统一新罗

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Korea Map.svg朝鲜半岛主题
新罗九州与五岳

统一新罗时代(668年-901年)是朝鮮半島的一個朝代。公元668年,新罗联合唐朝灭亡了百济高句丽不久,罗唐战争爆发,新罗获得了平壤以南的朝鮮半島,朝鲜半島进入了统一新罗时代。

892年后百济建立,901年泰封国建立,统一新罗时代结束,朝鲜半岛进入后三国时代

统一新罗时代是1945年南北分治以后的术语,在某种程度上反映了现代政治的渴望,因为这个原因,一些历史学家建议使用南北国时代,其中包括了渤海国。在北朝鲜于50年代提出主体史学后,渤海国一度代替统一新罗成为朝鲜历史主线。认为渤海国在北部且继承高句丽,统一新罗由于长期臣服于唐朝而有悖于主体思想统一新罗时代并不承认渤海国对于高句丽的继承,认为新罗为三国的唯一继承者。

统一新罗的九州[编辑]

唐罗战争后,新罗也模仿中原的九州制度,认为“始备九州”,统一朝鲜半岛大同江以南的全部领土。735年,唐朝承认了新罗对朝鲜半岛大同江以南领土的控制。统一新罗仿照唐朝,建立起自己的新罗九州五岳。但新罗兵制是一种镇压新得地区反叛的编制,即‘九誓幢与十停’。九誓幢是新罗人(三誓幢)、高句丽人(三誓幢)、百济人(二誓幢)、靺鞨人(一誓幢)的京畿混合军团。九誓幢的任务是防御首都金城,十停是地方军团,分置于九州的枢纽地。在汉州汉水的南方则置两个军团以防御北方,而其最大势力范围也无法完全控制大同江流域。

统一新罗的九州仍然为古代新罗王国首都金城,今大韩民国庆尚北道庆州市(朝鲜语:경주시),地处当时的尚州;古代百济王国首都泗沘地处当时的熊州;而高句丽王国的首都平壤刚开始不在新罗九州之列。

统一新罗的九州为:良州尚州康州熊州全州武州汉州朔州溟州

统一新罗的五岳为:吐含山(土含山)为东岳、鸡龙山(界龙山)为西岳、地理山(支离山)为南岳、妙香山为北岳(不在新罗国境以内)、八公山(父岳)为中岳。

旧領 創設時点 九州完成時点(687年) 景德王
改称(757年)
備考、異称、移轉(州治)
州名 州治的現在地名 創設年 州名 州治的現在地名
新羅 上州 慶尚北道尚州市 525年 沙伐州 慶尚北道尚州市 尚州 甘文州(金泉市)、一善州(亀尾市
下州 慶尚南道昌寧郡 555年 歃良州 慶尚南道梁山市 良州 比斯伐州、大耶州(陕川郡)、押督州(慶山市
居烈州[1] 慶尚南道居昌郡 685年 菁州 慶尚南道晋州市 康州 居昌郡早在信史前已有人居住,當時是三韓中的居陀國,後來成為了伽耶的一部份。685年、居烈州由菁州分割設置。
百濟 所夫里州 忠清南道扶餘郡 671年 熊川州 忠清南道公州市 熊州 西元538年,百濟聖王將都城自熊津(今公州市)遷移至泗沘,即今日的扶餘郡。扶餘做為百濟首都,至660年新羅唐朝聯軍滅百濟,統一新羅時期設扶餘縣[2]
发羅州 全羅南道羅州市 671年?[3] 武珍州 光州广域市 武州 古代百济时代光州地区属于武珍郡,686年,武珍郡升格为武珍州[2]
完山州 全羅北道全州市 685年 完山州 全羅北道全州市 全州 全州的歷史始於百濟時期的完山。685年:新羅設置完山州。 757年, 改稱全州[4]
高句麗 悉直州 江原道三陟市 505年 河西州 江原道江陵市 溟州 何瑟羅州[5]
新州 京畿道广州市 553年 漢山州 京畿道广州市 漢州 南川州(利川市
比列忽州 江原道安边郡 556年 首若州[6] 江原道春川市 朔州 達忽州(高城郡)、牛首州

相关條目[编辑]

注释[编辑]

  1. ^ 菁州は神文王5年に既存の州から分割設置されたことについて、『三国史記』新羅本紀・神文王紀では「居烈州」からの分割とし、同・地理志・康州条には、「居陁州」からの分割とする。
  2. ^ 2.0 2.1 『三国史記』新羅本紀・神文王6年2月条
  3. ^ 百済故地に対する所夫里州の設置とほぼ同年のことと考えられている。(→井上1972)
  4. ^ 『三国史記』36・地理志・全州条は、完山州の設置を真興王16年(555年)とし、同26年(565年)にいったん廃止、神文王5年(685年)に再設置したとするが、対応する真興王本紀の記事には州治を比斯伐(慶尚南道昌寧郡)としていたり、6世紀中頃には全羅道は未だ百済の支配下にあるために、は下州の誤りであると考えられている。(→井上1980)
  5. ^ 『三国史記』35・地理志・溟州条には、溟州はもとは高句麗の河西良であり、分注には何瑟羅とある。新羅本紀や異斯夫伝の本文には何瑟羅州の名で現れる。
  6. ^ 元の比列忽州、後の朔州に相当する州の687年時点の名称について、井上1972は牛首州とするが武田2000により首若州とする。なお、『三国史記』35・地理志・朔州条では朔州の由来を、本文は善徳女王6年(637年)に設置した牛首州とし、分注文武王13年(673年)に設置した首若州とする。同書・新羅本紀では、善徳女王・文武王の本紀記事には州の改称についての直接的な記事は見られず、景徳王の本紀における地名改称記事(景徳王16年(757年)12月条)では、首若州を朔州としたとしている。