。

懐古園[编辑]

城跡は、市営公園小諸城址懐古園(こもろじょうし かいこえん)として整備、公開されており、入場は有料である。園内には小諸市動物園をはじめ小諸市児童遊園地、小諸市立小山敬三美術館小諸市立郷土博物館(かつては小諸市立火山博物館だったが展示物は高峰高原に移転)、小諸市立藤村記念館懐古神社徴古館があり、また園に隣接して小諸寅さん記念館鹿嶋神社小諸義塾記念館などの施設がある。

旧城郭の馬場跡を中心にソメイヨシノが多数植樹されており、日本さくら名所100選に選定されている。4月下旬の桜の開花時期には多くの花見客でにぎわう。また紅葉の名所としても有名であり、こちらも春に負けないほどの多く観光客でにぎわう。

懐古園の入り口は、旧小諸城三の門を利用しており、徳川家達の筆による『懐古園』の扁額が掲げられている。この三の門は小諸市のシンボルとしてフジテレビのアニメーション『サザエさん』の旅行編やオープニングにも複数回登場している。

政教分離問題と、懐古園の賃料[编辑]

懐古園の敷地の多くは、懐古園保存研(会)・(宗教法人懐古神社)が、小諸市に賃貸することにより、賃借料を得ている。従来の賃借料は、懐古園の入場料(入場者数)を基礎にスライド制とされていたが、平成4年から定額制となっている。小諸市が、日本国憲法の規定により、宗教法人懐古神社を特権的に扱うことは許されないが、その行政用語をめぐって誤解を招いた点を、平成26年6月の定例市議会の中で、小諸市長は認めている(こもろ市議会だより156号・P,11)。

宗教法人懐古神社は、氏子数が50余名と極めて少ない。その氏子は小諸藩の士族出身者の子孫・関係者であり、かつ小諸市在住者で構成されていることが特徴的であり、懐古神社の祭神に信仰心を持っている一般の小諸市民は、氏子になることができない。懐古神社の祭神には、天満宮・火魂社など、一般になじみの深い祭神も奉られている。

信濃毎日新聞社・東信ジャーナルをはじめとる地元マスコミの記事、及び小諸市議会議員が議会で質問を行うにあたっては、懐古神社崇敬会を指して、士族会・旧士族会・小諸士族会などと呼称していることもある。また一部の小諸市議会議員等は、宗教法人懐古神社に対して、懐古園主要部の土地を、小諸市に寄付すべきだとの主張を表明している。

文学碑[编辑]

懐古園内の千曲川を望む展望台近くには島崎藤村の『千曲川旅情のうた』の歌碑が建てられ、二の丸の城石には若山牧水の短歌も刻まれるなど、懐古園という名の通り昔をしのばせ、文学の香り漂う風景を織り成している。

若山牧水の短歌(「かたわらに秋草の花語るらくほろびしものはなつかしきかな」)を刻んだ石垣については、種田山頭火佐久市岩村田を訪れた際にこの歌碑に触れた文や俳句を残しおり、両文人の愛好者が訪れる名所となっている。

相關條目[编辑]

外部連結[编辑]