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江户城

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江户城
江戸城えどじょう Edo-jō
皇居
江户城描绘图
位置 日本东京都
坐标35°41′17.97″N 139°45′15.72″E / 35.6883250°N 139.7543667°E / 35.6883250; 139.7543667
建立者太田资长
建成时间1457年(长禄元年)
主要城主太田氏后北条氏(战国时代)
德川将军家(江户时代)
天皇家(明治以来)
建筑风格城郭构造:轮郭式平城或平山城
天守构造:层塔型五重五阶加石垣内一阶
修复者德川家康秀忠家光(江户时代)
宫内省宫内厅(明治以来)
现状现存遗迹:石垣、堀、橹、门、土垒
指定文化财:国家重要文化财(樱田门、田安门
清水门)
重建部分:富士见橹、伏见橹・多闻橹
樱田巽橹、田仓门

江户城(日语:江戸城えどじょう edo jō */?)是位于日本东京都千代田区千代田(古武藏国丰岛郡江户)的城堡,别名为江城江城こうじょう kōjō)、千代田城千代田城ちよだじょう chiyoda jō),为日本规模最大的城郭,周长含外郭约4日里(15.6公里)。江户时代的统治者德川将军家在此居住历经十五代,统治二百六十五年,至1868年迁出为止。其城址即现今的皇居,但使用区域与江户时代有所不同。

概略

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十二世纪初,江户是平安时代才出现的地名,为武藏国江户乡,最早出现在镰仓时期的书籍《吾妻镜》,江户意思是江川(荒川)的出海口或入湖入川口。秩父地区秩父氏(武藏国守代理职河越氏分家,畠山氏的分家)的分家,秩父重纲之子四朗,在江户樱田筑居馆(现在皇居的本丸、二之丸范围),并以地方为“名字”,改名为江户重继。以地为名因此得名“江户城”。长禄元年(1457年),扇谷上杉氏的家臣太田道灌开始修筑江户城。尔后,随着扇谷上杉氏的衰落,于16世纪初成为了后北条氏的一座支城。城南的品川凑自古为武藏国府的外港港区,浅草的江户凑亦为室町时代武藏国知名的港区(海上称港,陆上设施称凑)。与神奈川凑(横滨)为东京湾三大繁荣港市,太田道灌时期即形成城下町,有一定的发展。

天正十八年(1590年),关白丰臣秀吉借故讨伐后北条氏,于小田原之战攻陷小田原城,没收后北条氏领地统一天下,德川家康入封关东,以江户为居城,江户城开始繁荣起来。庆长6年(1601年)闰11月2日江户大火全城焚毁。庆长八年(1603年),家康在江户开设了延续二百多年的江户幕府,着手增筑江户城,最大规模为拥有五重六层天守。历经3次修筑,最终天守于1657年明历大火中烧毁,三代天守扣除中间修筑时间,天守总共存在仅五十年不到,改由富士见橹替代,石垣高7间(实际11米),长18间宽16间(28m×25m),含石垣建筑总高度22间半(35米),矮于大阪天守与骏府天守,因位于大奥后方遂放弃建筑,但是经过多次大火。现今有很多部分仍然未能确定。从此,作为幕府将军的居城,成为全国幕政中心,加上参勤交代的建立,以整个日本的力量发展江户,大量不事生产的武士家族于此繁衍,服务武士阶层的商人、工匠、使役作为町人亦大量涌入,在江户幕府中后期终于赶上京都、大阪成为经济中心,江户城得到很大的发展,最终形成了现在的东京。江户亦为全球历史上知名的火灾城市,江户幕府267年间,包括1601年全城焚毁的大火共49次,大小火灾1,798次。

明治元年(1868年),江户城由维新政府接管。3年后,天皇入住,江户城成为天皇居所。1948年更名为皇居。部分城内建筑,如冰川神社以及喜多院被移往其他地方。目前被日本政府指定为国家的“特别史迹”。

嘉永2年(1849年)配置图
1)本丸大奥2)中奥3)表4)二之丸御殿5)二之丸6)红叶山7)西之丸8)吹上9)北之丸10)三之丸11)三之丸12)西之丸下(大名屋敷地)13)大手前(大名屋敷地)14)大名小路(大名屋敷地)
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建筑(日本语介绍)

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江戸城配置図(内郭)
江戸城配置図(外郭)

天守

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太田道灌筑城以降の象徴的建物は、静胜轩という寄栋造の多重の御殿建筑(3重とも)で、江戸时代に佐仓城へ铜橹として移筑されたが、明治维新后に解体された。佐仓城の铜橹は二重橹で2重目屋根が方形造錣屋根のようになっていた。

徳川家康の改筑以降、本丸の天守庆长度1607年)・元和度1623年)・寛永度1638年)と三度筑かれている。どの天守も𩾇や破风の饰り板を金の延板で饰っていた[1]

明历3年(1657年)の明历大火により寛永度天守が焼失した后、直ちに再建が计画され、现在も残る御影石の天守台が加贺藩主の前田纲纪によって筑かれた(高さは6间に缩小)。计画図も作成されたが、幕阁の重镇であった保科正之の“天守は织田信长岐阜城に筑いたのが始まりであって、城の守りには必要ではない”という意见により江戸市街の复兴を优先する方针となって中止された[2]。后に新井白石らにより再建が计画され図面や模型の作成も行われたが、これも実现しなかった。以后は、本丸の富士见橹を実质の天守としていた。

また、これ以降诸藩では再建も含め天守の建造を控えるようになり、事実上の天守であっても“御三阶橹”と称するなど远虑の姿势を示すようになる。

庆长度天守
天守台は白い御影石が用いられ(‘庆长见闻集’)、1606年(庆长11年)にまず自然石6间、切石2间の高さ8间の天守台が黒田长政によって筑かれた。翌庆长12年に、自然石と切石の间に自然石2间が追加され高さ10间、20间四方となる(‘当代记’)。位置は现在の本丸中央西寄にあり、天守台とその北面に接する小天守台、本丸西面の石垣と西侧二重橹をつなぐようにして天守曲轮があった(‘庆长江戸絵図’)[3]。ただし当时の本丸は现在の南侧3分の2程度であったため、当时の地势では北西にあることになる。
天守は同年中に竣工し、1阶平面の规模は柱间(7尺间)18间×16间、最上阶は7间5尺×5间5尺、栋高22间半(‘愚子见记’)、5重で铅瓦葺(‘庆长见闻集’)もしくは7重(‘毛利三代実录考证’)、9重(‘日本西教史’)ともある[4]
庆长度天守の复元案は‘中井家指図’を基にした宫上茂隆の考证によると、天守台は骏府城淀城と同じく20间四方、高さ8间の自然石による広い石垣の上に、それより一回り小さい天守地阶部となる高さ2间の切石による石垣が载っている2重构造で、5重5阶(地阶1阶を含めると6阶)の层塔型としている。骏府城などとは异なり、自然石と切石の间が狭いので多闻橹などで囲われてはおらず、天守台の周りには塀だけがあったと思われる。回縁・高栏はなく、また最上阶入侧縁のみが6尺幅となっている。白漆喰壁の铅瓦で栋高は48メートル、天守台も含めれば国会议事堂中央塔(高さ65.45メートル)に匹敌した。作事大工は中井正清としている。
一方、内藤昌は‘中井家指図’は元和度天守のものとしており、庆长度天守は5重7阶、腰羽目黒漆、回縁・高栏の后期望楼型であったとしている。作事大工は三河谱代の大工木原吉次、中井正清も协力したとする。
西ヶ谷恭弘は天守台の构造は宫上说と同じだが、天守は后期望楼型とする大竹正芳の図を宫上说とは别に绍介している。また三浦正幸门下の金泽雄记は20间四方は天守台の基底部として、自然石と切石が一体の天守台とそこから直接建つ名古屋城天守を基にした后期望楼型の天守を考证している。その后、三浦正幸は‘津軽家古図’を庆长度としている[5]
内藤案以外は石垣・壁・屋根に到るまで白ずくめの天守であり、‘庆长见闻集’‘岩渕夜话别集’でも富士山や雪山になぞらえている。この天守は秀忠によって解体され新たに造り直されている。造り直しの动机は御殿の拡张が必要となった结果で、宫上茂隆はこの初代天守は缩小した上で大坂城に移筑されたとしている。
元和度天守
元和度天守は、1622年(元和8年)から翌年にかけて天守台普请とその上屋(天守)の作事が行われた。位置は本丸东北の梅林坂にあった徳川忠长屋敷を破却し、その迹地に建てた(‘御当家纪年录’)、もしくは寛永度天守と同じ位置とされる。加藤忠広浅野长晟の手による天守台の规模は庆长度の3分の1、寛永度天守と同様に南侧に小天守台があり(‘自得公済美录’)、高さも7间に缩小されている。天守内部には东照宫があったとされている[6]
天守の构造は、5重5阶(地阶1阶を含めると6阶)の层塔型とされ、天守台を含めた高さは约30间とされる。外観や诸构造については、诸说ある。
宫上茂隆案
宫上案では、旧津軽家の‘江戸御殿守絵図(津軽家古図)’を比定し、屋根は铜瓦葺、壁は白漆喰としている。寛永度天守との违いは各破风の下に张り出しが设けられているのが特徴で、これは作事に当たった谱代の铃木长次、木原家の下にいる三河大工に见られる意匠としている。
内藤昌案
内藤案は、前述の通り‘中井家指図’を比定し、一部の破风が异なる以外は寛永度天守とほぼ変わらない。三浦案も白漆喰壁で铜瓦葺でない以外は内藤案と同様の见解を采っている。
西ヶ谷恭弘案
西ヶ谷案は‘武州豊岛郡江戸庄図’より初重を2阶建であったとしている。また、黒色壁でもあったとしている。
元和度天守も秀忠の死后に家光によって解体され造り直されている。この动机も秀忠・家光の亲子関系に起因するともいわれるが详らかではなく、ほかに仙台城への下赐说、高层建筑による漆喰の早期剥离に対する是正工事といった说がある。
寛永度天守
寛永度天守は1636年(寛永13年)から翌年にかけて天守台・天守双方が完成している。黒田忠之浅野光晟が筑いた天守台の位置は本丸北西の北桔桥门南、规模は元和度を踏袭している。また、元和度と縦横の位置を変えたとある(‘黒田家続家谱’)。材质は伊豆石。小天守台が设けられているが、小天守は建てられていない。これは阶段の踊り场のような意味で造られたからである。基本的な构造は现在の天守台とほぼ同じだが、大坂城と同じように东侧の登り口以外に西侧にも桥台と接続するかたちで出入口が设けられていた。
构造は5重5阶(地阶を含めれば6阶)の独立式层塔型で壁面は黒色になるよう涂料もしくは表面加工が施された铜板を张り、屋根は铜瓦葺である。高さは元和度と同じ本丸地上から天守台を含む30间、下総からも眺望ができたという。作事大工は甲良宗広
1657年(明暦3年)の明暦の大火で、过失により开いていた二重目の铜窗から火が入り焼失している。再建计画时に寛永度と同様の天守を建筑する予定だったので多くの资料が提出されており、确定的な図面が残されているので正确な姿が判明している。
  • 规模…“ ”内は柱间(7尺间)、桁行・梁间は京间
    • 地阶…“12间×10间”
    • 一重目…“18间×16间” 桁行29间2尺9寸×梁间27间1尺9寸、柱数191本
    • 二重目…“15间×13间” 桁行16间1尺×梁间24间、柱数155本(内、一重目より三重目まで通し柱13本)
    • 三重目…“12间×10间” 桁行13间2尺5寸×梁间11间1尺5寸、柱数127本(内、三重目より四重目まで通し柱32本)
    • 四重目…“10间×8间” 桁行10间5尺×梁间8间4尺、柱数75本(内、四重目より五重目まで通し柱9本)
    • 五重目…“8间×6间” 桁行8间4尺×梁间6间3尺、柱数55本

図面による复元での计算によると天守の高さは58.63メートルとなった[7]

御殿

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本丸・二之丸御殿模型(江户东京博物馆藏,模型省略了一部分建物)、幕末时期的御殿复原模型,同时再现了已不存在的天守阁。
1)玄关・远侍、2)大广间、3)松之廊下、4)白书院、5)竹之廊下、6)黑书院、7)御座之间、8)御休息、9)御小座敷、10)中之口御门(表诸职玄关)、11)台所、12)上御铃廊下、13)下御铃廊下、14)御小座敷(大奥)、15)对面所、16)御座之间(大奥)、17)新御殿、18)御新座敷・御客座敷、19)台所(大奥)、20)长局、21)广敷御门、22)二之丸御殿

御殿包含本丸、二之丸、西之丸、三之丸御殿。其中,三之丸御殿在元文年间被废止。本丸御殿作为将军居住、处理政务和礼仪仪式的场所,在江户城中起到了核心作用,二之丸御殿是将军的别邸,西之丸御殿是已退位隐居的前任将军(大御所)和下任将军(将军继承人)使用的御殿。

本丸御殿

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本丸御殿由南而北的结构依次为表、中奥、大奥。其中,表作为幕臣谒见将军和诸役人的执务之地、中奥是将军生活起居室,同时也是处理政务的地方、大奥是将军的妻妾和奥女中居住的空间。大奥与表和中奥之间有一堵铜墙作为阻隔,要进出大奥只能从一个(之后改建成两个)走廊进出。

作为将军御殿的第一代本丸御殿于1606年(庆长11年)竣工。随后数次分别于1622年(元和8年)、1637年(寛永14年)(同16年烧毁)、同17年(明历大火烧毁)、1659年(万治2年)(1844年(天保15年)烧毁[8])、1845年(弘化2年)(1859年(安政6年)烧毁)、1860年(万延元年)(1863年(文久3年)烧毁)多次反复重建和烧毁。本丸御殿于文久年间被烧毁之后便未再重建,原有的机能转移至西之丸御殿。

表・中奥
以大广间、白书院、黑书院、御座之间、御休息间为主要御殿,由南而北分布于西侧。表的东侧有幕府诸臣的值房与控室,中奥的东侧是侧众日语側衆辖下的值房与控室以及御膳房。大老老中若年寄的执务・议事地点最初是在御座之间,但之后由于发生了堀田正俊遇刺案而改为使用表和中奥之间的御用部屋。他们与将军的侧近侧用人御侧御用取次日语御側御用取次在中奥的中心位置皆设有值房。
由于表是作为仪礼使用的空间,御殿几乎没有任何改动,但中奥经常根据历代将军的喜好进行改造。表与中奥之间与和大奥之间不同的地方在于结构上并没有被阻隔,只有时计之间和黑书院后侧的御锭口才能进出大奥。表的值班官员除了获得御目见的资格进入中奥的御座之间之外不得入此禁区,奥向的官员也只能在时计之间进行晤谈。
大广间
本丸御殿中形式和规模最大的御殿。这是一座长约500张榻榻米、东西方向长50米的巨大建筑。宽永17年的大广间有一座大屋顶,但在烧毁后的重建过程中在中央处设置了一个中庭,屋顶高度于改建工程中被降低。
大广间用于举行将军宣下日语将軍宣下、颁布武家诸法度、新年朝觐等最为重要的官方活动。主要的空间有上段・中段・下段・二之间・三之间・四之间,由西北逆时针方向分布。东南处之南侧有一中门,东侧的御驾笼台是大广间权威的象征。此外,于南侧对面有一表能舞台,在举行能剧的盛大​​庆典活动时,幕府官方会指定其中一天作为“町入能”,并在这天允许町人能够进入南庭观赏能剧。[9]
白书院
规模仅次于大广间的御殿。与大广间中间由松之廊下日语松之大廊下作连系,分为上段・下段・帝鉴之间日语帝鑑の間・连歌之间等主要空间,全殿约有300叠榻榻米的大小。曾用于公务活动,作为将军接见群臣的地方,诸大名在此感谢幕府允许自己的御暇・家督・隐居・婚姻请求时在这里谒见将军。此外于新年期间,越前松平家日语越前松平家加贺前田家于此代表幕府会面、迎接朝廷敕使和院使时,使用下段作为宴会厅。
黑书院
与白书院之间由竹之廊下作为连系,主要的空间有上段・下段・西湖之间・围炉里之间等约190叠榻榻米大小的范围。御殿的建筑以木及赤松木为材料所建造。用于将军日常生活期间的接待场所。
御座之间・御休息
作为将军起居室,前段由上段・下段・二之间・三之间・大溜等构成,中段的接见室用于处理政务,后段为上段・下段组成的寝宫与起居空间。中奥前段的役人原则上禁止进入,只有获得御目见时才能进入御座之间。最初,将军将御座之间作为休息的寝宫,御小座敷日语御小座敷被建造为将军的私人空间。
御休息在历代将军更迭时都会进行改建,御小座敷的周边也曾经历过多次改建。例如在喜爱能剧德川纲吉在位时期,御休息的右侧修筑有一座能舞台,作为当时频繁发生地震的地震决策中心和一个名为“地震之间”的避难场所,设置于中庭内的两个地方。其后的德川吉宗反其道而行,将华美的御休息间拆除,仅于走廊上规划出部分空间用于起居。
大奥

二之丸御殿

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1636年(寛永13年)建造的第一代御殿由小堀远州创建。表向的机能被省略,整体作为愉乐用途。南西侧的人造山与后侧的白鸟濠相连的池中有一座能舞台(或称水舞台),从池畔对岸的御座和凸出并悬于护城河上的钓殿可观览全境。中心部分有御殿群,东侧筑有池塘与人造山、池中的岛屿上设有御亭和御茶屋・御囲・学问所及御文库等设施。

然而,这座御殿早在五年后就被拆除,并在1643年(寛永20年)修筑了简化版的本丸御殿。这座御殿在明历大火中也被烧毁,残存遗构移筑至越谷别殿。此后,在1704年(宝永元年)和1760年(宝历10年)进行过御殿的重建工程,但在1867年(庆应3年)再度被烧毁,从此正式走入历史。

西之丸御殿

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和本丸御殿一样,分为表・中奥・大奥,主要的空间有远待・殿上间・虎间・大广间・大廊下・溜间・白木书院・帝鉴之间日语帝鑑の間・连歌歌间・山吹间・菊间・雁间・竹间・芙蓉间・中间・桔梗间・烧火间・踯躅间・柳间・梅竹间・桧间・苏铁间等房间。

该御殿和塔楼先后被烧毁了三次:分别发生于1634年(宽永11年)、1852年(嘉永5年)和1863年(文久3年)三个年份。 1868年(明治元年)4月,该御殿被移交给朝廷时是第四代建筑物,明治天皇入城后,这里成为天皇居住的“皇城” 。1869年天皇于此接见奥匈帝国的使节团,已更名为皇城的御殿成为天皇会晤访客的接见厅。当时的奥匈使节团将日本皇城的详细草图回传至本国。1873年(明治6年)5月5日皇城御殿又再次面临被烧毁的命运。西之丸御殿的防御守备工作于江户时代由西丸小姓组日语西丸小姓組专责负责。之后的1888年(明治21年),朝廷在西之丸御殿的遗构基础上修建明治宫殿日语明治宮殿

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三重橹6栋、二重橹10栋、平橹4栋、多门橹26栋[10]

江戸城は几度にも渡る火灾によって焼失し、现存する伏见橹・富士见橹・巽橹なども大正期の関东大震灾の际に损壊した后、解体して复元されたものであるため、橹の构造などを考察するにあたっては、明治初头に撮影された写真や絵図、指図、文献などが用いられている。

幕末まで现存していた二之丸の莲池巽三重橹、莲池二重橹の二栋は明治初年に接続する箪笥多闻橹の火灾が延焼し焼失した。

江戸城の橹は橹门も含め、白漆喰涂笼壁(寛永度天守除く)に、幕纹の足利二つ引を现す2本の长押形を施し、破风・妻壁には铜板青海波模様に张っていた。初重に出张を设けて石落としとしているものが多い。これらの特徴の一部は、幕府が関与した二条城や小田原城などの城郭にも施された。

初重平面6间×7间か7间×8间を标准的な规模として、大坂城名古屋城にも同様に用いた。1871年(明治4年)に记された‘観古図说’には、二重橹の初重平面规模は最小で4间四方(书院出二重橹)、最大で8间×9间(干二重橹)、三重橹は6间×7间から8间×7间のものが记されている[11]

多闻橹は尝ては本丸・二ノ丸の殆どを囲っていたが、时代を経るごとに本丸西侧では塀へと置き换わっていった。

隅橹の一覧

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太线は幕末まで现存した橹(この内、现存するのは富士见三重橹、桜田巽二重橹、伏见二重橹)、斜线1863年(文久3年)に焼失した橹、またここに记载されている橹が一时期に全て存在した事はない。

本丸(南端より反时计回り、以下同じ)
富士见三重橹御书院二重橹书院出二重橹、远侍东三重橹、台所前三重橹汐见二重橹、不明橹(元和度工事前)、汐见太鼓橹(二重橹)、梅林橹(二重橹)、五十三间橹(二重橹)、干二重橹、菱橹(三重橹)、西侧二重橹、数寄屋二重橹(尝ては三重橹)
二ノ丸
莲池二重橹莲池巽三重橹寺沢二重橹(尝ては三重橹)、百人组二重橹巽奥三重橹(松仓橹)、东三重橹(尝ては二重橹)、北橹(二重橹)、不明橹二栋(二ノ丸拡张前)
三ノ丸
桜田巽二重橹、不明橹四栋
西ノ丸
伏见二重橹、御太鼓橹
西ノ丸下
日比谷橹、和田仓橹

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外郭25栋、内郭11栋、城内87栋[12]

虎口は、一の门である高丽门と二の门の橹门で构成される。大坂城や名古屋城の様な枡形の三方を橹门・多闻橹で囲んだ型式は江戸城には少なく、完全なのが下乘门、不完全なものが北桔桥门にあるだけである。

橹门は桁行は15间から20间、梁间が4间から5间ほどのものが建てられ、最大では、桁行25间(赤坂门・芝口见附新桥门)のものもあったが、享保9年(1724年)以降は24间×5间(下乘门)のものが最大となった。ちなみに、最小规模は4间×2间(山下门)である[11]

  • 大手门
    • 三ノ丸大手门は、三ノ丸中央部の枡形虎口に桁行22间×梁间4间2尺の橹门と高丽门で构成され、大手前を繋いだ。三ノ丸が屋敷地であった顷は下乘门が大手门であり、现在の大手桥は大桥と呼ばれていた。江戸时代、敕使の参向、将军の出入り、诸侯の登城など、この门から行うのが正式であった。また、ここの警备は厳重をきわめ、10万石以上の谱代诸侯がその守卫に勤仕し、番侍10人(うち番头1人、物头1人)がつねに肩衣を着て、平士は羽织袴でひかえ、铁炮20挺、弓10张、长柄20筋、持筒2挺、持弓2组をそなえ警戒にあたった。
    • 西ノ丸大手门は、手前の桥场に建てられた高丽门とその后方の桁行18间×梁间4间の橹门で构成されていた。现在の皇居正门で、高丽门は现存しない。

城门总览

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本丸
中雀门(书院门、玄关前门)、上埋门、下埋门、中之门、新门、汐见坂门、上梅林门、北桔桥门、西桔桥门、柚木门
二之丸
下乘门、铜门、下梅林门、二之丸喰违门、莲池门、寺泽门
三之丸
大手门、内樱田门(桔梗门)、平河门、不净门(带郭门)、三之丸喰违门
西之丸
坂下门、西之丸大手门、西之丸中仕切门、西之丸书院前门(西之丸玄关前门、二重桥)、西之丸里门、大田门、山里门、吹上门、红叶山下门
内曲轮
竹桥门、和田仓门、马场先门、日比谷门、外樱田门半藏门田安门清水门雉子桥门一桥门、神田桥门、常盘桥门吴服桥门、锻冶桥门、数寄屋桥门
外曲轮
山下门、芝口见附、幸桥门、虎之门赤坂门喰违见附四谷门、市之谷门、牛込门、小石川门、筋违桥门浅草桥门滨大手门

番所

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江户城内设有许多警备要员执行勤务的值务室(番所),但目前现存的只剩以下三座:大番所位于中之门的后方、百人番所和同心番所分别位于下乘门的后方和外侧,守卫著江户城的每一座城门。[13]


图集

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参见

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注释

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  1. ^ なお宫上案に従えば、三代の天守は壁面・瓦の材质・破风の配置などを除けば、基本的に同じ规模・构造をしていた。
  2. ^ 多大な支出ばかりが嵩んでいた幕府财政の、近年中のさらなる悪化・破绽が予想されたため、という说がある。
  3. ^ その名残として、天守曲轮に当たる御休息(数寄屋、富士见)多闻橹の北侧から石室(西侧二重橹迹)までの本丸の石垣は现在も他より一段高くなっている。
  4. ^ 7重・9重には“何段にも重なる”という意味もあるので、5重の可能性が高い。
  5. ^ ただし金泽案は‘愚子见记’の、三浦案は‘愚子见记’‘当代记’双方の记述内容に矛盾する。
  6. ^ 后に二ノ丸东照宫として移転。また、‘津軽家古図’には最上阶上々段に东照宫があったと记载されている。
  7. ^ 江戸城天守 天高く 高さ58.63メートル、攻撃装置ない太平の象徴. [2018-08-30]. (原始内容存档于2015-12-22). 
  8. ^ 中江克己. 江戸の醜聞事件帖: 情死からクーデターまで. 学研M文库. 2010: 159. ISBN 978-4-05-901265-8. 
  9. ^ 第36回 “江戸城にお能を见に行く!”展“千代田之御表”页面存档备份,存于互联网档案馆)东京都立図书馆、2009.11.24
  10. ^ 橹の数や规模は时期により异なるので、これは一例である。
  11. ^ 11.0 11.1 平井圣・松冈俊郎ほか执笔‘江戸城’学习研究社 1995年
  12. ^ 御殿の门なども含んだ数。主要な门57栋の内、橹门は45栋。更に枡形を构成しているのはおよそ39栋。
  13. ^ 目前同心番所的建筑结构已经迁建至城门内侧。

参考文献

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  • Ponsonby-Fane, Richard A. B. (1956). Kyoto: The Old Capital of Japan, 794-1869. Kyoto: The Ponsonby Memorial Society.
  • Schmorleitz, Morton S. (1974). Castles in Japan. Tokyo: Charles E. Tuttle Co., pg. 99-112. ISBN 0-8084-1102-4.