藤原实方

维基百科,自由的百科全书
跳到导航 跳到搜索
藤原实方
歌人、官员
藤原实方
藤原实方(菊池容斋《前賢故实》)
左近衛中将
國家 日本
時代 平安時代中期
主君 花山天皇一条天皇
位階 从四位[1]
氏族 藤原北家小一条流
出生 不詳
逝世 長德4年(旧暦)12月12日
(999年1月2日)
墓葬 宮城县名取市北野 中将实方朝臣之墓
《实方朝臣集》

藤原实方(日语:藤原 実方ふじわら の さねかた Fujiwara no Sanekata,?-999年1月2日)是日本平安時代中期的貴族歌人;乃左大臣藤原師尹之孫、侍从藤原定時之子;中古三十六歌仙之一。

生平[编辑]

父亲藤原定時早逝,过继成为叔父藤原济時的養子。侍奉花山、一条两朝天皇,官至従四位上左中将。

天禄三年(972)任左近将监,次年升叙从五位下。天延三年任侍从,经左近卫权佐(一说右兵卫佐),九年后就任左近少将,转右马头,正历二年(991)升任为右近中将,四年叙从四位上,五年就任左近中将。

宽和二年(986)六月,实方入宫吟咏,以诗才见宠于圆融、花山两院。和清少纳言、小大君都有相互赠答的恋歌。

藤原实方
(百人一首)

長德元年(995年),遊東山,實方于花陰下避雨作歌,众人认為絕唱。第二天,藤原齐信一条天皇特别称赞藤原实方。藤原行成说道:“其人驕慢。歌雖美,奚足言哉。”實方听后大怒,与行成論爭于殿上,實方一时大怒,夺下行成的冠投在地上,行成镇静从容,而實方引起天皇不满。天皇以“錄進歌枕”为名[2]将實方贬为陸奥守[3],而提拔行成为藏人頭[4]

長德4年12月(999年1月),实方骑马路过笠岛道祖神前,乘坐的马突然倒下而去世,享年约40歳。

和歌[编辑]

拾遺和歌集》(7首)等勅撰和歌集中有64首入集[5]。个人歌集为《实方朝臣集》。

かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを
雖思口难言,伊吹山艾蓬欲燃,可知我心焦

——《後拾遺和歌集·恋一·612》《百人一首·51》

 

逸話[编辑]

系譜[编辑]

脚注、参考[编辑]

  1. ^ 尊卑分脈』では正四位下とする。
  2. ^ 古事談』による。陸奥国府多賀城近辺を初め、陸奥国に歌枕が多くあるため、「歌枕」が陸奥国の代名詞となっている(『仙台市史』通史編2 古代中世)。
  3. ^ ただし、実方は陸奥下向の際に天皇から多大な餞別を受けた事が、当の口論相手の行成の日記『権記』に克明に記されている事から、左遷とは言えないとの説もある。
  4. ^ 実方が陸奥守に任ぜられたのは長徳元年(995年)正月13日、一方で行成が蔵人頭に任ぜられたのは同年8月29日と任官時期に8ヶ月も開きがあり、さらにその任官理由は源俊賢の推挙によるものとされる(『大鏡』第3巻24)ことから、この行成との逸話については事実と相違する。都人の間に辺境の地で客死した実方への同情があり、このような説話(後述の死後亡霊となった噂や、スズメに転生した話も含め)の形成につながったと考えられる。(竹鼻績『今鏡 (下)』講談社学術文庫、1984年、530頁)
  5. ^ 『勅撰作者部類』

關連[编辑]