浅尾藩
浅尾藩 | |
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别称 | 云出藩 浅尾领 |
日语汉字 | 浅尾藩 |
平假名 | あさおはん |
罗马拼音 | Asao-han |
大名家 | 莳田家 |
伺候席 | 菊间 |
人口 | 6,674人 |
云出藩(日语:雲出藩/雲津藩/くもずはん Kumozu-han */?)是日本伊势国一志郡云出的藩[注 1],庆长8年或庆长10年(1603年或1605年)时转移至备中国贺阳郡而创立浅尾藩(日语:浅尾藩/あさおはん Asao-han */?)[1][2],宽永13年8月23日(1636年9月22日)废藩[3],文久3年11月24日(1864年1月3日)再次创藩[4],明治4年7月14日(1871年8月29日)再次废藩[5]。
石高是10,000石,藩厅最初位于井手村,文久3年时转移至门田村浅尾(浅尾阵屋)[注 2],藩校创建于嘉永年间(1848年至1858年),称为学问所,其后在文久3年11月再次创藩后又创办藩校集义馆[6],人口是1,642户6,674人[7][5]。武家屋敷方面,江户藩邸上屋敷位于小川町、二合半坂下和小日向筑地,下屋敷位于目白台和驹込动坂,抱屋敷位于谷中[8][注 3]。
历史
[编辑]莳田广定原本领有10,016石,定居于伊势国一志郡云出,领地涵盖伊势国、备中国和河内国大县郡太平寺村[注 4]。关原之战爆发后,广定作为西军败北,战后蛰居于高野山。根据《恩荣录》记载,广定在庆长5年(1600年)获安堵于备中国,也就是说他曾经被改易。然而,《古今武家盛衰记》、《废绝录》和《日本战史》均没有记载其被改易[1]。
庆长8年或庆长10年(1603年或1605年),广定在浅野长政和浅野幸长的调解下获赦免[1][2],并且获德川家康下赐约10,016石,领地是备中国贺阳郡2村约4,431石、洼屋郡3村约3,216石、浅口郡2村约716石、河内国大县郡太平寺村104石、山城国久世郡佐古村432石、摄津国丰岛郡熊野田村约427石和八部郡2村约688石[注 5][14][7][5]。原本领有的云出变为富田信高的领地,信高在庆长13年(1608年)转封至伊予宇和岛藩后,云出则改由伊势津藩藤堂氏领有[1]。
宽永13年8月23日(1636年9月22日),广定死去,由其子莳田定正继位,他虽然原本领有相模国大住郡内500石和甲斐国山梨郡内800石,不过他在继位后分知备中国洼屋郡、贺阳郡、浅口郡、山城国久世郡、摄津国丰岛郡和八部郡内3,000石予其弟莳田长广,定正的石高变为8,310石,浅尾藩因此废藩[7][15][7][5][16]。
宽永17年12月29日(1641年2月9日),定正死去,由其子莳田定行继位,他分知约1,300石予其弟莳田定则(莳田定成),浅尾领的石高减至约7,000石。天和2年(1682年),定行获加增上野国山田郡、势多郡和新田郡内700石。元禄11年(1698年),莳田定矩将上野国的领地转移至备中国贺阳郡内[7]。
文久3年11月24日(1864年1月3日)[4],莳田广孝由于在江户戒备有功而获调整石高至10,000石而再次创藩,为定府大名,阵屋也从贺阳郡井手村转移至同郡门田村浅尾。元治元年(1864年),广孝获任命为京都见回役,与新选组一同维持京都的治安。庆应2年(1866年)4月,当时为佐幕的浅尾藩的浅尾阵屋与仓敷代官所一同遭到第二奇兵队立石孙一郎等130人擅自袭击而化为灰烬,即仓敷浅尾骚动[7][17]。
庆应3年(1867年)6月,广孝称病辞任京都见回役。庆应4年(1868年),广孝听从备前冈山藩藩主池田茂政的意见而归顺朝廷。同年2月23日(3月16日),广孝奉命监视备中国内的幕府领。其后,浅尾藩也一度与备中新见藩一同出兵,同年4月25日(5月17日)获准收兵。明治4年7月14日(1871年8月29日),废藩置县[7][17][5]。
历任
[编辑]家名 | 家格 | 名称 | 石高 |
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莳田家 | 外样 阵屋 |
莳田广定 | 10,016石 |
旗本寄合席 | 莳田定正 | 8,310石 | |
莳田定行 | 7,000石 ↓ 7,700石
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莳田定矩 | 7,700石 | ||
莳田定英 | |||
莳田定安 | |||
莳田定静 | |||
莳田定祥 | |||
莳田定邦 | |||
莳田定庸 | |||
莳田广运 | |||
旗本寄合席 ↓ 谱代阵屋 |
莳田广孝 | 7,700石 ↓ 10,000石
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领地
[编辑]令制国 | 郡 | 领地 |
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摄津国 | 八部郡 | 太井畑村 |
备中国 | 洼屋郡 | 三和村、下林村、下林村之内中林、上林村、小屋村 |
浅口郡 | 大谷村、大谷村之内中岛新田、须惠村 | |
贺阳郡 | 门田村、小寺村、福井村、金井户村、清水村、井手村、井尻野村、延友村 |
注解
[编辑]参考资料
[编辑]- ^ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 杉本嘉八. 雲出藩. 木村础、藤野保、村上直 (编). 藩史大事典 中部編Ⅱ 東海 4 POD版. 雄山阁. 2002-04-15: 491–492. ISBN 4-639-10038-8 (日语).
- ^ 2.0 2.1 浅尾藩. kotobank (日语).
- ^ 蒔田広定. kotobank (日语).
- ^ 4.0 4.1 总社市史编纂委员会 (编). 垪和家文書(東京都). 総社市史 近世史料編. 总社市. 1990-03-31: 962. 国立国会图书馆书志ID:000002041189 (日语).
- ^ 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 5.5 5.6 竹内理三、北原进、杉山博、竹内诚、所理喜夫、西垣晴次、谷口澄夫、石田宽 (编). 浅尾藩・井手・門田〈総社市〉. 角川日本地名大辞典 岡山県. 角川日本地名大辞典 33 日本文学Web図書館. 角川书店. 1989-07-08. ISBN 4-040-01330-1 (日语).
- ^ 总社市史编纂委员会 (编). 第四章 幕藩体制と総社市域 第四節 教育・学問と宗教. 総社市史 通史編. 总社市. 1998-03-31: 676. 国立国会图书馆书志ID:000002728356 (日语).
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- ^ 浅尾藩. kotobank (日语).
- ^ 17.0 17.1 菊地明. 浅尾藩. 新人物往来社 (编). 三百藩戊辰戦争事典 下. 新人物往来社. 2000-01-25: 155–156. ISBN 4-404-02822-9 (日语).
- ^ 旧高旧領取調帳データベース. 国立历史民俗博物馆. [2024-07-22]. (原始内容存档于2020-11-25) (日语).
外部链接
[编辑]- 浅尾藩. kotobank (日语).