田中静壹
外观
日语写法 | |
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日语原文 | 田中 静壱 |
假名 | たなか しずいち |
平文式罗马字 | Ta-naka Shizu-ichi |
日语旧字体 | 田中 靜壹 |
田中静壹(1887年10月1日—1945年8月24日),日本兵库县人。毕业于日本陆军士官学校二十期,二次大战时曾任日军第13师团师团长,中将。后任东部军管区司令官,大将。1945年8月15日日本战败,完成了镇压少壮派军官的政变企图后,田中静壹与前参谋总长杉山元元帅、前关东军司令官本庄繁大将等十数名高级将领相继切腹、举枪自杀。
年谱
[编辑]- 1887年(明治20年)10月1日 - 兵库县揖保郡揖西村出生。
- 1905年(明治38年)3月28日 - 兵库县立龙野中学校毕业
- 1907年(明治40年)5月31日 - 陆军士官学校毕业(第19期)。
- 1910年(明治43年)11月30日 - 步兵中尉。
- 1913年(大正2年)12月13日 - 入读陆军大学校。
- 1916年(大正5年)11月25日 - 陆军大学校毕业(第28期恩赐)。
- 1917年(大正6年)8月6日 - 步兵大尉。
- 1919年(大正8年)3月8日 - 任命派驻英国。
- 1922年(大正11年)8月15日 - 步兵少佐。
- 1926年(大正15年)5月1日 - 驻墨西哥公使馆陆军武官。
- 1927年(昭和2年)3月15日 - 步兵中佐。
- 1928年(昭和3年)3月22日 - 参谋本部欧美课美班长。
- 1930年(昭和5年)8月1日 - 步兵大佐。步兵第2连队长。
- 1932年(昭和7年)5月28日 - 驻美国大使馆陆军武官。
- 1934年(昭和9年)5月7日 - 隶属参谋本部。
- 1935年(昭和10年)8月1日 - 陆军少将。步兵第5旅团长。
- 1936年(昭和11年)8月1日 - 宪兵司令部总务部长。
- 1937年(昭和12年)8月2日 - 关东宪兵队司令官。
- 1938年(昭和13年)7月15日 - 陆军中将。
- 8月2日 - 宪兵司令官。
- 1939年(昭和14年)8月1日 - 第13师团长。
- 1940年(昭和15年)3月13日 - 勲一等瑞宝章[5]。
- 4月29日 - 勲一等旭日大绶章[6]。
- 9月28日 - 宪兵司令官(再任)。
- 1941年(昭和16年)10月15日 - 东部军司令官。
- 12月24日 - 隶属参谋本部。
- 1942年(昭和17年)8月1日 - 第14军司令官。
- 1943年(昭和18年)3月12日 - 疑似疟疾发作发高烧。[7]。这时被引介到生长之家。
- 1944年(昭和19年)8月3日 - 军事参议官兼陆军大学校长。
- 1945年(昭和20年)3月9日 - 第12方面军司令官兼东部军管区司令官。
- 8月24日 - 于司令官室举枪自杀。
参见
[编辑]注释
[编辑]- ^ 年谱についてはpurunus.com 田中静壱[永久失效链接]および冢本・前掲书に依拠している。
- ^ 冢本、前掲书 p.211。
- ^ New York Times July 19, 1919 (页面存档备份,存于互联网档案馆) 戦胜国の一つを代表して兵士50名・将校5名が行进に参加したとある。但し、この记事では田中についての言及はない。
- ^ アジア历史资料センター 陆军大臣宇垣一成外十二名外国勲章受领及佩用ノ件 互联网档案馆的存档,存档日期2014-08-01.
- ^ 中野文庫 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧. [2013-01-12]. (原始内容存档于2011-07-16).
- ^ 中野文庫 旧・勲一等旭日大綬章受章者一覧. [2013-01-12]. (原始内容存档于2004-04-08).
- ^ 无血终戦の伟勲者田中静壱大将のこと[永久失效链接] 中嶋与一
- ^ 同上[永久失效链接]