用户:脳内补完/1/韩国起源论一览

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韩国起源论一览包含下列事物。

  • “名人主张”或“媒体报导”相关韩国起源论的事物。
  • 韩国国内外,韩国起源论的认知度或渗透度较为广泛。

中国相关的事物[编辑]

事例 主张 反证
黄河文明 大朝鲜帝国史中,黄河文明是由韩国民族而形成的,这个说法在韩国的THE HISTORY CHANNEL播出了。[1]而韩国四季出版社出版的《阿特拉斯中国史》称黄河文明并非世界四大文明之一。[2] 该学说捏造了历史,说韩国民族支配过中国甚至是日本的土地。这个说法还没得到除了韩国以外的任何学术方面承认。
古代东亚文明 美国Huntigton Career College(Career College相当于中国的专科学校中的一种[3])的韩裔校长著作《亚洲理想主义》,主张“古代东亚历史文明的发源地是韩民族”,并说“古代中国与日本的政治权力基盘乃是以韩国人(古朝鲜人)强力的菁英份子为根”。韩国每日经济新闻指此书“拔出韩民族一万年历史的根,对世界传播韩民族支配并指导古代中国与日本、贡献人类文明发展之伟大性”。[4] 古代东亚历史文明的发源地在国,这充满了矛盾。朝鲜的文化史只能追溯到公元前8000年到6000年左右(隆起文陶器),与公元前12000年时候发现的长江文明的玉蟾岩遗迹存在数千年的差距。另外,日本的绳文土器也存在于公元前13000年左右。
红山文化 韩国航空大的禹实夏教授主张蚩尤所率领的东夷族其实也就是朝鲜民族在新石器时代辽河流域所发生的的红山文化,而红山文化是古朝鲜文明之一[5]  
蚩尤 韩国の复数の学者、历史小说漫画、インターネットサイトが、中国神话に登场する蚩尤は、东夷族すなわち朝鲜民族であり、檀君神话に登场する古朝鲜に存在したとされる“倍达国”の天皇であると主张している。蚩尤は、2002年日韩ワールドカップサッカーで、韩国サポーターグループ“レッドデビル”のトレードマークとしても使われ、韩国で一般的に良く知られている[6]

根拠は‘桓檀古记’であり、倍达国の第十四代天皇である慈乌支桓雄が纪元前2707年に即位して109年间国を治めたが、この慈乌支桓雄が蚩尤だという。ゆえに蚩尤は韩国人であり、その図案は、レッドデビルのトレードマークになり得るという。しかし、‘桓檀古记’にも“慈乌支桓雄は蚩尤である”とはっきり书かれているわけではなく、原文の新たな解釈が必要であり、その役割を果たしたのは、コ・ジュナン京畿大学校教授の2002年の著书“赤い悪魔の元祖-蚩尤天皇”であり、その中で、蚩尤は倍达国の王・慈乌支桓雄にほかならないと主张する[7]

中国が反発している[8]

约4000年前に现在の湖北省湖南省江西省あたりの地を苗族が占めており、“九丽”を建て、君主は“蚩尤”と称していた。また、蚩尤は古代中国では军神として崇められており、刘邦が尊崇の対称にしていた[7]

水野俊平は、コ・ジュナン京畿大学校教授の主张を、おそらく年代と名称がなんとなく似ている(蚩尤〔チウ〕→慈乌支〔チャオジ〕)からだろうとし、资料的価値が全く认められていない‘桓檀古记’を根拠に、そのなかにすら书かれていない结论を导き出す逞しい想像力には感服するほかないとし、要するに、サッカーの応援、ひいては民族主义発扬という大目的の为には、学问的信凭性など、二の次、三の次である充分眉唾な话、と批判している[7]

三皇五帝

“中国の上古史に登场する三皇五帝は皆我らの同胞である东夷族で、は东夷族が立てた国”と主张。 东夷族を同胞と定义づけている根拠が不明[9]なお夏と殷が汉民族以外の民族が王として君临した国家であることは考古学的にある程度支持されている。
易学
八卦
河図洛书
科学
数学
现代文明
东方大学院大学の卢ジェファン教授が、“檀君神话に登场する桓雄の息子のテウが、河図と八卦を初めて描いて易学を创始し、一弱小国に过ぎなかった古代中国は、强大国である我が国の文明を受け入れるしかない状态だった”、“三皇五帝の一人の洛书魔方阵を初めて描いて、これらの易学が西洋に伝わって数学科学の元となり、西洋文明の大発展の原动力になった”、“现代文明のルーツは东洋易学である”と主张している[10]  
汉字 ソウル大学教授の朴正秀が汉字は韩国起源だと主张していると、人民日报が报道した[11]

また、历史评论家の李ドクイル(이덕일)が“殷が东夷族の国家という事実を信じたくなかった汉族たちが、意図的に殷墟の存在を意识から消してしまった”[12]、“汉字は东夷族の国家だったで作られたものである”[13]と主张している。韩国の少なくない历史学者や知识人の间で“东夷族は朝鲜民族だった”という认识があるために[14]、李ドクイルは“朝鲜民族が汉字を発明した”と暗に主张している。また、韩民族史観定立意识改革会のポール・キム代表とキム・ムンチョ助言委员が、“檀君朝鲜はBC2333から2096年间実在した国家であり、汉字と汉文は朝鲜民族が作った文字であり、朝鲜民族の思想哲学が反映されている”と主张してニューヨークで讲演している。さらにポール・キムは檀君王権が三神五帝教(三皇五帝)を祭る“苏涂教”を作って尧王舜王、夏、殷、商信仰を中国大陆に広めたと主张している[15]

韩国における言语学の権威であり、国际汉字会议のメンバーでもある陈泰夏仁済大学硕座教授・汉字教育総聨合会理事长は、“汉字は韩国人の祖先が创造した文字。中国の学界も承认している”“汉字は中国の文字でない。われわれの祖先である东夷族が创造したもので、われわれのものだ。中国の学界も、この历史的事実を认めている。韩国だけが知らない”と主张している[16][17][18]

KBSによれば、ソウル大学教授の朴正秀という人物は存在しておらず、また、朝鲜日报はそのような报道をしておらず、人民日报の误报だという[19]

韩国では一般的に汉字は中国起源だとされているという意见もある[20]

なお、中华民国総统马英九は、繁体字世界文化遗产申请と関连して、“韩国に繁体字の世界文化遗产登载申请を夺われるかもしれない”と忧虑を示した[21]

陈泰夏教授の主张に対して、中国人有识者の高巍氏は“历史事実を无视して自分の想像を美化し、わい曲するのは、不健全な心理状态だ。结果としておかしな主张が作り出されていく”“起源说の主张は、后ろ向きな考えで、応用方法を开拓することが前向きな考え方であり、この视点の违いが民族の将来を决定づける”と反论した。そして、韩国の汉字起源说の主张から教训を学びとるべきとし、“他人の気持ちを顾みず、自分をひけらかすことは、国のイメージを损ない、人にマイナスイメージを与え、こうしたイメージを変化させるには大きな代価を払わねばならないことだ”と述べ、起源说の主张は、自信のなさや、気力不足の表れであり、大国の示す态度ではないと述べた[22]

汉方
施术
韩国固有の医术として世界文化遗产登录しようという动きがあり、中国医学会と论争を起こしている[23]

2008年6月18日、大韩韩方医协会は“WHOの“鍼灸経穴部位の国际标准”に韩国の鍼术方法が采択された”と発表した[24]

この発表は国际问题化し、WHOと中国が反発した。また、WHOが非公式ルートで中国侧に谢罪し韩国に対する抗议内容を伝えた。[25]
阿骨打

韩国の古代史を研究している高句丽研究会(理事长ソ・ギルス西京大学校教授)所属学者たちが、学术セミナーで“女真族の金と満州族の清を広い意味で韩国史の一部に编入し、中国の悪意的な历史歪曲に积极的に対処しなければならない”と主张している。キム・ウィヒョン明智大学教授は“宋史には金の太祖阿骨打の8代祖が统一新罗王族出身の金函普という记录がある”とし“统一新罗と渤海南北国と记述するように高丽时代を南北朝に分类することができる”と述べている[26]  
泰山府君
十王
京都市左京区にある赤山禅院では、泰山府君(十二天の一人焔摩天に従う眷属の一人)が赤山大明神として祀られているが、中央日报は泰山府君は新罗人张保皋(790年顷–846年?)のことであると主张[27][28]  
朱元璋 韩国のMBSテレビの番组‘神秘な历史サプライズ’が“明朝の初代皇帝である朱元璋は高丽人である可能性が高い”と主张し、中央日报をはじめとする他の韩国メディアも続々と追随し、韩国内では朱元璋が自国出身だったとして、历史を书き直すべきだとの主张が相次いだ。

“朱元璋高丽人说”の根拠は韩国に残る民间伝承という[29][30]

これを报じた中国のニュースサイト环球网には、异例の多さのコメントが寄せられほとんどのコメントが、韩国に対する怒りやあざけりで、耻知らずと骂倒したり、秦の始皇帝オバマアメリカ大统领も韩国人と皮肉るコメントや、韩国がかつては中国の属国だったため、再统一すれば问题は解决とのコメントがなされた。

史実では朱元璋は安徽省凤阳県の贫しい农家出身とされている。

李白
李商隠
李贺
李渉
中国新闻网の报道によると、ソウル大学历史学教授の金秉徳は李白を朝鲜民族の末裔であると主张した。さらに姓が“李”である诗人(李商隠、李贺、李渉など)はみな、朝鲜民族の末裔であるとし、“中国が历史事実をわい曲し、韩国文化を剽窃した”と主张している[31] 中央日报の报道によると、ソウル大学に金秉徳という教授は存在せず、完全な小说と评した[32]。李は中国人にも多い姓である。
満州
爱新覚罗氏
完颜阿骨打
韩国KBSの番组‘満州大探查’において、“満州はもともと韩民族の土地。清朝を树立した爱新覚罗氏も、祖先は韩国人”と主张[33]

また大朝鲜帝国史の作家金珊湖は画集‘韩国105代天皇尊影集’で、満州は元々韩民族の领土であり、“爱新覚罗”は“新罗を爱し、新罗を思え”という意味だから、新罗からの亡命者の子孙と主张。また、“金”の完颜阿骨打をキム・アグタという名で韩民族と主张[34]

高句丽渤海など半岛を领土とした王朝が历史的に満州地域の一部を领有していたのは事実だが(広い意味では扶余も入るのではないかと思われる)満州全域を支配していた事はない。また満州族のルーツである女真族と高句丽や百済のルーツは同じツングース系だとされる说があるが、ルーツが同じだからと言って“爱新覚罗氏の祖先は韩国人”とはならない。よって、高句丽は韩国人の祖先とはならない。

‘韩国105代天皇尊影集’は‘大朝鲜帝国史’と同じ著者による作品であり、こちらも実际の历史ではなく空想历史を扱っている図书なのでその信凭性はとても低い。

広西チワン族自治区
上海
また、韩国の圆光大学校教授が広西チワン族自治区の百済郷を调查し、“この地はかつて、百済の植民地だった”と発表。根拠は类似した民具があるほか、広西方言に朝鲜语に近い部分があるからという[35]。また、大田大学校哲学科の林均泽元教授が2002年12月に韩国书镇出版社から出版した“韩国史”において、の时代に、高句丽、新罗、百済が中国の大半を有しており、唐の版図は云南省四川省などのわずかな部分に过ぎず、高句丽、百済を灭ぼしたあとの新罗の版図は、现在の东シベリアモンゴル华北地域など中国北部全体、华中地域、チベット自治区新疆ウイグル自治区など広大なものとなり、唐は华中地域や华南地域をおさえるにとどまったと主张。また、2007年大韩民国大统领选挙に立候补した许京宁経済共和党総裁は、“中国诸国と连邦をしてアジア连邦を作り、失われた高句丽领土を取り戻したい”“失われた渤海の旧领と、三国时代にヨーロッパまで伸ばした韩半岛の故土を取り戻すのが私の梦だ”としている[36] これに対して、上海大学の历史研究者は“朝鲜半岛南部の古代王朝の版図が朝鲜半岛を越えて広がったことはなく、上海を统治したという事実もない”と批判している[37]
中秋节 ‘all that news’のカン・ソヒョン记者が、“中秋节は新罗の僧が唐に伝えたものなのに、中国が文化の源泉である韩国に、中秋节に行われる里帰りなどでの人口移动の人数を强调して、秋夕の文化が中国の文化だと圧力を加えている”と主张した[38]  
三足乌 三足乌が高句丽固有のの代表的な象徴物ということが学界の共通した见解と主张。韩国古代史専攻のユン・ミョンチョル东国大学教授は“これまで我々が无関心だったあまり、先祖たちのものを日本に夺われた格好”と述べている[39] 金乌あるいは三足乌は考古学的には长江文明に古く発见されており、同様の神话的モチーフは世界各地で発见されている。
豆乳 韩国の豆乳メーカー・サンユク物产が“韩国は数百年前から家庭で豆乳を作っていた。韩国が豆乳の発源地”と主张[40] 中国が反発している[41]
太极図 阴阳鱼と呼ばれる现在の太极図は西暦1070年に中国で発行された‘太极図说’より388年も前の682年に建立された新罗の感恩寺の础石に刻まれているという[42]

さらに全南罗州伏岩里古坟群邻近の竖穴遗构から出土した百済の泗比时期(538~660年)の木制品1组から太极文様が确认されたとしている。[43]

 
罗针盘 新罗が世界で最も早く罗针盘を作った”と主张[44]。根拠は主に‘三国史记’の记述の中で“唐の僧侣法案が新罗で磁石を贳った”と书いてある事と、“罗针盘”の名称は元々新罗にちなんで“新罗针盘”だったからだとしている。 罗针盘は中国発祥だと考えられており、11世纪の中国で沈括が书いた‘梦渓笔谈’にその记述が现れるのが最初だとされている。また罗针盘の本来の名前が新罗针盘だったと言う明确な证拠は存在せず、また‘唐の僧侣が新罗で磁石をもらった’と言う记述を罗针盘を贳ったのだ、と决め付けるのも相当な曲解である。
囲碁 仁済(インジェ)大硕座の陈泰夏(チン・テハ)教授が论文“文字学から考えた囲碁のえん源”で“囲碁の発祥地は韩国”であると主张[45] 囲碁の発祥地は中国说が有力。囲碁の历史参照。
シャンチー
(象棋・中国将棋)
韩国チャンギ(韩国将棋)协会のサイトにおいて、昌原大学シン・ソクファン教授が、“韩国のチャンギは中国から伝わったものではない。チャンギの宗主国は韩国。中国のシャンチーは韩国のチャンギの模仿。”と主张[46] 韩国のチャンギは、中国のシャンチーが朝鲜半岛に伝わったものと考えられている。“王将”に当たる驹が、“汉”・“楚”と中国の古代の国名となっている。
印刷 韩国はドイツで‘印刷术の起源国―韩国’という展示会を开いた。印刷に金属板を使った世界最古の活字本は朝鲜の‘直指心体要说’とされる。 ただしより以前に中国で木版印刷が确认されている。よって印刷术の起源が韩国というのは曲解といえる[47]
ロケット 北朝鲜の朝鲜中央通信は、我が民族はかつて火薬を利用したロケット兵器制造に优れた才能を见せ、“早くも高句丽时代に既にロケット武器が制作されて使われた”と主张[48]。また韩国の朝鲜日报は、“朝鲜王朝时代には世界で初めて2段式ロケットを开発した。”と主张[49]している。 确かに当时から、矢を火薬で飞ばす火枪という武器があったが、开発したのは中国()である。
赵法锺ウソク大社会教育科教授によると、纸の起源は高句丽技术であったという[50] 纸の起源は古代中国であるとされており、世界最古の纸は中国甘粛省放马滩から出土した纪元前150年顷に书かれた前汉时代の地図だとされている。高句丽の历史が纪元前37年顷から668年までである事を考えると、纸の起源が高句丽であった可能性は低い。  

日本の事物[编辑]

武芸・武术[编辑]

事例 主张 反证
剣道
剣术

武士道
恐らく最も有名な例が、韩国人が主张する、剣道、剣术、侍、武士道の韩国起源说であり、特に剣道韩国起源说は韩国起源说が日本のネット上で注目されるきっかけとなった[51]。剣道韩国起源说がネットを介して流布されたことにより、全日本剣道连盟に対応を求めるメールが杀到し、全日本剣道连盟は公式ホームページで、韩国起源说を否定する事态になっている[52]。韩国最大の剣道団体である‘大韩剣道会(Korean Kumdo Association)’や‘世界剣道协会(World Kumdo Association)’が公式ホームページ等で、剣道の起源が韩国にあると主张しており[53]、‘国际剣道连盟(International Kendo Federation)’に参加していながらも、その正式名称は‘剣道’ではなく剣道の朝鲜语音の‘コムド(kumdo)’であると主张し、剣道の真の宗主国として当然であると主张している[54]。‘大韩剣道会’の広报理事の崔民秀は“‘剣道は日本のもの’という误った认识を正す”と述べている[55]。また、‘大韩剣道会’のソ・ビョンユン専务理事は“日本文化の多くが百済から流入し、刀も百済から日本に伝わったと日本人が话しているので、剣法も当然そのようなルートを通じた。刀の代表的なものが日本の神社に奉献されている七支刀で、百済王が日本国の君主に権威の象徴として下赐したというのが定说だ。日本王が‘桓武天皇の生母が、百済の武宁王の子孙’だと表明したが、当时强大だった百済から武宁王の子孙の女性を送る际に、护卫の武士を同行させたのだろう。刀と武士が移动すれば、当然剣术も移动することになる”と剣道韩国起源说の根拠を述べている[54]。また、“バレーボールゴルフ野球レスリング卓球などの种目がどの国のものなのかと、热を上げながら宗主国ばかりを突き诘めていたら、周囲からは当然変に思われるでしょう[54]”と、日本侧の剣道の起源主张をけん制している。

また、韩国系移民が中心となり、米国を始めとした世界各国で‘コムド’道场を开き、古代から伝わる韩国の武道として积极的に広报活动をしている。これらの道场では、日本の袴や日本刀を用いて、日本の剣术やそれを改変したものを“韩国古来の武术”(korean martial arts)として‘コムド’と同时に教えている场合もあり[56][57]、‘剣道’と‘コムド’の“他流试合”が行われることもある。

一方、‘大韩剣道会’と対立する‘世界海东コムド连盟(World Haidong Gumdo Federation)’[58]や‘统合世界海东コムド连盟(United World Haedong Kumdo Federation)’[59]は、‘海东コムド(Haidong Gumdo)’が剣道の起源であると主张している。彼らは、侍や武士道の起源は高句丽の“士武郎(サムラン)”にあると主张しているが、韩国内で裁判が行われた结果、士武郎起源说は捏造であったことが発覚している[60]。このように本国では捏造扱いされている海东コムドだが、韩流ファンのフランスの若者が组织し、驻仏韩国文化院と韩国観光公社パリ支社と农水产物流通公社が后援して韩国文化を国际的に绍介する组织“Korean Connection”が、パリで开催した“Korean Connection 2011”で、韩国起源の古代武术として海东コムドの演舞を行っている[61][62] また在米韩国系移民たちを中心とした别のグループが、“新罗の‘花郎(ファラン・Hwarang)’は1800年前から存在した古代韩国の戦士であり、この戦士が使った武术を‘花郎道・ファランド・Hwa Rang Do’である”と主张して、道场を开いて、日本の伝统武术を改変したものを“古来韩国武术”として教えている[63]。彼らは“すべての日本の武术の起源は朝鲜半岛にある”と主张をし、その主张に沿った武术の系谱を公开している[64]

2001年に日韩合作で、侍の起源を百済に求める映画‘サウラビ’(朝鲜语で“ssaul-abi(戦う男)”を意味する)が制作され、韩国で公开された[65]。朝鲜日报は映画‘サウラビ’を“三国时代、百済人が日本を开拓して文物伝播した历史的事実を土台に、サウラビの魂が日本の侍精神に発展したという前提が込められている”と、侍の韩国起源说を历史的事実として绍介した[66][67]。また、本作の制作発表会においてムン・ジョングム监督は“韩民族の魂と精神を再照明し、韩国人が忘れていた民族の优越性と民族意识を覚醒させることに焦点を合わせる”と発言をし、“侍”という日本文化を剽窃するばかりでなく、韩国文化の优越性にまで言及した[68]。なお、日本ではそのあまりにでたらめな历史描写のためにDVD化されたのみで剧场公开はされなかった。2009年6月17日には毎日新闻 (韩国)庆一大学総长の李南教(イ・ナムギョ)が、“侍の起源は、二言なく韩国のサウラビ(戦う亲父)である”と主张した[69]

また、‘釜山日报’のチョン・タルシク记者 は、“若光(高丽若光)は高句丽の最后の王だった宝蔵王の息子だ。彼は666年、日本に渡る。日本の埼玉県に定着した若光は高句丽灭亡の知らせを闻いて716年、日本武蔵国周辺一帯に散って生きた1千799人の高句丽游民らを集めて高丽郡を建设する。1千799人の高句丽人らは细工、织物、铁制など技术に长けた人々だった。彼らは铁制农机具を导入、农作物収获を极大化させた。高句丽人らは铁器导入だけでなく、日本人たちに纸の制造技术まで伝播した。彼らは日本の関东地方を中心に武士集団も形成する。これが日本武士集団の始めだと言う。武士集団が形成された背景には高句丽人の铁制技术と马があった”と主张[70]

剣道は、韩国ではコムドと呼ばれ、テコンドーと并ぶ人気武道であり、日本の剣道との差は蹲踞(そんきょ)がないことやの色や形程度であるが、日韩并合时代に日本から韩国に伝わった日本文化である。剣道の韩国起源论に対して竹嶋渉は“これは风が吹けば桶屋が储かるの上を行く拡大解釈であるとしか言いようがない。言ってみればこれは日本の自卫队の起源は种子岛铁炮を伝えたポルトガル人だと言っているようなものである”“大した根拠もなく‘剣道の宗主国は韩国’などと放言しているソ・ビョンユン氏の姿势も、われわれから见ると当然変なのである”と批判している[71]日本刀についての历史は当该项目参照)。そして、ソ・ビョンユンは自说の中で‘当时强大だった百済から武宁王の子孙の女性を送る际~’と述べているが百済は346年から660年まで存在した国家であり、光仁天皇が生まれた709年にはすでに灭びている。また、高野新笠は光仁天皇侧妾になるためにわざわざ朝鲜半岛から渡来したわけではなく日本に帰化してから200年近くたっている帰化氏族出身の人物であり、‘百済から护卫の武士が同行したはずだ’と言う主张は现実的にありえない。その上、当事の百済に刀や武士が存在していたと言う事自体が立证されていないため、论点先取误谬になってしまっている。高野新笠の祖先とされている人物は武宁王の子である纯陁(淳陀)太子だが日本书纪には‘日本で亡くなった’と言う记述はあるものの淳陀太子が何时どうやって日本に渡来したかは明らかになっていない。日本书纪などの记述によれば武宁王は若い顷日本に滞在していた事になっているため、淳陀はその时期日本で生まれてそのまま滞在し続け(人质として日本に残された、とする说もある)同地で亡くなったと言う说が有力视されている。ソ・ビョンユンの主张する“七支刀は百済王が日本国の君主に権威の象徴として下赐した”と言う说も実际は定说とは言えず、一般的には“高句丽の圧迫を受けていた百済が倭との同盟のために赠った”とされている[72]

侍というのは、律令制が崩壊した10世纪以降に、新式の武芸を身につけて领地経営者や军事専门家として活跃し始めた军事贵族下级役人等が発祥であり、12世纪以降に幕府という军事政権を开いて封建制により日本を支配した戦士阶级の“武士”のことであり、日本语の动词“サブラフ”が语源である。一方、朝鲜半岛には封建制は存在せず、律令官制の中で训练を受けた常勤の役人の“武官”や“武人”はいても、侍のような“武士”は存在せず、侍は明确に日本社会でのみ発生したものである。“武术”は、この封建时代の侍の存在から诞生したものであり、剣道などの“武道”は近代になってから“武术”を心身教育のために一般化したものである[73]。日本の武术や武道の発祥についてはほとんど记录が残っている一方で、侍や武术の韩国起源说の根拠となる历史资料は一切存在せず、花郎が军事组织だったという说も完全に否定されている。また现代の韩国の武道家が使用する衣服や刀や作法も、すべて日韩并合以降に日本の武道を模仿したものである。

そして、武士道に関しても古代朝鲜(百済、新罗、高句丽など)で完成された思想がそのまま日本に持ち込まれたとする说が多いが、今知られている“武士道”と言うものは武士や侍に比べると比较的新しい思想であり[74]それが侍の行动规范として一般化したのは太平の世になった江戸时代からである。日本における武士阶层は武士道(韩国起源说を容れるのであれば“花郎道”等)と言う思想があったから生まれたものではなく、武士と言う阶层が存在してその后に武士道が出来上がったのである。これは西洋における骑士道でも全く同じであり、骑士道があったから骑士が现れたわけではなく既に存在する骑士の行动を律するために骑士道が生み出されたのだがイ・ナムギョらの起源说では顺序が逆になってしまっている。

高丽若光に関しては高句丽王家所縁の人物だとは推测されてはいるものの正确な出自は不明であり、チョン・タルシクの言うように実际に宝蔵王の息子だったと言う证拠は存在しない。また高句丽の遗民を集めて设立された高丽郡の大领に任命されたのは史実だが、朝廷から任ぜられたものであり记事のように高丽若光が胜手に“建设した”わけではない。铁器に関しては日本ではすでに5世纪顷から制铁が行われており(铁利用の历史参照)、制纸に関しても610年にすでに伝来していたと考えられており(和纸の历史参照)‘正仓院文书’によれば、737年には、美作、出云、播磨、美浓、越などで纸漉が始まったとされているため、どちらも高丽若光(及びに高句丽遗民达が)が日本に持ち込み、武蔵国から広げた技术であるとは考えにくい。そして、日本における侍・武士団は上记のように律令制が崩壊した10世纪ごろから登场し始めた新たな阶层であり、この高句丽遗民达が武士集団の祖となったと言う说も信凭性が薄い。

切腹 朝鲜日报が、映画‘サウラビ’の绍介记事で‘百済のサウラビ达の冲撃的な割腹と断头意识は、后日の侍の割腹とも深い関连があることを示唆する。 (略) 日本侧の関系者がこうした历史的事実に惊き、今后の文化交流の尖兵になるであろうと自认した点も兴味深い。’と主张[65] 百済において割腹・切腹の风习が存在したとする资料は存在せず、そして、朝鲜半岛から日本に持ち込まれたと言う说を事を肯定する资料も存在しない。历史上初めて“切腹”を行ったとされる人物は源为朝1139年1170年)だと言われており、しかも今知られているような“誉ある死に方”として认识されるようになったのはそれから400年近く后の安土桃山时代の末期顷からである。それ以前にも永延2年に盗贼の藤原保辅(生年不详–988年)が自分の腹を切り裂き自杀した、と言う记录はあるがこれを切腹と见るか否かは见解が分かれている。

そして、映画の中で见られるような殉死(追腹)は华々しく戦死を遂げる机会が减り儒教が広がった江戸时代になってから“忠臣の证である”と持て囃されるようになったものであり、1663年寛文3年)に幕府が殉死を禁止するまでかなりの盛り上がりを见せたが当初から一般的だったものではない。

日本刀 韩国系移民が运営する世界各地の武术道场などで韩国古来の剣として使用している。また、刀剣职人のホン・ソッキョンらが、“日本刀はまさにこの技术を我が国から盗み出して伝承している”“我が国の刀剣技术は三国时代と朝鲜时代、日帝时代を経ながら、刀剣职人がほとんど日本に连行されてしまった”“元々、我が国の伝统刀剣制作技术は世界的なものであり、刀剣技术者を无差别に捕えて连れ行ったことはよく知られた事実だ”、“日本には我が国が使った正统技术がそのまま伝授されていて、今でも良い刀がたくさん出てきています”などと主张。“韩国刀の原型を取り戻すために日本に学びにいく”とまで主张している[75] 韩国で伝统的に使われた剣は、铁鉱石から鋳造で作った、両刃の直剣か“环刀”と呼ばれる片刃の直刀で、制造方法や形状が日本刀とは违う。韩国で大々的に日本刀のような形をした刀が使われるようになったのは、17世纪以降のことであり、当初は日本刀を输入して模仿したものを“倭刀”と呼んでいた。それ以降朝鲜半岛で作られた刀もやはり日本刀とは制造方法が违う。

豊臣秀吉による朝鲜出兵时(文禄・庆长の役)に多数の陶工が日本に连行された记录はあるが[76]、“朝鲜人刀工の无差别连行”を行った记录は时代を问わず存在しない。また、“日本刀”と呼称される物が作成されるようになったのは武家の活动が活発になった平安时代后期(1051年以降)である[77]。仮にホン・ソッキョンが主张するように刀工が连行されていたとしても、平安时代后期より后の时代のことであれば、その刀工は日本刀の起源には関わっていない。

现在世界中で知られている“日本刀”は、砂铁からたたら吹きにより取り出した玉钢锻造して作った、缓い湾曲の形状を持つものであり、10世纪の平安时代后期に“太刀”として出现したものである。なお刀工の各流派が出现し始めたのもこの顷である。そして、现在の剣术家が使用する刃を上に向けて纳刀する“打刀”の形式は15世纪の室町时代后期になって普及し始めた[78]。日本刀の持つ美的価値や武器としての価値は、11世纪の北宋の诗人の欧阳脩による‘日本刀歌’でも歌われている。室町时代(1338年-1573年)に日本刀は中国に输出もされている[79]
居合道
抜刀术
韩国古代の武术コハプト(Guhapdo)として世界各地で道场を开いて広报活动をしている。正统武芸道场 正気馆のイム・ヒョンス(林铉洙)が“我々はいままで多くの物を日本に夺われました。今は我々の物を取り戻すべき时だと思います。居合道も高丽时代日本に渡っていった我々の剣术に过ぎません 我が国には新罗时代の花郎徒以前にも居合道という武术がありました。日本が国宝にしている七支刀も実际は百済の刀です。”と主张している[80] 居合(抜刀术)は室町时代に本格的に体系化されたものであり、居合道は明治时代末期になってから“武术”を“武道”化したものである。七支刀は仪礼用のものであり剣术とは関系がない。また、イム・ヒョンスは何か误解しているようだが日本侧は别に七支刀が百済由来のものであると言うことを否定しておらず、むしろ百済由来だからこそ国宝に指定されている。
柔道 剣道と同じように日韩并合时代に日本から韩国に伝わった日本文化であるが、Yudo(“ユド”と発音。柔道の朝鲜语音)の名で海外で普及活动が行われており、全米ユド协会(United States Yudo Association)はその公式ホームページにおいて、柔道の起源を朝鲜半岛にあるとし、“柔道は豊臣秀吉朝鲜出兵で日本に伝わりその后朝鲜半岛では柔道は廃れ、20世纪になって日本から再输入された”と主张している[81]。また、韩国の釜山で开催された2002年アジア竞技大会では、韩国人で构成される大会组织委员会が、公式サイトに韩・日・中・英の4か国语で“柔道の起源は中国の春秋时代に生まれた柔术で、これが韩国に伝わり、豊臣秀吉の朝鲜出兵で日本に伝わった”と记述し、全日本柔道连盟が抗议し记述を削除させる事态が発生している[82]。さらにアテネオリンピックの柔道73キロ级金メダリストである李元熹(イ・ウォンヒ)选手は韩国の京郷新闻のインタビューに答えて、“日本が柔道宗主国だと言いますが、本当は我が国の柔术(ユスル)を日本で细分化させてスポーツにしたんです。”と発言をし、韩国人有名柔道选手までもが韩国起源说を支持している[83] 日本の体术の伝统は、文献によれば‘宫中行事秘事’に伝えられる圣武天皇の神亀3年(726年)に行われたとされる相扑节会に溯ることができ、组讨や、人を捕らえるための捕手などと呼ばれた武技がすでに行われていたことが确认できる。柔术と确认できる最古の源流としては天文元年(1532年)に竹内久盛が开眼し、子竹内久胜が広めた竹内流武术がある。江戸期には多くの流派が存在しており、明治期に嘉纳治五郎が合理的な近代体术として整理体系化し、人间修养の精神を取り入れ“柔道”と呼称したものである。民俗学は史料や文献を非常に慎重に検证したうえで合理的に说明できる范囲で记述すべきところであるが、“YUDO”韩国起源说は史料や文献の提示がなく、忆测を基础として结论を断定しているものであり、そもそも検证することができない。柔道韩国起源说に対して全柔连教育普及委员长、讲道馆资料馆部长は否定コメントを出している[84]
合気道
大东流合気柔术
新罗三郎
正统武芸道场 正気馆が“合気道は日本に移民した新罗人であるウォン・ウイグァン、别名新罗三郎(源义光)が兴した大东流柔术が始まり”と主张している[85][86][87]。また、世界ハプキドー协会は“现代合気道(ハプキドー)のような武道技术はAD372年の高句丽への仏教の伝来と共に古代朝鲜に伝えられた。その证拠はその时期の古代壁画及び洞窟絵画、雕刻から见出すことができる”と主张し(韩国起源说では、古代壁画を持ち出して起源主张するものが多い)、これらの朝鲜武道で文禄・庆长の役の时に日本兵を撃退したと主张している。さらに、もともと朝鲜半岛にあった合気道は日本の植民地统治时代に抹杀された等と主张している[88][89]。また、米国などでがHwa Rang Do道场を运営している韩国系移民が、“日本へ移民した新罗人である新罗三郎(源义光)が创めた大东流柔术は、その末裔である武田惣角まで伝えられ、彼が日韩并合时代に崔龙述(チェ・ヨンス)に伝授したことにより、大东流柔术が复活をし、ファランド(Hwa Rang Do)等と混じってハプキドーに発展した。つまり合気道とハプキドーは兄弟の関系である。”と主张している[90]。さらに、“合気道”という名称は崔またはその弟子の池汉载が创案したと主张している。また、韩国の‘毎日新闻 (韩国)’1991年9月3日で、“日本の早稲田大学のトミキ(富木谦沼)教授は‘合気道は、新罗のサムラン ウォンウイグァン(三郎源义光)をその始祖にして、幕府のミナモト家(源家)に伝えた后、続いてタケダ家(武田家)に残り、7代を过ぎたタケダ・ソウガク(武田惣角)に伝わった’と记录している”とし、合気道は、“日本に伝わって発展…‘日本武芸’は误った认识”“韩国から伝承された伝统合気道の新しい脉を下ろしたわけだ”と报じた[91]。また、驻仏韩国文化院と韩国観光公社パリ支社と农水产物流通公社が后援して韩国文化を国际的に绍介する组织“Korean Connection”が、パリで开催した“Korean Connection 2011”で、韩国起源の古代武术としてハプキドーの演舞を行っている[61][62] 始祖とされている源义光は11世纪の日本の武士で、4世纪から7世纪に存在した新罗の人物ではない。新罗神社で元服したから“新罗三郎”を名乘ったのであって“ウォン・ウイグァン”は源义光の朝鲜読みであり、大东流合気柔术は明确に日本で発祥したものである。また、“合気道”の语源は、大东流の教授代理で合気道の创始者である植芝盛平出口王仁三郎の命名により1922年顷から自らの武术を“合気武道”と呼称し内外に教授し始めたのが始まりである。さらに、“合気道”は1942年に财団法人大日本武徳会が使い始めたものであり、植芝が“合気道”を使い始めたのは1948年である。また、富木教授は合気道韩国起源说を主张しているわけではない。この记者が“新罗三郎源义光”という日本人名の“新罗”と“三郎”の间に胜手に“の”を挿入して“新罗のサムラン”とし、源义光を韩国人名のごとく“ウォンウイグァン”と訳したのである。

ハプキドーは、戦前に日本で大东流を修行をしていた朝鲜人の崔龙述(チェ・ヨンス)が、戦后に大东流を朝鲜古来の武术であると主张して指导を开始したのが始まりであり、崔の弟子が大东流を韩国人の気质に合わせて改変して现在のハプキドーの形にさせたものである。これを里付ける事実として、大东流関系者に対する各种インタビューなどで戦前の大东流の修行者に复数の朝鲜人青年がいたことが明らかにされている。

の精神 大韩柔道有段者会のヨ・サンファン会长が“柔道の発祥地は日本だが、‘道’の精神は韩国から渡ったもの”と主张している[92]

そして、 韩国の全国弓道连合会はホームページに、“道という言叶は日本文化のほとんど全ての部分で使われている。これは外国の文物を受け入れる彼らの独特のやり方であるが、中国から我が国を経て日本に入っていった全ての文化には道という名前がくっ付く。书道茶道剣道のような言叶が全てそのようなのものである。我々が书芸、茶礼、剣术など、生活の必要によって名付けたものを日本人たちは精神、すなわち道の次元で受け入れたのだ”“日本は古代から最近に至るまで、朝鲜から全ての文化を学んでいった。日本という小さな岛国には、朝鲜以外に知的欲求を満たすに値する国が周辺になかったのだ。壬辰倭乱时、彼らが略夺していった数多くの文化财がそれを证明している。彼らは朝鲜の物ならば何でもいそいそと持っていった。このように日本人たちは倭という蔑视を受けながらも、朝鲜を限りなく羡ましがっていた。朝鲜の学者たちが话していた哲学や思想を、彼らがどれほど羡ましく思っていたであろうかは、察するに难くない。だから、朝鲜の学者たちが口にしていた道という言叶がどれほど欲しかっただろうか? 欲しければ借りて使わなければならない。しかし、彼らにはそんな能力がない上に、社会的雰囲気がそれを许さない。それで、道という言叶の真の意味を理解する能力がなかった彼らは、その言叶を力の世界である刀に结び付けることで満足してしまう”と掲载している[93]

日本の“道”とは“芸道”のことであり、中国の“”(タオ)の哲学とは别物である。日本の“道”の精神とは、実演者の日常生活における立ち居振る舞いと、専门的な技术的修练を同一とみなし、双方の向上により、実演者の人格と技芸を相乘效果的に高めることを目指したものであり、日本独自に発展体系化したものである。日本の“道”の精神は、中世期の秘伝说と伝授思想の确立と、师系を重んじるの発想に影响を受けているともいわれている。剣道、柔道、合気道、茶道、华道、香道、书道のほか、“道”の文字の付かない能楽、歌舞伎、人形浄瑠璃、邦楽でも同じ観念が见られる。

ヨ・サンファンは日本の朝鲜出兵が朝鲜の文化を夺うためのものだったと主张しているが、実际は“唐入り”の名前が示すように最终目的地は中国(当事の)であり、别に“知的欲求を満たすため”や“朝鲜を限りなく羡ましがっていたから”朝鲜に攻め込んだわけではない。この起源说に限らないが、ヨ・サンファンの主张は中国の存在や影响を矮小化しており、朝鲜半岛の役割を过大に评価している。

空手 韩国では、テコンドーの起源は三国时代以前から始まるテッキョンであると公式に认定されており、海外でも“韩国古来の武道”として普及に努めている。また、日韩并合时代にテッキョンが抹杀されたが、韩国がテコンドーとして复活させたとまで主张している[94]。さらに韩国の一部には空手の起源をテッキョンに求める言说すらあり、韩国の釜山で开催された2002年アジア竞技大会では、韩国人で构成される大会组织委员会が、公式サイトに韩・日・中・英の4か国语で“空手の起源はインドの时代に中国と韩国に伝わり、その后韩国が日本に伝えた”と记述し日本侧が抗议するという事态が発生した。日本侧の抗议に対し同时に记述された“柔道韩国起源说”は削除されたが“空手韩国起源说”は结局削除されることはなかった[82] 空手は琉球から日本本土に伝わったもので、テコンドーは戦后に空手を参考にして新たに作られたものである。また、韩国が国技院副院长が明らかにしたところによると、“テコンドーの起源を三国时代以前とすることが一般的だが、 历史的想像力を动员してもそれには无理がある。中国から日本へ入り、日本が改良して韩国へ入ってきた。テコンドーは空手の変形である。私も创始期にはテコンドーの起源をテッキョンとして本を执笔したことがあるが、海外に普及させる过程で昔からあった韩国の伝统武术だとすれば名分が立つからである。”と告白している。 更にこの记事では“空手から派生したテコンドーだが、蹴りを主眼に置いて竞技化したことで、型や手动作に重きを置いた空手の阴から脱した”とも述べている[95]。テコンドーの国际団体の一つである国际テコンドー连盟によると、テコンドーの由来は、崔泓熙によりテッキョン日本松涛馆空手道の要素を取り入れ、1955年4月11日にテコンドーと正式に命名したものであるとしている[96]
相扑 中央日报が、日韩文化交流を绍介する中で、韩国シルム连盟関系干部の“日本相扑协会は相扑の本流である韩国シルムへの待遇がなっていない”との心境を绍介し、相扑の起源をシルムとして绍介した[97] 日本における相扑の起源は古坟时代埴轮まで溯る事ができ、シルムの方も高句丽时代に描かれた壁画や后汉书にシルムに関する絵・记述がある事が确认できるためどちらかが起源と言うような関连性はなく、别々に似たような竞技が発生しただけなのではないかと思われる。少なくとも日本の相扑の起源が间违いなく韩国のシルムだとするような资料は、现时点では存在しない。
忍者
忍术
伊贺流
服部氏
ツツジ
韩流ファンのフランスの若者が组织し、驻仏韩国文化院と韩国観光公社パリ支社と农水产物流通公社が后援して韩国文化を国际的に绍介する“Korean Connection 2011”が、“忍术は4世纪に朝鲜半岛から日本に导入された韩国起源の武术”“多くのコリアンが忍者の里の甲贺や伊贺に移住した”と主张し、忍术をパリで公演している[61][62]

また、韩国系移民がイタリアで运営する“スルサ道场”が、新罗军の“花郎”の中にある特殊部队“スルサ”が忍者の起源であると主张している。この中で“几人かのスルサ戦士が日本に亡命し、日本の忍者の理论にアイデアを提供した”“スルサドーを含むすべての韩国マーシャルアーツに见られる瞑想テクニックは、日本の忍术の秘技のなかに残っている。”“日本のマーシャルアーツは太平洋戦争でいち早く有名になっただけ”と主张している[98]。また、ファッション评论家の金硝子が、人気アニメ‘美少女戦士セーラームーン’の话题の中で、日本の创作话の中に“変身”が多く登场することに言及し、日本人が频繁に“変身”を创作话の中でモチーフにするのは、11世纪から18世纪にかけて日本で盛んであった忍术に起源があると主张し、さらにその忍术は、7世纪に高句丽を通じて日本に伝わったものであり、日韩両国で‘セーラームーン’が人気があるのは、この历史的な背景によるものであると主张している[99]。 さらに韩国日报が、特派员の日本の知人の话を绍介する形で、伊贺忍者の指导者だった服部氏は、新罗系の秦氏の末裔であり、日本に咲くツツジも朝鲜民族が日本に持ち込んだものであり、故郷の朝鲜半岛を偲んだ服部氏が江戸のツツジの名所を作ったと主张している。さらに、伊贺地方の制铁や陶磁器や酒造や祭祀の起源も韩国にあると主张している[100]

また、ハリウッド映画“ニンジャ・アサシン”に主演した韩国人俳优のピ(Rain)は、インタビューにおいて、“忍者は日本の文化ですが、韩国にも忍者はいますか?”という质问に対して、“韩国にも忍者はいる”と答えたうえで、剧中の忍者は日本人とは関系なく、“国际的なアジアの孤児”であるとし、忍者が日本固有の文化ではないことを主张した[101]

服部氏を秦氏の末裔とする说はひとつの仮说に过ぎず(‘三国地志’と‘永闲记’で否定されている)、秦氏を新罗人とする说も仮说である。また、服部氏が佣兵として各地で活跃するのは戦国时代以降、表舞台に初めて登场したのは16世纪であり、秦氏が渡来してきたと考えられている时代との时间的隔たりを考えれば、秦氏を忍者の起源とするのは无理がある。そして、ツツジの主张も根拠不明である。

そして、これらの韩国起源说は、各种メディアに登场する、派手な武术を使ったり、忍法変身したりする、空想上の“忍者”を思い描いて自说を主张しており、実在した忍者に対する基本的な认识が间违っている。実在した忍者は派手な特殊部队戦闘员というより极めて地味な谍报员佣兵であった(実际の忍者が行ったのは“変身”ではなく“変装”)。忍术も起源说で主张されている“武术”や“マーシャルアーツ”の侧面よりも谍报活动を円滑に行うための技术の集大成というべきものであり、“忍术=戦闘技术”と言う认识にも问题がある。そして“花郎军事组织说”自体が否定されているので朝鲜半岛に“スルサ”という戦闘组织が実在した信凭性も薄い。

さらに、仮に新罗が灭亡してからスルサが日本に亡命したのが事実だったとしても、新罗が灭亡した时期(935年)から、日本で忍者の原型のような存在が确认されている平安末期(11世纪后期)までにかなりのタイムラグがあり、金硝子の高句丽(668年灭亡)由来说の方はさらにタイムラグが大きく、これも信凭性が薄い。

茶道
千利休
朝鲜新报’は“茶においては1千年前の新罗の时代の礼法がほとんどそのまま日本に取り入れられた”と主张している[102]

また、茶道の祖の千利休の祖父は千阿弥と名乘り、その名をとって千姓と名乘っていたことから千利休を朝鲜人と主张していた[103]

茶を饮む习惯は遣唐使により中国から伝えられたものという说が有力であり、茶を饮む行为を哲学や教养や総合芸术にまで高めた茶道という文化は室町时代に体系化した日本起源のものであり、韩国の“茶礼(タレ)”とは全く関系がない。

日本における茶を饮む(吃茶)の习惯は渡来した当时はそれほど普及せず、一度は廃れてしまったが镰仓时代になって禅宗が広まったのをきっかけとして复活した。茶の栽培もその时期に普及し、茶を饮むと言う习惯は一気に広まった。室町时代に入ると为政者层の间では単に茶を饮むだけではなく茶の产地を当てる闘茶が流行ったり、唐物(中国由来)の茶器を珍重する风潮が生まれた。しかしそれと时を同じくして博打や华美を否定し、茶を通じての精神的交流の重要性を说く村田珠光(1422年または1423年~1502年)のような人物も登场する。村田珠光はわび茶の创始者だと考えられており、彼の主张する茶会の作法はその后安土桃山时代に完成されている。

现代も続く日本の茶道は当初から完成されていたものではなく时代を通じて変化し、洗练され今に至ったものなのだが、“新罗の礼法がそのまま取り入れた”と言う主张はそのプロセスを完全に无视している。また、その“新罗の礼法”が如何なるもので本当に実在したものかどうかも明らかではない。

千利休の祖父の千阿弥の阿弥号の出自はそもそも朝鲜半岛とは无関系である。

华道 ヤフーコリアが“生け花”の项目で、朝鲜半岛には土着文化の一形式として原始的生け花が存在し、仏教伝来と同时に生け花の一様式が百済に伝来し、それが日本に伝わり、その后朝鲜半岛独自の生け花は日帝(日本による朝鲜半岛支配)により抹杀されたと主张している[104] 花を爱でる行为は有史以前からある人类共有の行为であるが、生け花は室町时代に日本で本格的に体系化したものである。“朝鲜半岛の原始的生け花”“日帝による抹杀”という主张も文献资料や考古学资料による里づけが一切存在しなく根拠不明。韩国で约200の生け花団体を束ねる韩国生花协会の理事长は、日本统治下の女学校时代に毎周行われていた生け花の授业が、この道のプロになるきっかけをつくったという。自身のプロになるきっかけをつくり、韩国で生け花文化が一般大众に普及していったのは1950年代末からであり、70年代までは日本の影响を受け、80年代以降は欧米の作风を取り入れるようになった、と韩国生け花の経纬を说明している[105]
盆栽 中央日报’が、2009年6月17日版[106]において、イ・ギョンヒ记者が盆栽は日本で生まれたものではなく、14世纪に朝鲜半岛にて生まれたもので、その证拠として‘四季盆景図 4幅屏风’なる絵画を元に起源を主张している。 実际の盆栽の起源は6世纪に中国で生まれ、遣唐使によって盆景として持ち帰られたものが、平安末期からの武士文化の中で磨かれ、日本独自に発展したものである[107]。‘四季盆景図 4幅屏风’は14世纪に朝鲜に盆栽のようなものが存在したと言う证拠にはなりえるものの、何故それが即“日本の盆栽の起源”になるのかは根拠不明。记事内でも说明はない。
和歌 韩国で唯一の和歌诗人の孙戸妍が“和歌は新罗(シルラ)の郷歌が起源”と主张している[108] 主张を里付ける文献资料も存在せず根拠不明。
演歌 演歌の起源が韩国のトロットであるという起源说がある。韩国のケーブルテレビのinetTVが2012年1月3日に放送した‘韩国人の音楽 トロット’で、NPO法人日本艶歌歌谣协会理事长(演歌ではない)の高树一郎のインタビューによるものとして、“古贺政男は韩国人で、演歌の起源はトロットである”と报じた[109][110] 古贺政男は福冈県生まれの日本人である事は间违いなく、7歳の时に日本统治时代の朝鲜に渡って少年时代の一时期をおくっただけである。なお日本艶歌歌谣协会は1997年に设立された组织であり日韩友好を大々的に掲げている。また、李奉来(元芸术文化団体総连合会会长)によると‘演歌の起源を韩国とするのは、韩国人歌手の李成爱を日本で売り出す时、日本のレコード会社が考え付いたキャッチフレーズ’であるという[111]
折り纸 一部の在米韩国人の女性グループが“折り纸はもともと韩国(朝鲜)で作り出されたもので、日韩统治时代に日本人が自分たちの文化と伪って世界に広めた”と主张し、现地で折り纸教室を开いている[112]。また、社団法人韩国折り纸协会は、起源については明确に言及しないものの、“日本の植民地时代に日本は韩国の文化を全面的に抹杀し、韩国の伝统的折り纸文化も排斥した。”と主张し、日本とは别の折り纸文化が朝鲜半岛に存在したと主张している[113]。また协会では検定制度により指导师を养成し、さらに、日本の折り纸を模仿したものを“韩国の伝统的折り纸”と称して世界各地で宣伝し普及活动をしている[114]1989年に韩国折り纸协会を设立したノ・ヨンヘ理事长は、20万人の折り纸讲师を育てて、“モンゴルで3年间に辈出された约450人の讲师が纸文化を伝えていく”と‘中央日报’で报道された。さらに、“韩国でも864年道铣国师折り鹤を投げて落ちた地点に玉竜寺を创建したという话が伝えられる”ことから、“〔折り纸の〕宗主国は日本でなく韩国”であり、“610年に高句丽の僧侣・昙惩(ダムジン)が纸を日本に伝える时、折り纸も〔高句丽から日本に〕渡ったと推定される”と报道された[115] 朝鲜半岛には儒教祭祀で使われる折った纸の造形物は存在したが、日本のような多种多様な対象物を纸で折る“游び”の折り纸文化は存在せず、祭祀で使われる造形物の様式も日本の伝统的折り纸とは全く异なるものであり、これらの主张は事実无根である。折り纸作家の新宫文明によると、1797年寛政9年)に刊行された‘秘传千羽鹤折形’が现存する游戏折り纸に関する最古の著作物である。そして“游戏折り纸よりもさらに古い‘仪礼折り纸’の伝统を见逃してはなりません”と指摘して“镰仓期には京の朝廷と幕府の间で频繁なやり取りがあったことから礼法が形づくられ、包みの风习が仪式化されます。室町时代になり、武家の间で包みの礼法(仪礼折り纸)がさらに広がったと考えられます”と解说している。すなわち、镰仓时代に始まる“仪礼折り纸”と江戸时代に始まる“游戏折り纸”のふたつが现在の日本文化の折り纸の起源であると指摘している。[116]
歌舞伎 朝鲜日报が百済技楽の复元运动を绍介する记事の中で、歌舞伎の起源を百済技楽としている[117]。百済伎楽伝承保存会は“百済伎楽は西纪612年(百済武王13年)百済人ミマジによって日本の圣徳太子に伝えられた后、日本の舞楽、歌舞伎等の母胎となった”、“アジア仮面剧の源流は日本と思っている大部分の在欧韩人と欧州人たちに仮面剧の母胎が百済时代に起因したものだということを知らせる。”“百済文化の优秀性を知らせる”と主张し、パリロンドンで百済伎楽を披露した[118]。味摩之を“韩流の元祖”として祭り上げる等、その活动は2012年现在も続いているようである[119] 确かに日本书纪には推古天皇20年(612年)に“百済人の味摩之(みまし)が日本に伎楽を伝えた”と书いてあるが、この时伝えられたのは“百済伎楽”ではなく中国南部の発祥の伎楽だとされている。日本书纪には“百済伎楽”に関する记述は无く、これが本当に実在したものなのか、また存在したとすればオリジナルの伎楽とどの程度违うものだったか等は资料的には明らかになっていない。日本に伝わった后、伎楽は国家によって保护され飞鸟时代から奈良时代にかけて寺院の法会でさかんに上演されたが、次第に衰退し镰仓期にはほぼ上演されなくなってしまった。

百済技楽の详细は现在も全く不明であるため、百済伎楽伝承保存会がロンドンやパリで行った公演で上演された伎楽も现代の创作仮面剧である。歌舞伎は安土桃山时代に“かぶき踊り”で一世を风靡した出云阿国が元祖だとされており、今日も続く男性だけで演じられる“野郎歌舞伎”に落ち着いたのは庆安5年(1652年)の事である。また、最初から様式が决まっていたわけではなく[120]江戸时代を通して洗练され変化して行った物が现在の歌舞伎であるため、现在の歌舞伎と様式が似ている[121]と言う理由で“起源”を主张するのは难しい。また、日本の伝统芸能で仮面を多用するのは歌舞伎ではなくである(歌舞伎にも仮面を用いた演目はあるが、主流とは言えない)。能は镰仓时代后期から室町时代初期顷に完成されたもので、これも7世纪に灭びた百済との関连性は特に见当たらない。

花札 韩流ファンのフランスの若者が组织し、驻仏韩国文化院と韩国観光公社パリ支社と农水产物流通公社が后援して韩国文化を国际的に绍介する组织“Korean Connection”が、パリで开催した“Korean Connection 2011”で、花札を“韩国ドラマに良く出てくる韩国オリジナルのカードゲーム”と绍介している[61][62] 花札の原型となるカードゲームは安土桃山时代にポルトガルの宣教师が日本にもたらしたもので、花札の図柄やルールは日本独自のものである。韩国には日本统治时代に伝わっている。
日本庭园 2009年4月20日、‘忠青トゥデー’纸社说にて、忠清南道扶余の薯童公园宫南池について“新罗の雁鸭池と日本庭园文化の源流という历史的価値にもかかわらず宫南池が正しく评価されたことがないのは残念”と记载。その根拠を“新罗の雁鸭池より一世代以上先立って庭园を造成し、古代日本の飞鸟文化を诞生させる决定的要因として作用した”としている[122] 5世纪前半代の奈良県巣山古坟别区の葺石や、巣山古坟や同时代の涌泉遗迹である三重県城之越遗迹には、すでに日本独自の州浜型池などの苑地の要素が见られる[123]

食文化[编辑]

事例 主张 反证
おかず
日本の大部分の食べ物
2008年6月9日に行われた映画‘食客’の制作発表会において俳优チェ・ブラムが“日本の人々の食べるおかずは、大体が我が国に由来したものが多いのに、私たちが(食の世界化に対して)和食に后れをとる理由がない”、“21世纪は文化戦争の时代であり、日本は金を投入して日本食を世界に伝えている”等と発言をし、韩国起源说を主张した。また同席したクォン・オジュンも“我が国の韩食は薬になるほど优秀で、竞争力がある。日本に(食の世界化)ができて我々にできない理由がない”と発言をした[124]

米国のカリフォルニア州ASU副総长の食生活文化研究者キム・ヨンボクも、‘庆南道民日报’2010年6月22日で“日本の大部分の食べ物がその根元を韩半岛に置いていて、今でも日本の食品学者、料理研究者、外食业者などは韩国に出入りして、韩国料理らを侦察しに通う”と主张[125]

主张を里付ける资料も存在せず根拠不明。
豆腐
荞麦
キム・ヨンボク庆南大学伝统食生活文化研究院长が“韩国のメミルククスを日本が模仿して荞麦が诞生し、韩国のトゥブから日本の豆腐が生まれた。”と主张している[126]。また‘ウィークリー京郷’が“日本の豆腐は朝鲜から伝授を受けたもので、壬辰倭乱(文禄の役)の时に晋州城主の朴好仁が教えてあげたのが始まり”“朝鲜が豆腐作りに一番优れていて中国と日本から教えを请いに来た”“日本に豆腐が一番遅く400年前に日本に伝わったのに、日本豆腐が世界を支配するのが切ない现実だ”“朝鲜の豆腐の伝统は日帝36年の间に消えた”“韩国豆腐の优秀性が世界に认められ、豆腐文化宗主国の位相を再确立するチャンスが来た”と主张している[127]。また、‘国民日报’が“原产地は中国というが、韩半岛で花开いて日本に伝わったトゥブ(豆腐)の场合もそうだ”と主张している[128]

キム・ヨンボクは、‘庆南道民日报’2010年6月22日で、“そばの根元やはり朝鲜だ。日本の‘本山荻舟’によれば‘一说に江戸时代(江戸时代、1603~1867年)始めに、朝鲜の僧である元珍が南都东大寺に渡ってきて结着材として小麦粉をソバ粉と混ぜるニハチ(2:8)を教え、はじめて日本にザルソバが普及した’と记录されている。元珍僧侣が初めて日本に伝えた比率は2:8だったと伝えられるが、今でも日本のそば屋の中にはこのニハチ(2:8)を黄金比率と考える所が多い”“豆腐は辛い历史を持って日本に伝えられた食べ物だ。日本、四国高知市県立図书馆に所蔵された‘皆山集’全10册中、9册の记录を见れば“豆腐に関してどんな本に伝えられている话を见ても、昔この国には豆腐がなかった。 1592~1595年に长宗我部元亲が朝鲜の捕虏らを引っ张ってこちらに戻った时、その中に朴好仁という人がいた。その子孙もやはりこの国に住んだが、こちらの领主山内一豊が高知城を筑く时、パク氏を今の唐人町に置いて动かせた。土佐郡镜川の北侧の土地で豆腐を制造し始めた’となっている”と主张[125]

豆腐は奈良时代に遣唐使により日本に伝えられたもので、韩国起源もしくは韩国を経由して日本に伝わったものではない。そして、日本人がよく知る现在のような豆腐は日本で発展したものである。さらにキム・ヨンボクは“日本は日本文化の形成に多くの影响を与えた国に中国を指し示したいだろうが、韩国が绝対的でその次が中国、ヨーロッパなどだ”と事実无根の主张をおこない、日本文化全般に対する韩国起源说までも主张している。

豆腐自体は纪元前164年顷に淮南王刘安が発明したとされているが、日本には遣唐使以前に伝わっていたと言う说もある。そして、镰仓时代の古文书である“庭训往来”には“豆腐羹(とうふこう、豆乳の意)”の记述があるため[129]、长宗我部元亲が连れて帰った朝鲜人捕虏が日本に豆腐を伝えたと言う说はまずあり得ない。そもそも记事に出てくる‘皆山集’とは土佐の藩政史であり、なぜそれを根拠に日本にそれまで豆腐がなかったと言う结论に至ったか不明。

また、作物としての荞麦は中国から日本に伝えられたと考えられているが、荞麦粉を麺の形态に加工する“荞麦切り”の起源は明确ではない。荞麦切りの确认できる最古の资料は1574年に修复工事が完成した木曽定胜寺の寄进记录だとされており、初期の荞麦切りの记录が信州周辺に多いことから、一般によく言われるとおり信州荞麦がその起源であったのは间违いないと见られている。二八荞麦の由来は诸说あり确定していないが、韩国の僧侣元珍が伝えたと言う确定的证拠もまた存在しない。

日本酒 日本酒の起源は韩国の清酒という说がある。日本人研究者が庆州の法酒は日本酒の先祖のようなものだと语った。また、古事记の记述の误読で起源を主张している场合もある[130]

さらに、近年、日本酒のルーツがマッコリであると多くの在日朝鲜人系酒店及び韩国料理店がWebサイトにて主张して问题となっている。

この主张は误りであり、日本酒の本来のルーツであるどぶろくは口噛みの酒などに溯る事ができ、その発展と共に発酵方法や历史的な流れも异なる。

なお现代のような清酒は、室町时代に奈良県の正暦寺で作られた僧坊酒“菩提泉”がその発祥であると考えられている[131]

寿司
刺身
ロサンゼルスのコリアタウンで寿司屋を経営しているキム料理长が“スシとサシミは元来、中国と韩国に由来するもので、日本にはスシが自分たちの食文化だと主张する権利が无い”“日本は第二次大戦以后にスシを食べ始めたが、韩国と中国は数千年间、スシとサシミを作ってきた”と主张した。[132]。また、キム・ヨンボク庆南大学伝统食生活文化研究院长は“韩国の食べ物パプシッケを模仿したのがスシ(寿司:すうし)だ。1700~1800年顷寿司が最初に开発されて日本の代表的食べ物であるハコスシ(箱すし:サンジャチョパプ)が创造された。”と主张している[133] “日本は18世纪、もしくは第二次大戦以后に寿司を食べ始めた”というのは事実无根で、浮世絵など江戸风俗を取り扱った作品を见れば江戸时代后期には今と同じような握り寿司が食されていた事がすぐ分かる。世界で一般的に“スシ”として知られている握り寿司の初出は19世纪初头の华屋与兵卫が创作した江戸前寿司とされる。握り寿司が登场する前は箱寿司(押し寿司)が主流だったが、握り寿司が江戸を席巻した后も上方(関西方面)では箱寿司が主流のままだったとされる。酢饭を使った寿司の起源は必ずしも明确ではないが、少なくとも17世纪には存在したことが确かめられており、刺身の起源は14世纪までさかのぼることができる。鱼介类の生食については日本では古代から広く行われ、‘日本书纪’で磐鹿六雁命景行天皇に鲣と蛤の脍を出したとの记述があり、これが日本料理の起源という伝说がある。
醤油 韩国の液体调味料の専门企业トンウンFCは、“しょう油は韩国が元祖”であるとし、“世界市场で韩国の伝统醗酵食品のしょう油が日本の制品のように认识されていることを正したい”と主张している[134]。これについて、キッコーマンは“初耳です”とコメントした[135] 実际には第二次世界大戦后に朝鲜半岛に残された(日本人が作った)醸造设备を利用して制造しており[136]韩国内で制造されている醤油の技术は日本発祥である。

韩国にはカンジャンという醤油に似た调味料はあるが、醤油とは别物である。2006年10月に韩国农鱼业芸术委员会によって开催された韩国骨董食品芸术展でも、日本の醤油や味噌は本来の制法や味でないとして、韩国のカンジャンやテンジャンとは违うことを强调している[137]

味噌 National Defense Journal が、言うまでもなく日本の味噌も、味噌玉麹を使った古代韩国人たちが日本に渡って広めた食文化だと主张[138]。また、‘国民日报’が“ミソが我が国の言叶、メジュ(味噌玉麹)に由来した名前であり、我が国が味噌文化の宗主国であることを强调し、テンジャン登录商标になっていればよかったという惜しさは残る。我が国の食べ物が世界の人々の味覚を捕らえれば、経済的、文化的波及效果は途方もなく大きいだけに、今后は食べ物の主権守りと食文化普及にもっと関心を持たなければならない”と主张している[128] 根拠不明。味噌に似た発酵调味料は东アジア各地に古くから分布したが、同一の起源を持つものかどうかは明らかではない。日本の味噌は、一般的には縄文时代に中国から伝わったか日本国内で作り出されたとされている。
味噌汁 朝鲜日报が、‘薬师寺は大きなイベントがある度に韩国伝统の味噌汁を用意するなど、さまざまな面から韩国と深い関连があるものとみられる。天皇が自ら“韩国人の血を引いている”と明らかにしたように皇室の愿寺だったためではないかと思われる。’と主张

[139]

根拠不明。薬师寺には味噌汁をふるまうようなイベントは存在しない[140]。そして、今上天皇の発言は“桓武天皇の生母である高野新笠が百済の武宁王の子孙であると続日本纪に记されている”というもので、これは“日本に帰化した百済系移民の约10世后の子孙が天皇家に嫁いだ”という意味であり、当时の百済と现在の半岛では民族构成も全く异なり、“韩国人の血を引いている”とは言えない。

高野新笠が帰化人の家系出身であった事は间违いないとされているものの、実际に武宁王の子孙であったかどうかは朝鲜侧の资料から见ても不明了であるため疑问视する声もある[141][141](详细は高野新笠を参照)。

纳豆 National Defense Journal の主张[138]によると、‘纳豆は韩国のダムブックジャンが起源である。“朝鲜出兵から帰った加藤清正が九州に纳豆を広めた”という熊本の农业高校教师の菊池、平野の研究がある。一说には、7世纪中顷、朝鲜の僧侣が味噌玉麹豆を日本に持って行き、纳豆を作ったという记录もある。’ 塩辛纳豆に関しては、奈良时代に中国から伝わった豉が起源であると考えられている(なお、糸引き纳豆に似た食品は韩国には存在しない)。
沢庵渍け
沢庵宗彭
National Defense Journal が、“沢庵は江戸时代初期に朝鲜から日本に渡った僧侣テックアムが初めて作り方を教えてあげたものだ。沢庵とはテックアムの日本名だ。沢庵和尚が考案したから沢庵を呼ぶようになった”と主张[138]。また、米国のカリフォルニア州ASU副総长の食生活文化研究者キム・ヨンボクも、‘庆南道民日报’2010年6月22日で、“沢庵は壬辰倭乱直后、朝鲜から当时江戸时代初期の日本に渡っていって京都の地、大徳寺(京都市)周知にあった高僧の沢庵(タクアン・1573~1645年)僧侣が作った渍物(野菜を塩渍けする日本保存食物)だ”と主张[125]。また、世界キムチ研究所の朴完洙初代所长は、“外国人にはキムチをコリアンピクルスと认识している人が多い。逆に言えば、ピクルスや沢庵など渍け物类がすべてキムチの一种ということだ”と主张[142] 沢庵宗麟は1573年12月24日に秋庭纲典の次男として但马国出石に生まれたとされており、10歳に出家して僧侣になるまでの経历に不明な点は特に存在しないためもし“韩国から日本に渡ってきた僧侣テックアム”と言う人物が実在の人物だとしても沢庵宗彭と同一人物である可能性は低い。

また、沢庵渍けも“沢庵が考案した”说以外に“沢庵が広めた”说、“‘じゃくあん渍け’もしくは‘贮え渍け’が‘たくあん’に変化した”说など诸说ある。

奈良渍 National Defense Journal が、奈良渍は韩国の塩渍けの一种。出云を征服した新罗人が、さらに南下し、奈良に国を作った。“ナラ”とは、新罗人によって名付けられたのだが、“国家”を意味する。“奈良渍け”とは“国キムチ”を意味すると主张[138] 新罗の入寇のように新罗出身の海贼や正规军が日本を攻撃したという历史的事実はあるが、征服を目的とした侵略と言うよりは日本の沿岸部で略夺行为を动いたと言う方が正しく、被害にあった地域は対马や北九州沿岸部のような朝鲜半岛と距离的に近い地域であり、出云(今の岛根県)が攻撃・征服されて新罗人による奈良征服の桥头堡になったことを示す历史资料は全くない。従って、そこから発展した“国キムチ”说に至っては完全に创作である。

そして、奈良渍室町时代の‘山科家礼记’や‘言継卿记’にその名前が初めて登场している。それより前の时代では“粕渍け”と呼ばれており、奈良时代の长屋王邸迹にて出土した木简の“进物 加须津毛瓜 加须津韩奈须比”という记录が最古のものである。よって时系列においても、奈良渍という言叶を新罗と结びつけることはできず、韩国人による言叶游びに过ぎない。

海苔
海苔巻き
韩国CBSノーカットニュースによると“我が国の海苔养殖が日本より先立って事実上世界初という事実を知っている人はあまり多くなく、海苔をキムチのように我が国の代表的な食べ物に育成しなければならない。”と主张している[143]

また、のり巻き専门店“钟路のり巻き”は、ウェブサイトで“残念ながら现在までのり巻きの由来に対する正确な历史が定立されていないのが実情です。そこで、のり巻きを名実共に韩国の代表的な食べ物の一つとして位置付けた自负心を持って、のり巻きの历史とその特性に関して资料を掲载しようと思います。我が国ののり巻きの由来については多くの论争を持っていますが、その代表的なものが‘韩国固有食べ物说’と‘日本由来说’に分けることができます”“多くの人々は‘日本由来说’に比重を持って主张していますが、结论から言えば、どんな文献を探しても韩国ののり巻きが日本の関东地方の海苔寿司が伝わって変形して発展したという直接的な证拠はありません”“日本の场合、1800年顷から海苔を取り扱ったという记录があって、我が国は遥かに以前の新罗时代から、または少なくとも朝鲜初期である1400年顷から取り扱ってきましたから、我が国が日本に比べて海苔メニュー文化は遥かに先んじているという结论を容易に断定できます。同时に海苔の特性の上、ご饭を包んで食べる形态で取り扱うしかありませんから、当然、のり巻きの历史も我が国のほうが日本よりも先んじているはずだという结论もまた容易に类推できます”“このような理由で、今食べている我が国ののり巻きが日本食海苔寿司に由来したものと见るのは非常に难しいのです。むしろ、我が国ののり巻きが日本に伝わって、彼らの习性や食生活に合わせて海苔寿司として発展し、私たちよりも记录が好きで、历史歪曲を饭を食うように行なう彼らによって、逆として知らされたのではないかという疑问さえ起こります”と主张している[144]

“海苔の特性の上、ご饭を包んで食べる形态で取り扱うしかありません”と主张しているが、ご饭を包む板海苔は、江戸时代に和纸技术が进歩してその派生技术として诞生したものであり、その起源が江戸期の日本であったことは各种资料と交易记录からも明白である。

そして、韩国ののり巻きは日本料理に使われる巻き帘を使用する料理法も同じであるし、名称も韩国ではのり巻きを表す言叶がなく日本语と同じ“ノリマキ”と発音してきたものが、近年になって朝鲜语の国语纯化运动によって“ノリマキ”を“キムパブ”というオリジナルの用语をつくって置き换えたものである。この名称の経纬からも、のり巻きは名称とともに并合时代に日本から伝わったという定说でもある‘日本由来说’のほうが信凭性が高い。

しゃぶしゃぶ 韩国の料理研究者らが、“しゃぶしゃぶは日本やモンゴルの食べ物ではない、高丽时代に韩国からモンゴルに伝わった料理である”と主张している[145] 根拠不明。定说としてはフビライ・ハーンの侍医である忽思慧の考案によるとされており、それが日本に持ち込まれた时点で羊肉から牛肉になったと考えられている。
和牛 韩国の‘月刊外食経営’において弥生时代の中ごろに朝鲜半岛から日本列岛に持ち込まれた牛があることを论拠に起源を主张している[146] 和牛とは、明治时代に日本在来の牛と欧米の牛とを挂け合わされてできた、黒毛和种・褐毛和种・日本短角种・无角和种の食肉専门4品种の牛のことであり、公正竞争规约上の定义では、上记の4品种间の交雑种及び4种の交雑种を含む5品种间内の交雑种が“和牛”と名乘ることを认められている。そして、南部牛のように、北方から日本列岛に持ち込まれた牛の存在を无视しており、朝鲜岛由来の牛の血统が混じっていることを拡大解釈し、日本列岛で行われた品种改良を一切无视している。
うどん National Defense Journal が、 江戸时代の初期に朝鲜の学僧円阵が朝鲜通信使として日本に渡り、カルグクスの作り方を日本人に教えてあげたのがうどんの起源と主张。根拠として、现在の形态のうどんが食べられるようになったのが江戸时代以降であることを挙げている[138] うどんの起源は明确になっていないが、麺料理は中国から伝来したものと考えられている。また、室町时代には现代とほぼ同じ制法で作られるようになっている。
长崎ちゃんぽん 釜山駅近くで中华料理店“中南海(チュンナンヘ)”を経営する衣が、中国のチャオマメンという麺料理が韩国华侨たちにより韩国に持ち込まれ“仁川地方の独特な食べ物”となり、日帝统治下に“ちゃんぽん”という日本语名が付いたと主张をしている[147]。また朝鲜语版wikipediaでも仁川由来说が记载されている[148] 定说では明治32年、长崎の中华料理店“四海楼”の中国人“陈平顺”によって発明、となっている。
イカ徳利 韩国のヒュデム食品が、2007年5月18日に行われた第42回発明の日记念优秀発明品展示会で、イカ徳利を“韩国の优秀発明品”として展示した[149] イカ徳利は、北海道三陆地方などのイカの产地ならではの土产物として、古くから贩売されている。韩国で発明されたものではない。この件を问题视する声が青森県の公式サイトに寄せられている[150]。青森県は、韩国の特许登录第10-0634290号“乌贼酒瓶の制造装置およびその方法”によって、 日本から韩国へのいか徳利の输出・贩売に影响が出る可能性があると回答している。
朝鲜饴 National Defense Journal が、饴は朝鲜通信使が日本に持って行き、直接作り方を教えてあげたのが起源。そのため日本では、饴のことを朝鲜饴とも言うと主张[138] 朝鲜饴とは、长生饴と呼ばれていた饴が、朝鲜出兵时の兵粮として用いられたため朝鲜饴と呼ばれるようになったものであり、朝鲜半岛起源ではない。最古の饴の记录は‘日本书纪’に书かれている。

言语[编辑]

朝鲜语起源说は、韩国人を中心に数多く広められている。古代朝鲜语に由来するとする议论もあるが、古代朝鲜语は史料が乏しく复元されていない[151]

根拠がない民间语源が韩国で広く流布されているのは、“日本人のルーツは韩国人であり、古代日本人は韩国人(百済人)である”“倭は百済の植民地であり、日本は百済人によって建国された国である”という主张[152]が韩国で広く支持されているからだという[153]

朝鲜语で“贫しさ”を意味する“カナン”が日本语の“悲しみ”の语源だとしたり、朝鲜语で“生きて再び会おう”という意味の“サラバ”が日本语の别れの挨拶“さらば”になったなどがある(“サラバ”にいたっては、登场するのは20世纪以降である)。このような话题は史学的あるいは言语学的根拠がない语源俗解の类であるが、一部にはこのような题材を好む読者を抱えていることから、いくつかの书物が出版されている[154]

日本人の朝鲜语初学者が一様に惊くのは“家族”を意味する単语としてカジョク、时间→シガン、准备→ジュンビなど、日本语と类似性のある単语表现がいたるところに存在していることであるが、これらの语の多くは明治以降に日本から朝鲜半岛に移入されたもの、或いは中国语をともに语源としているものである。汉音呉音音読みを参照。

事例 主张 反证
日本”の语源 历史学者の朴炳植(パク・ピョンシク)が朝鲜语の“イルボン”が日本语の“ニッポン”の起源であると主张しており、朝鲜半岛に存在した部族国家“ウガヤ”の国号が“ヤマト”であり、彼らが日本に渡り新しい国家“ナラ”を建てたと主张している[155] 古代朝鲜语は全く解明されておらず、“日本”の现代朝鲜语読みの“イルボン”を“ニッポン”の起源とするのは无理がある。

日本へ渡り“ナラ”を建てたとあるが、DNA调查で日本人は全くの别人种だと判明している。日本人は世界でも稀なY染色体DNAのD系统を高频度で持つ人种。朝鲜半岛や中国人は南方系O系统である。

日本语 言语学者のシミズキヨシと元オーストリアのウィーン大学教授と九州产业大学の朝鲜语讲师パク・ミョンミが、“日本语の起源は韩国语”と主张している。

数学者金容云・檀国大客员教授が、著书‘天皇は百済语で话す’を绍介する记事[156]の中で、‘现代の韩国语は新罗语を中心に収敛され、日本语は百済语を中心に発展したものだ。朝鲜语と日本语は共通の祖语を持つが、数字の“3”“5”“7”は韩日で発音が全く异なることから、新罗语と百済语がそれぞれ朝鲜语と日本语に繋がったとが分かる。また日本语の语尾に百済语を见出すことができ、全罗道の讹りに似ている”“第26代継体天皇は、百済第22代王の弟の‘昆支’と同一人物。‘日本书纪’に出てくる継体の别名‘男大迹’‘昆支’も共に‘大きい人’を意味することから同一人物”“日本で百済を‘クダラ’と読むのは ‘大きい国’という意味で、日本は百済の分国だった”と主张。

また、36年间外交官として动いてきたキム・セテクは著书‘日本に渡った韩国语’(キパラン)で、日本语の语源を探るのは、和语がなぜ、训読されるようになったかを探ることだと考え、约3000の语汇を分析し、“日本语の源流は韩国语にある”としている[157]
朝鲜语と日本语は语顺、助词の存在等文法的に似ている点が认められ、日本国内でも日本语と朝鲜语の関连性の研究は古くからなされている。しかし、现在は一般的に日本语・朝鲜语いずれも孤立した言语とされており、少なくとも基础语汇の関连性は极めて薄いとみなされている。比较言语学では、言语の比较にあたって、文法よりも基础的な语汇の方が重视される。

例えば、シミズの记事で绍介されている研究は朝鲜语で颜を意味する“ナッ”と日本语の“なつく”を対応させているが、対応させている単语が恣意的で、本来対応させるべき“ナッ”と“カオ(颜)”の発音の违いを无视しており、学术的信凭性は薄い[158]

金容云教授の主张は、日本语には音読み训読みがある事を无视している。さらに、日朝言语比较论では、多くが“日本语と朝鲜语の违いは百済语と新罗语の差异から来ている”と言う前提条件のもとで研究されており、“百済语”や“新罗语”などの単语が登场するが、実际はそれらの古代朝鲜语はいずれも実态解明が全く进んでいないため、学问的な比较は事実上不可能である。金教授の主张は、现代日本语と现代朝鲜语の数字の数え方の差异を无理やり実态不明な新罗语と百済语の差に结び付けているだけであり典型的な伪言语比较论である。日本语で‘男大迹’‘昆支’‘クダラ’が‘大きい人’もしくは‘大きい国’を意味するとの主张も、根拠不明。

金容云の记事を阅覧した中国のネットユーザーからは、“韩国人は历史をゆがめ、横取りする”“またか!”“太阳系も韩国人の発明”など韩国・韩国人への批判が相次いだ[159]

敬语  
万叶集
万叶仮名
李宁煕が、‘もう一つの万叶集’(ISBN 4163435603)を出版し起源を主张している。

韩国の东亜日报においては、“7世纪顷の万叶仮名は元々古代韩国で使われたもので、韩半岛から帰化した人々によって考案された。この仮名文字は后に韩国では消えた”[160]と主张をしているが、その主张を里付ける历史的根拠は不明である。

韩国外国语大学校教养学部日本文化担当教授の文学博士洪润基が出版した‘百済は大きい国’では“万叶仮名”は古代百済人が作ったと主张。百済人の王仁が5世纪末顷、日本の王室に汉文の长诗“千字文”を持って渡り“万叶仮名”を创り、その后王仁と阿直岐の子孙が引き次いで作っていった文字が11世纪に47文字となり、现在の“平仮名”が完成したと述べている[161]

もし王仁が日本书纪などに书いてあるように応神天皇の求めに応じて日本に渡来した一人の学者だったとすれば、渡来した时期は応神天皇の在位期间、すなわち3世纪后半から4世纪前半(もしくは干支崩年に従った场合は4世纪后半まで)と言う事になる。しかし千字文は南朝武帝502年 - 549年)が周兴嗣に命じて作らせたものであり、王仁が渡来した时期には存在していない[162]。従って千字文を元に王仁ら帰化人が万叶仮名を作ったと言う可能性はとても低い。そして、5世纪后半に作られた稲荷山古坟から万叶仮名の原型とも言えるものが発掘されている事から、その时期までにはすでに汉字の音を借りて固有语を表记する方式が确立されていたのではないかと思われる。

万叶集は复数の编者によって编纂され、最终的に大伴家持(718年 - 785年)が完成させたものである。

片仮名 郑ジェヨン(韩国技术教育大学教授)と小林芳规(広岛大学名誉教授)の共同研究によると片仮名は新罗の口诀が起源であり、东大寺讽诵文稿にそれを见ることができるという。庆一大学総长の李南教毎日新闻 (韩国)上の连载コラム“イ・ナムギョの日本语源流散歩”で、次の语句の语源を古代韩国であると主张している。“邪马台国”“大和”[163]、“対马”“矶原”[164]、“早良”[165]、“木绵”“柳”[166]、“本音”“建前”“楽しい”[167]、“幸せ”[168]、“恨み”“见舞”[169]、“いらっしゃい”“ありがとう”[170]、“ちちんぷいぷい”[171]、“せーの”“甘い”“我孙子”“卵”[172]、“锄”“镰”“肥”“锹”“菜”“束”などのほとんどの农耕用语[173]、“さらさら”などのほとんどの拟音语[174]

吴相铉(オ・サンヒョン)延世大学讲师は、“(朝鲜语の)‘仮病(クェビョン)’を日本语では‘ケビョオ(kebyo)’という。つまり‘仮病’の‘クェ’を朝鲜语の固有语と见なした场合、‘クェ病’という合成语的発想をして‘ケビョオ’を通用させたのではないか、という推定には无理がない”と主张している。また、日本语のトンボは韩国の庆尚道大邱を中心に使われる方言のトルボに由来し、日本语のトンボを朝鲜语の方言のトルボに求めれば、様々な情况的に合理的な妥当性を确保できる、と主张している[175]。さらに、‘釜山日报’2002年4月4日で、イ・ドンゴル论说委员は、“外来语や拟声语表记に使われる日本文字カタカナまでもやはり8世纪に韩半岛から伝えられたという说が提起されて注目を集めている。先祖たちが行なった夸らしいことだ”としている。

これらは単なる言叶游びで信凭性はきわめて薄い。言语を比较するにあたって类似している个别の単语を抜き出して“共通性がある”と主张する事自体に学术的な意味は无く、またその理由を実态不明の古代韩国(古代朝鲜语)に求める手法にも难がある。そもそも日本语と朝鲜语のルーツが両者とも本当に古代朝鲜语であったとしたらむしろ何故现代では特定の単语にしか类似性が见られないかの方が大きな问题点となるはずだが、それに対する言及はない。
”・“”の语源
君が代
李南教が、‘“君”は、邪马台国を建てた伽耶诸国の狗耶国国王の“金”(キム)氏が语源。“仆”は、狗奴国を建てた金官伽耶の弥乌耶马国国王の“朴”(パク)氏が语源。“君が代”は、本来“金家の世の中”と言う意味’と主张[176] 君が代は平安时代に咏まれた和歌だとされており、现在の文面とはやや异なる[177]。何故古坟时代の话になってしまうかは不明。また、実际は论争がまだ続いている邪马台国の所在に関してもかなり断定的に“大阪周辺の邪马台国”と“九州周辺の狗奴国”と述べるなど、日本の古代史をかなり都合よく解釈している侧面が见受けられる。
天下り”の语源 李南教が、‘“日本に渡った当时の百済人は非常に优遇され、百済の职位をそのまま认められて官僚や将军などに任命されたが、日本政府はこれらを受け入れるために行政组织を16官位から20官位に拡大改编までした。当时、日本政府の要职の国防大臣や文部大臣など、すべて到来した百済人を任命したことで発生した言叶が“アマクダリ”(天下り)だ’と主张[178] 百済王家の一族で日本に人质として滞在していた余善光が百済灭亡后に持统天皇より百済王の氏姓を赐り、比较的优遇されていた事は分かっているが、百済から亡命してきた帰化人全般がそう言う扱いを受けたと言う记述はなく、またそれが“天下り”と言う言叶の语源になったと言う历史资料は存在しない。
奈良”の语源 李南教が、‘“ナラ”という言叶は“ウリナラ(我が国)”の略语として、当时日本の首都であった场所を百済游民らは“ナラ”と呼び、后に汉字をあてて“奈良”になった。百済游民らは消えた祖国百済を“大きな国(コンナラ)”といったが、この言叶が変わって“クンナラ→クダラ(百済)”になった。百済(ペクチェ)を“クダラ”と呼ぶのはこれに起因する’と主张[179] 古代の朝鲜半岛の言语は今でも解明されていない上[180]、百済が灭びる前后の日本の都は飞鸟と呼ばれる地方に在り[181]、いわゆる“奈良”の地である平城京に迁都されたのは、百済灭亡から50年も后の事である。よって奈良という名の由来に百済を结びつけることは无理がある。そして、“奈良”の语源は“平らな、平坦な(土地)”を意味する“なら(す)”であるという说が有力であり、“平城山”と书いて“ならやま”と呼ぶ地名も奈良には残っている。自治体の领域名称として“奈良”が用いられたのは明治2年であり、県庁所在地のあった地名の名称に由来する。令制国の名称としては大和国(7世纪后半は“倭国”、迁都时は“大倭国”)と呼ばれていた。

ちなみに百済を“くだら”と呼ぶようになった由来は不明だとされているが、古代には“くだら”ではなく“くたら”と発音したとされている。そして、“ひゃくさい”と言う音読み表记も存在する。

“くだらない”の语源 韩国外国语大学校教养学部日本文化担当教授の洪润基(ホン・ユンギ)が“くだらない”の语源は“百済ない”で、“优秀な百済の文物がないことはみすぼらしいこと=百済・ない”が“くだらない”の起源であると主张している[182]

李南教が、“‘クダラナイ’という言叶は直訳すれば‘百済にない’になる。言叶の意味は‘つまらない’だ。‘良くて立派なものはみな百済にあるのに、これは百済にない。だから、つまらない’という言叶だ。”と主张[183]

当时の否定形は“ない”ではなく“ぬ”であり、否定形は“动词未然形+ぬ”で表记されるものであり、名词の“百済”に直接打消しの“ない”や“ぬ”が付くはずもないのは言语学の常识である。“下る”という动词が未然形に変化して“くだら”+“ぬ(ない)”となって“くだらない”となる。“下らぬ”とは公家言叶で下には行かないという意味も含む。さらに当时の一般大众が“百済”という言叶の存在を知っているとは考えられず、ホン・ユンギの主张の信凭性は极めて薄い。また、江戸时代に酒の名所の伏见などの“上方”で造られて江戸に“下ってきた”酒が“下り酒”と呼ばれていたように、“上方から下ってこない地元で作られたつまらないもの=下らぬもの”が“くだらない”の起源であるという说があるが[184]、“下り物”という言叶が出来る以前より“くだらぬ”という言叶は使われていたため、この说にも信凭性はない。

野平俊水は自著‘日本人はビックリ!韩国人の日本伪史’でもしこの说が事実であれば、百済灭亡后から“くだらない”と言う言叶が存在したはずだとしているが、“くだらない”と言う表现が使われ始めたのは遥かに后の时代である。そもそも文献を见る限り日本语の语汇として“つまらない”と言う意味で“くだらぬ”と言う表现が登场したのは17世纪に入ってからであり、それが“くだらない”に変化したのが江戸末期~明治初期の顷だとされている。江戸末期に入ってからいきなり“百済にない=くだらない”と言う表现が突如出现したとは考えにくくいため、この表现の语源が“百済”である可能性は低い。

竹岛”の语源 韩国地名学会が、“竹岛”という名前が竹岛の韩国名“独岛”(トクド)に由来するという主张している。 ここで说明されている1900年10月25日大韩帝国敕令第41号の“石岛”が今の“独岛”であるという说の根拠は方言の発音という一点しかなく根拠に乏しい。日本の研究者には“石岛”は现在の“観音岛”を指すとするものもいる。少なくとも日本が现在の竹岛を“竹岛”と呼ぶようになったとき(1905年。それまでは“松岛”と呼んでいた)には、朝鲜半岛においても“独岛”という语は一般化しておらず、また、“竹岛”の呼称は自然発生したものではなく政府によって命名されているため、“独岛”が讹って“竹岛”になったという主张には无理がある[185]
釜石”の语源 韩国の制铁メーカー・POSCOの人材开発院の教授で、児童文学者でもある李宁煕(イヨンヒ)が、地名の“釜石”は古代朝鲜语で“黒い上质の铁”という意味の“ガマウッシ”が転讹したとの说を主张している。制铁をした渡来人の存在と関连付け、“ガマ”は古代朝鲜语で“黒”“釜”、“ウッシ”は“上质(ウ)の铁(シ)”を指し、 同市西部の“甲子”も“ガッシ”のことで、“ガ(磨く・制铁する・锻冶をする)シ(铁)”に由来すると主张している[186] 古代朝鲜语はその存在からして全く解明されていない。日本の古い地名の多くがそうであるのと同様、釜石という地名の语源ははっきりしないが、公式には‘釜石市史’で、アイヌ语の“カマ・ウシ・イ(kama・us・i)”→“カマ・ウシ(kama・usi)”の転讹で、その意味は“平盘岩が・ある・所”を语源としている。 またほかの说としてアイヌ语で“クマ・ウシ・イ(kuma・us・i)”→“クマ・ウシ(kuma・usi)”の転讹で、意味は“サケ干し竿の干し场が・多くある・所”というのも一般的である[187]
飞鸟地方”の语源 郑永镐(チョン・ヨンホ)檀国大硕座教授いわく“飞鸟の汉字表示は“飞鸟”だったのではなく、元は百済人が渡来して心安らかに定着したという意味の“安宿”(発音はアンスク)だったが、后に変わった”と主张[188] 実际は外来语由来说を否定してはいないものの、地形名称由来说など他の有力な说もあり飞鸟の语源は今でも解明されていない。また何度も述べられている通り古代の朝鲜半岛の言语は今でも解明されていない。そもそも、“アンスク”という言叶は単に“安宿”という汉字を音読みしただけであり、朝鲜半岛固有の言叶かどうかも疑わしい。
祭り
神舆
“わっしょい”
苇原中国
“至る”
の语源
庆一大学総长の李南教(イ・ナムギョ)が、日本の祭りの起源は、渡来人が死を覚悟した航海の后に日本の大阪近辺に无事たどり着いた喜びを皆で共有するために行った仪式の“団地里”が始まりであると主张している。また、日本の祭りの挂け声の“わっしょい”の起源は、无事にたどり着いたという歓喜の声を表した“来た”という意味の朝鲜语“ワッソ”であり、神舆の起源も“死の航海を超えやってきた”ことから韩国で棺として使った“丧舆”であり、これが无事にたどり着いた喜びの“神舆”に変化したものであると主张している。さらに古代日本を指す苇原中国(あしばらのなかつくに)という呼称の语源も古代朝鲜语であると主张しており、苇(あし)は、日本语の始まりの音である“あ”と古代朝鲜语の“セ”(新しい)を组み合わせたあとにあセ⇒あシと変化したもので、原(ばら)は朝鲜语の“ポル”(原野)から変化したもので“苇原”とは渡来人が到达した“新しい原野”の意味であると主张している。さらに“死を覚悟して到着すること”を纯粋な朝鲜语では“イルダ”というが古代语では“イダル”であり、これが日本语の“至る”となったと主张している[189]

また、金达寿金思烨らの复数の在日韩国・朝鲜人や韩国人が、祭りのかけ声の“わっしょい”や“祭り”の语源が、百済との交流によりもたらされた古代朝鲜语の“来た”という意味の“ワッソ”や“マトゥリ”であると主张している[190][191]。これに関连して、在日韩国人らが“古代に先进文物を授けた朝鲜民族とそれを受けた倭人”という図式で、“四天王寺ワッソ”という祭りや“ハナ・マトゥリ”というイベントを开催している[192][193]

日本の祭りはあらゆる自然に対する畏敬の念を表し豊穣を祈愿したアニミズムシャーマニズム的要素を持つ神道が起源であり、これに神仏习合の影响を受けて派生して现在知られるような多様な形になったものである。また神舆についても狩猟采集物を备えた祭坛が起源であり、これが农耕の発展により固定化し神社となったとする说が一般的である。

また“왔소(ワッソ)”は“오다(オダ)(来る)”という动词の语干“오-(オ‐)”に、过去を表す先语末语尾“-았-(‐アッ‐)”と终结语尾“-소(‐ソ)”が连结された形态であり、过去を表す先语末语尾“-았-(‐アッ‐)~-었-(‐オッ‐)”が现れたのは16世纪顷であることから、古代朝鲜语说の信凭性は皆无である[194][191]。“我背负う”“和を背负う”が転じて“わっしょい”になったという说がある。“だんじり”も“屋台”や祭坛を意味する“坛”を引きずることから“台ずり”“台にじり”“坛ずり”から変化したという说や、山车(だし)が一部方言化したという说、“台尻讨った”が起源であるという说などがあり[195]古代朝鲜语が起源であるという信凭性は皆无である。

古代朝鲜语は全く解明されていないため、李南教や金达寿の主张は単なる言叶游びに等しく科学的根拠は全くない。 "So"という英语の単语には“つまり”の他にも“そう”という意味もあるが(そう思うよ:I think so)関连は无いのと同じである。

宗教・祭り[编辑]

事例 主张 反证
神社 世界日报中央日报が、“日本の神社が古代朝鲜半岛の直接的影响を受けて作られ、日本人は今も韩国の神を祭っている”“日本の神社の多くが韩国起源”と主张。高丽神社飞鸟戸神社といった渡来人を祭っている神社を根拠に神社そのものが朝鲜半岛起源であると拡大解釈している [196][197] 実际に朝鲜半岛で日本の神社に该当するのは棒の先端に木で作った鸟を突き刺した“ソッテ”とトーテムポールのような“チャンスン(ジャンスン)”であり日本の神社とは别物である[198]
祇园祭
牛头天王
スサノオ
韩日文化交流研究所长のイ・ユンオクと青い松同胞文化研究所长のキム・ヨンジョが、文化ジャーナル21で洪润基(ホン・ユンギ)の‘日本の历史歪曲’(学友社)を根拠に、牛头天王は古代朝鲜半岛の神のスサノオと同一であり、それを祭る祇园祭は韩国が起源である主张している。彼らは日本の各地にあるこのような祭りを“包装されている”と批评をし、“日帝によって夺われた多くの韩民族の祭りを再発掘し再现しなければならない”と主张している[199] 牛头天王はインドの起源の仏教祇园精舎の守护神であり、スサノオは日本神话の神である。これらを同一视する考え方は日本独特の神仏习合における本地垂迹によるものであり、祇园祭は祇园信仰によるものである。
八百万の神
神奈备”の语源
”の语源
庆一大学総长の李南教(イ・ナムギョ)が、日本の神社の神々の全ての家系図を辿ると全ての故郷が伽揶、新罗、百済、高句丽等の古代韩国に行き着くと主张し、“どうして日本人たちは韩国人の先祖を自分たちの神として祭っておいて、祭祀を行って担ぐのだろうか?”と主张している。また、“スサノオノミコト”(素盏鸣尊)は新罗から大王神であると主张している。さらに、“神奈备”の语源は古代朝鲜语の“カムナム(神木)”であり、“神”の语源は朝鲜语の“熊(コム)”であり“コム→カム→カミ”と変化したと主张している[200] 古代朝鲜语の発声方法や読み方は全く解明されておらず、现代朝鲜语の音感を根拠とするのは信凭性が薄く、科学的考察も全くされていない。
ねぶた 韩国政府が、新罗の时代から続くと主张する“燃灯会”と称した祭りを无形文化遗产に申请した[201][202] 燃灯会の记事を参照

人物[编辑]

事例 主张 反证
东洲斎写楽
十返舎一九
作家の李宁煕が、‘もうひとりの写楽―海を渡ってきた李朝絵师’(ISBN 4309902774)を出版し、写楽は朝鲜通信使だった。また、十返舎一九の父亲もまた李朝の高官だった、などと主张している。また、韩国では檀园・金弘道と写楽が同一人物であるという说もある。映画化の话も持ち上がっている[203]。ちなみに事の是非に関しては言及していないものの、李宁煕の主张は民団のホームページでも绍介されている[204] 源义経がチンギス・ハーンだというのと同じ程度の主张。复数の文献の调查や写楽の肉笔画の発见により现在では写楽の正体は阿波蜂须贺家お抱えの能役者斎藤十郎兵卫であった事がほぼ确実视されている。

十返舎一九が李朝高官のおとし子だと言う说は、第11回通信使の一人が“日本人下女を孕ませた”と言う理由で対马藩の通词・铃木伝蔵に杀害された事を根拠にしているが、この事件は日本人下女を孕ませたからではなく朝鲜の役人が镜を纷失したのを闻いた崔天崇が“日本人は盗みが上手い”と言ったのを铃木伝蔵が闻きとがめたのが発端とされている。そして、十返舎一九は骏河国府中生まれで父亲は骏府町奉行所で同心を勤めていた重田家八代与八郎鞭助だとされており、母亲が李朝高官に孕まされた下女だったとする资料は存在しない。

事件が発生したのが大阪である事からも、十返舎一九の生い立ちと関系が有った可能性は低い。

苏我氏 公州大学校のイ・ナムソク教授が“石舞台古坟は7世纪ごろ百済系の苏我氏が作った大规模な墓として推定されている”と主张している[205] 苏我氏の出自については、河内の石川(现在の大阪府石川流域、人によっては详细に南河内郡河南町一须贺あたり)、あるいは葛城県苏我里(现在の奈良県橿原市曽我町あたり)を本拠にした土着の豪族であった、などの说があるがいずれも定かではなく、応神天皇の代に渡来した、百済の高官、木満致(もくまち)と苏我満智(まち)が同一人物とする苏我氏渡来人说はそれら诸说ある一つの仮说に过ぎず、史料上の问题点が非常に多い[206]

问题点は整理すると以下の通りであり、木満致と苏我満智を同一人物であると実证することは不可能である[207]

  1. “木満致”の名が见える‘日本书纪’の応神天皇25年(西暦294年、史料解釈上は414年)と“木刕満致”の名が见える‘三国史记’百済本纪の盖卤王21年(西暦475年)とでは时代が异なる
  2. 百済の名门氏族である木満致が、自らの姓を舍て苏我氏を名乘ったことの不自然さ
  3. 渡来系豪族が自らの出自を改変するのは8世纪以降であること
  4. 木刕満致が“南行”したとの‘三国史记’の记述がそのまま倭国へ渡来したことを意味しないこと
  5. 百済の名门氏族出身でありながら、孙の名前が高句丽の正名である高丽であること

満智の子は韩子(からこ)で、その子(稲目の父にあたる)は高丽(こま)という异国风の名前であることも渡来人说を生み出す要因となっているが、水谷千秋は“苏我氏渡来人说”が広く受け入れられた背景を苏我氏を逆贼とする史観と适合していたからではないかと述べている。

天照大神
卑弥呼
チェ・ユギョンが“日本の800万の神様のうち最高位である天照大神、つまり卑弥呼は韩国女性だった”と主张する‘天照大神’という本を出版している。チェ・ユギョンはその根拠として“インカマヤのような高度文明を持った国で発达するといわれる太阳神が、当时韩半岛よりも水准の低い邪马台国で生じた事や、しかも女性であるということも変で、これが根拠だ”と主张をしている[208] “八百万の神”は“非常に多くの神”を意味した多神教を意味する呼び名であり数を表したものではなく基本的な知识がかけている。また卑弥呼が天照大神であるという主张も全く学问的里づけのあるものではなく、文明の発达段阶と太阳神信仰の関连付けをするのも非科学的である。日本でも白鸟库吉和辻哲郎が“卑弥呼=天照大神”说を唱えていたが根拠が薄弱であったため现在ではほぼ完全に否定されている。
天皇
応神天皇
舒明天皇
396年に沸流百済最后の応神が日本に渡り15代日王(天皇の韩国での呼称)となったという[209]。なお、根拠は広开土大王碑から出てきたとしている[209]。また、舒明天皇は641年百済宫で死去し、宾所を百済大宾とした点から见て百済系なのが明らかだとしている[209]。なお、根拠は日本书纪としている[209]

また、経済学者の洪元卓(ホン・ウォンタク)ソウル大学経済学科教授は、日本初の古代国家である大和国は、4世纪后半の百済人たちが日本列岛に渡って建国した国であり、天皇族の根源は百済王族であると主张している。洪教授は“日本の15代王である応神天皇が大和政権の実际の设立者であり、彼は百済王族の子孙と推定される”と主张している[210]

李成市早稲田大学教授は“近代韩国の民族意识を古代に投影している”“韩国人による韩日関系史研究は日本民族に対する韩民族の优越性を古代史の中から追い求めることが疑问の余地もなく试図されてきた”などと批判している[209]。また、日本古代史学者の金铉球高丽大学教授は‘朝鲜日报’2001年12月25日において、“日本の天皇家の百済起源说を主张する本も出ているが、史料の恣意的解釈など历史研究者の立场からみるとき学问的成果として受け入れられない”と批判している[211]

‘三国史记’によれば“沸流百済”は一応存在した事にはなっているが(正确に言えば百済になる前の段阶に存在した沸流の国であり、百済と名乘ってはいなかった)弟の国ほど自分の国が繁栄していないのを耻に思った兄沸流が自决したため、弟温祚の国(当时は十済と号したとされる)に早い时期に并合された事になっている。温祚は兄の国を并合し、百姓を受け入れたので“百済”を名乘るようになったとされているが、346年顷以前、もしくは建国神话に従うのであれば纪元前18年以前の事になるため、いずれも主张されている沸流百済の历史と符合しない。そもそもこの说に登场するような繁栄を极めた“沸流百済”と言う存在は大朝鲜帝国史などのトンデモ系の历史书にしか登场しない(现在の辽宁省山东省・日本にまたがる大帝国だったとされている)ため、信凭性のある说とは言えない。

応神天皇
倭王武
ヤマトタケル
八幡神
大国主命
スサノオ
朝鲜新报’が、林顺治の著作‘応神=ヤマトタケルは朝鲜人だった’を绍介する记事で、応神陵に埋葬されているのは百済王の盖卤王の弟の昆支であり、仁徳天皇陵に埋葬されているのはその弟である余纪で、応神天皇と倭王武とヤマトタケルと八幡神と大国主命とスサノヲが全て同一人物の百済人昆支であると主张している。朝鲜新报は本书について“秘密を解き明かした本书”“惊くべき史実を明らかにする”と绍介し、この主张に同调している[212] 日本ではそもそもヤマトタケルが実在した人物であるか否かの议论の决着すらついておらず(2世纪に実在したとする说や、复数の英雄をまとめて一人の人物に仕立て上げた、と言う说などが存在する)応神天皇(201年~310年、もしくは393年)も応神・仁徳同一说が存在するなど今なお决着を见ていない。また、昆支の兄である盖卤王(生年不详、在位455年 - 475年)の在位期间や息子である东城王(生年不详、在位479年 - 501年)の在位期间などを考えると、昆支・応神天皇同一说を唱える场合、関系する人々の生没年等を相当曲解しないと计算が合わない。
応神天皇 大朝鲜帝国史の作家金珊湖は画集‘韩国105代天皇尊影集’で、高句丽による侵攻のために百済から日本列岛に逃げた応神天皇が、奈良百済=倭国を建国し、そこから大百済帝国を支配していた主张。日本に千字文を伝えた王仁博士の“王仁”と応神天皇の“応神”は、どちらも日本语で“オージン”と読めるから同一人物と主张[34] そもそも上记のように“大朝鲜帝国史”に资料的価値は存在せず、それに登场する“大百済帝国”や“奈良百済”も历史上実在した国家ではない。また既に指摘されているよう“王仁”とは日本侧の资料にしか登场しない人物だが、この说ではその王仁の存在は认めているものの応神天皇の存在は否定すると言う二重基准を见せている。
日延 円光大学校韩国文化学科の梁银容教授は、李氏朝鲜第14代王宣祖の孙が、文禄の役のあった1593年に日本に人质として连れて行かれ、宣祖の长男である临海君の息子太雄が日莲宗の代表的な高僧に挙げられる日延だと主张[213]  
菅原道真
スサノオ
天照大神
洪润基(ホン・ユンギ)韩国外国语大学校教养学部日本文化担当教授は、菅原道真新罗人の子孙であり、素盏鸣尊天照大神も新罗人であると主张している[214] スサノオに関しては日本书纪に新罗に関する记述が登场するため[215]新罗との関连性を疑う理由は一応あるものの天照大神に関してはそう言う记述は存在しない。そもそもスサノウの记述についても、スサノウが高天原(倭国)を一时的に追放されたと考えるのが通常である。天照大神はスサノオの姊であるためスサノオが新罗人なら天照大神も新罗人に违いない、と言う解釈のようだがそもそもこれは神话であり、実在した人をベースにしたものではないかもしれないという视点が完全に欠落している。上记の历史教科书の项目に书いてあるような、日本书纪の都合の悪い部分は无视して都合の良い部分のみ取り出して拡大解釈する“つまみ食い”の典型例と言える。

菅原道真に関しては渡来人とする说もある土师氏の子孙だと言う事は明らかになっているものの、それとて土师氏が渡来人だという证拠は存在せず、あまつさえ新罗系の渡来人だったと断定できるような资料は存在しない。上记の“奈良渍”の项目に书いてあるような“新罗による出云征服说”をかなり真に受けて自说を主张しており、说としての信凭性はほとんどない。

乃木希典 在日韩国人向けの新闻‘统一日报’の元记者で、现在は民団兵库県地方本部事务局长を务めている在日韩国人2世の尹达世(ユンダルセ)が、日露戦争で活跃した陆军大将の乃木希典の祖先は、16世纪末の豊臣秀吉朝鲜出兵で连れて来られ、城崎郡城崎町野木谷に住んだ朝鲜人捕虏だったと主张[216] この主张に対して中宫崇は、“大国ロシアを打ち破った名将が、日本人であるはずはない、朝鲜人であるに违いないという、哀しいコンプレックスゆえのことであろう。まぁ、胜手に妄想して胜手に笑い者になってください”と批判している[217]

乃木希典は长府藩(现在の山口県)の武士の家系出身だが、この说で主张されている朝鲜人捕虏の连行先は城崎郡(当时は豊冈藩、现在の兵库県北部)である。人の动きがかなり厳しく制限され、身分制度がかなり固定された江戸时代にどうやって日本に连行された朝鲜人捕虏の子孙が长府藩の士分になれたのかなど、不明点がかなり多い。记事では朝鲜人捕虏が各地に移动したのは関ヶ原の戦いで败れた大名が各地に离散したからだとしているが、豊冈藩の藩主だった杉原长房は西军についたものの妻が浅野长政の娘であったため旧领を安堵されており、転封されていない。そもそも长府藩(主に当时の长门国周防国)は大内氏を灭ぼして以来毛利氏が支配しており、関ヶ原以后もこれらの旧领は安堵されていたため长府藩に外から転封された大名は存在しない。

そして、杉原长房と长房以前に豊冈を领有していた宫部継润は両者とも朝鲜出兵に参加してはいたものの、渡海はせず肥前名护屋城に在阵していたためどう言った経纬で朝鲜人の捕虏が豊冈藩の预かりになったか不明である。

佐藤栄作
岸信介
安倍晋三
安倍晋太郎
金忠植东亜日报论说委员は著书‘悲しい列岛―永远の异邦人四百年の记录’(ヒョヒョン出版)で、壬辰の乱直后の1598年日本に连れて来られた陶工の沈寿官家门の14代子孙をインタビューする过程で、佐藤栄作、岸信介、安倍晋三は韩国系と明らかになったとし、“安倍晋三官房长官が壬辰の乱以后、朝鲜から日本に渡った韩国人の子孙であることが明らかになって注目されている”“岸総理と佐藤総理はもちろん安倍长官にも韩国人の血统が混じっているわけだ。これと共に安倍长官の父亲で同时に80年代4期连続日本外相を引き受けた安倍晋太郎にも韩国系が多い山口県出身という事実は、安倍に韩国人の血が浓く流れていることを傍证する。‘対韩半岛タカ派の先头走者が韩民族后裔だなんて’金委员は本で‘日本総理の靖国神社参拜を积极支持するナショナリストに韩半岛血统が伝えられているということはまことに皮肉だ’”と言った”と报道した[218]

また、‘中央日报’も、岸と安倍の家门家政妇として40年を过ごした久保ウメによる证言として、“パパ(安倍元外相)は谁にも言えないことを私には言ってくれた”“(安倍元外相死去直后)入棺のとき、この人の骨格を见ながら本当に日本人の物ではないと思った”“头からつま先までまっすぐに横になっていたが、完全に韩国人の体形だ。(安倍元外相)自らも‘私は朝鲜人だ。朝鲜’と言っていたが、この人は朝鲜人だと思った”と报道した。また、安倍元外相は生前に安倍家の起源は10世纪くらいまで韩半岛北で中国大陆にかけて存在した渤海に始まったという考えを持っていたが、日本での安倍家の起源は明らかではないとし、安倍家の起源については“安倍家の本流は青森県だ。安倍元外相が朝鲜だと言ったが、これは今の北朝鲜ではなく、その北と吉林省の下侧にあった渤海”と“11世纪平安时代の武将だった安倍が今の安倍家の祖先と一致する”と报道した[219]

沈寿官のホームページにはこの逸话に関する言及もなければ、金忠植の著作に関する言及もない[220]。この说では佐藤栄作の祖先は“壬辰の乱以后(1598~)”日本に渡ったとしているが、これの主张にはかなり无理がある。山口県史学会の调查によると确认できる佐藤家の初代は市郎右卫门信久で、寛文2年(1662年)顷から萩藩の士分になったとされるため“祖先が韩国人”と言う条件を満たすためには日本に来た时期は1598年以后で1662年以前である必要がある[221]。しかし文禄・庆长の役の后、日本と朝鲜はしばらく断交しており、対马藩等の尽力により江戸时代になってから初めての朝鲜通信使が派遣されて関系が回复したのは1607年の事である。しかも1616年からは锁国体制が実施されはじめ、外国船の长门平戸以外の来航は禁止された。贸易も外国との民间贸易は完全に禁止されており、李氏朝鲜の场合は対马藩経由の管理贸易のみ许可されていた。

そもそもこの说は“佐藤元総理から闻いたと言っている人に私が闻いた”と言う根拠薄弱极まりない说だがその点を无视しても、全く现実的ではない。

継体天皇  
オヤケアカハチ 洪吉童八重山诸岛に逃れ、オヤケアカハチになり、尊敬される指导者として活动し、民を苦しめる日本政府に対抗して戦い、このような事実が日本の历史の本にも记されているという“同一人物说”をソル・ソンギョン延世大学教授と梁潅承が唱えている[222] “同一人物说”そのものについては、时期的な一致やフルスト原遗迹から韩国の陶磁器や古銭が出土した等が根拠として提示されているのみであり[223]、日本では“韩国侧の思い込み”として否定されている[224]

历史[编辑]

事例 主张 反证
勾玉 韩国MBC放送の“勾玉の秘密”(2006/9/20)において、“灿烂たる黄金文化を成した新罗人たちは金冠だけではなくすべての装身具に黄金で饰った勾玉を采用し、长い间日本国にまで伝えながら勾玉文化を形成して来たと见られる。青铜镜、刀と共に日本天皇が持つ三种の神器に属する勾玉は、韩半岛から伝来されて日本建国神话にまで影响を及ぼしたと思われる。”と主张[225] 勾玉は縄文时代の日本が起源で、朝鲜半岛に伝わったものと考えられている。朝鲜半岛で発见される翡翠制の勾玉については日本の糸鱼川で产した物が発见されており日本から朝鲜半岛に渡った物であり、朝鲜半岛において遗迹より翡翠の生产迹地は発见されていない。(ヒスイ制勾玉を参照)


倭の五王 百済の弃民が日本で国を建国し倭の五王を名乘ったとするものから、新罗王族が実际の倭の五王であったする说など、韩国内でも几つかの说が唱えられた。根底には、安东大将军が中华世界における朝鲜半岛南部の支配者とされたことによる影响と、日本の皇族批判(倭の五王を朝鲜人とすることで天皇を朝鲜系として贬める)の二重の意味合いを持つ。 倭の五王(わのごおう)とは、5世纪に、南朝の东晋や宋で各时代の天皇に対し用いられた名称、、すなわち讃、珍、済、兴、武をいう。“使持节都督倭・新罗・任那・加罗・秦韩・慕韩六国诸军事安东大将军倭王”(安东大将军)と言う名称のもと、日本と半岛南部の支配権を天皇が保持することが确认された。

朝贡の主な目的は、いずれも朝鲜半岛での倭国の军事行动権や経済的利益の国际的承认にあったとされる[1]

熊本城 2007年10月、朝鲜日报は“400年ぶりに和解した蔚山市熊本市”と题して、熊本城の竹の丸特设ステージで开催された“友情コンサート”の模様を伝えた。この中で、约400年前に加藤清正が朝鲜に出兵した际、蔚山市に驻屯し、その后败走する际に筑城技术者など1000人を熊本へ连行、彼らの技术によって熊本城が筑かれたとした[226] 熊本城が朝鲜式の筑城方式から影响を受けたという记录や痕迹は存在せず、蔚山市で明・朝鲜军と戦った蔚山城の戦いでは日本军が胜利しており、この点で朝鲜日报の报道には事実と异なる。蔚山市に城迹が残る蔚山倭城は加藤清正が縄张をして毛利秀元浅野幸长らにより筑城された日本式の城である[227]ため、蔚山倭城の存在も朝鲜日报の说を里付けるものではない。
日本(国家) 日本の倭国は4世纪后半から百済の侯国であり、日王(天皇の韩国での呼称)はこれら侯国の君主のうちの一人であったとしている[209]。根拠は漆器としている[209]。カン・ドンミン韩民族文化研究院理事长が“日本の历史は、古代に溯るほど、すべての部分で我が民族の历史が现れる。その理由は我が民族が日本を作ったからで、日本のすべての文化が我が方から伝授されたものだからだ。”と主张し日本という国家を作ったのは韩国人であると主张している[228]

経済学者の洪元卓(ホン・ウォンタク)ソウル大学経済学科教授は、日本初の古代国家である大和国は、4世纪后半の百済人たちが日本列岛に渡って建国した国であり、天皇族の根源は百済王族であると主张している。洪教授は“日本の15代王である応神天皇が大和政権の実际の设立者であり、彼は百済王族の子孙と推定される”と主张している[210]

玄ギョンビンの‘韩国人は伟大な韩国を望む’(1992年)は、日本の古代から近世までの历史を次のように说明する。“日本は7世纪未から国家形成期に入った。それ以前の日本は三韩・伽耶・百済などが自分の领土の一部として统治してきた。しかし660年、百済が灭亡し、その后裔らが続けて行った百済复兴运动が失败するや日本列岛は自らの历史期に入ったのだ。扶余氏家门が日王家を形成し、新罗系・百済系・高句丽系が武力で王族や贵族集団を构筑した。彼らは新しい文化や伝统を普及させる一方で、土着原住民を制圧し、列岛全域へと势力を広げ、支配力を确保して日本を建设した”

李成市早稲田大学教授は“近代韩国の民族意识を古代に投影している”“韩国人による韩日関系史研究は日本民族に対する韩民族の优越性を古代史の中から追い求めることが疑问の余地もなく试図されてきた”などと批判している[209]。また、日本古代史学者の金铉球高丽大学教授は‘朝鲜日报’2001年12月25日において、“日本の天皇家の百済起源说を主张する本も出ているが、史料の恣意的解釈など历史研究者の立场からみるとき学问的成果として受け入れられない”と批判している[211]

水野俊平は自著の中で日本が4世纪后半から百済の侯国になっていたとしたら、その时期に百済が新罗と同盟して高句丽に対抗していたのにもかかわらず同时期に日本が新罗に侵攻を缲り返していたのはおかしい、とこの主张の矛盾を指摘している[141]。もし日本が実际百済の属国だったとしたら、胜手に宗主国の同盟国に侵攻する事などありえないはずだからである。それ以外にもこの时期百済は高句丽に圧迫されて北方の领土を次々と失っており(王弟が捕虏になると言うような事まであった)、とても日本に影响を拡大する余裕などなかったのではないかと思われる。また、広开土王陵碑に记载されている“倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加罗・新罗を破り、臣民となしてしまった”や“百済は先年(398年)の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を讨つため平譲に出向いた”等の记述と完全に矛盾[229]してしまう。

この主张では遣隋使遣唐使や、日本仏教の历史に大きくかかわった鉴真空海最澄が东シナ海を往来した历代中国王朝との直接海上ルートの存在を无视し、日本列岛で独自に発祥・発展したあらゆる文化の存在も一切无视している。

日本の国号 贸易会社サムエ社の朴定和(パク・ジョンファ)代表理事が、“日本”という国号を创案したのは7世纪の高句丽僧・道顕であり、それ以前の日本の通称である“倭”は伽倻の别称であった。つまり古坟时代はもちろん、奈良时代まで古代日本の支配阶层および主流阶级は大和民族でなく、韩半岛からの渡来人だったと主张した[230]。また、朴定和は、著书‘The Historic Long、Deep Korean Roots In Japan(历史的に深くて永い日本の中にある韩国の根)’(ビンテージプレス刊 )で、日本の建国神话に出てくる大己贵尊と少彦名命は、奈良市の神社に韩国の神として祭られている、などと记述している[231] “日本”と言う国号が7世纪~8世纪顷から使われ始めたのは史実だが、一般的には天武天皇の治世(672年 - 686年)に“天皇”号と同时に成立したと言う说か701年の大宝律令の制定に伴って成立したと言う2说が有力视されている。道顕は日本书纪の原资料となった“日本世记”を执笔した事で知られている人物だが、“日本”の国号成立にかかわったと言う说は有力视されていない。

“倭国”から“日本”への国号変更は当时の国际情势(唐の隆盛)を理由とした律令国家への脱皮の一环として行われたものだと考えられており、なぜ国号を変更したことが大和政権内の支配者层が大和民族ではなく渡来人であったと言う理由になるかは不明。

琉球王国
(今冲縄県
韩国・成均馆大学の博士学位である鲜于栄俊・首都圏大気环境庁长が、“冲縄の旧称である‘琉球国’が‘古代の郁陵岛住民の移住によって建国された’”と主张している[232] 真伪は不明であるものの、琉球の正史では冲縄の地に逃れた源为朝(镇西八郎)の子が琉球王家の始祖舜天になったとされている(しかし源为朝は上记のように历史上はじめて切腹した人物としても知られている)。ただし最近の研究で冲縄県の住民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっているため源为朝の说はともかくとしても、郁陵岛からの移民が建国したと言う可能性は低い。
岛根
九州
対马
大和政権
古事记
小说家のピョ・マヌンが、韩国中央日报に寄稿して、韩国で舍てたゴミが日本の海岸に漂着することを根拠に、庆尚道に住んでいた伽耶人が船に乘って岛根に漂着し支配者になり、出云大社はこれら伽耶人を祭ったものであると主张している。さらにピョは、古代九州も伽耶人が统治した土地で、大和政権を立てたのは百済人であると主张し、“伽耶と百済が征服した日本の地は韩国のものだ”と主张している。また百済人が书いた‘古事记’に任那の日本统治说がでるのも伽耶が九州を统治したことを里付けるものであり、庆尚北道と岛根県や、扶余市と熊本市が姊妹提携しているのもこれらの脉络からくるものであると主张している。さらに対马は昔から伽耶人や百済人が往来した拠点だったから韩国の地であると主张している(文中で日本人を“原住民”と表现)[233] 国を建てるに足る人数が意図的に庆尚南道から岛根を目指したと言うのは、庆尚南道と岛根は决して近くはないことからも古代では相当な难事であり、偶然漂着した少数の伽耶人が支配者までに上り诘めという信凭性も薄い。そして、“伽耶が九州を支配していた”や“大和政権を建てたのは百済人である”という历史资料は存在せず、主张には根拠すら提示されていない。さらに、仮に伽耶と百済が日本を征服して支配していたとしても、现在の韩国は、伽耶や百済の継承国というより百済や伽耶を灭ぼして朝鲜半岛を统一した新罗の方がまだしも継承国といえる。

庆尚北道と岛根県が提携していた[234]のは事実だが、岛根県はその理由の一つに古代における新罗との结び付きをあげており[235]伽耶ではない。また、熊本市が扶余市と提携していると言うのはピョの误认である(熊本県が扶余郡の所在地である忠清南道と提携している)。何らかの縁があって姊妹提携しているとは言え、それが古代に伽耶と百済が日本を征服していたからだと主张するのは曲解である。

动植物[编辑]

事例 主张 反证
锦鲤 金方园水族馆が、池を作る技术が百済から日本に伝わったことと朝鲜半岛の故事に鲤に関わるものがあることから、锦鲤のルーツを日本ではなく韩国にあるものとしている[236] しかし、4世纪の中国の书物にすでに様々な色のコイについての言及があり、この主张は韩国発祥や日本に伝わった说の证拠にはならない(コイ自体は西アジア原产)。锦鲤と呼ばれる种类が出来上がったのは19世纪の新潟[237]
生态系 韩尚勋・野生动物连合常任议长が、“日本の生态系の根は韩国”“韩国の优秀な生态系が日本に伝わった。日本の生态系の“根”が韩国であるということを日本人に知らせる”と主张している[238] この说は朝鲜半岛と日本列岛の地理的・気候的な差异を一切无视しており、主张の根拠となる资料・考察も明示していない。さらに、日本で最も一般的な潜在植生は中国南西部から日本列岛にかけて広がる照叶树林帯であり韩国では南部の一部にしかなく、日本と朝鲜半岛では植物の生态系が根本的に异なる。そして、日本の针叶树の中で最も一般的であり、历史的にも木材として重宝されてきた(Cryptomeria japonica)は日本の固有种であり、庭园木や木棺に重宝される高野槙(Sciadopitys verticillata)も日本の固有种である。杉と同じく木材として重宝されてきたヒノキは日本と台湾のみに见られる种であり、日本の生态系は韩国より台湾や中国南部に近い。
ソメイヨシノ
(桜全般)
韩国では官民一体となって强力に推し进めている起源说。毎年桜の季节になると韩国三大纸や联合ニュースといった主要メディアも取り上げる。政府系の韩国文化庁や韩国国立山林科学院もソメイヨシノは済州岛が起源であると主张している[239]。また全米桜祭りとからめてアメリカワシントンD.C.ポトマック川川辺の桜も済州岛原产であると主张している。2009年以降、ソメイヨシノ済州岛起源说の主な根拠となっているのは、2009年4月6日に联合ニュースが记事にした韩国国立山林科学院暖帯山林研究所のキム・チャンス博士の研究である。记事によるとキム・チャンスは2009年にワシントンD.Cを2度访问し、ポトマック川川辺の桜の标本を采取して遗伝子(DNA)分析を数回行ったところ、ポトマック川の桜と王桜が同じであると确认されたという。キム・チャンスは、日帝强制支配期に日本人が済州岛の王桜を改良、のちに大量増殖し、それを3000株アメリカに赠ったものがポトマック川川辺のサクラだと主张している[240][241]

なおこの件に関し韩国では“日本は历史教科书まで改窜している”という主张もあった[242]。大田西区文化院事务局长は“桜花が日本に渡ったのは、韩国仏教が日本に布教された6世纪顷である”とし、その根拠として“日本桜の総本山と呼ばれる吉野山の所在地が538年から百済圣王が日本に仏教を布教した地である奈良県にあるから”と主张をしている。[243]。チェ・ソンウク农协中央会教育院教授は、“日本には地元日本桜の自生群落地がないのに対し韩国には20か所も自生地がある”“桜が日本の花ではないもう一つの证拠だ”と主张している[244]。2009年4月10日、中央日报英语版が“多くの韩国人学者が、桜の木は日本ではなく、韩国から発したと主张します”と桜の韩国起源を主张する记事を掲载した。[19]

はヒマラヤ地域が原产とされ、北半球の温帯に広范に分布している[245][246]。日本では少なくとも数百万年前から自生しているとされ、鲜新世の地层とされる三朝层群からムカシヤマザクラの叶の化石が见つかっている[247]。ソメイヨシノの片亲とされるオオシマザクラは小笠原诸岛付近を原产地とする日本固有种である。米国农务省は2007年にワシントンD.C.ポトマック川川辺のソメイヨシノのDNA鉴定を行ったが、済州岛の王桜と别种であると结论づけている[248]。キム・チャンスが行ったDNA鉴定はその2年后(2009年)だが、2011年改订のアメリカ农务省の调查结果は引き続きソメイヨシノと済州岛の王桜は别种であると结论づけている[249]

そもそも済州岛の王桜が発见されたのは1908年4月15日である。済州岛西帰浦に住んでいたフランス人神父タケ(Taquet)がこの日、汉拏山北侧の観音寺里手の山、海抜600メートルの地点で采集した。采集された标本は1912年になって当时バラ科の権威だったドイツベルリン大学ケーネ(Koehne)博士によって最初に同定された[250]。ところが东京市市长だった尾崎行雄が东京の桜の名所だった荒川堤の桜を穂木にしてアメリカのワシントンD.Cに12种类计3020本の桜を赠ったのは、1912年3月のことである(サクラの植树式は3月27日) 。王桜がはじめて采集されたのが1908年4月で新种と同定されたのが1912年であるにもかかわらず、その1912年3月には日本がアメリカにサクラを赠呈している。日本が品种改良をして云々というキム・チャンスの主张はデタラメと言わざるをえない。なお尾崎がアメリカワシントンD.Cに赠ったサクラ12种类の内訳は、ソメイヨシノ(1,800本)、有明(100本)、フゲンゾウ(120本)、福禄寿(50本)、ギョイコウ(20本)、イチヨウ (160本)、ジョウニオイ(80本)、カンザン(350本)、ミクルマガエシ(20本)、シラユキ(130本)、スルガダイニオイ(50本)、タキニオイ(140本)で合计3020本だった[251]。この时、ニューヨークにも同様にサクラが赠呈された。

王桜起源说の起源は1932年に小泉源一がソメイヨシノの王桜起源说を唱えたことによるものであるが、榨叶标本が残されておらず当时から疑问视されており、现在ではDNA鉴定により王桜とソメイヨシノの遗伝的形质が一致しないことから済州岛起源は否定されている[252]。ソメイヨシノの起源は、江戸时代の染井村(现・东京都豊岛区驹込)で开発された“吉野桜”であり、父をオオシマザクラとし、母をエドヒガンの园芸品种のひとつであるコマツオトメとする、交配で生み出された人工作出の可能性が以前から提起されており[253]、最新の研究では父をオオシマザクラ、母をコマツオトメではないエドヒガンとする交配种の可能性が高いことが判明している[254]。ソメイヨシノの名称は“吉野桜”から1900年に学术的に正式に命名されたものであり、またこの品种は奈良県吉野地方に古代より自生している桜(ヤマザクラ)とは异なる品种であり、名称の“吉野”は古来よりの桜の名所の地名にあやかったものである。またソメイヨシノは交配雑种にしばしば见られるように実成が非常に不良であり、接木などにより枝分けしなければならない。ソメイヨシノは他の品种の桜と交配することは可能でこのばあい结実するが遗伝子特性が変化してしまい别种となってしまう。

日本各地に见られる现代のソメイヨシノは基本的に明治あるいは第二次世界大戦后に、人间の手により枝分けされたものである。古今集など古代より歌われ爱されたサクラはソメイヨシノではない。自生するにしてもソメイヨシノからソメイヨシノの种が取れることは无いためオオシマザクラとエドヒガン系の混成自生地である必要がある。済州岛にはヤマザクラとエドヒガン系の自生混生地があり、この雑种であるとされる1908年に発见された王桜がソメイヨシノと仮寓されたものと考えられるが、遗伝的形质や1720-1735年ごろ作出されたとする江戸时代の文献史料に一致しない。

秋田犬 韩国动物保护研究会のユン・シングン会长が“秋田犬”を 珍岛犬全罗南道珍岛产の犬)が现地化したものと主张している[255] 一方、秋田県の公式サイトによれば、“秋田犬はヨーロッパからソビエトを経て北海道を経由して秋田に土着したもの”とのこと[256]
田沢湖 韩国の音楽家であるユン・ソフィによると、日本に连れて来られた韩国徴用兵が掘った人工湖であり、作成の过程で多くの事故や犠牲者が出ていると、韩国のメディアであるニューシスの“ユン・ソフイの音楽と旅行”で主张している[257]

同主张は、朝鲜人労动者も动员し1940年に完成した田沢湖导水路工事を误认したものと思われる。田沢湖自体は1940年より遥か以前から存在している。

技术[编辑]

事例 主张 反证
カメラ付き携帯电话 朝鲜日报の赵义俊(チョ・ウィジュン)记者が、カメラ搭载携帯电话を韩国がはじめて制品化したと主张[258] 実际は1999年9月にDDIポケット(现ウィルコム)より発売された、京セラ制端末のVP-210が世界初のカメラ付き携帯电话(PHS)である。
WiMAX モバイルWiMAX(韩国内でのサービス名はWiBro)は韩国が开発した技术であり、ロシアや东欧、日米等世界で急速に普及している[259] モバイルWiMAXはIEEEと业界団体WiMAX Forumが策定を进めているものであり、韩国が开発した技术ではない。“WiBro”は韩国独自のサービスであるが、(固定回线の)WiMAXをモバイル向けにアレンジしたサブセットであり、独自技术とは言い难い。さらに言うと、Wibroはあくまでも固定WiMAXの规格(をモバイル向けにアレンジしたもの)であり、正式な“モバイルWiMAX”とは别规格である。


その他の地域の事物[编辑]

事例 主张 反证
人类 北朝鲜が主张している[260]黒い山葡萄原人参照。 (北朝鲜以外では全く支持されていない)
唐辛子 韩国政府伞下の组织(韩国学中央研究院および韩国食品研究院)が2009年2月18日に発刊した季刊志‘韩国の味・ハンオル’において、南米原产の唐辛子が、コロンブスがアメリカ大陆を発见する以前から朝鲜半岛に存在していたと主张をはじめた[261]。その后、2010年5月9日に“数千年前から朝鲜半岛に自生していた植物だ”[262]と主张し出した。 唐辛子はアメリカ大陆からクリストファー・コロンブスが1493年にスペインへ最初の唐辛子を持ち帰った后に世界に広まったという事が定说。
世界文明の始源
シュメール
桓檀古记三圣纪によれば桓仁が建てた桓国は12か国で构成され、领土は南北5万里、东西2万里(朝鲜にして南北2万キロメートル、东西8000キロメートル)の连邦国家であり、7人の桓仁が在位する间、最长6万3182年间(通常は3301年间)持続したとする。世界文明の始源が韩民族にあると思われるほどである[263]。桓国を构成した12か国のうちの一つ、须密尔国を世界最古の文明を生んだシュメールとする人々もいる。 そもそも桓檀古记は日韩ともにまともな历史学者の间では伪书であると认识されており、资料的価値はない。
世界言语 世界のあらゆる言语の元が朝鲜语であると主张している[264]

また、东方文字は韩半岛で制作されて、放射线状に中国及び日本列岛に広まったと力说している。

根拠は不明。
アステカ文明
インカ文明
培材(ペジェ)大学の孙成泰(ソン・ソンテ)スペイン语・中南米学科教授が、朝鲜民族が纪元前にベーリング海を渡って中南米のアステカ文明とインカ文明を建设したと主张[265]

根拠としては文章构造や个别単语などの色々な侧面から言语を比较して、文章构造が似ていたり朝鲜语がそのまま残っている事を発见したからだとしている。

上记の“日本语”の项目と同じような问题を抱えており、これも学术的信凭性は薄い。比较対象として対応させている単语が恣意的であり、そもそも现代朝鲜语と现在に伝わるナワトル语のような言语との类似点を指摘する事自体にあまり意味がない。それは程度の差はあるにせよ、现代のナワトル语はかなりスペイン语の影响を受けているためアステカ・インカ时代に话されていた古代ナワトル语からはかなり変容しているからである。そして、既に指摘されているように文章构造が似ている事は必ずしもそれらの言语が近しい関系にある、と言う证明にはならない。
メソポタミア文明 大朝鲜帝国史にて、メソポタミア文明が韩民族により成り立ったとされている。この说に基づいた放送が韩国ヒストリーチャンネルでなされた[266] 上记のように朝鲜民族は日本から中国にまたがる広大な土地を支配していた民族だと言う伪史を扱っているトンデモ本であり、韩国の学者の间でもほとんど相手にされていない。
イギリス人 イギリス人の先祖は韩国人であると言う、韩国の画家[267][失效链接]である辺光贤が展开している数多くある起源说の中でもかなり図抜けたトンデモ说である[268]

ハングルの文法がスコットランド(及びウェールズ)やアイルランドの古语(ケルト语?)と似ていると言う理由と巨石文明があったからと言う理由からイギリス人は韩国人の子孙であると断定、また朝鲜语で“ムェ”が今でも英语の“moor”として残っていると主张している。さらに“ムェ”の人々(“moors”、すなわちムーア人)とはウェールズ地方とイングランド西南のコーンウォール地方、そしてアイルランドに住んでいたアジア人たちの子孙の事だと主张している。また、それ以外にも古代にローマ帝国がアイルランドに侵攻しなかったのはギリシャとローマの前身が巨石文明を筑いた韩半岛の子孙たちであり、当时アイルランドも韩半岛の子孙たちが国を治めてたから侵攻しなかったのだと主张している。

历史的に言うのであれば、ケルト人は必ずしもイギリス人の祖先とは言えない(祖先の一部、だとは言える)。まずケルト人が住んでいたブリテン岛ガリアを制霸したローマ人が侵入して岛の南部に定着、ローマ帝国がブリタニアを放弃した后はアングロ・サクソン人がやって来てイングランドの大部分を支配した。彼等は元々ゲルマン系の民族であり、现代の英语がゲルマンルーツなのは彼等の影响によるところが大きい。また、その后はデーン人による侵略と支配を受け、アングロ・サクソン系の王朝がそれをなんとか退けたものの最终的にはノルマン・コンクエストによりノルマン人に征服され、今に至っている(王朝はその后も色々と変わっているものの、外部势力による征服はこれが最后であったと言える)。このように现在の“イギリス人”は様々な民族の混血であり、ケルト人だけにルーツを求められるような民族ではない。

また、确かに英语に“moor”と言う単语は存在するが“moor”とは“荒地”の意味であり、英语で言う“ムーア人”とは14世纪顷から使われだした北西アフリカのイスラム教教徒の呼称である。古代にイスラム教は存在しないため(イスラム教は西暦610年顷に创始されたものである)その时代に“ムーア人”なる呼称が使われていた可能性は限りなく低い。

“ギリシャとローマの前身が韩半岛の子孙达だった”と言う说もかなりのトンデモ说だが、そもそも当时のアイルランドに国と呼べる体裁のものは存在しなかった。また、古代ギリシャの国々やローマ共和国(及びにローマ帝国)が石材を使って色々と建设したのは事実だがそれらは“巨石”と言うより“建筑”に近い存在であり、巨石文明と言うカテゴリーに入れるのは无理があると思われる(巨石文明とは本来やや原始的な文明が作った巨石建造物を指して使われる事が多い)。

渍け物
ピクルス
世界キムチ研究所の朴完洙初代所长は、“外国人にはキムチをコリアンピクルスと认识している人が多い。逆に言えば、ピクルスや沢庵など渍け物类がすべてキムチの一种ということだ”と主张[142] “ピクルス”は英语で“渍物”と言う意味であり、キムチがコリアンピクルスと呼ばれているのは単にキムチが“韩国风渍物”だと认识されているからだと思われる(日本の渍物はどんな渍物であれ“ジャパニーズピクルス”で一绪くたにされている事が多い)。なぜここから“全ての渍物はキムチの一种”まで论理が飞跃するかは不明。
チンギス・ハン 韩民族史観定立意识改革会のポール・キム代表が、“モンゴル靺鞨なども朝鲜族の后裔で、このような意味でチンギス・ハーンも韩民族”と主张[269][270]。この主张に基づいて、韩国のゲームメーカーが、“チンギス・ハン”というオンラインゲームを制作した。 中国メディアが“わが国の民族的英雄をおとしめるものだ”とかみつき、中国のゲーム専门サイト“多玩游戏”は、“怒!韩国はオンラインゲームにチンギス・ハンを利用、中国の民族的英雄をおとしめた”“韩国のゲームはいつも、中国の人物や名所を利用している”“韩国の一部の人间は孔子も韩国人だなどと、大笑いの研究成果を発表した。このように幼稚な行为では大韩民族を美化できないばかりでなく下劣な心情が暴露されてしまうだけだ”という记事を掲载した[271]

鞑靼と朝鲜民族のルーツが同じだと言うことは主张できるもののだからといって、鞑靼のルーツが朝鲜民族だ、と言うことはできない。

骑射 朝鲜日报が、韩国発祥の“骑射”、骑射竞技の“宗主国”は韩国、などと绍介[272] 骑射は纪元前8世纪顷、スキタイ人により始まったと考えられている。记事の中では“宗主国である”とだけ记してあり、その根拠は不明。


アッティラ 罗针盘新罗起源说を主张している人物(イ・ジョンホ)が自分の著书(“ローマ帝国の征服者アッティラは韩民族”)で展开している说[273] そもそもアッティラ(フン族)がローマ帝国(当时はすでに西に分かれていた)を完全に征服したとは言いがたい上に、フン族自体の出自が现在でも分かっていないため何を根拠に韩民族だと主张しているのか不明。
サッカー 大韩サッカー协会が自身のウェブサイト上で“サッカーの起源は朝鲜半岛”と书いており、多くの抗议を受け削除したとのこと。全く根拠不明[274]。また、‘东亜日报’は、“サッカーに関するもっとも古い国内记录としては、三国史记三国遗事に记されている‘新罗29代太宗武烈王(在位654~661)が王位に就く前に、金庾信(キム・ユシン)将军とともに蹴鞠をした’という记述が挙げられる”と报じた[275] そもそも蹴鞠のように足だけでボールを扱う球技は世界各地にあり、イングランドが初めてスポーツとして体系化させたから“サッカーの母国”として认められているということを认识する必要がある。
复式簿记 韩国の老舗の朝兴银行はサイトで、松都四介治簿という言叶をたまに闻くことはあっただろうが、これが世界で最も先んじた复式簿记であることを知る人はあまり多くない。しばしば复式簿记は14世纪を前后してイタリアの商业都市であるベニスで生成されたと思われているが、松都四介治簿はこれより200年先んじて开城の商人たちによって创案されていた、と主张[276]。これは金基浩编“开城旧京”(大韩公论社1972年)による主张であり“簿记学上、完全を期して人类が草案した最初の簿记”としている[277]。松都四介治簿が贷借概念や损益概念を含めた高度な帐簿体系を含んでいたことは定说であるが、复式簿记の形态を获得した时期については定说はなく少なくとも18世纪末には初期の形态が确认できるとするものである[278] 定说では、复式簿记は12世纪顷のアッバース朝イスラム商人によって発明された。リスク、チェック(小切手)などの言叶もアラビア语由来であり、起源はイスラム世界である。その后、复式簿记のしくみはヴェネツィアやジェノヴァの商人を経てヨーロッパにもたらされた[279]とされる。


床暖房 “床暖房が韩国のオンドルが起源という事実はある程度の専门家ならみな知っている。”と说明しながらロンドンの富裕层の间で床暖房へのリフォームが増えていることを中央日报が报じる[280] イギリスでは床暖房は纪元前80年にローマ人セルギウス・オラタが発明したとしている[281]
パク・ソンフィ祥明大学校教授が、论文“古代韩国铠の源流と东アジアに及ぼした影响”において、武具が中国から伝わったのではなく、古朝鲜と高句丽が元祖で朝鲜から中国に伝わったと主张している。古朝鲜の领域にあった粛慎で骨铠を作ったという记录があるという(陈寿东夷列伝粛慎氏族)[282] 详细不明。东夷伝には粛慎伝はない。ユウ娄伝に“昔の粛慎国である”とあり、东夷伝の顷には粛慎はなかった。なお、ユウ娄伝には弓の记录はあるが、铠の记录はない。
飞行机 世界初の飞行机はライト兄弟より300年先に作られた朝鲜时代の“飞车”であると主张。朝鲜后期実学者イ・ギュギョンが书いた“五洲衍文长笺散稿”によると、壬辰の乱の时に、城を倭军に包囲された城主が飞车を使い、城から30里外まで脱出したという[283]。また、申景浚(1712~1781)が当时外観はトキ(あるいは白鸟)のような形の飞行机が作られていたと记录している。2012年12月、韩国空军士官学校で当时の飞行机の复元が成功したと発表された[284] 飞车が実际に空を飞んだことを证明する遗物や设计図がない[285]。2012年に复元された飞行机も明らかに近代と同様の形式をしている。
捕鲸 釜山日报’が、“蔚山の代表的文化遗产は国宝285号盘亀台岩刻画。人类捕鲸の历史の起源だというこの岩刻画に鲸と鲸を捕る絵が出る。3千年前の絵だ”と主张[286]

 

韩国起源说とは言えないもの[编辑]

Template:独自研究 上述のような起源说だけではなく、実际には単纯に无知ゆえに勘违いしていたり类似文化を普及度で本家主张しているだけの场合もある。また日本と朝鲜との民众の深い関わりのなかで生まれた文化として一方の民族文化に容易に切り分けられないものを、単に异国的として日本社会の侧が韩国起源ととらえているにすぎないものもある。“韩国起源说”が日本でよく知られるようになったことで、著名な论者が韩国に帰属する文化や文物であると起源主张しているわけでないものまで韩国起源说として误解されることがある。以下、例を挙げる。

‘ドラえもん’
ユンソナが‘ドラえもん’を韩国人が作ったキャラクターだと思っていたという事実を“ドラえもん韩国起源说”と认识した日本人もいるが、実际には现在韩国においてもドラえもんは日本のマンガとして扱われ、1994年から刊行が始まった正规出版の単行本では作者名Fujiko F Fujioと日本语名で书かれており、日本の作品であることが明记されている[287]。ユンソナがドラえもんを日本のマンガと知らなかったのは个人の知识の问题である。
海贼版
しばしば‘ドラえもん’‘ONE PIECE’‘らんま1/2’などの海贼版や、韩国で制作されたそれらの作品に酷似する作品が“韩国起源说”の一部として取り上げられることがあるが、それは起源主张をしているわけではなく、単に著作権の问题であって、すでに世界に知られている日本文化を韩国が起源であると世界にアピールする韩国起源说とは异なる。
焼肉[288]
焼肉の発祥は韩国・朝鲜であるとすることが多いが、肉を焼いて调理し食するという行动は原人が落雷によって生じたを暖房や调理に利用したのが始まりであり、1981年にケニアで142万年前の原人が火を使用していた痕迹が発见されている(初期のヒト属による火の利用参照)。そもそも加热调理とは地球规模で人类普遍的なものであり日本や朝鲜半岛に起源を由来する性质のものではない。これは日韩関系という特殊事情の状况に由来する议题であり、外食产业の発展形体という侧面をたどれば日本の焼肉店は“戦后”の日本で形成されてきた外食文化であり、一方で牛や豚などの肉を捌き食用に调理するという文化においては日本や朝鲜半岛において独自に、あるいは诸外国との交流のなかで影响をうけながら発展してきたものと表记するしかない性质のものである。“焼肉の起源は韩国(朝鲜)”なる命题について、これは“日本における・日本人による韩国起源说”の典型であり、戦后の焼肉店の名店とよばれる店のうち、多くが在日韩国・朝鲜人により创业・経営されてきたこと、あるいは精肉をタレに付け込んだのち焼く调理方法がたまたま李朝宫廷料理のレシピに类似することなどが影响していると见られる(壷渍けなど)[289]。むろん下拵えとしてマリネした牛肉等を焼いて提供する调理方法は西欧やアメリカでは一般的であり、このことをもって朝鲜文化起源と呼べるわけではない。またキムチやビビンバなど、朝鲜料理を象徴するサイドメニューがしばしば豊富に提供されることが韩国起源说を补强するわけであるが、これらサイドメニューの起源と焼肉料理の起源の考察とはやはり分けて考える必要がある。在日韩国朝鲜人が日本の第二次世界大戦后に顕著に见られる焼肉料理店の発展に深く関系するようになったのは戦前戦中および戦后に彼らの社会(在日社会)が置かれていた状况に深く関わっており、また彼らのビジネスが戦后に、结果として非常に成功したことによるものであって、焼肉料理が朝鲜半岛の食文化に深く根ざしていたからではない[290]。実际の朝鲜半岛では李氏朝鲜期に日本ほど獣肉食に対するタブーこそ存在していなかったものの、牛や豚などといった獣肉は庶民に手の届くものではなく、暖炉会などという特権阶级の年季行事における特别な料理として発见できるような种类のものであった。第二次大戦后から1980年代ころまでの日本风の“焼肉店”は首都ソウルの近郊で日本人旅行者むけに営业している“韩定食”店であり、2010年代の现代でも日本のように臓物(ホルモン)なども食べさせる店は一般的ではない。韩国・朝鲜の食肉文化は日本と异なるものであり、韩国焼肉とされる暖炉会に见られる料理はプルコギないし日本で言うすき焼きに近い。日本の焼肉店は七轮ロースターなど独自の民具を利用した独特のものでより大众的なものである。“焼肉の起源は韩国”なる表现の场合、暧昧性の误谬を多分に含んでおり“韩国风焼肉(고기구이、gogi gui)の起源は韩国”と话者が热心に主张しているにすぎない场合はエスニズムを目的とした自文化の夸张とは言えないだろう[291]Template:要出典

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  288. ^ 以下、日本における韩国起源说について“焼肉の文化史”佐々木道雄(明石书店 2004年7月ISBN 978-4-7503-1956-8、1章、9章をもとに记述
  289. ^ “焼肉の文化史”佐々木道雄(明石书店2004年7月ISBN 978-4-7503-1956-8“日本焼肉物语”宫冢利雄(光文社2005年10月ISBN 9784334783884、“东アジア生活絵引”朝鲜风俗画编(神奈川大学21世纪COEプログラム2008年2月 [17])112ページに记事あり[18]
  290. ^ このあたりの事情はパチンコも同様である。
  291. ^ つまり“水戸纳豆の起源は水戸”というのが、あながち间违っていない、というTemplate:独自研究范囲。もちろん“纳豆の起源は水戸”としてしまったら、これは明らかな间违いである(いわゆる糸引き纳豆が日本発祥の食物であるのは事実だが、日本のどの地域が発祥かは特定されていない)。