敏达天皇
外观
第30代天皇 | ||
在位期間: 571年4月30日-585年9月14日(14年137天) | ||
前任:欽明天皇 | ||
繼任:用明天皇 | ||
時代 | 飛鳥時代 | |
皇居 | 百濟大井宮·他田宮 | |
別名 | 沼名倉太珠敷命 他田天皇 | |
出生 | 宣化天皇三年 538年 | |
逝世 | 敏達天皇十四年八月十五日 585年9月14日 (46—47歲) | |
陵墓 | 敏達天皇陵 | |
父親 | 欽明天皇 | |
母親 | 石姬皇女 | |
皇后 | 廣姬 額田部皇女(推古天皇) | |
夫人 | 老女君 兔名子 |
日語寫法 | |
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日語原文 | 敏達天皇 |
假名 | びだつてんのう |
平文式罗马字 | Bidatsu Tennō |
敏达天皇(日语:敏達天皇/びだつてんのう Bidatsu Tennō;538年—585年9月14日)是日本的第30位天皇(571年4月30日—585年9月14日在位)。钦明天皇的次子,母亲石姬皇女(宣化天皇之女)。
569年敏达天皇被钦明天皇立为太子。572年钦明天皇薨,敏达天皇登基。
敏达天皇试图加强日本在朝鲜的影响,但没有成功。在宗教上他偏向神道教。585年在日本瘟疫蔓延,他因此禁止佛教,但同年天皇死于瘟疫。
敏达天皇的第一位皇后在他登基四年後便逝世,他的第二位皇后是后来的推古天皇。他们的儿女中包括皇极天皇。
記錄
[编辑]敏达元年4月,宮于百濟大井。以物部弓削守屋大連爲大連如故。以蘇我馬子宿禰爲大臣。日本書紀——敏达天皇——元年
譜系
[编辑](26)繼體天皇 ((三國)男大迹王) | (27)安閑天皇 | 石姫皇女 (欽明天皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(28)宣化天皇 | 上殖栗皇子 | 十市王 | 多治比古王 | (多治比)嶋 〔多治比氏〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(29)钦明天皇 | (30)敏达天皇 | 押坂彦人 大兄皇子 | (34)舒明天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(三國)椀子皇子 〔三國氏〕 | 春日皇子 | 茅渟王 | (35)皇极天皇 (37)齊明天皇 (舒明天皇后) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(息長)厚皇子 〔息長氏〕 | 大派皇子 | (36)孝德天皇 | 有間皇子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
難波皇子 | 大俣王 | 栗隈王 | 美努王 | (橘)諸兄 (葛城王) 〔橘氏〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(31)用明天皇 | 厩戶皇子 (聖德太子) | 山背大兄王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(33)推古天皇 | 来目皇子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(32)崇峻天皇 | 当麻皇子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
穴穗部間人皇女 (用明天皇后) | 殖栗皇子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
前任: 钦明天皇 |
日本天皇 | 繼任: 用明天皇 |
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